talk & interview: 仙元誠三

仙元誠三 ( Seizo SENGEN )
日本映画界を代表する撮影監督。独自の感性による撮影スタイルを貫き、独特なカメラワークと色使いでの映像作りや、多様で豊富な経験を持ち合わせ、現在、様々な監督・製作者から絶大な信頼を得ている。

message 2 : 皆でつくる映画

仙元氏からのメッセージムービーを見る | 公開終了 |

message 1 : TVと映画

仙元氏からのメッセージムービーを見る | 公開終了 |

 

TERA(以下T):まず最初に、映画に目覚めた辺りの話をしていただけますか?

仙元(以下S):生年月日は昭和13年7月23日トラ年生まれで、この7月で65才ですね。京都で生まれ育って、小学校の頃から、1週間に1回日曜日におやじと鞍馬山に参るというのが日課だったんですよ。今だに足腰が丈夫っていうのも鞍馬山の石段をどんどん昇った行き帰りが役に立ってるんですよ。それで鞍馬山のお参りをした後、京極に映画館がありますけど、おやじにパンと牛乳を買ってもらって。その頃、パンと牛乳ってのは珍しいものだったから、それが楽しみで付いてったって感じですね。

T:小学校の時ですか?

S:そうですね。その頃、観たのが、嵐寛十郎さんの「鞍馬天狗」、田端義男さんの「歌謡かえり舟」とか。あと中学になって、ジョニーワイズミューラーの「ターザン」。これは毎回かわるごとに。草鞋を履いて、京極へ行ったんですよ。近所が百姓の家が多かったんで、おじいさんおばあさんにつくってもらって、小学校の頃は僕はすぐ傍だから、草鞋で通ってたから。上履きが草鞋なんですよ。今みたいな靴じゃなくて。そういうのを足元にしてたことも丈夫な証拠なんだよね。

T:中学高校の頃はどんな感じだったのですか?

S:その頃になると親父に付いて行くのが恥ずかしいという気になったんで、映画は洋画をみるようになったんだよね。中学になった頃から難しいなと思うような映画をわかったようなふりして観てたかな。

T:ずっと京都ですか?

S:そうですよ、高校も京都。そして松竹に入ったのが、昭和33年8月1日。

T:ちょうど20才の時ですね。

S:そうですね。でこの間に同志社を受けて。実際には滑ってんですよ。で、裏で。裏入学ってその頃は普通で、なぜか文学部を受けたのに経済学部の難しい方で入って。学費を払う為に、親父から費用はもらって学校行かないで、毎日毎日マージャンして、夜は酒のつきあいして。

T:それは大学1年の時ですか?

S:そうですね。2年になる頃に学校から「名前だけあって学費は払わない、一回も出席してない」と。半年ぐらい目にそういう話がきて「はい、行きます」って言って、また行かなくて1年後に退学処分。

T:実は僕も似たような感じで。

S:でも学校へは行ってたんでしょ。

T:いや半分も。

S:それはこの世界に興味があって入ろうとしてだろうけど。俺はそんなの全然ない。だから一時は「どこ出ました?」って聞かれたら放蕩大学っていって冗談いってたんだけど。でも今は「せっかくチャンスがあったのに」と。まあ後悔先にたたずって諺があるけど「しまったな」と思う事はあるね。

T:じゃあその頃はマージャンやったり色々と。

S:そう。だから遊びはどんどん覚えたね。だからそういう思い出のほうが多いですよね。

T:それで大学2年にあたる年に映画の方へ?

S:その頃、竹野治夫さんって松竹のカメラマンで五所平之助さんなんかと撮った人が近所にいたんですよ。「ぶらぶら遊んでないで、映画好きなんだから映画会社来るか?」っていうんで、松竹の撮影所行ったの。京都太秦のね。正式に面接に行ったのは8月の真夏の時で、何か空っ風吹いてる冬の寒さみたいなのを撮影所入って感じたのが、印象に残ってる。というのはね、当時『君の名は』が放送されててね、お風呂屋さんが3時になったら客足がピタっと。その時間だけは来ないっていうのがあって。その『君の名は』も終わって、松竹も少しずつダメになっていく初期だったな。もう入った頃は本当にダメな状態だったのが印象に残っているんだけども。

T:松竹に入られた時の部所は制作部とかですか?

S:いやいや撮影部で。その頃は試験じゃなく撮影所で「撮影部募集」ってのがあったんだけど、まあ百人位来てたの。何か訳のわからん知らない人たちが。右によけられたのが、自分とラグビー部と柔道部。「何でですか?」って聞いたら「お前ら体が丈夫だろ。徹夜が多いから体の丈夫な奴選んだ。どうせ仕事はわからんからな」って言われて。「ま、こんな撮影所だから潰れるわな」って思ってたの。でもやり出したら見た目より面白い。現場の裏ってのは、かっこよさって何にもないからね。でもそれは気にならないし「ああ俺には合ってるわ」って思ってね。当時の現場は大型クレーンが多かったの。時代劇でオープンで。「ああ、あれに乗りたい」って。俺は下でスイッチ入れてコード動かしてるだけやからね、どんな場所でも。「ここであの上に乗れるまで」と思ったのが。ね。

T:その頃についてたカメラマンの方が何人かいらっしゃいますよね。

S:一番恵まれたのは、石本秀雄さんって人が、京都では大曾根辰夫さんていう松竹では時代劇の大御所とコンビを組んでるキャメラマンだったの。で、何となくその人が入る時に必ずつけてくれて、そのうち大曾根さんも一番下の俺を覚えてくれて、撮影も「あのヤンチャ坊主つけよう」ってことで殆どついてたかな。それで大失敗したのがね。その大曾根さんと石本さんの『大江戸の鐘』っていうのかな?田村高広さんと嵯峨三智子さんが、炎の中から出てくるの。「ああこんなセットを燃やすんだ」って思ってて、自分フィルムチェンジしたのを全然気がつかなくて、終わってからキャメラマンから「おい!フィルム大丈夫だな」って言われて、フィルム見たらカラカラカラって回ってて。「あたた」って思って。いつチェンジしたかわかんないのよ。そしたら現像場から「おいフィルムがないぞ、炎上のシーンがない」て、これ俺しかないもんね。いや今だったら、もっとたいそうだけど。あの頃大曾根さんがなぜか直接いったのよ。チーフセカンドサードといるけども皆、怖がって。「どうしてくれんだ」言うんだけども、どうしようもないもんね。ないんだもん。で大曾根さんに「あのすいません、実は僕の不注意で大変なシーン、フィルムなくなってました」って言ったら「お前か、しょうがないな」って言ってくれたのね。悪運強いのね、その頃から。それで「もう一回撮ります」って大曾根さんが言えば再度セット組めて、再びそのシーン撮った。これはもう一番大きな失敗だと。「これは注意しなきゃいけない、撮影の細かい仕事をもっと責任を感じなきゃいけないな」っていうのは感じたね。でも又、その後、忍者映画でね。フィルムの千巻を使うでしょ。途中で気づいたらデコボコになってたの。リバースしたりしたら、ボーンと抜けちゃったの。いじってたら暗室の中で、ぐちゃぐちゃになって「あたー、こりゃあもう俺はここで死ぬしかない」って。本当にね。「ライターで火つけて一緒に死んでやろう」って。で考えてたら、先輩の坂本典隆さんが「仙元!何してんだ!」っていうから「フィルムが山の様になってメチャメチャですわ。今死のうかと思ってた」っていったら「ばかいえ」って。で着てる洋服やなんかを全部かぶせる訳。暗室が20度位になってるから「まず暗室の電気消せ!で次あけてそれを閉めてもう一回表あけろ」っていうから「どうすんのかな?」って思って横に居たら「カサ!カサ!パチ!パチ!」って切ってる。フィルムのひとコマを切っちゃうと、ひとコマだけがダメになるけれども、それ以外は後でつなげば全部つながるんだよね。そういう事が全然わかんなかったから「ははあ、なるほど」と思って。またひとつ典隆さんに教わった。そういう経験がずっと続いて、キャメラマンをやりだした頃に、石原プロに応援に行ったんですよ。トンネル掘るやつ。

T:あの『黒部の太陽』ですか?

S:そう『黒部の太陽』。あの時に皆ちょっと大袈裟になりすぎて、キャメラがどんどん水に浸かったりしたの。つかったまま現像へ持ってって助かったっていうのがあるの。その時みんな慌てて水から出して抜こうとしたんだけど「やめろ」って言われて。それはパーフォレーションがドロドロになってるから浸かったままだと、そのまま現像液つけられるっていう。失敗の上の経験が、その時は逆に撮ってた大半が助かった。

T:そういう助手時代を経て、1969年に撮影カメラマンデビューの『新宿泥棒日記』ですね。

S:そうだね。助手時分に『無理心中 日本の夏』で大島さんが京都で吉岡康弘さんというスチールカメラマンで撮った時に、吉岡さんがミッチェルを扱ったことないんで、僕は松竹で扱っていたんで助手について東京に来て、大島さんなんかと仕事をする様になった。

T:ATG映画ですね。

S:そうですね。『絞首刑』も応援に来てくれた松下さんが僕の先輩で、その人を下につける訳にはいかないから松下さんを上にして、俺が全部フィルムなんかやってた。その時のエピソードなんだけど。撮影後半になってね。フィルムを長回しするから端尺がどんどん増えて、大島さんに「これ全部つなげればまた別に長回し出来るんだけど」って冗談でいったら「よしわかった!これから後半はカットを細かくいくぞ」っていうんで。どんどん細かくなって。普通500、600っていったら普通の映画、結構多いんだよね。それを「1000カットで終わろう」って冗談で。で、ほんとにちょうど1000カットで終わったんだもん。

T:続けての『帰って来たヨッパライ』が同じ創造社ですね。『絞首刑』が68年2月。『帰って来たヨッパライ』が3月ですから、ほぼ一緒の時期。

S:あの頃、ATGやなんかで大島さんが松竹を辞めて、フリーでやりだしてATGの仕事が多かったのかな?

T:『新宿泥棒日記』を撮る経緯は、その流れですか?

S:そうですね。当時、大島さんがどんどんATG関係でやってたから『新宿泥棒日記』で始めて「お前も一回まわせ」って言うんで。というのは半分ドキュメンタリーの映画だったから「ただキャメラもって走れ」って、走んのは得意だから。逃げんのも得意だし。だってあの唐さんの一派を東口から伊勢丹松坂屋通って、もう一回戻って来るのを1カット撮った時は、あの頃サイレントALIで1本じゃ間に合わない状態なんだけど出来るだけ走って間に合わそうって、キャメラ前と後ろでぶらさげて、バッテリーを襷がけにして、よく走ったなと思うけど、信号が赤でストップすると止まっちゃうから、その間にデパートの中を思いきり走って、信号が青になったらまた走って、またストップをしないと。唐さんらは「いやあこのカメラマン荷物持って、よう付いて来よったわ」って。だから俺は映像を撮るよりも何よりも、ただキャメラを前と後ろにつけて、ただ走ったという記憶しかない。最終的に撮影後半「10・29/新宿争乱の事件」があって捕まったんですよ。深夜の1時頃にずーっと観てたんだよね。警備がね。報道関係は腕章があるけど俺なんかはフリーだから「あの2、3人はどうも他と違う」という事でつけられたんだよ。その時応援してくれたのが松下さんと杉村とで。キャメラつけて自分が中心になって、交番に石が飛ぶのとか、時計の針がパンと止まったのも、全部撮って。ダーっとトラックバックしたら、後ろからだんだんと機動隊が来て何かすごい興奮してたね。恐いというのは全然なかった。キャメラもって後ろ下がるでしょ。後ろから彼等の安全靴みたいな革靴の音、それがどんどん大きくなって来て絵の中に入ってきて、遠ざかって行くの。もの凄い。あんな絵はなかなか作れない。自分だけそういう感動とか興奮を覚えた『新宿泥棒日記』。その頃に、若松孝ニさんや評論家の松田政男さんとかが全部上に。捕まって淀橋警察から出て、早朝の夜明けがピンク色に染まってて、そこでみんな待っててくれたの。で大島さんが出て来て「ごくろうさん!」って言ってくれた時にね、何かものすごい大役を果たしたみたいなね。だから映画そのものよりそういう事に何かもの凄い優越感を感じたっていうのあるね。まあ自分だけのマスタベーションで他の人は何ていう事はないんだけど。映画作りの興奮する術が、自分の中で一つ違う形で面白いんだっていうのが体に。それが忘れられないから未だに皆で何か一つのものを作ろうって。本来キャメラマンってのは、もっと「技術的な事」とか、映画で「どうしてこんな撮影をしたのか」っていう話が多いんだけども、自分の場合は喧嘩の中で撮ってたっていう「スポーツ」というつもりで話をするんだけど。「ほとんどお前の場合は半分喧嘩じゃねえか」という人もいるけど、正解かな?

T:続いても大島監督、1969年の『少年』ですよね。

S:『少年』は吉岡康弘さんが撮影監督で、タイトルは出てるんだけど、キャメラマンとして映像設計とか何も出来なかった。ただ「少年の目線でキャメラを観て行こう」という事だけ決めて後は何もわかんなかった。ただひたすら一生懸命。どっちかというと絵を作るより、被写体の芝居をルーペ覗いて見てんのが楽しい。光がどうだとか、フレームの映像がかっこいいとか綺麗だとかいう事よりも、その中で芝居をしてるのを見てるのは本番になると俺だけなんだよね。周囲の人は色んなものを見ながら。でもこの限られたフレームの中で覗いてんのは俺だけ。『少年』はそういう優越感に毎日浸ってたっていう感じ。

T:『少年』は割とロードムービーでしたね。

S:そうそう当り屋の話やから。大島さん以下、渡辺文雄さん、戸浦六宏さん、佐藤慶さん、小山明子さんらが中心になって、脚本が田村孟さん、小笠原清とか演出部で、照明がなくて撮影監督システムで吉岡さんが明かりを作ったんですよ。その頃、バッテリーライトをハイエース満載にして運んでたの。それを助監督の佐藤静夫ちゃんが前日に運んで、我々は衣装から何から皆で持って汽車で次のロケ現場へ。四国の高知で向こうの町のヤクザ屋さんの人達に喧嘩ふっかけられて。それも武勇伝があるんだけど。助監督の小関が酒飲むと我が物顔で町を歩く。だんだん気になって来たんだろうね「あの映画家の野郎」って。で追っかけられて来て宿の前で「助けてくれー」って声が聞こえたんで飛び出した。そしたら、ブアーってまともに来たから、それをつかまえてブアーってやった。宿の玄関前で。その時に吉岡康弘さんも出て来たけども戸田重昌さんや大島さんなんかは「うーんなかなかやるねえ」って見てたの。隣に警察学校があって警察の人もそれを見てたらしいの。で正当防衛って事で終わって。四国のヤクザ屋さんには次の日に御挨拶に行って。だから仕事以外にやっちゃいけない事が多いんですよ。でも『少年』はこの間観たんだけど、自分らしくない落ち着いたフィックスの絵が多くて綺麗だった。だからもう一回初心に戻って35ミリで映画を撮りたいなっていうのが深まったよね。

T:次は1971年の『書を捨てよ町へ出よう』ですね。

S:寺山修司さん。これは自分がメインじゃなくて鋤田正義さんっていう写真家がNYで寺山さんに会って、「映画をまともに撮ってみないか」っていうところから始まったらしいの。「映画屋さんでこんなのがいるからそいつを就けよう」というのが俺だったらしい。で就いたんだけど、やっぱり自分でキャメラ持たないと。特にその頃まだ若いし、じっと見ててね。何か撮影監督って名前つけられても合わないなと思って。で何か俺もキャメラ持たしてくれよって。ラグビーのシーンで、ラグビーのボールを投げてキャッチするシーンをやり出したら、自分が想像してたよりも上手くは行かなかった。今だとCGで簡単に上手く行くんだけど、その頃はあまりに早くて何かわかんない。後で思ったの「このハイスピードを今で言うCGでちょっとコマを延ばして止めたら、ちょっとは効果的な絵が撮れたんだろうな」と。後悔先にたたずで、今になって思いますよ。
今の人がする計算高い実験よりも、俺はスポーツの感覚から物事すべて始まってるんですよ。なんか挑戦するものは計算されたもんじゃない。ただ感覚的に感性が動物的に一瞬、わっと襲おうかふっと逃げようかとかその瞬間の思いを結構大切にしてるから。だから1から10までコンピュータで計算して、こうしてこうなるんだとか、そういうのが出来ない。だから「あ、こういうの面白い」っとふっと思った瞬間にパッと利用しようとかね。その現場の状況で晴天でも雨でも、数分くれるとパッと切り替えられる。それは本当に計算された優秀なカメラマンと違って、俺は動物的に切り替えられる。と自分では自信を持って、ひたすら自己満足して。

T:よくわかります。

S:わかるでしょ?あの、僕と仕事をした人は「あ、そんな奴だ。あいつはえらい奴じゃなくて、訳のわからん奴だ」と。いい意味でも悪い意味でもとられるけど。それはしょうがないよね。

T:助手さんは大変だけど周りのスタッフは楽しいですよね。

S:助手さんにね、石原プロなんかでテレビやった頃に「仙元さんのは手持ちやられたら、フォーカスなんか送ってられないから放りっぱなしにしてるんだ」って。「一回テストで「ああこういくんだなあ」思って本番になったら全然動き違うんだ」と。同じ決まりを何回もやってる事が、もう駄目なんだよね。

T:1972年の『空、みたか?』に行きましょうか?これは独立系?

S:『空、みたか?』は、田辺泰志さん。あの人は京大で倉敷出身で、トンカツ屋さん家族でやってて、映画が好きで、ATGには脚本で何本か書いてるんだよね。それが監督でもありプロデューサーでもある。最近あってないけど彼も手紙くれたりシナリオを何冊もきてる。これは結局、田辺本人が知人親戚関係で、金を500万くらい集めて、モノクロでキャメラなんかも機材屋に安く借りて、俳優さんも、吉田日出子さん位かな有名なのは。あとは新人とか。吉沢くんていうのは舞台俳優さんで、回りの人は学生さん。堀越君てのは今どっかの会社の重役をやってるらしんだけど。

T:次が音楽映画ですね。1974年の『キャロル』の話を聞かせて下さい。

S:龍村仁さん。当時NHKの音楽関係のスポットをやってたらしくて編集室に呼ばれたの。そこで会ったの初めてだったの。「何で俺呼ばれたの?」って聞いたら「実は今まで何人か会ってて、その内の一人です」っていうから「あっそう、それじゃあもう帰ります!」って言ったら「ちょ、ちょっと待って下さい!」って。龍村さんは「いや僕は、映画を作るのに、どの人がどんな風に乗ってくれるのかが解らないので、何人かピックアップして仙元さんが僕の中に浮かんだんで、お呼びしたんです」って、試験みたいにしてね「まあ冗談じゃないよ」って思って。でも結局最後まで話し聞かされて。強引に自分が帰るって言って、つっぱねたのが良かったか何か知らんけど、俺になったんですよ。でもまあ付合ってみると、龍村さんもなかなか骨のある人物で、あの頃評論家に小野耕世ってアメリカのマンガがすごい好きな人が居て、そんな人と一緒に仕事をして。エピソードがあるんだけど。日比谷でコンサートがあって、キャロルも出たんですよ。「キャロルだけは舞台にキャメラが出てもいい」って話がついてたんですよ。で僕は舞台に出て好きにやってたらパーっと首つかまれて「そんな事したらだめだ」って言ったのが内田裕也さん。パっと振り向いたら「あれこの人見たことあるな」って思ったのが裕也さんと会ったきっかけ。その時「うっせえなー」ってやったのもあの人も覚えてると思うけども。後で思ったんだけど裕也さんてのは顔が広くて有名人なのにカメラマンが抵抗したのはいけなかったのかな?なんて。舞台裏に沢田研二さんとかいたしね。「でもまあいいや、撮るだけ撮ろう」と思って。その後に裕也さんとは『ヨコハマBJブルース』をね。まあ色々ね、悪い印象ばかりでつながってる。

T:それから、東映セントラルフィルムの流れになりますね。

S:これは黒澤満さん。俺は未だにこの人1本でお世話になって。黒澤さんは迷惑してんだけど。他に営業して仕事下さいっていうのは全然出来ない人だから俺は。黒澤さんに「お前いい加減に他いけよ」って言われんだけど、でもしょうがないですよね。

T:そもそも黒澤満さんとの出会いはどこだったのですか?

S:あの人は日活の所長やってたんですよ。ピンクで裁判ざたなんかになったり色々あった当時で石原プロで、僕は仕事をしてたの。『大都会PART2』かな。

T:TVのですか?

S:そう、TV。それも『大都会PART1』では「俺はテレビは絶対やらない」って頑固に言い張ってたら、『大都会PART2』で村川透さんに会ったの。で「『大都会PART2』が始まるんで、タイトルバックだけでも一緒にやらないか」って言う話で、ただ言い張ってるよりやったほうが面白いって思ってやったら、村川さんってのが、せっかちで有名だけど映画をつくる才能を持ってる人だし付合って。村川さんとも合うように。だから『大都会PART2』は、殆ど半分やったもんね。そうね。で、松田優作さんというあの個性のある俳優さんと知り合ったんですよ。で、あの優作さんが俺を今まで何となく、どっかでズーっとくずれそうになるのを助けてくれた。で亡くなってからも本人が「お前ダメだろ!」っていう気合いを入れてくれてるっていうのがね。まあ生きて話ができないのは残念だけど、もう必ず優作とは毎日朝は本人に、寝る時にも本人と話して寝るっていう。自分で勝手にストーリーをつくって。それは誰がどうするっていうんじゃなくて自分で勝手に作ってんだけども。こういう人が今生きてたら俺とどういう関係かな?って思うとね。俳優さんてのはどんどん大きくなってくし、こっちはどんどん歳いくだけで。たててはくれるけど、ほんとに役に立つかどうかは。やっぱ若い方が伸びるってのが本音だと思うんで。仕事してて寂しい思いするより今居ないから、いつまでもこんな気分で付き合えるってのがあるんだよね。あの石原プロの裕次郎さんなんかもそうだよね。やっぱり大きな人だけども、スタッフやなんかにものすごい親しみがある。

T:『大都会PART2』で村川さんや黒澤さんに出逢ったと。

S:『大都会PART2』をやって最後に九州行ったんですよ。その時に黒澤さんってのは名前は聞いてたけども、直接会ってないし知らなかったの。そしたら石原プロの小林専務がね「おいお前ら黒澤さんが来て今度映画作る」ってんで「ギャラやなんか俺にまかしてくれるか」っていうから「いいよ」っていう返事をしてたら、5分ほどしてパッと部屋に入って来て「おい、お前ら自分らで交渉しろ!金全然ないで。お前ら文句いうだろうから自分でやれ!納得したらやればいいし、納得しなかったらやめればいい」っていう話で、自分は「これこれ」って言われた時に「へっ」て思ったけど「やります!」って。映画はやりたかったから。それで始まったの。黒澤さんも日活を辞めて。岡田茂さんが「セントラル」っていう東映系の小さい会社を作って、黒澤さんの代表で。そこで初めて、村川さん、優作さん、丸山さん、今村さん。渡辺さん。プロデューサーの青木勝彦さん。しばらく、そのメンバーで、セントラルで『遊戯シリーズ』を。

T:東映セントラルフィルムの、1回目の作品が『遊戯シリーズ』の『最も危険な遊戯』に?

S:そうですね。あと、そうだ。『遊戯シリーズ』のフィルム観ればわかるけど真っ青なんですよ。デイシーンもナイトシーンも。ほとんどそれで。1本映画をやるのに俺は、先輩に勝てない。でも何か話題にする為に、全部ノーフィルターでやったの。

T:ああー。それでブルーなんですね。

S:それで、それ以前に美術に感心があった訳じゃないんだけど、京都の美術館にそんなキザなことは何て思いながら、絵を観に行ったことがきっかけで。その時に有名な青い自画像を描く人の絵をみた時に「ああこんな青い自画像でも見られるんだ」って印象がずっとあったの。そいで『最も危険な遊戯』で普通はフィルターを85番いれたり、そんな面倒くさい事は一切やめて取りあえずフィルム1本でどんな色になろうと取りあえず。で、デイシーンも、普通は85番で加減するでしょ。でも一切やめて暗部はもう真っ青になりますよ。で光りの当ってる場所もその青みが薄くなるだけで全体には青。でそれで行きますって言ったら村川さんが「いいよ!」って言って。プロデューサーの黒澤さんも「お前の好きなようにやれ」って言って始めてのラッシュ見たら「おい!こんなんなのか!?」って皆が異口同音。で「いいよ!って言ったじゃないですか」って。「今さら俺、もう他の事は考えられません」って押し通したの。ラボで「デイシーンがものすごく青いから、ちょっと直しました」ってって言われて「そりゃだめだよ」って。だからそれもさっきいったように他のキャメラマンが、計算して狙いでこうだって、そんなもん関係ないもん。ただそんな雰囲気がどっか印象に残ってて「ようしやってみよう」と。それが俺に与えられたチャンスだと思ったから。でもね、それはブルーでやったとかなんかよりも、作品が低予算で表向きにはなかなか出せない作品だったのに客が入ったんですよ。それで、だんだん優作との『遊戯シリーズ』の予算が少しずつ、少しずつだけどね。

T:1979年の『白昼の死角』は角川ですが、このお話を。

S:『白昼の死角』は、石原プロでTVをやってた頃で、経緯は村川さんが東映行くんで「お前行こう」って。そこで小林専務に「俺、映画やりたいんで」って言ったら「そうか、うちのTVの仕事はやらないのか」って言われて「やる気はあるけれど、映画が自分には魅力的なんで映画やらせてくれ」って。その後のテレビの仕事を先々まで組まれていたのを断って『白昼の死角』をやった。東映行って最初に感じたのは、その頃まだ組合が強くて外から来るスタッフも邪魔されたりして、いじめられたっていうかな。村川さんと俺と、照明はナベさんが組合がうるさいから勘弁してくれって言って、山口さんって東映の照明技師とやったんだな。だから撮影部は松竹の杉村ってチーフ助手が一緒に。東映のスタッフとやったのが初めての冒険と言うか。うん。『白昼の死角』でね。セットでクレーンワンカットというカットで、どうしても柱が邪魔だったから「この柱をバラしてくれ」って言ったら、えらい問題になってね。「東映は柱を切るとか、バラすとかは、絶対やらない」とか言い出して「それを避けてクレーンで撮ればいいだろう」って、そりゃ、常識で考えて、「ここに柱があって、ここに(カメラが)来たら壁があるでしょ。その壁のうちから撮影しているようにように撮るんだから柱が邪魔なんだ!」って。それで午前中の撮影が中止になって会議。美術、制作、それとプロデューサーなんかが集まって切るか切らないかって。「へぇーっ」て思ったのが東映行って第一印象だったね。でも切ってくれたけどね。午後からその撮影も終わって。『白昼の死角』では角川さんと知り合うきっかけになりましたね。

T:それで次の『蘇える金狼』ですよね。


S:この頃はずっと村川さんが続いてたね。村川さんとは途中で一回喧嘩したりもしたけど、あの人に色んな事を教わったんだね。あの人が自由にワンカットでっていうのをやらせてくれたから。殆どその頃手持ちだったけども。それと優作がよく動いたね。 あの人はすごい感がいいし俺と違って人間的に鋭く勉強する、動きとか体は野生の動物みたい。「獲物を狙う腹をすかした野生の動物」みたいだった。手持ちでワンカットのあの猿島(『野獣死すべし』)なんかでもトンネルの中は二人だけだからね。優作が前に居て後ろにキャメラ、助手さんも後ろからしか来られないんだけど、それをちゃんと間を持ったりキャメラが来たなって思ったら、足音だけで判断して走り出したりね。そういうのが凄かったね。あの頃の『遊戯シリーズ』辺りっていうのは、脚本も丸山昇ちゃんが書いてて面白かったし、他のスタッフが協力してくれたのもあるけど、やっぱり『俳優 松田優作』。これが映画そのものを盛り立てて、自分で成功させたんじゃないかな。

T:そのシリーズがあって、1981年の『ヨコハマBJブルース』ですよね。

S:この『ヨコハマBJブルース』が、俺のまた一段変わるとこなんですよ。そこで村川さんとちょっとあった訳ですよ。工藤(栄一)さんっていうのはそれまで名前だけで面識もなかった。東映の人だから。それも松田優作さんが一回工藤さんとやりたいっていうのを、黒澤さんと話してたらしくて、この『ヨコハマBJブルース』を工藤さんでって。松竹の映画だったから、なかなか打合せに来れなくて、やっと来た時にメインスタッフが集まって色々と今度やるという話をしている時に俺がせっついたのよ。あの人も『光の芸術家』ってう監督だから俺、自分でちょっとびびってたの。楽しみにしてたのと半分「付いていけるかな?」って。それで「監督、何か用意する事があったら今のうちにどんどん言って下さい」って言ったら「まあまあ、待てや」って、打合せも大体何となくで終わったの。終わった後に工藤さんが「これから新宿にでも行って呑もう」って言われて、ははぁ、こんな話でええのかなぁって思って、呑みに行った場所で「おい!おっさん、慌てんな!俺まだホン読んでへんねん!」

T:(笑)

S:これが面白かったな。「松竹で仕事せい!って。来い来い来い!って呼ばれて。ホンも読んでへんのに返事でけへんがな」って。

T:へぇー(笑)

S:「とりあえず酒の呑んで、皆でチームワークを固めて、それからぼちぼち話し合おう。慌てる事ない」って。それ聞いて余計ね「ははあ、こんなおっさんだ」って思ってね。歯が欠けてて直しもしないでガタガタでね、酒呑むと全然話がわかんないの。ワゥワゥ言って。俺ね、調子よく聞いてるような振りをして、「はははっ」て笑ったんですよ。そしたら急に「俺は今な、笑うような話してないんだ!」ってはっきり言われて「えっ!」っていう事もあった(笑)。でも色んな好きな人、勉強させてくれた人、いるけども全体的に好きなのはやっぱり工藤さんだよね。なんか親父にみたいで。怒る時もガンっと怒るけれど優しいし。みんなで仕事するんですよ。スタッフの端々まで使ってね。セットで天井をちょっとはずす時とか「おい、棒もってこい!」「またぎを作れ!」って、そこから始まるからみんな楽しいんですよ。これから障子に火をつけて燃やすっていうシーンでも、自分が全部一回「こういう風にやるんだ」ってやって見せてね。それをスタッフがみんな見てる。誰かが手を出すと「待て!」と。

T:1981年の『セーラー服と機関銃』いきましょうか。


S:角川さんで相米慎二さんね。こりゃね楽しかったよ。工藤さんと違う相米さんの演出を見たね。彼はこの『セーラー服と機関銃』終わって、俺が相米の何を考えてるか解からん事を解からんままに過ぎりゃあ良かったんだけど、解かろうとして悩んだ事をちゃんと見てたね。キネ旬に「仙元さんごくろうさんでした、私のことを理解しよう理解しようと努力してくれたけども私も何も自分のこと理解してないから、大変疲れたろうと思います」ということを書いてくれて。すごい気にしてくれてたんだなあって。

T:それから、長回しを。

S:うんそうだね。俺も長回し好きだけども、あの男ほど長回しするやつはいない。村川さんの場合は、ただ長回しするったってサイレントアリで400マガで4分前後だったけど、相米は1000マガのシンクロだから大変ですよ。それ無理してんじゃなくて延々と芝居をつけて「カメラはただ撮ってくれればいいです」って言われるけど。そりゃ撮るのは撮れるけど。『セーラー服と機関銃』での面白い事では、ドアに拡大鏡が付いてますけど。ああいうのを利用して表に立っている役者と中へ入って来て、レンズの前にバスとかの車に付いてるバックミラーの拡大鏡をね。広角レンズは莫大な金がかかるけど、それなら2,3千円で買えるんですよ。色んなテストをしたら面白くいけたんで、部屋の中からドア外の役者を撮る時にその拡大鏡の一番寄ったやつで接写すると、中にレンズの空間が出来てね。ドアをあけて引いてくると、映像が正対して来るんです。普通のマスターレンズの性能で生きてくる。それを手持ちで、ばらばらとあちこちの部屋行って1カットで撮った。で相米が「うんうん」て自分ひとりで返事してんだけども、何にも他の人はわかんない。で「もう1回」って言うんだよ。何が「もう1回」なのかわかんない、皆。そしたらある日ひろ子が「私、一所懸命やってんですけど、何をも1回やるんですか!」って。「いや、もう1回だ」それだけ。これは相米が何か言うのを探りながらやってたんだけど。まあ俳優さんとしてもなんか違うなって思ってたんだろうね。打ち上げで、渡瀬さんが「俺に言わしてくれる?」っていうから何を言うのかと思ったら「俺こんな気狂いみたいな監督とカメラマンと仕事したの初めてだ」って。一番有名な最後の階段シーンでは本当に顔に破片が。ハイスピードで撮ってたんだけど全然気がつかなくて、ぱっと血が見えて。

T:あとラストの街中での長回しも面白かったですよね。

S:うんそうね。あれはねマンホールの中、扇風機をハイってタイミングで合図してずーっと。パラソルになったスカート。後で薬師丸ひろ子さんが泣いてしまったんだ。「こんなとこで恥をかかす」って。
新宿東映の屋上にキャメラ据えて延々と回した。何にも成立しないのにフィルム回して、「ちょっと待ってフィルムチェンジするから」ってその間しばらくウロウロ遊ばして。

後半へ

 



『蘇える金狼』村川組


『ラブストーリーを君に』鎌倉江ノ電脇にて
クレーン準備中


TV『探偵物語』伊良湖ロケ 記念スナップ


『Wの悲劇』澤井組


『野獣死すべし』村川組

 

<後半>

T:1982年の『野獣刑事』は、京都での撮影ですね。

S:いしだあゆみさんと緒方拳さんの。あの時に初めて京都に現代劇で行ったのが工藤さんなんだよね。呼ばれて行ったら京都は時代劇と。スタッフも結構シビアに各パート自分の担当以外はやらないっていうのを聞いてたから、東京でセントラルでやった工藤さんが「このスタッフは面白い」っていうんで呼んでくれたんだけど。その時にしばらくは京都の特に車輌の人と何か俺はもめたりなんかしたんだ。現場行ったら車で寝てるんですよ。こういう状況だから皆で仕事してくれって言うと「なんで俺は運転してるのに。俺が運転してる時、おまえら寝てるやないか」って。まあ理屈はそうだけど。その時に工藤さんが「まあ京都も京都で、そういう堅いガードを守ってるんだから、それを俺は崩すのが一つ。京都で現代劇を東京のスタッフで撮るのも一つ。そういう所で俺は戦ってるんだから、まあ我慢して一生懸命、映画を、いいモノを作ればいいんだから」と。そういう意味ではお父さんっていうのは、面白い遊びも教えてくれたし、映画作りの楽しみも教えてくれた。あの人が亡くなった告別式の日に、晴れの天気予報だったのに、突然読経が続いてる中、本堂の中にファーっと影が黒くなったんだよ。それ「ザー!っ」と夕立ちみたいな大粒の雨が降ったと思ったら、ピタッと止んで、一陣の風が吹いたらピ−ンと晴れて、その間、工藤のおっさんがやるようなね。その瞬時に、ほんの五分ぐらいの間にそんな状況やった。いずれどっかでそういう話が映画の中にあったらそういうのをやってやろうって思ってるんだけどなかなかないんですよ。ちょっと慌ててるのが、早い事そういう話を作ってくれるホン屋さんと監督さんが俺を使ってくれるといいけど。俺ももう先が短くなってきたし、このままじゃ出来ないままで終わっちゃうなっていうね。

T:次は角川映画、1982年の『汚れた英雄』は、角川監督デビュー作ですが。

S:『汚れた英雄』はね。俺ちょうどその頃京都で仕事してたのかな?プロデューサーの和田くんていうのが何回か訪ねて来てんですよ。それで「今度角川さんが映画撮るんですよ」って「ふーん」って。で「角川さんが監督?」って俺が言ったら、そのまま世間話して、一回東京帰ったんですよ。後で聞いたら和田君が角川さんに「仙元さんに断られました」っていうような返事を。和田君は何とか他の人に変えてと思ったのか「え?監督が角川さん?」って俺が言ったそのことだけを言ったの。で角川さんは「ふーんそう言ってたの。でも是非お願いしたいからもう一回行ってきて」って言われて今度は覚悟して「あのどうしても監督が仙ちゃんでって言ってるんでお願いします」って。俺は「監督が初めてで心配だけど俺で良かったらやりますよ」って話で受けたの。まあこれがね。それからずーっと続いたんだよね。

T:引き続き、1983年の『探偵物語』は?

S:これはね。ひろ子ちゃんと優作さんのノッポとチビのコンビ。普通あれだけの背丈の違いがあると撮りにくいんだけど、やっぱり優作さんってのはすごいね。横に並んで歩かないんですよ。ちょっと後ろを歩く。対角線があるからちょっと後ろに行くと少しバランスがとれる。それも、自分が探偵で雇われたっちゅうのを意識して真横に付かないで一歩引く。監督も俺も何にも言わないで優作が自分でやる。で「仙ちゃんこれくらいならちょうどいいだろう」って。もう何にも言いません。好きにやって下さいって。

T:そして超大作の『里見八犬伝』。深作監督ですね。

S:僕、後にも先にも深作さんとやったのはこれだけなんですよ。1年間?10ヶ月位かかりましたからね。準備と撮影で。2月に初めて京都行った時に雪が降っていて「こんな雪の日にまた帰んのかなあ」って言ってたら本当に12月東京に帰る日に雪が降っていた。深作さんは監督としてタフ。これほどタフな人はいない。ものすごく精力的で夜が強い。午前中は殆ど回んないね。準備、手直し、大直し、夕方になってやっとエンジンがかかってきて、夕食食ったあとに少しずつ撮影という状況に。夜中に入って「いつ、くたばるかな?」と思うけど全然くたばんない。朝まで。それで、朝終わってスタッフも少し休まなきゃなんないんで。午後からロケーション、セットだから。その午前中の休みの時間に「仙ちゃん!、マージャンやろう、マージャン、もったいないよこの時間」って。「いや、もったいないって。そりゃ監督はもったいないって言うけどね、僕らは寝ないともたないっすよ」って言うと「あ、そうか?」って。でもタフなだけ自分で色んなこと考えて。どの監督も凄いなと思うけど。よく若い人が監督に、スっとなるけども、まあ優秀な人と、回りで支えられてなる人といるわね。でも昔の人は馬鹿みたいに遊んでいて、酒飲んだり豪快な遊びしたりしているけど、繊細に寝られないくらい鍛練しているんだよね。僕はサクさんの映画を全部観てはいないんだけど、普段からあまり、初めてやる時に前もって先入観を抱かないように、慌てて作品を観るってのはしないんですよ。でも、サクさんは「あんたの映画、全部見た」って。「長回しが好きだっていうのわかってんだけど僕は細かいから」って、最初に言われた。でね、大型クレーンを大映から呼んで「よし今日はクレーンで長回しだな」って思ってると、スーっと降りてってクーっとパンしたら途中で急に「カーット!」って言われて俺、クレーンから落ちそうになったもんね。あまりにも短いんで。あと俺、結構、深作さんでも口答えしてたのよ。作り物の怪獣の特撮のシーンで「こんなおもちゃみたいな怪獣で恥ずかしい、こんなの撮れない」って。そういう時にはね、サクさんは聞こえてても聞こえない振りすんの。聞いてしまうと答えないといけないでしょ。説明しないといけない。でも取りあえず俺が「こんなの恥ずかしくて撮れない」っていってるのを聞こえてるのに「こんなんで、こうこうこんな風にね!仙ちゃん次はこうだ!」って次々に先進むのよね。だからもう「あーはいはい」ってことになってしまう。バイタリティというか。

T:そうですね。凄い。

S:あの時、セットで今村力さんが「血の池」を作った時に、京都は染色が多いから染め屋さんの赤い染め粉をほとんど買い占めて。「いい池ができた」って言ったけど「だめだ、まだ薄い」と。でも足しても足してもダメで「また1からやり直しだ」って。結局また1からやり直すためにその日は終わり。あと、洞窟の中を真っ赤な夕日が染まって船が入ってくるってセットを作ったの。「ああいい感じだ」と思ったら、ラッシュ観て「ダメだ!もう1回撮り直す!」って。もうその辺の粘りは凄い。自分が気に入らないと、制作部が「これ以上いったら日にちも金もかかって」っていうのが来るんだけども、しらーん顔して聞き流してね「俺どーしても気になって次いけへんねん、頼むわ〜」ってその口説き方がうまいの。

T:(笑)。次は1984年の『愛情物語』です。

S:この辺りで話は反れるかもしれないが。正直俺は今村さんの美術、ナベさんの照明、他のスタッフもそうだけど、そういう人達に支えられて、自分が好きなように撮って来れたんだと思いますね。「ただ感覚だけで、ものを観てただ撮ってる」そういう人間をちゃんと支えてくれて。だから映画って面白い。一人じゃない。それぞれの個性が強い人が集まってそれを監督がひとつにする。監督っちゅうのは本当に偉大な人だと思う。今、皆さんが仲間で「おーこんなんやろう」って結構仲良し気分があるだろうけど、あそこまでいくと皆が何か自分の中で勝負をしてる。で全部明かさない。美術は美術で物を作ってどうだ!っていう優越感を感じる、照明は照明で、明かりがついってって絵になったときにどうだ!っていう明かりをつくる、そういうとこに俳優さんが入って、監督が「こんな映画つくったよー」って各々の思いは違っても各々のいい意味での優越感が集まって一つになったのが映画だと思う。それは1枚の絵を書く人とそれは同じだと思う、絵書きさんが毎日毎日駅前の絵を書く、それの集結したのがコマの集まりだと思うンだね。

T:その通りですね。1984年『Wの悲劇』については?

S:澤井さんはこれで初めてかな。今までの監督とはちょっと雰囲気の違うインテリ派というか、映画/文学青年というか。そういう雰囲気で。で、慣れて来てだんだん話をするようになってわかったのが、同年なんですよ。同い歳でこんなに人間違うんだなぁって思ったのが澤井さんだったかな。あの人は人並みにどこへ出ても恥ずかしくない教養と知識を持ってたし、同期なのにこの人に負けたくないなという気持ちがね。他の年輩の監督とは持ち方が違ったけど。やっぱり俺は所詮はキャメラマンだったね。『Wの悲劇』の時に、初めてあの人が映像の色の問題をね。俺がブルーをその中でもどこかで作ってたんで、澤井さんが始めて「あなたはどの映画を観ても、キャメラマンは仙元だっていうのがちょっと出過ぎてる」と。「映画は俳優さんと監督がまず作る。その後ろからカバーしてくれないと。だからその青い調子はね」っていうのがあった。でもクレーンの調子は本当にうまいって誉めてくれた。澤井さんは舞台も演出してるから、若い青年少女たちを操るのはうまいね。で、遠慮しない。丁寧に、なよなよした事を言わない。女の子でも男の子でも命令的な感じで口を聞いてたね。ただ三田さんなんか年輩の大人の俳優さんには一応丁寧に、ひろ子以下、劇団の連中にはもう命令的に。澤井さんは子供とか若い俳優を使うのが本当にうまいね。

T:1985年の『早春物語』。澤井監督と原田知世さんで。

S:この頃から澤井さんでずっと続いてんだよね。人間って面白いもんで、ある程度1本やると義理もあるんだけども、何となく気が合うと続くもんだよね。人間また飽きっぽいのもある。これ以上やると惰性になるかなっと思うと監督はちょっと変えてみようかな?ってなる。キャメラマンってのは「俺はやだ」とかは二の次になるから言われりゃやる。「次はお前とはやらないよ」って言われりゃしょうがないなと思う。そこはあまり惰性になってもいけないし難しいとこだと思うけど。『早春物語』は、ロケ場所決めてた場所がダメになって結構変えたんだけど、いいほうにいいほうになって本当に短編小説の傑作作品というか。何か爽やかでカラーっとしたいい映画になったんじゃないすか。

T:続いて1986年の『キャバレー』。

S:これは角川さんの監督ですね。野村宏伸君で。これも想い出が多いなあ。函館。もうこの頃は角川さんとも何本かやって監督としても慣れて来たっちゅうのかな。角川さんはもともと映画好きで、プロデューサーとしては何本もやってる人だから。『汚れた英雄』の時は、レース場に自分で2段の椅子持って来て、準備している間に本読んでんの。で「今頃何してんだ?」ってな感じだったのが、『キャバレー』の頃には、もう自分でビシッと指揮をおとりになってたからね。

T:同じ年の1986年『ア・ホーマンス』、これは何かエピソードありますか?

S:松田優作監督ですね。実は始めは別の監督さんが撮ってたんだけども。数日のラッシュ観て「ダメだ」っていうのが優作さんから出てちょっと中断してね。結局優作氏がやるしかないだろうって。それで再会したんですよ。でもこれは好きな1本ですね。いろんな事を優作氏も挑戦したし。そう、ただ何回もキャメラの脇にいて、自分が出る番を忘れて「優作が被写体にならないと撮影にならないよ」とか言うてんのに「本番〜!」といって「お、そうか、もうやだな役者は」って言ってた事があったね。俺の好きなシーンが、石橋凌ちゃんが最後救急車で運ばれて手塚理美君がふーっと振り向く悲しそうな表情の寄りが、いまだ印象に残ってね。それと同時に救急車のピーボーピーポーというと音楽が。

T:ARBのね。

S:そう石橋凌ちゃんのね。あれがなんとも言えない印象でね。でも本当にまた違う映画の一段階変わった進み方をしたと思うね。

T:『ア・ホーマンス』の後って、澤井監督が続くんですよね。

S:そうですね。『めぞん一刻』『恋人たちの時刻』『ラブストーリーを君に』。その間に『この愛の物語』を舛田さんとやってるね。88年に始めてTV監督の生野さんで『いこかもどろか』さんまちゃんでやって、舞台の監督で鴻上さんと『ジュリエットゲーム』やって。だんだんそういう意味じゃ、既成の監督じゃない人が少しづつ増えてきた。それで『オルゴール』かな。

T:1989年は森田芳光監督と2本続けてですね。

S:まず森田芳光監督との『愛と平成の色男』。これのきっかけは優作さんなんですよ。森田芳光監督との『家族ゲーム』が話題になった頃に「仙ちゃん、森田監督はいい監督だぞ、1回やったらどうだ」って。でも「いや俺がやるっていうのは決められないんで機会があったらやりますよ」ってその時は。何かそういうのが裏であったのかな?結果、監督はどうだったかは知らないけどね。でも『キッチン』を続いてやってる。あの人、賭け事が意外に好きな人でしょ。このキッチンの時、北海道のロケハンの時に、僕も競馬競艇が好きだから、合間に競馬場にホイホイと付き合って嬉しくなっちゃって「こんな事付き合ってくれるキャメラマンはいない」って。ちょっとでも気にいられりゃあいいやと。でもね『キッチン』の時は「私が必ず賞を取らします」っていう自信家なのね。確かに始めてノミネートされたのが『キッチン』だもんね。俺は本当に自分でやせ我慢で「賞なんか」と思うけど、賞の対象になったらそれはそれで嬉しい。俺が死んで娘や孫が何か「このおやじ、こんなことしてたんだ」っていうはちょっと、最近残したいなっていうのはあるけど、作品が残っているだけでも十分だと思わないと。特に俺みたいに暴れんぼうで、ただひたすらキャメラを持ってたのが、今だに通じてるっていうのがね。ほんとに変わり者だと思う。いたって常識的だけどね。そういう意味じゃあ美術の今村さんは、美術で一つずつ本当に自分がこういう風にしたいっていうのが残っている人だよね。でもそれがやっぱり経費がかかるってんでプロデューサーやなんかに「優秀なんだけどちょっと敬遠しないと」っていう風に「映画界の悪い考え方の一つ」っていうかな。今、映画はデジタルの作業で何か誤魔化せるというか、それが「誤魔化し」というと反感買うんだけども。それこそ「お前が勉強しないでそんなこと言うな」っていうのが出て来るかもしれないけどね。

T:この後の流れでは、また色んな監督とのお仕事になっていくんですね。

S:意外に若い監督が一本とかそこらでもう懲りて、次の仕事が来ないんだけど(笑)。まあでも、この90年前後『ジュリエットゲーム』の鴻上さん辺りから畑の違うような人で若い映画を撮る人と続いてるんだよね。皆一本はやりたいっていうのだけれどね。「こんなうるさい、こっちの思うように言う事を聞かない様なキャメラマンとはコリゴリだと」と思う人が多いんじゃないかな?それと、慣れてくると「自分がもっと言いやすい若い人に」っていうのもね、まあ自然だと思うね。一本ずつ何かに役に立てりゃあね。俺はそういう役目でいいんだろうと。まあ自分で反省もしながら、慰めてもいるんだけど。

T:1989年の『ウォータームーン』は工藤監督ですね。

S:俺が、思うのは工藤さんと長渕さんが、何か一息接点が合えば、面白い映画が出来たのにと。どっちもそういう意味じゃガンコで、特に長渕さんっていうのはミュージシャンで名のある人で、うっかりすると自分が演出したい位の人だからどうも工藤さんとの何かが合わなかった。それがいまだに残念でしょうがない。

T:1991年の『福沢諭吉』は?澤井監督で。

S:『福沢諭吉』も澤井さんとね。そう。夜の学校の校庭での雨降りをワンカットで撮ったシーン。ラッシュを観てて「どうも気にくわない、気にいらない」っていうのがあって。リテークさせてもらいましょうと。澤井さんは「僕の演出の失敗で、もう一回やらして下さい」っていうような事は周りにいってたけれども。現場で澤井さんとは何か、ね。「この移動の雰囲気も、芝居の撮ってる感じもちょっと違う。何で違うのかな?」っていうのを、撮りながら感じていたから。その辺りがもう合わないんじゃないかな?と。これは「何が」っていう原因じゃなくて、撮影っていうのは仕事しててずっと気持ちよくても悪くても流れていくものだというのと、何かぎくしゃくと自分の中に残るそういうのを感じたりする事があったりするのね。

T:1993年の『リングリングリング』も工藤監督とですね。

S:はい。いやこれはね。自分で途中に鎖骨を折ったんですよ。秩父に全日の練習場があるの。そこへ九州のロケーションが終わって行って。セットに入る間に撮影する為の練習を長与千種さん達がやってて。リングの外で工藤さんやナベさんたちとアングルとか見てて、あれもこれもいいなと。いや自分でもやれそうだなーて。つい仕事を忘れて一回ポーンと受け身をやったら「あーいけるいける」って。それでロープに勢い良くやったら、パシャーンと鎖骨を。それで緊急の措置を長与さん達がしてくれて、その夜東京に戻って東映の大泉に着いたらすぐに知れ渡っていたの。(笑)「仙元がよけいな事でリングで鎖骨を折ったらしい」と。(笑)
で、ピンチヒッターの藤沢君は工藤さんと一本やってて、工藤さんが「いいよ」って。自分では「休んでいなさい」って言われたんだけど、それが淋しくって、現場に出てたんだけど、今度は自分が出来ないから、みんな藤沢君と話をするようになるんだけど、それがもう自分でもうだめなのね。「俺はもう蚊屋の外に」。自分がやった事で助けてもらっているんだけどそれが、理解出来ないで、もう淋しくってしようがないから、工藤さんに、「俺にも今まで通りちゃんと話をしてくれないとこんな淋しい思いでこの現場来てるのはいやだ」と文句言った事があるのよ。で、工藤さんってそんな気持ちも解る人だから、スタッフに「おい!淋しがってるで、ちゃんと声かけてやれよ」って、俺のいない所でやってたらしいんだよね。

T:1994年の『免許がない!』は?

S:これは、明石知幸君が頑張ってね。思いのほかお客さんが大勢観てくれたっていうのがよかったですね。
こういう映画にする企画とアイデアっていうの?森田芳光って人は、そういう所の頭がいいんだな。何か世の中の時代の流れをうまく映画化するのは。『免許がない!』は影で力になった森田芳光と明石君が一生懸命やったのを、現場で館クンや何か俳優さん達が協力してね。館ひろしが、あのスターが三枚目で出たのが一つ大きなヒットの要因だね。

T:1997年に、久しぶりに角川さんとの『時をかける少女』ですが?

S:これはね。角川さんとの誤解が『天と地と』の頃あって。俺が角川さんの仕事を避けているといった記事がある雑誌に名前入りで出たんですよ。でも久しぶりに東映で角川さんとバッタリ逢ったら「仙ちゃん何で?」っていうから「俺全然、そのような話した事がないし、そんな気分もないから」と。そしたら「あっそう!じゃあ次またやろう!」っていう。それで『時をかける少女』をね。以前角川さんの事務所でやってながら、角川さんがこれをもう一度やってみたいという事で、モノクロでやったんですよ。これ。初日のね、長野のロケのシーンで雪がその年になくて、それも今村さんが、そこの市役所からトラックをだしてもらって、雪山から雪を持って来て、お寺や道に撒いて、結構徹夜で「これ朝まで終わるかわからないなあ」と俺の計算で思ったんで「角川さん、とにかく夜だから、あんまり切り返しを順序でやっていると時間が食うんで、こっち向きはこっち向きで抜いて撮らせて下さい」と言って、角川さんも「はい!」っていったんでそのつもりで撮っていたら、途中で「仙ちゃん、今、何撮ってるの?」って言われて「あたたたた」と。撮影はどうにか朝までに終わったんだけど。でも久しぶりに角川さんと出来た事がね、良かった。この作品は決して悪い作品じゃなかったんだけど、角川さんみたいな人には、どうも日本人っていうのは、あまり自信をもって前に出てくると、そういう人をパッとこう毛嫌いしたり倒す雰囲気があるから。もっと正直にいいものはいいもので認めてくれればね。

T:次に1999年の『共犯者』ですけれども、これ前回に今村さんともお話したんですが「仙元さん、渡辺さん、今村さん」のトリオの最後の作品になるんですよね。個人的には早く復活を望んでいるんですけど。

S:『共犯者』のきうち監督は、意外に自分の作品の事を九州の学生の頃から、あの『遊戯シリーズ』とかをね、観ていたらしい。それが、どこでどう気に入ってくれたのか知らないけれど、気に入ってくれて。ビデオ作品だったけど、最初の作品を名指しでカメラマンやらせてくれて。その時も「BE-BOP-HIGHSHOOL」のマンガなんて読んでなかったし。「なんでだろうと」思いつつも付合ったらまあ、ワンカットワンカット『遊戯シリーズ』なんか全部覚えているし「あの時のカット、どういう気分で撮ったんですか?」と凄い。でも自分はもう忘れているし「えー」って、ちょっと恥ずかしかったけど。そうか、この作品が3人のトリオの最後か。でも喧嘩別れした訳でもないし、たまたま分かれ道になっていたと。

T:90年の後半から、黒澤満さんのセントラルアーツで、年5〜6本の東映ビデオ作品を撮られてますよね。

S:これは、黒澤さん自身が今までのスタッフが出来るだけ仕事が繋がるようにと。やっぱり仕事して貯えるっていうのは、なかなか出来ないから我々って。まあ我々って他の人を仲間に入れてはいけないんだけれども。特に俺がそうなんだけれども。何らかの形で仕事が出来る様にとね。まあ、個人的には俺はとりあえず黒澤さんの事務所でひたすら胡座をかいて、ないとない。黒澤さんの所で仕事があると何らかの仕事をやっている。外から仕事の話があっても、必ず黒澤さんに話をして下さいというように、勝手に自分で決めて、生意気にマネージメントを一銭も払わないでやってもらってね。(笑)

T:最近作の『凶気の桜』のお話を聞かせて下さい。

S:そう、これはね。窪塚洋介君が自分で本を出していて、その中で、俺と丸山さんは「こわい大人」という、半ページ位の文章が出ているんだけどね。まあ、そういう事でしょうか。若い世代が、HIPHOPという音楽に乗せて、映画を新しく「これが映画だ」という新しいものを作る事をやろうというのが『凶気の桜』だったんですよ。自分に関しては、元々セントラルアーツの黒澤さんが、それを受けて、作るなら少しは映画をやってきたベテランを入れようと思う親心で、俺を指名してくれたんだと思う。だから本当はね。本来、監督もプロモーションとか撮っていて、そういう仲間で監督やりカメラやりという様にいこうとしてたんじゃないかな?でそれがまあ、黒澤さんから仙元っていう名前が出た。で、監督もそれなりに、初めてだけど映画は観ているし、まあ映画界でベテランだっていうので、一回やってみようかっていう腹づもりで来たんじゃなかったかな?ホンの段階で初めて監督と紹介された時に、まあ「仙元です」と挨拶をして、自分がいったのは、薗田君ってまだ33才かな?なんか自分の息子みたいなもんで、自分の息子が映画青年になっている、という意味では、ヤン茶坊主みたいな息子がいたらいいなと思っていたから「よし自分とやる!といったら最後まで投げないでやろう」と腹を決めていた。でもまあ「逆に俺が重荷になるんだったら、相手に困るから貴方自分で決めなさいよ、黒澤さんが言うからとかじゃなくて、別に義務も何もないんだから」と。そしたら彼が「仙元さん、数日考えるっていうのはいやでしょう?」というから「俺は即決で今見た感じでやるかやらないか言ってくれた方があっさりとしていい」って言ったら「はい、やりましょう!」ってのがきっかけ。「あとで後悔しても知らないよ」ともいってたけれども、やる限りはもうね、親父と息子がやるようなもんで、それも他人の。出来た映画を観たらどこかでそれがいい意味でとられるといいけど、悪い意味だとちょっとチグハグなんだよね。今までの自分のやってたある映画作りの絵作りと監督がデジカムなんか使ってやってた映像と、その差っちゅうかその機材を駆使した、そういう作業が、あの中途半端で噛み合っていたというような俺自身はそう思うね。だからまあ、面白いと言ってくれる人は、俺がやったから本人の前ではそう言ってくれるのかもしれないし「何だかわかんねー」と言う人もいる。でもまあ作った彼等は「解らない大人はいいんだ」と。「解る若者がいてくれればいい」というのが狙いだと思うんだけど。『凶気の桜』をどう理解していいのか、解ろうとしないといけないのかというのは、観た人の自由だから何もこだわってはいないんだけどね。薗田監督や窪塚君や若い俳優さんも、まあ年寄りのカメラマンとやった事が良かったのか悪かったのかというのは、今でも自分の反省課題だと思う。どう思っているかは聞いた事ないけどね。難しい問題だね。だから最近は素直に映画を撮って、作品がいいか悪いか、観る映画として簡単に参加出来ないのが、これもこの歳まで試練続きでいいことかなと思いながら、なんかすっきりしない事もいっぱいあるんだよね。

T:『凶気の桜』が新しい映画だと、今の若者とかが感じるのと同様に、同じ仙元さんが昔撮られた『遊戯シリーズ』や、ATG作品にも、当時僕が若い頃観て新しさを感じてたというのもありますが。

S:そうだね。自分の中では、別に驚くほど今の若い人が言う「これが新しい映画だ」と力んでも、もうそれに近い事は部分的にはやってきているよ、という思いはある。でもそれを言ってしまうとね。今、何か俺が見習う事や習える事新しい事を魅せてもらえる事を期待はしているけど「これは前にやってきたな」って事は良くあるよね。

T:僕はあえて『凶気の桜』みたいな映画で、仙元さん達がスタッフで入る事はいいなって思うんですよね。
前回の今村さんにも含めて言える事なんですけども、若いクリエーターや監督たちの間にベテランの方達が、加わる事で、映画作りの継承とか思わぬ力が発揮される様なチャンスが生まれて行くと思うんです。


S:まあ、そう言ってくれて、そういう見方をしてくれる人がいれば、少しは自分も参加して、どっか救われる事は感じるね。でも全くもうそんな年寄りのキャメラマンと何本もやってるからって言ってやったって、面白くもねえやって見られると、これまた淋しいもんで。でも内心は今までの経験で自分がやってきた事が一つの骨格を映画としてベースにしっかりと崩れないであるんだとは思っている。

T:ベテランの方と仕事をすると割とよく思う事なんですが、仙元さんも今村さんも含めてですが、何かこう歳は上かも知れないんですが、これから映画をやろうとしている若いクリエーターなんかとあまりこう、志や熱意は変わらずに若いままだったりする訳で、、。

S:そう、自分が歳いったから、何本もやってきたから、年数の経験とかキャリアとかその本数じゃなくてね。気持ちはいつも何かやりたいなと言う事を、何かあったら平気でそこに参加出来るっていう気持ちはもう全然以前と変わらないけれど。ただ一つだけ、身体がね、今まではこう思ったらすぐ動けたのが、今はね「ちょっと待てよ?」っていうのがあるの。これが悔しいけど。前は一言いう前に行動してたのが、今は一言が二言多いというのが嫌がられる。年寄りの。これはもう俺に限らずだんだん皆そういう経験を、良くても悪くても、色んな事を経験した数が増えてくると、ついつい「これはもうちょっとこうしろよ!こうした方がいい!」って自分で経験したから言うやろ。と監督やなんか若い人は「うるせーな!」今俺こうしようと思ってるのに」と考える。そう思った事をやっぱり年配だから言っちゃまずいなって、ひと間遠慮する事に悪いところがあるんだよね。それがなくて「こうしますよ!」って言えれば、もう普通に仕事が出来んじゃないかなって思う。だから映画っていうのは、年令じゃなくて、お互いやる事をひとつにしてその為の遠慮なしに言えるような仕事の参加の仕方をすると、まあキャリアの多いベテランがいても、それは役に立つと思うね。利用の仕方だと思うよ。

T:仙元さん。今回は本当にありがとうございました!次また御一緒出来る時を楽しみにしています!

S:若い人たちの少しでも役に立てればいいけどね。
ただね、呼んでくれて数時間だったけど、一緒に映画の話が出来ただけでも楽しかったよ!

-END-


今回、貴重な時間をいただきインタビューに丁寧に答えていただいて、仙元さんには、とても感謝しています。前回の今村力氏のインタビュー作品展も合わせて、楽しんでいただければと思っています。
色んな人に、本物の映画人の言葉を味わっていただけると嬉しいです。

 

 

   

仙元誠三さんの略年表

1938 京都生まれ。
1958〜

松竹京都撮影所・撮影部入社。石本秀雄氏等の撮影助手を努め、撮影助手として数多くの作品に就く。

松竹京都撮影所入社当時(写真右下)

1967 大島渚監督のもと『無理心中 日本の夏』 『絞首刑』『帰って来たヨッパライ』等に 参加した頃、フリーになる。
1968〜

『新宿泥棒日記』でキャメラマンとなる。他『少年』

1969『少年』撮影スナップ

1970〜

『書を捨てよ町へ出よう』『空、みたか?』『キャロル』

1977

TV『大都会PART2』にて、村川透氏、松田優作氏との出逢い。

TV『大都会パート2』撮影の合間に

1978〜

東映セントラルフィルムにて『最も危険な遊戯』『殺人遊戯』『処刑遊戯』の 『遊戯シリーズ』を手掛ける。他『キタキツネ物語』

1979

1『白昼の死角』『蘇える金狼』、TV 『探偵物語』

TV『探偵物語』伊良湖ロケ 鳥羽駅にて

1980

『薔薇の標的』『野獣死すべし』

『野獣死すべし』照明:渡辺三雄氏と

1981

『ヨコハマBJブルース』『獣たちの熱い眠り』『セーラー服と機関銃』

『セーラー服と機関銃』撮影スナップ

1982

『野獣刑事』『汚れた英雄』

『野獣刑事』大阪城側での撮影スナップ

1983

『探偵物語』『里見八犬伝』

『探偵物語』撮影スナップ(薬師丸ひろ子、根岸吉太郎監督)

1984

『愛情物語』『Wの悲劇』

『Wの悲劇』薬師丸ひろ子、黒澤満氏と

1985

『早春物語』

1986

『キャバレー』『ア・ホーマンス』『めぞん一刻』

『キャバレー』撮影スナップ(野村宏伸・左)

1987

『恋人たちの時刻』『この愛の物語』

1988

『ラブ・ストーリーを君に』『いこか もどろか』

『ラブストーリーを君に』撮影中の打合わせ

1989

『ジュリエット・ゲーム』『オルゴール』『愛と平成の色男 』 『キッチン』 『ウォータームーン』

1990〜

『女がいちばん似合う職業』 『福沢諭吉』『極道戦争/武闘派』『継承盃』 『リング・リング・リング 涙のチャンピオンベルト』『免許がない!』、他

『極道戦争 武闘派』撮影スナップ

1995〜

『大夜逃 夜逃げ屋本舗3』『のぞき屋/NOZOKIYA』
『あぶない刑事リターンズ』『義務と演技』『時をかける少女』 『鉄と鉛/STEEL&LEAD』『極道の妻たち/決着』 『あぶない刑事 フォーエヴァー/THE MOVIE』『共犯者』、他。

2002 『凶気の桜』

message 3: キャメラマン観

仙元氏からのメッセージムービーを見る | 公開終了 |