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学祖 山田 顕義 Akiyoshi Yamada

1844年生~1892年没

士族反乱を鎮圧

佐賀の乱を治める

明治7年(1874)2月、征韓論に敗れ、野に下った前司法卿江藤新平や前秋田権県令島義勇らが挙兵、「佐賀の乱」が勃発しました。政府から軍事指揮権を与えられた内務卿大久保利通は、みずから鎮圧に向いました。山田顕義陸軍少将は九州出張を命じられて、大久保に随行して福岡に赴き、同地の召募隊を指揮して、乱の平定に当たりました。反乱は組織的なものではなく数日で終結、江藤・島は逃亡しましたが捕らえられ、4月に処刑されました。

士族達の反政府意識は、秩禄処分や廃刀令による、経済的・精神的な不満も加わって、日が経つにつれて増していきました。明治9年10月には、「神風連の乱」(熊本)・「秋月の乱」(福岡)・「萩の乱」(山口)と、西日本で不平士族を中心とした反乱が頻発しました。いずれも短期間で鎮圧され、顕義が平定に直接かかわることはありませんでしたが、その火種はくすぶり続けていました。

西郷立つ

明治10(1877)年2月、西郷隆盛陸軍大将は、薩摩私学校党を主力とする1万3,000の兵を率いて鹿児島を進発し、鎮台が置かれている熊本城を包囲しました。私学校は、鹿児島城内の本校(銃隊学校・砲隊学校)を中核に県内各郷に分校が置かれ、主に軍事と漢学の教育を行った訓育の場でしたが、士族たちの結社的な性格も併せ持っていました。

熊本城攻略の激戦を詠んだ山田顕義の漢詩

熊本城攻略の激戦を詠んだ山田顕義の漢詩

これに対して、政府は「賊徒征討の詔」を公布、有栖川宮熾仁親王を鹿児島逆徒征討総督に、陸軍卿山県有朋陸軍中将・海軍大輔川村純義海軍中将を参軍に任じ、第1・第2旅団を派遣しました。当時、陸軍を離れ司法大輔であった顕義は、明治天皇に従って京にいました。

熊本城の攻防は続き、政府は第3旅団を増派、警視庁警官隊を含めた別働旅団も次々に編成されました。3月4日、博多方面から南進してきた約1万の政府軍主力は、田原坂一帯に陣地を築く約7,000人の西郷軍を攻撃しました。西郷軍の抵抗は激しく、戦闘は17日間に及び、政府軍は3,000人以上もの死傷者を出して、ようやく田原坂を陥落することが出来ました。

最後の戦場

この間に、顕義は長崎出張を命じられ、神戸を出港するに際して、名古屋鎮台兵を主力とした別働第2旅団司令長官となりました。顕義は、参軍となった黒田清隆陸軍中将指揮の下、増援部隊を率いて得意の「衝背(しょうはい)作戦」を実施。長崎を経て19日に八代に上陸し、熊本城へ進撃しました。4月14日、山田麾下の山川浩陸軍歩兵中佐率いる一隊が城内に突入、翌15日には、顕義も黒田参軍と共に入城しました。18日、黒田参軍が病気との理由で、顕義は、別働第1~第4旅団の総指揮官を命じられました。

西南戦争時の官軍司令長官等集合写真(左から4人目が山田顕義 別働旅団司令長官)

西南戦争時の官軍司令長官等集合写真(左から4人目が山田顕義 別働旅団司令長官)

西郷軍は4月末には人吉に撤退して、体制を立て直そうとしました。しかし顕義はその間を与えず、5月末から総攻撃を実施し、6月1日には人吉を占領しました。その後、西郷軍は宮崎から鹿児島へと敗走、顕義もこれを追って転戦しましたが、西郷は9月24日に城山で自刃し、最大の士族反乱「西南戦争」は終結しました。翌11年11月、顕義は陸軍中将に任ぜられました。

佐土原落城之図(錦絵)明治10年(1877)7月31日、三好・山田両少将率いる旅団は、佐土原(宮崎北方)の薩摩軍を陥れ、宮崎を攻略

佐土原落城之図(錦絵)
明治10年(1877)7月31日、三好・山田両少将率いる旅団は、佐土原(宮崎北方)の薩摩軍を陥れ、宮崎を攻略

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