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そうこうするうちに、わたしは東大出身でもなく、高山先生に学んだこともないのに、高山英華という人物に大変親しみを感ずるようになりました。伝記を書くには、まず主人公を好きにならなくちゃいけない。そうしないと通り一遍のことしか書けないからです。そして高山先生のことも、以後できるだけ「高山さん」と呼ばせていただくことにいたしました。今日も大変不遜ではありますが、「高山さん」と呼ばせていただきたく存じます。
もっとも、親しみをもっただけで、伝記を書けるわけではない。私よりも高山さんのことをよくご存じの方は、世の中に数多くおられる。以前、私は『辰野金吾伝』を書いたことがあり、その時には辰野家の人たちから、「大丈夫ですよ、東さん、私たちも辰野金吾に会ったことありませんから」と力づけていただきました。ところが、今回は、お弟子さんをはじめ、高山さんのことをご存じの方がいっぱいいる。私の高山英華経験というのは、講演会で一度話を聞いただけでありまして、しかも、講演が始まって5分ぐらいでもう寝てしまって、目が覚めたら終わっていた。今回も調べてみて、個人的には非常におもしろい人であるし、座談のうまい人だということはわかったけれども、講演などはあまりうまい方ではなかったように思います。
でも、高山さんを抜きに戦後日本の都市計画を語ることはできません。どなたかの本にありましたが、まさに戦後日本都市計画の神様です。問題は、では、その神様が実は何をやった人なのかということです。ただ、神様として委員会に鎮座していただけだったのか。これはなかなか説明しづらいことでありまして、私も一般書籍の編集者などに「今、何を書いているんだ」といわれて、「高山英華の伝記を書いています」と答えると、「どういうことをした人ですか」と更に聞かれる。私があれこれ説明しても、要は委員長を多くやった人ということにしかならない。「つまらない人のことを書いているんですね」とあきれ顔で言われた経験もあります。
そのつまらない神様をいかにおもしろく書くか。これが五年間、ずっとわたしの脳裏にあった問題でした。
本当はわたしに書くようにいわれた「伝記」とは違っているかもしれないんですが、いろいろ考え、試みにいくつかの方法で書いてみたりした末に、小説仕立てにしたのも、そうしたことから来ています。つまり、高山さんというのは論文のようなものではなく、人間としての魅力を、ときにはフィクショナイズしながら書くことで浮かびあがってくるのではないかと思ったのです。

 

Ⅰ.戦前・戦中

(図3)
高山さんの著作は、『私の都市工学』という本が唯一で、「僕は東京に生まれて、東京で育ちました。そして、恐らく東京で死ぬでしょう」という書き出しです。このとおり、高山さんはまさに東京でお亡くなりになった、江戸っ子とは違う、山の手で一生を過ごされた文字通りの東京人です。
お父さんは、宝山石油という、後に日本石油に吸収合併されてしまう会社の重役でした。この写真は、宝山石油の社史からとりました。日本石油に吸収される直前、宝山石油は記念に社史をつくるのですが、そこに載っていた写真です。
高山さんは5人兄弟の末っ子で、高輪に生まれました。小学校に上がるか上がらないかぐらいでお父さんが亡くなってしまいます。後はお母さんが息子5人を育て上げ、高輪から代々木、代々木から大久保、そして高山さんのお兄さんが結核になって、その療養のために、大久保から阿佐ヶ谷へと、持家から借地・借家へ、それもだんだんと借り賃の安いところへと引っ越しています。
(図4) 
旧制中学は、東京高等師範附属中学校、今の筑波大学附属です。私が今度調べていて非常にびっくりしたのは、筑波大学附属というのは、昔サッカーがすごく強かったんですね。これはサッカー部が全国優勝したときの記念写真です。左端の第一列に高山さんが映っています。この写真には、後に文芸評論家になる中島健蔵もいます。中島は後に東大が入ったときも、高山さんをサッカー部に誘った人で、彼の自伝には若き日のサッカー少年である高山さんが登場します。
(図5)
高山さんは中学にいる時に関東大震災に遭遇して、戸山ヶ原に避難します。この戸山ヶ原とは今の早稲田の理工学部があるところです。家の近くでは社会主義者の大杉栄や朝鮮人が殺される。こうした体験が、後の高山さんに都市防災をはじめとした都市計画を志すきっかけになり、社会的なものへの関心をも深めさせたのでしょう。
(図6)
その後、東大建築学科に入る。高山さんを調べるに当たって、さらに驚いたことに、筑波大学附属だけでなく、東大というのも大正の終わりころはサッカー部が非常に強かったんです。アソシエーション式蹴球部と、現在でも東大のサッカー部は当時からの正式名称を名乗っています。
高山さんの生涯にとって、サッカーというのは非常に大きな意味を持っています。この頃は東大が今の関東大学リーグ6連覇を達成していた時期でありまして、早稲田、慶應と張り合っていた。しかも、部長が建築学科の教授の内田祥三と、奇しくも勉学上の先生でもありました。当時の東大建築学科は、佐野利器という喧嘩早い先生がボスでいましたが、高山さんが入学する直前に大学側と喧嘩して飛び出たばかり。しかも、ほかの建築の教授たちはその前に佐野利器に追い出されてしまっていて、内田祥三しか教授として残っていないという変則事態でした。内田先生ひとりが建築学科教授として学生たちの教育を行ない、かつ関東大震災で破壊された本郷キャンパスを建て直すという営繕課長を兼務するという、孤軍奮闘の時期であります。
その内田が部長を務めるサッカー部のキャプテンだったわけですから、高山さんはずいぶん可愛がられもしたし、先生のお宅にお邪魔することも、よくあったでしょう。
(図7)
当時は、昭和の初めごろですので、マルクシズムが非常に流行していた時代でもありました。高山さんも、内田先生に内緒で、一時マルクシズムに非常にかぶれまして、この時に京大生の西山卯三という人と知り合っています。一緒に写真を撮っています。真ん中に西山卯三がどっかと座っているのに対し、高山さんは端っこにいます。
西山卯三という人は、高山さんと違いまして、大変に筆の立つ人で、自伝も書いたし、確かその一部を漫画にもしています。自伝『生活空間の探求』にも高山さんが出てまいります。高山・西山というのは東大・京大で、それぞれ都市計画の教授になるので、ライバル関係にあったとみられることも多いのですが、西山の自伝を読むと、高山さんには割合いい感じを持っていたのではないかと思えます。恐らく、それは高山さんの人柄によるものだったのではないでしょうか。

この写真に映っている人の多く、西山先生を囲んでいるのは、創宇社というグループに属すノンキャリの建築技術者たちです。当時は特高の取り締まりが厳しい。他の人は捕まってしまうけれど、西山さんと高山さんは捕まらなかった。西山さんは勘が働く人なんですね。今日は手入れがあるぞという時には姿を見せない。幕末の桂小五郎みたいです。





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