かつてバブルと言われた時代が終わって、平成大不況、そう、「失われた10年(もう20年になりますね)」が日本を覆(おお)った頃から、大学の文学部が消え始めました。同業者にはこれを嘆く人も多いようですが、歴史の必然かもしれません。
と言うのは、大学に文学部が大量に作られたのは1960年代、女性の大学進学率が飛躍的に伸びた時代でしたが、その頃は、大学に女性が進学する学部は、家政学部と文学部(それに教育学部)ぐらいしかなかったからです。いま女性が「社会進出」を果たす時代になって他の学部へどんどん進学するようになりました。だから、文学部の消滅は女性の社会進出(男女平等)という「政治的正しさ」と引き替えだったのです。私は時計の針を巻き戻してまで文学部を復活させようなどとは思っていません。
では、私はどうして文学にしがみついているのでしょう。それは、文化(もちろん、文学を含みます)が隆盛だった時代は必ず豊かな時代だったからです。食うや食わずの時代でも文化はあります。生活様式そのものが文化だからです。しかし、文学は生活が豊かにならなければ隆盛にはなりません。私は豊かな時代を文学に見たいのです。また、文学には私たちが十分には意識できていない何かが現れています。それを読み取って、私たちの時代や漱石の時代をよく見てみたいのです。問題は、いまの文学研究が内向きになって、社会への発信力を失っているところにあります。私は文学研究の見せ方をもっと工夫したいと思っています。
私は、受験勉強はほとんどしたことがありません。好きな本を読み、交換日記を書き、恋愛と失恋をして過ごしました。もっとも「勉強」したのは大学時代。授業ではありません。不勉強な大学教員などバカにしていました。古今東西の名作や哲学書を読みあさりました。これが「大学生の勉強だ」と、いまの学生にけしかけています。
2年前に「演劇時評」を担当してから、「趣味は観劇」。50歳を過ぎてはじめてできた趣味です。