初優勝とともに、照ノ富士が新大関に昇進した。

 もう1場所、待つべきではなかったか、という声は少なからず、審判部の内外であった。

 直近3場所の成績で、最初は平幕での8勝。最近昇進したものの地位の責任を果たせていない横綱鶴竜、大関豪栄道の反省から、慌てて上げる必要はないという声は大きい。新大関をつくったものの、ふがいない成績となられては困る、というのが反対派の大勢だろう。ここ2場所で13勝、12勝を挙げた照ノ富士の好成績から、もう1場所待っても上がる、という見方も強い。

 その考えにも同意はできる。だが「33勝」という昇進の目安の数字でなく、過去の「関脇優勝」になぞらえると、大関昇進は妥当に見える。

 年6場所制が定着した58年以降、関脇で優勝した力士は過去15人いる。そのうち、連続で関取を務めていたのは14人で、11人が大関への昇進を果たしていた。逃した3人は直近3場所の成績が、せいぜい31勝止まりだった。

 関脇優勝で昇進した11人の中には「8勝」を交える力士もいた。北の湖は小結で8勝、関脇で10勝と来て、14勝の優勝で昇進した。三重ノ海も関脇で8勝、11勝と来て、13勝の優勝だった。曙は小結で13勝ながら、関脇で8勝にとどまり、場所始めは大関とりのムードがないまま、13勝で優勝して昇進が決まった。

 照ノ富士の起点が平幕だったこと。ここが意見の分かれ目だが、実績だけでは十分「妥当」にみえる。

 「優勝」は重い-。北の湖理事長(元横綱)らが重視したその一点は、やはり大きい。

 優勝制度が制定された1909年(明42)以降、わずか100人しかいない優勝者。その101人目に就いたのが照ノ富士だった。現在の日本人3大関には、いまだ経験がない領域。一気に飛び越えた。

 まして、2場所の関脇で記録した13勝、12勝は、いずれもその場所の3大関の成績を上回る。その間の大関戦は合計4勝1敗。この時点で、大関としての実力があると判断しても時期尚早ではない。

 阻止すべき大関が、壁に成り得なかった。むしろ照ノ富士の優勝と大関昇進を「演出」したのが、稀勢の里が白鵬を倒した瞬間だったことは、皮肉にも思える。現大関がふがいないからこそ、新しい風を吹き込むべく誕生したのが、新大関照ノ富士だった。【今村健人】