大学生のときに組んだバンドが解散すると、ひも生活になりました。卒業してすぐに結婚してまして、嫁さんは全日空の勤務。朝起きると、伊丹空港に出勤する嫁さんの弁当を作って、あとは腹筋したり、ギターをかき鳴らす日々。守口市に住んでいたんですが、長髪だったし、近所のお好み焼き店に行くと、おばちゃんに「あんた、ろくな人間にならんで」とボロクソですわ。
いつまでもこんな生活してられんわなと人生の曲がり角でした。好きな音楽もできなくなるのかなと考えたら、無性にさみしくなってね。ギターをたたきつけるようにして作った、悲しい内容の歌が「夢想花」です。デモテープをつくったら、けっこういい出来。これはお金になるんじゃないかと手応えがありました。
1977年11月に世界歌謡祭でグランプリを獲った世良公則&ツイストが大阪凱旋公演したとき、僕は会場で警備のバイトしてました。そこでヤマハの関係者と会いまして。「こんなところで何してるんや。曲書いてないんか」「いや、いいのができまして」「ほう、聴かせてみろや」というわけで、78年秋のポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)に応募できることになりました。