Toppage Critic 談話室(BBS) 図書室 リンク Emigrant

『現代の眼』1971年8月号所収
新川 明「〈狂気〉もて撃たしめよ―謝花昇の虚像と実像―」
森崎和江「<沖縄>の怨嗟と<私>―沖縄・朝鮮・筑豊―」




〈狂気〉もて撃たしめよ
――謝花昇の虚像と実像――

新川 明



 1897(明治30)年代の沖縄でくり展げられた謝花昇を指導者とするいわゆる「沖縄自由民権運動」は、第二次大戦の1950年を起点として本格化した「祖国復帰」運動の中で積極的に掘りおこされてきた。とりわけ68年秋の主席公選から69年秋の佐藤・ニクソンによる日米共同声明の発表、70年秋の国政参加選挙とくぐり抜け、「72年沖縄返還」が日米両国の具体的政治日程として現実化する過程で、謝花昇とその「民権運動」は、「復帰」運動の推進者たちの中で積極的に称揚され、《謝花のたたかいに沖縄におけるあるべきたたかいの原点がある》というような扱われかたであった。
 このことは「復帰」運動それ自体の不可避的な思想体質と深くかかわることで、決して理由がないわけではない。
 とはいうものの、今日はんらんする謝花昇ないしは沖縄自由民権運動に対する余りにも過大で、しかも全的に称揚することのみが流行している現状は、感心できないだけでなく、謝花昇の人と思想、あるいは沖縄民権運動の正しい位置づけさえもかえって阻害しているように思えてならない。
 ことさらに断わるまでもないことだが、謝花とその指導による沖縄民権運動が、時の奈良原知事の専制に抗したさまざまの側面や、その参政権獲得運動を、それとして正しく評価することに微塵の異論もないし、また謝花とその沖縄民権運動が、今日いわれているほど質が高いものではなかったはずだということが、謝花らに対した奈良原知事や、彼と密着して謝花らの敵対者としてたちあらわれる当時の『琉球新報』一派の果たした役割りに、いささかの免罪を与えるものでもない。
 馬鹿馬鹿しいことだが、このような断わり書きを書きこまないと、謝花らの運動とその果たした役割りを性急に葬り去ろうとする清算主義である、などというつまらない中傷悪罵が、たちまち集中するという情けない風潮が沖縄の政治的・社会的な主流として存在しているのである。
 しかしながら、主として「復帰」運動を沖縄における人民解放闘争の絶対的な前提とし、これにいささかなりと批判めいた口をさしはさむのは、ただちに日米支配層の一翼を担う分裂主義者か、同じくそれに加担する琉球独立論者だという範囲でしかみずからの思考を回転させ得ぬ人びとが、みずからの思想に好都合の謝花昇像を拡大して投射しつづけることによって、民衆個々の〈国家〉幻想を肥大化させていくことは、何としても我慢ができかねるのである。
 そこにもし、少しでも謝花の人と思想、あるいはその指導による沖縄民権運動の実質を、不当に飾りたてる粉飾があるとすれば、その粉飾一つ一つを削ぎ落としていかなければいけないと思う。
 政治的な有効性をねらった粉飾は、政党次元の政治談義ならまだしも、学問的にも思想的にもほとんど意味を持たないはずだからだ。謝花昇とその民権運動について、沖縄の「祖国復帰」をたたかいの絶対的な前提とする人たちがことさらに歪曲をつくして過大に持ち上げるのは、さきに触れたように深くその思想方法とかかわることである。その思想方法に対するアンチテーゼとしての「反復帰」の思想については、紙幅の都合で別に論述するしかないのが残念である。
 そもそも私は、沖縄民権運動もそうだが、とくに謝花昇についてその人と思想を語ることはきわめて困難な作業だと考えている。しばしばいわれるように、謝花昇その人が書き残した文献資料が非常に乏しいうえ、しかも彼のいわゆる民権運動についてみずから語った文章が皆無に等しいからである。あるのは彼らの機関誌だった『沖縄時論』の一、二冊のほか、ほとんどその論敵だった当時の『琉球新報』がわの論説や記事の類いである。そのほかには1935年(昭和10年)に初版を出し、1957年に抄約した第二版、さらに1969年に『沖縄の自由民権運動』と改題して出版された大里康永による伝記を最大の資料とするにすぎない。
 前に『新沖縄文学』という沖縄で出されている雑誌の第18号(70年12月刊)でも書いたことだが、今日における謝花昇像は、ほとんど基本的には大里のこの伝記作品によって確定されている。そしてこの伝記作品が、謝花らの運動を当時の奈良原知事や彼と結託する旧支配層出身の沖縄人特権階級とのかかわりで描き出した功績も大きい。
 大里は「再版のことば」で、《本書は伝記であるが、その意図するところは単に謝花を英雄化し、かれを神格化することではなく、むしろ、もっとも優れた一社会人としての、かれの行動を通じ、沖縄の歴史を語り、社会、政治、経済の各分野にわたって、その時代的背景とかれらの闘争過程を語ろうとするものであって、本書にこれに関した資料が多いのはこのためである》と書いている。
 その意図のように、《時代背景とその闘争過程》を豊富な資料を駆使し、多くの人たちから聞き書きをとって浮き彫りにしているとはいえ、伝記である以上、謝花とその運動をほとんど無条件に美化する一種の文学作品としての限界は否定できない。つまり、謝花の思想と行動を解明した「謝花昇」論あるいは「沖縄自由民権運動」論ではなく、悲運の英雄伝記というべき性質のものである。それはそれで結構、何ら異論をはさむ筋合いはない。
 ただ問題なのは、大里のこの伝記作品によって創られた謝花昇像が広く定着しただけでなく、定着させられた謝花像ならびに運動の位置づけが、無条件に踏襲され、より拡大さえされて流布されるという状態が、専門の歴史学徒までも含めておこなわれることの不可解さである。
 謝花自身が書きのこした文献資料が皆無にひとしいということは、本来その思想的な解明を困難にするものだが、一面では拘束をうけない自由さによって、いくらでも拡大解釈を許容するという条件をもつくる。
 謝花とその運動について書いたもの(あるいは語ったもの)で、比較的新しいものとして、いまさしあたり私の手元につぎのような論考があるので、主としてそれらに即しながら若干の異見をのべてそれを明らかにしていきたい。
 吉原公一郎「沖縄の思想家@ 謝花昇」(『月刊社会党』70年月号〜71年2月号)、我部政男「謝花民権と国政再参加――『義人謝花昇伝』復刊の今日的意義を中心に――」(『展望』70年12月号)、大江健三郎司会の座談会=大江志乃夫、大田昌秀、新里恵二=「謝花昇――その生涯が語るもの」(『世界71年2月号』)、古波津英興『沖縄闘争の原点――謝花昇論』(『破防法研究』71年3月号)
 以上列記して気がつくことは、これらすべてが70年秋の沖縄国政参加選挙をはさんで登場していることである。
 同じ時期に私自身も前記の『新沖縄文学』で「〈復帰〉思想の葬送――謝花昇論ノート」を書いているのだが、沖縄からの国政参加選挙を施政権の返還以前に認め、各政党の選挙への総没入を成功させた日米両国の政治的意図が、この時すでに既定のものとしてセットされていた「72年返還」のあり方に対するたたかいとのかかわりで鋭く問われた時期に、相前後して謝花昇とその運動を語っているのは象徴的な事象である。



 私が基本的に謝花昇とその運動について疑問に思うのは、彼のいわゆる民権運動が果たして言葉の正確な意味での「民権」運動とよぶにふさわしい思想と内実を備えていたのか、ということである。
 《「沖縄時論」発刊の公告文が、「一直前往衆民の為めに奸邪を排し平民的進歩主義の先鋒となり以て大いに其幸福を企図せんと欲す」と書いていることからも、沖縄倶楽部の設立とその機関誌「沖縄時論」の発行が、民権運動を意図して行われたものとみて差しつかえないであろう》
 吉原の謝花論にある一節たが、このような規定づけは別に目新しいものではなく、沖縄の歴史の専門家たちのあいだでも通説として疑われないものである。
 引用されている広告は、『沖縄時論』の第2号発刊に際して論敵である『琉球新報』紙上に掲載されたもので、つぎのような内容である。
 《社会の時運一変して人心に活動し幾多要々の新事業は雲飛び涛躍るの勢を以て?湧し来りて志士の講究力行を要すること最も切を極むるも滔々たる世上只々私利を趁ふて権勢に媚びる奸物横行して社会衆民の為めに赤心以て真個に公利正道を振興する仁人義士に至りては実に少し我等は比の情状を見て転々感激発憤する所あり是に於て我等茲に沖縄時論を発刊し熱誠殉公の正気を鼓して威勢を憚らず声利を貪らず一直前住衆民の為めに奸邪を排し平民的進歩主義の先鋒となり以て大に其幸福を企図せんと欲す是我等平生の大願望なり若し大方の君子亀此の切々たる徴裏を察して御愛読の栄を賜はヾ啻だ我等の面目のみならず亦沖縄の幸福ならん乎(略以下)》(『沖縄県史』第16巻)
 この広告は、謝花らの民権思想を表現した唯一のものとして、たとえば《右の広告にみるように、沖縄クラブと『沖縄時論』は、県政改革期にあたって、諸問題をもっぱら「平民的な急進主義」にのっとって解決しようとし、私利を追求して「権勢に媚びる奸物」を排除しようとした》(田港朝昭「自治の展開」第2節「自由民権運動」=『沖縄県史』第2巻)というように引倒されてきた。
 これに対して私は前掲の拙稿で、《たとえその文中に沖縄倶楽部同人の熱い心情が塗り込められていることを認めたうえで、なおかつ、この「広告」の文章をもって謝花らの運動とそれを支えている思想を規定し、語るのは極めて皮相なことといわなければならない》と指摘したものである。
 私の考えでは、謝花らに国家形態=政体についての具体的なヴィジョンがほとんど明確でないことは、謝花らとその運動を民権≠ニ国権≠ニのかかわりの中で追求するうえで押えておかなければならない極めて重要なことだと思う。その点については、今日まで何一つ明かされていないのが沖縄近代史研究、ないしは沖縄民権運動研究(謝花研究)の現状である。
 端的にいって日本の自由民権運動における重要な特質の一つは、その運動の思想が、革命権の思想や共和主義を胚胎させ得ていたことであり、まさしくそのゆえに天皇制国家体制を後に控えた藩閥専制政府とのあいだに鋭い桔抗関係を生むという思想史的な展開があった。のちに中江兆民ら一部をのぞいて、自由民権運動の主流がいわゆる国権のための民権≠ニいう発想と論理のゆえに、終局的には天皇制国家権力の形成主体となって溶解してしまうのは、いわば民権運動の中に萌芽した共和国主義や革命権の思想の天皇制思想への掘る屈服であった。《中江兆民(1847−1901年)らごく少数の分子を例外とする彼らは、明治憲法体制そのものに対する疑惑も批判も全く持ち合わせなかったのである》(岩井忠熊『明治国家の思想構造』)という言葉もじって謝花らとその運動の思想を端的にいえば、天皇制国家の成立を規定づける《明治憲法体制そのものに対する疑惑も批判も全く合わせなかった》ばかりでなく、むしろそのような明治憲法体制に対して強烈な救済幻想を持つた発想と論理に貫かれていた、といえるのではないか。
 たとえば謝花らの参政権獲得運動に悪罵と中傷を混えて猛反対の論陣を張った当時の『琉球新報』が、その有力な論拠として《現今の沖縄において、参政権を享有せんと欲するは憲法の精神にもとり、県民一般の幸福を増進する所以にあらず》と、くり返し力説してやまなかったのは、相手の『沖縄時論』もまた憲法の精神≠強調してその運動を展開していたことの例証と考えないわけにはいかない。謝花らの参政権獲得運動の思想を支えたものが、明治憲法体制に対する強烈な救済願望(=幻想)であったというのが、私の頑固な想定である。
 そこでたとえば新里恵二が、前記の『世界』座談会で、《……政治運動というものは、たとえば闘争形態、もしくは戦術形態として、どんなに激烈な、あるいはラジカルなものがあるからといって、そのことだけで進歩的であるとか、革新的であるという評価はできない。むしろ政治路線の正しさというものがいちばん基本になるのじゃなかろうか》といい、1896(明治29)年から翌年にかけておきた公同会事件(旧支配層出身沖縄人特権階級のリーダーシップでなされた一種の復藩的政治運動)に反対した謝花の行動を評価することで立証しようとしても、それは《近代的な国民国家としての日本のなかに沖縄が統合される》ことをめぐる政治路線の態様を説明しているにすぎず、明治国家体制へのかかわり方において謝花らの思想を問らている私を納得させないのである。
 しかも公同会事件をめぐる歴史評価について、新里と大田昌秀のあいだに微妙な意見のくいちがみられるように、同事件の思想史的解明作業も今日なお十分でないのであるからのことである。
 新里恵二は、いわゆる「琉球処分」を「非民主的な上からの民族統一」と規定することで鮮明に理解できるように、基本的には沖縄がどのようなやり方であれ日本へ統合されることを歴史の進歩としてとらえるとする立ち場を一貫している。その前提を、新里自身の文章に即して眺めるとつぎのような史観=革命理論となる。
 《レーニンはかつて「大ロシア人の民族的誇りについて」で、ビスマルクのドイツ民族統一を、「分散したドイツ人を統一することで経済の発展を助長した」ものであり「進歩的で歴史的な事業」だったと説いた。マルクスも、中世末における北フランス民族の南フランス民族にたいする抑圧を、「恥ずべき不正」とよぶべきではないと説いたことがある。歴史を全体的にみるかぎり、明治政府の対沖縄政策をきびしく批判しながら、同時に置県処分を歴史的必然として認める立ち場の正しさは、日本の革命をうんぬんする者にとって、ほとんど自明である。森は「すべての国家を否定しすべての階級支配を否定するところの真のインターナショナリズム」などと、寝言のような革命理論をとなえているが、われわれにとって必要なのは、日本という特定の民族国家の国家権力を人民の手のうちに奪いとることであり、労働者階級による階級支配によって、階級そのものを根絶する条件をつくり出すことなのだ》(『日本読書新聞』63年5月6日号)
 これは、新里らの著作『沖縄』について書いた森秀人の書評に対する反論の一節である。ここでは単に、今日的な意味における沖縄闘争のあり方におよんで語られているが、その後この論争は、かつての同志・国場幸太郎と新里の論争に移行発展した。
 新里−国場論争(同上紙、7月8日〜11月4日)についていえば、《……沖縄問題を民族の統一というブルジョワ民族主義的課題に重点をおいて後向きに考察する結果から生れた心情的な民族主義的偏向であり、当面の実践課題からは遠く立ちおくれている。それには革命性も乏しい》(同上、9月16日)と、新里の差別告発§_に立った民族統一路線を批判した国場の主張に私は共鳴する。
 しかもその主張は、今日なお有効性を失わない。一定の批判は留保しつつそのことを確認しておいて本題に戻ろう。



 我部政男は前記の論文で、謝花らの「民権」思想を証拠だてる傍証としてつぎの『琉球新報』論説を引用している。
 《国家的精神は個人的精神を拡張したるに外ならず。故に個人的精神を発達せしむるは則ち国家的精神を発達せしむる必要の手段とこそ申すへけれ、個人的精神を発達せしむれはとて、之が為めに決して国家的精神の発達を阻害するの道理は万々あるへからざるなり。況や個人的精神に一進を集めたる地方的精神を発達せしむるに於いてをや》『琉球新報』のこの論説は、1899年(明治32年)、那覇港が開港されたのを祝って開かれた開港祝賀会の是非をめぐって、謝花らの『沖縄時論』とのあいだにかわされた論争の一節である。この論説に即して我部は書いている。
 《ここにはナショナリズムと民主主義が前者の優位を主張する形で提示されている(当時のことばにいいなおせば国権≠ニ民権≠ノあたる)。『琉球新報』のこの主張は、民権は国権の目的に奉仕するものであり、民権を尊重する地方的精神(三地方自治)は国家目的に従属するものだとして否定されているのである。このような考えに立つかぎり、どうして沖縄独自の主張ができるであろうか》
 だが、我部のこのような裁き方は極めて不公正である。
 この時の論争については前述の拙稿でも取り上げたことだが、そこで両者の主張を比較対照してみれば、むしろ謝花らの『沖縄時論』の方にこそ国権主義≠ヨの傾斜がいちじるしいのであり、我部の判定は倒立しているとしか考えようがないのである。
 すなわち『琉球新報』の前記の論説は、つぎのような『沖縄時論』による開港祝賀会反対論に反論したものであるからだ。
 《改正条約実施の祝賀会を開かさりしか故に開港祝賀会を催すは大不賛なり》
 《国家的の改正条約祝賀会を開かすして地方的の開港祝賀会を開きたるは則ち大少軽量を誤りたるものにして其結果は県民の国家的精神の発達を阻害するの弊あるか故に開港祝賀会は不可なり》
 『沖縄時論』はさらに、《開港祝賀会は国民的同化を破りて割拠的小島根生を養成するものなり》ともいって那覇開港の祝賀会の開催に反対を唱え、日清戦争の勝利と同じような国家的大慶事である条約改正祝賀会を開くように要求していると『琉球新報』は伝えている。
 つまり、謝花らの『沖縄時論』の主張を平たくいい直すとおよそつぎのようになるだろう。
 《日清戦争のあと、まがりなりにも列強と同等の地位を獲得し、日本帝国の国力を証明する「改正条約」の調印実施をみたのは、あたかも日清戦争の勝利より以上の国家的大慶事である。これを祝賀しないで、単に沖縄だけの地方的慶事にすぎない那覇港開港を祝うのは、大小軽重を誤るものである。そのようなことをすると、国民的精神の発達を 阻害して沖縄人の日本人としての国民的な同化を妨げ、小島根性を育てる弊害を招くだけである》
 ここには『沖縄時論』によって代表されるいわゆる沖縄民権運動の持つ思想体質の限界があまりにも見事に露呈されており、まさしくこの『沖縄時論』の主張の中にこそ、《ナショナリズムと民主主義が前者の優位を主張する形で提示されている》のであり、さきの『琉球新報』の主張の中にあるそれよりなお極端である。
 むしろ『琉球新報』の方はつづけて、《沖縄時論記者は他府県も新条約実施の祝賀会を開きたれは本県も亦之を開かすへからすと謂ふの口調ありと雖とも他府県の例は如何なる事と雖とも之に同化せさるへからすと謂ふに類し不見識の至極にして沖縄を愛する所以にあらさるなり》ともいっているのである。我部の表現を借りていうならば、《民権を尊重する地方的精神(=地方自治)を大切に守れ》、といっているのである。
 もっとも当の『琉球新報』は、その一年足らずのあとには、主筆の大田朝敷が社説や女学校の講演で、《極端にいえばクシャメまで他府県人と同じようにやれ》という、すでによく知られている盲目的、没主体的な日本同化を唱導した。だからここで同紙が個人的精神や地方的精神の発達を説いたことは、いわばその二、三年前に主唱した公同会運動にみる復古的琉球ナショナリズムの残照と考える見方を成り立たせることもできる。
 それはしかし、『沖縄時論』に代表される「民権」派のがわも同様で、狂死した謝花やのちに東京−朝鮮−中国と渡って中国の革命運動にも身を投じた新垣弓太郎のほか、反骨の生涯を終えた人はおらず、両三年という短い沖縄民権運動の歴史の中で、すでに同志の離反、転向が相次いでいる。
 謝花らの運動にもおおくの限界性や否定的側面があるように、『琉球新報』のがわにはまた必ずしも否定的側面だけでなく、いくつかの積極性や肯定的側面があるのは当然のことで、それらを緻密に検証することなしに『沖縄時論』(=謝花昇)=民主進歩、『琉球新報』=保守反動とする観念を国定化して謝花とその運動を称揚することだけに熱中する風潮は、心して戒めたいものだと思う。
 さきの『沖縄時論』の発想と論理は、日本の民権右派にみるいわゆる“国権のための民権”という発想と論理に、何ほどの違いがあるといえようか。
 その意味で私は、前述の拙論でも、謝花らの運動とこれに鋭く対立した『琉球新報』一派の思想と行動は、沖縄における皇民化−−すなわち天皇制国家体制への包摂過程で、これを沖縄のがわから補完していくのに、車の両輪のごとき役割りを担ったはずだと指摘しておいたのである。
 我部は前記の論文で謝花らの参政権獲得運動に触れてつぎのようにも書く。
 《……謝花民権の歴史的意義は、本土における自由民権の「最後」のかがり火を再び沖縄で燃えあがらせたという飛火的な現象として把えるだけでなく、民権派の下からのコースが全く圧殺された時点で自由民権の闘いと思想を基調にし、沖縄の歴史的特殊性を媒介にして明治憲法体制を内部から切り崩していこうとする、新しい鼓動を告げる運動として把握できるところにあるのではなかろうか。たとえ謝花民権が力及ばずして、「未発の契機」として終わったとしても。》(傍点引用者)
 これはおそらく、《謝花らは山林開墾問題、杣山処分問題、「公有金横領事件問題」、そして彼らの中心スローガンであった参政権獲得という具体的な闘争を通じて、奈良原の独裁的な植民地的差別政策の背後には薩閥があり、明治政府が存在していることを認識していった。そしてこの認識の上に立って彼らは、天皇制イデオロギーに対決する県民大衆の政治的思想的形成に全力をあげて追求していったのである。》(沖縄人民党機関紙『人民』70年9月5日号、左次田勉「歴史事実と清算主義」、傍点引用者)というような、歴史事実も何もお構いなく、とにかく《復帰》運動の象徴的存在となった謝花昇とその運動を、天皇制イデオロギーに対する英雄的な反抗者に仕立て上げないとおさまらない《復帰》主義者の厚顔が通用する沖縄の、疑似「革新の」風土の毒気にあてられたためであろうか。
 《明治憲法体制を内部から切り崩していこうとする》思想は、たとえ《未発の契機》としても、はたしてそこに存在していたのかどうか、私にはちょっと信じられないことなのである。
 新里恵二はさいきん那覇市制50周年記念講演の講師として招かれ、20数年ぶりに沖縄を訪ねた。講演は6月5日、那覇市民会館ホールでおこなわれた。「琉球処介について」と題されたその講演の中で、私(たち)のいわゆる「反復帰」論を批判し、さらに前述の那覇港開港祝賀会をめぐる『沖縄時論』と『琉球新報』の論争に対する私の見解を批判した。
 その講演速記はちかく『中央公論』(8月号?)に掲載されるというが、まだ手元にないので便宜上『沖縄タイムス』6月11日付け紙面に載った講演要旨から引用してみる。
 《(開港祝賀会論争)に開連して新川さんは論議を進めています。私はこれを読んで不思議に思いましたことは、条約改正が日本の近代史の中でどういう意味を持っていたかということが、論文の中で必ずしもおさえられていないじゃないかと感じました。
 (“ご承知のように”と、不平等条約の内容やその改正のために日本の民主的な国民が力を尽してたたかってきたことを説明したあと)つまり安政の不平等条約を改正することは、明治の日本人たちが死力を傾けて、民族的な課題として追及し、日本に民主主義が定着するに応じて条約改正を勝ちとることが出来たという性格のものです。そうしますと、謝花昇に指導された沖縄時論の人たちが、この条約改正は那覇港の開港よりも、もっと喜ぶべき歴史的な事業だと評価したことは大変正しいことだと思いますし、沖縄時論が地方的な精神に反対するということは、地方的な精神ばかりふり回して、ひとつの国家としての日本国の国民であるという自覚が乏しいのでは困る。そういう地方的な割拠精神をとり去って、等しく日本国民であると自覚すること、そして欧米の列強から馬鹿にされ、不平等な条約を押しつけられている、そういう民族の運命を打開すべきだとの思想のもとに、条約改正を進めてきた自由民権運動の指導者たちの志向と一致することであり、このことは謝花昇の偉大さを示しているものと私は考えます》(傍点引用者)。                
 一般市民向け講演の、しかも新聞に載った要約だから、いちいち揚げ足取りめいたことはいわないが、基本的に私の問いに答えていないとしかいいようがない。それはさきにのべた両紙の論争の具体的内容をじっくり読み比べたうえで、私の見解を読み、さらにこの新里の批判を読めばおのずから明らかになるはずだが、論点が巧みにずらされている。
 条約改正が日本の近代史のうえでどういう意味を持つか。その中で民権派がどういう役割りを果たしたのか、を私は問うているのではなかった。『沖縄時論』の主張(ただし『琉球新報』の反論の中から抽出したものだが)を支える思想をこそ問うているのであり、それははっきりいって、日清戦争の肯定と、国権の伸長を無条件に称揚する内実を備えていることは明白である。これをもって、『沖縄時論』に代表される沖縄民権運動(謝花も含めて)の思想が、“国権”に対する“民権”の優位をうたうものでは絶対になく、むしろその逆であると述べたものである。その私の問いを、いうならば今日の「民族独立論」に立つ政治路線に沿った説明でそらし、条約改正の近代史上の意味とか、その運動をすすめた民権派指導者の志向とかに論点をずらしてしまうのは納得致しかねるものというほかない。
 その点についていえば、むしろ新里の方こそ問題を一般化し、平面化して一向に問題点が押えられていないのである。たとえば、しまね・きよしは、その『民権思想と転向』の中で、第五議会における外相・陸奥宗光の演説「条約改正の目的を達せんとするには、畢竟我国の進歩、我国の開化が真に亜細亜洲中の特例なる文明、強力の国であると言う実証を外国に知らしむるに在り、是が条約改正を達する大目的であります。−−(以下略)」を踏まえてつぎのようにいう。
 《陸奥がこのように言うとき、アジアにおいて日本が欧米と同列に立つということは、他のアジア諸国に対して欧米同様の地位にたって支配するということを意味しているし、その「実証」として、国内においては立憲制度を確立し、諸外国にたいしては「強力」を蓄積しなければならなかったのである。そして、日清戦争こそがその「実証」に外ならなかった。》
 このような点を明確な視野に入れず、かつまたいわゆる「条約改正反対」のはげしい国民運動が、民権派と国権派の癒着のうえでくり展げられたという実体を、何一つ触れないまま問題を平面的に一般化しているのである。



 私の疑問はここで当然、謝花らの参政権獲得運動の方に行きつく。この問題でも謝花らに猛反対した当時の『琉球新報』との関係で、謝花らの運動が実質以上に過大評価されているのではないか、という疑問である。
 《本県民が遣憾なく完全なる参政権を享有し、立憲治下の民たる名実を負ふは、実に目下着手中の土地整理事業完成して、以て新に一般地方制度の準行の後に在るを以て、苟も誠心誠意の衷情よりして県民一般の利害を顧み、参政権を享有せんと熱望するならば、須らく先づ其心を移して以て土地整理事業の速かに完成せん事に尽瘁すべきなり。是れ其事の順序を得たる者にして……》(『沖縄県史』16巻)。
 『琉球新報』はこのような筆法で、土地整理事業も完成しないのに参政権獲得運動をするのはかえって不利益を招くといい、まず土地整理を考えろ、と謝花らの運動を非難妨害したが、その言い分は理論的に一理がある。
 ただしこの『琉琉新報』の反対論は、所詮は単なる言いがかりにしかすぎなかった。彼らは《吾輩は斯の如く労して益なき不平満の盲動軽挙を止めて実際に行はるべき完全の参政権を享有する目的を達する順序として先づ第一に着手中の土地整理事業を早く完成せしむる事に尽力すべしと動告するものにして、本紙上に於ける参政権問題に関する記事並に論説等は、総て皆な此主意より出てたるに外ならず》(『沖縄県史』16巻)と殊勝なことをいいたてながら、実際には問題の土地整理が終了、地租改正がなされたあとも、すでに謝花らの運動で与えられて施行が押えられていた変則的な参政権の、正常化と即時施行のために何の努力もみせなかった。
 そのように沈黙をつづけることで、明治政府県当局の意を体し、これを支えつづけていたのである。数年を経て、町村制施行、区制の改正、県政施行と、明治40年代に入ってからつぎつぎとおこなわれる地方制度改革の直前、その改革の機が熟して早晩のうちに参政権の付与が日程に上る段階(明治39年末)に来て、突如として参政権獲得の叫びをあげはじめるのである。
 そこには、《同紙に拠る旧特権階級の子弟が、多くの点で沖縄社会の実質的な支配権を、外来者から奪取しおえた》(大田昌秀「国政参加の虚像と県政」)という歴史的な背景があり、当時の『琉球新報』の反動性をあらわしているところだ。
 そのようなことは承知のうえで、しかも論敵であった大田朝敷さえもが後年になって《兎に角、謝花君等のこの運動は、我が県民の自主的運動の最初の現われとして、決して没すべからざる功績である》と述懐して、再評価していることを踏まえてなお、謝花らの参政権運動を支えていた思想の内実を問題にするとき、私は無条件にこれを評価することをためらうのである。
 参政権の実質的な獲得にあたって、現実にその前提となる土地制度=租税制度の改革をとびこえ、いきなり参政権獲得運動に取り組んだ謝花らの内的な契機はいったい何だったのか。−−そのことについて知るには余りにも手がかりが乏しいからである。
 たとえば新里恵二は前記の座談会でいう。
 《……ことごとに謝花と奈良原知事の意見が対立した結果、謝花は、そういう沖縄県政全体を変えていくためには、中央に発言権を持たなければいけない。沖縄の県民が国政に参加しなければいけない。そうすることによって、はじめて奈良原に代表されるような明治政府の沖縄政策を批判し、変えさせていくことが出来るんだという立場から、1898年に県の役人を辞職して、「沖縄倶楽部」という政治結社をつくり、『沖縄時論』という、沖縄倶楽部の機関誌を出して、奈良原の施政を糾弾すると同時に、参政権獲得のための運動をはじめ、しばしば上京して、要路の人たちを説得するという活動をはじめたわけです。》
 やはり何一つさきの問いに答える内容はないし、大里康永の「義人謝花昇伝」以来の決まり文句が語られているにすぎない。おそらく33ページにもおよぶその座談会で、これまでの謝花論(または沖縄民権運動論)に欠けていた新しい視点を示唆しているのは、大田昌秀のつぎの発言だけである。
 《謝花が土地問題の本質的な点に視点を向けていたかどうかについては全く資料がかけている。私のたんなる想像ですが、謝花が土地制度の根本問題に目を向けていたら、彼の運動方針はもっと違った形をとったのではないか。》
 この点を解明していくときにはじめて、謝花昇を指導者とする沖縄民権運動の思想の、実体的把握は大きく前進するはずであるが、しかし大田は、せっかくの本質的な視点をただちに後退させてしまう。
 《もちろん、謝花はある程度土地制度の改革もみずから推進しているのですが、私の知っている限りでは、土地問題を口実にして参政権の獲得を遅延せしめようとはかる人びとに反発し、土地問題を解決するにも参政権獲得が先決だと考えたのではないか》(傍点引用者)。
 このように問題を矮小化してしまったためにあとで大江志乃夫が、《本土の地租改正が、民権運動にとって主要な土地問題となったのは、それが地主制を生み出していくという歴史的な性格をもっていたからですね。ところが沖縄の場合はそうではない。謝花の運動が直面した土地問題というのは、土地整理事業よりも杣山問題であり開墾問題であったのではないか。(略)とくに謝花の直面した土地問題というのは、実は杣山開墾問題ではなかったんだろうか》(傍点引用者)と、謝花の民権運動に有効な市民権を与えようと苦しまぎれの一種のこじつけをするのに対して、《まったくお説のとおりだと思います》と、鋭利な視点をたあいなく曇らせてしまう結果となる。
 たしかに大江(志)の問題提起を発展させる形で、大江(健)が、《……謝花昇は、最初どういう考え方から出発したにしても、結局は国家そのものと対立せざるを得ない所に行かざるを得なかった。それは中間のクッションとしての地主というものがなかったためかもしれません。ある側面では、大江志乃夫さんがいわれたように、土地開墾の問題の前後の、土地の囲い込み運動というものは、実は地主は日本だったと思うのですね。(略)だからつねに地主日本と戦わなければならない……》(傍点引用者)というとき、文学者らしい直感力(=想像力)の鋭さ(=豊かさ)を示していて面白いが、それでもなお、謝花が杣山問題で奈良原とのたたかいに敗れて下野したあと、ただちに現実の土地問題をとびこえて参政権獲得へと急傾斜していった行為とそれを支える思念の、内発的な必然性を説明するにはきわめて不十分である。
 なぜ謝花にとっての土地問題は、杣山開墾問題に括られて終熄させられなければならないのか、《地主は日本》だということを、鋭く見すえていたから、では答えにならないし、まさしくこのとき、《謝花が土地問題の本質的な点に視点を向けていたら……》という問いは、謝花が直面している具体としての現実に、謝花はみずからの思想をどのように切り結ばせたのかという、思想の内奥における熾烈な桔抗関係の中で問われてくるのである。にもかかわらず、問題はあらぬ方向へとずらされ、やがては《謝花がもうすこし長く生きていたら、彼は初期社会主義の運動と一定の連帯をしながら、運動を進めたのではないかと、漢然と考えているのですが》と、謝花の“虚像”際限もなく拡大されていく。
 紙幅もないのでさきを急ごう。古波津英興の「謝花昇論」は、その枕詞に「沖縄闘争の原点」とおき、つぎのようにのべている。
 沖縄闘争とは何か。祖国復帰も、反戦復帰も、基地撤去も、すべては自由と民権の確立に帰する。謝花を知らずして沖縄を語る勿れ、といわれる。運動が停滞し混迷するとき謝花が想起される。謝花の原点にたち戻って持続する沖縄闘争の内実をおさえてみたい》
 だが果たして、謝花は《沖縄闘争の原点》たり得るのか。すでに1960年代の初期に、《復帰》運動の心情的な民族主義的偏向を超克して、沖縄における「前衛党」を去り、または追われた人たちの重い言葉(その代表的な一つとしてさきにあげた国場幸太即のそれがある)を、思想の深奥で受けとめ得ないもろもろの《復帰》主義者ならいざ知らず、あるいは《謝花の狂気こそ沖縄闘争の原点》とするならまだしも、いかにして今日、正気の謝花を《沖縄闘争の原点》たらしめ得るのか。
 古波津は同論文で、敗戦後アメリカ占領支配権力者が、アンティ・ジャパンの民族的英雄として謝花をクローズアップさせ、分断支配の固定化に役立てようと目論んだこととあわせて、謝花の銅像が地元住民のほかは、時の琉球政府主席・大田政作以下、保守陣営の政界人、財界人だけで建てられたエピソードに触れて、《まったくの皮肉》と嘆じている。
 占領支配者の謝花利用はともかく、保守党陣営によるその銅像建立は、実は皮肉でも何でもない。「保守」といい、「革新」というが、その両者に何ほどの変異があるのか、ということを、たとえば天皇来沖の報道に《千載一遇というか沖縄としては大変ありがたいことだと思います。》と頭を垂れるのが(6月4日『読売新聞』)、ほかならぬ「革新」の総師・屋良朝苗「革新」主席であるという現実に照らしてみれば、もはや多言は要しない。
 「保守」「革新」その両者の、思想の根底で花ひらく情念の野合。その交合を媒介しているのは、とりもなおさず私のいう《復帰》思想=《国家》幻想である。
 私たちが生きるこのような現実の苛酷に、それでもなお謝花は、《沖縄闘争の原点》たり得るか。狂気の謝花をして、正気の謝花をして撃たしめなければならぬ。(6月24日記)



<沖縄>の怨嗟と<私>

沖縄・朝鮮・筑豊(抄)

森崎 和江


………

 沖縄の復帰を、体制側も反体制側も同質性の接続として幻想しないと安定しない。なぜなのか。沖縄民衆がアメリカ軍政下の諸労働に(そしてかつてやまとんちゅによる強要のもとで)自己を託さず、伝承された内在空間をくりかえし現実へと創造して力を結集させたことを、私たちは自分らへ向けられた殺傷のまなざしとして感じ得るだろうか。あのまなざしがそのまま、海を渡るイナゴの大群のようにおそう図を、私たちは精神風土に猫き得るのか。例えば沖縄の復帰を、戦争中の殺人行為の摘発として、恐怖する本土民衆がいるだろうか。
 沖縄と本土の民衆の連帯は、そのあたりから戦争責任をこめはじめないことには、今日の社会関係の分断状況を民衆史の内部から越えることができないだろう。沖縄は私にとって、本土の辺境ではない。あるいは辺境ということばを私流に天皇制感覚に対決するアンチ天皇制感覚の在所と思うならば、まさに辺境である。
 そこには先にもすこし触れたように農耕儀礼や習俗が、原初性をより濃く伝えたまま残っている。また工業社会への転換は、まだ見られていないと言える。つまり民衆の社会関係は具象的にも、観念界でも農耕労働社会の構造を持っている。
 農耕社会はその神話でもみられるように社会の長は穀霊の代弁的現体で、穀霊が農労働と相対して成果をあげねば労働の主体よって、首をはねられた。もっぱら労働のために穀霊へむかって奉仕した。日本の神話は天皇国家成立後の意図によってひずんではいるけれども、その本意は残っている。私は神話解釈がしたいのではない。ただ農耕社会とは農耕労働社会であることをいいたいだけである。そして沖縄にそれをみる。
 つまり農耕労働社会から労働を除去した農耕観念が、天皇という観念をその社会性のシンボルのように実在させたことに対して、どこまでも労働およびその主体が社会機構の髄をなすことの差である。今日の沖縄の戦闘性は単に他民族支配や政治的緊張関係の結果ではない。また単に物的資産としての権利の主張ではない。あの南島の島々が島民によって育てられて以来の、人間労働の本来性の主張であるから、それは日米を問わず、賃労働に主体的労働の幻想を託す体制と敵対する。私は私のなかに自分にとって労働(創造的生存)とは何かを、発見すべく沖縄をみるのである。筑豊にいて私は、復帰によって本土が沖縄のこの伝統的手ざわりを崩壊させることをおそれている。それは沖縄民衆のためのおそれではなくて、私自身のための、おそれである。私たちは、今日沖縄のたたかいを支援する政治的自己表現を、この地で行なうことはできる。けれども例えば入管法粉砕にかかわる政治的行動は可能だが、社会的関係を具体的につくり出すことは在日朝鮮人との間でもきわめて困難で、互に無縁な閉鎖集団のように生きる現実を思う。沖縄におけるたたかいのエネルギーは社会関係の緊密さが、社会生活次元におけるたたかいを、政治性へ転じ得たために噴出した。その逆ではない。
 民衆は、労働を基本軸にして自己の社会を形成する。その社会をうばわれれば、追いこまれた次の労働と重層させて幻想の社会空間を猫こうとする。さもない限り、収奪されっばなしの日々に耐え得るものではないし、相互性を労働者間に生み出すことも出来ない。その基盤となる労働の具体的現実的手ざわりが生命である。
 その生命であるところの労働の、観念における二重性を二極に分離させること。さらに賃労働止揚のための内在的根拠を把握すること。その根拠が歴史性を異にする民族間では異質であることを承認して賃労働止揚のための戦線を組み合うこと。その社会的関連性を政治性へ転化するエネルギーの自在性を個々に身につけると共に、集団をそのいずれかに固着させないルートを発見創造しあうこと。
 沖縄が今私にとって重いのは、以上のようなことに関したものとして立ちふさがるからである。


………

このページのトップにもどる

<風游・図書室>にもどる

modoru