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鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

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第28回「景山さんの憲法試案」

 6月21日(日)、『古事記』の勉強会があって、朝から夕方まで参加した。集中して勉強した。途中、自己紹介の時間があった。出版社や新聞社に勤めている人も多い。産経新聞の記者が自己紹介し、次が僕だった。だから言った。「元・産経新聞社の鈴木邦男です」。ドッと笑いが起きた。ウケた。でも、本当のことを言って笑われるのも変な話だ。
 1970年から4年間、産経新聞に勤めた。その時は勿論、産経新聞を取っていた。当然だと思うが、実は取ってない社員が多くいた。「集合ポストに産経があると恥ずかしい」「世間体が悪い」と言って朝日を取ってる人も多かった。「ふざけてる。そんな奴はクビにしろ!」と僕は主張していた。愛社精神にあふれていた。
 ところが1974年にクビになる。事件を起こして警察に捕まったのだから仕方ない。政治事件だったし、堂々と辞めた。しかし、産経新聞はずっと取っている。40年近く、取っている。産経は思想的には反発することが多いが、僕の<故郷>だ。どんなに反発しても、又、嫌われても<故郷>は大事にする。クビになっても、愛社精神を持ち続けている。
 今まで、僕の発言が一番多く取り上げられたのは朝日だ。続いては毎日だ。読売はちょっとだ。不思議なことに産経は一度もない。書いたこともないし、コメントを求められたこともない。でも、僕の<故郷>だ。取り続けている。一生取るつもりだ。子供にも取らせる。

 「今日の産経新聞を見て驚きましたね」と自己紹介の時に言った。6月21日付の23面に、幸福の科学の全面広告が出てたのだ。いや、幸福の科学が作った政党「幸福実現党」の広告が出てたのだ。それも、憲法改正の試案だ。実に大胆だ。驚いた。
 驚きの連続だ。今までは、自民党を応援してたのかなと思っていたが、最近、急に政党を作った。ということは、自民党とも違う、独自の理念を打ち出したのだろう。そう思っていた。先頃、千葉県知事になった森田健作は、実は幸福の科学が応援したのだと週刊誌で報道された。その直後、幸福実現党が結成され、産経新聞に大きく出ていた。党首は饗庭直道さんだ。あっ、知ってる人だ、と思った。

 実は、幸福の科学と僕の縁は深い。と言っても会員になったわけではない。作家の景山民夫さんとの関係だ。景山さんと小川知子さん(歌手)は、幸福の科学の「広告塔」といわれた。僕は、景山さんが幸福の科学に入信する前から知っている。景山さんも僕も熱烈なプロレスファンだったからだ。いろんな雑誌で対談し、意気投合した。入信してからは、幸福の科学の本を出すたびに送ってくれた。だから、百冊近く読んだ。又、講演会にも招待された。一番いい席だった。何十回と聞きに行った。幸福の科学が「FRIDAY」と揉めて法廷闘争になった時も、その支援集会に行った。「今日、デモで講談社に行ったので、念力を飛ばしてビルにヒビを入れてやりましたよ」と景山さんは言っていた。愉快な人だなと思った。
 講演会や集会のあと、景山さんは皆を連れて食事に行く。カラオケにも行く。その席で景山さんと話せるのが楽しくて、毎回出席した。それに、僕が「生長の家」に入っていたのを知ってか、幸福の科学への入信は勧めなかった。周りの人が「鈴木さんもそろそろ入信しなさいよ、何回ご飯を食べさせてもらったのよ」と言う。僕も悪いなーと思ったが、景山さんは「生命保険のおばさんのようなことを言っちゃダメだよ」と厳しく叱っていた。

 6月21日、産経新聞に出た「新・日本国憲法」を見て、「景山さん、とうとうやりましたね」と言った。景山さんと話をしたのは久しぶりだ。だって、もう亡くなってるからだ。1998年、家で火事を出して焼死した。とてもいい人だった。忙しい人だった。小説を書き、プロレス評論をやり、幸福の科学の「広告塔」をやり…。誰にも優しく、気配りの人だった。この人のおかげで、この宗教はグンとイメージアップした。燃えたぎる情熱を持ち、全力で駆け抜けた一生だった。「文字通り、燃え尽きた人生でした」と亡くなった後、景山さんは言っていた。幸福の科学の機関誌に出てたのだ。霊界から喋ったらしい。景山さんならあり得るな、と思った。

 景山さんとは、プロレスだけでなく、実は憲法の話もよくしていた。そして一緒に憲法の本まで出した。その時の景山さんの考えが元になって、今回の「試案」が出来た。これは間違いないと思う。『僕の憲法草案』(ポット出版)という本で1993年3月に出た。16年前だ。つまり、かつて「景山試案」として発表したものが、16年の歳月を経て結実し、政党になり、そして「新・日本国憲法」になったのだと思う。だから「とうとうやりましたね」と、霊界の景山さんに話しかけたのだ。
 『僕の憲法草案』が今回の「試案」の原点になっている。又、そこにはかなり詳しく改憲すべき点について書いている。といっても、この本は景山さんと僕の二人だけの本ではない。他に、橋爪大三郎、伊藤成彦、呉智英の三氏が参加している。「リレー討論」という面白い形式だ。この中で景山さんは、「国家が宗教を避けて通るのはやめませんか」と言っている。又、天皇制や靖国、9条についても詳しく言及している。今読み返してみても、深味のある論文だ。政教分離についても大胆な提言をしている。

 6月21日に発表された「新・日本国憲法」は「幸福実現党創立者 大川隆法試案」と書かれている。しかし、その基にあるのは『僕の憲法草案』に書かれた景山さんの試案だ。僕はそう思っている。
 「新・日本憲法」の【前文】はこうなっている。
<われら日本国国民は、神仏の心を心とし、日本と地球すべての平和と発展・繁栄を目指し、神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め、ここに新・日本国憲法を制定する>

 【第一条】は天皇条項ではなく、こうなっている。
<国民は、和を以て尊しとなし、争うことなきを旨とせよ。また世界平和実現のため、積極的にその建設に努力せよ>

 聖徳太子の「17条の憲法」が入っている。これらも景山さんの考えていたことだ。又、大統領制にするという。では天皇はどうする。【第十四条】に移って、こう書かれている。
<天皇制その他の文化的伝統は尊重する。しかし、その権能、及び内容は、行政、立法、司法の三権の独立をそこなわない範囲で、法律でこれを定める>

 つまり、今の象徴天皇制は認める。それははっきりと書いている。しかし、今の憲法では1条から8条まで天皇条項だ。それを思い切って取ってしまい、14条に移している。では、9条はどうか。もうちょっと前に来ている。【第五条】として、こう書かれている。
<国民の生命・安全・財産を護るため、陸軍・海軍・空軍よりなる防衛軍を組織する。また、国内の治安は警察がこれにあたる>

 これだと自民党の改憲案と変わらないかもしれない。しかし、原案となる景山試案では、もう少し深い。前掲書では景山さんはこう言っている。

<決して忘れてならないことは、単に国を守るためだけではなく、他をないし他国を害さない、ということも憲法には非常に重要な要素・要綱として含まれるべきだと思うのです。一方的に自己の権利を主張し、自己の保存を主張するだけのものではなく、憲法というものに、他を害さない、他国を害さない、他を害することによって自らの権益とか利益を生みだすことを善しとしない、という部分が盛り込まれる必要性があると思います。これは非常に重要なポイントだと思います>

 つまり、景山原案の方が、より宗教的であり、より「9条的」なのだ。これは是非、景山原案に近づけてもらいたいと思う。

 念のために、幸福実現党のHPを見た。そしたら6月4日現在で党首は大川きょう子さんにかわっていた。前党首の饗庭直道さんは、5月25日から6月3日の9日間だけの党首だったんだ。でも、国師・大川隆法さんの奥さんを党首にすることで、より強力な政党にしたのだろう。饗庭さんは広報本部長になっていた。
 又、選対、文化… といろんな局に僕の知り合いの人が多くいた。景山さんと一緒に酒を飲み、カラオケに行った仲間たちだ。さて、どうなるか。次の選挙の台風の目だ。

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またまた明らかになる、鈴木さんの意外な人脈。
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