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近畿農政局

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加古川流域の課題

04-1課題

1.綿栽培の衰退と疏水計画

 さて、姫路藩を支えた「姫路木綿」に思いがけない危機がやってきます。幕末から明治にかけて、海外の安い綿花が大量に輸入されると、国内産の綿は大打撃を受けることになります。綿栽培を主力にしていた印南野台地の村々は、存亡に関わる深刻な事態を迎えることになりました。追い打ちをかけるように、明治6年の地租改正で定められた土地への課税が重くのしかかります。村々の税金は、少ないところでも従来の約3倍。印南野台地では、綿畑から水田への切り替えが緊急の課題となりました。

もともと、水が少ないために始まったのがこの地の綿作です。水田に切りかえるためには、大量の水を確保しなければなりません。大規模な疎水を実現するより、この地が生き延びる方法はなかったのでしょう。
加古川の支流、山田川から、印南野台地まで水を引く計画は、江戸時代の後期にすでにありました。当時、実施測量まで行なわれ、導水は可能と判断されていたようです。しかし、技術的な問題はもちろん、水路が姫路藩以外を通ることもあり実現には至りません。明治初期にも、難工事を理由に計画は立ち消えに終っています。

2.淡河川疏水と山田川疏水

再三、計画された山田川から導水するという大工事は、農民の粘り強い請願もあり、明治19年にようやく一つの形となります。
水源は、難工事が予想されるため、山田川から淡河川へ変更されたものの、淡河川疏水として工事が決定されました。

淡河川疏水明治21年に始まった工事は、当時の最新技術が駆使され、28か所におよぶトンネルが通されました。明治24年に完成しています。
淡河川疏水により、印南野台地の綿畑は、次々と水田に変わっていきました。しかし、水田が増えるにつれて、水の量が足りなくなり、新たな水源への需要が高まります。
大正4年には、淡河川疏水の前身にあたる山田川疏水がつくられました。山田川疏水・淡河川疏水は、琵琶湖疏水(京都)、安積疏水(福島)とともに日本の三大疏水に数えられることもあります。

二つの疏水には、江戸時代に引かれた水路と同様、かんがい時期に、水を引けないという制約がありました。そのため、この時期にも多くのため池がつくられています。こうした制約も影響したのか、印南野台地では、その後も水不足がたびたび起こっています。冬場に雨が少ないという気候条件も影響したのでしょう。新規の水源を得ても、ため池に依存する水利体系は不安定な面を含んでいました。 

淡河川疏水

(写真提供:(社)土木学会附属土木図書館) 


 04-2課題

3.食料増産から国営事業へ

ため池に依存していたのは印南野台地ばかりではありません。加古川西部地区や東条川地区でも、近世以降、数多くのため池がつくられ、水が不足すると川から導水する水路もつくられました。周辺に小さな川しかないという問題もあり、多かれ少なかれ、利水は不安定でした。

印南野台地では、昭和4年、山田川疏水から安定した水を確保するため、さらに川を堰きとめて水を溜めるという規模の小さなダム・山田池を築造しています。当時、山田池は、水不足を解消する最後の手段と考えられていましたが、結果として水不足は解消されず、根本的な解決には至りませんでした。

時代は戦後を迎えます。食料増産が国の緊急課題となったこの時期、大規模な農業水利事業が続々と行なわれました。新たな水田を開発するためには、さらなる水が必要となります。どこの地域も不安定さを抱える東播の水利体系には、加古川水系全体に及ぶ抜本的な見直しが必要でした。
こうして、戦争直後から、壮大な水利ネットワーク事業ともいうべき、東条川農業水利事業、加古川西部農業水利事業、東播磨農業水利事業(東播用水事業)が相次いで行なわれることになりました。

4.3つの国営事業

国営事業の事業区域この事業は、3つの地区の国営事業からなりますが、それぞれの地区の支流はいずれも自己流量が少なく、このことが慢性的水不足の原因となっていました。したがって、水量を確保するダムの築造においては、複数の支流からトンネル導水をすることで、集水域を広げています。さらに、ダムとダムをつなぎ、さらに下流にてダムを建設して加古川水系全体で有機的に水源を確保するという複雑かつ高度な水利システムとなっています。
まず、昭和22年に着手されたのが東条川沿岸、約4000haに及ぶ広大な台地でした(東条川農業水利事業)。この地は古くから開発された水田もありましたが、いずれも用水不足に悩まされ、能率の悪い皿池などに頼った条件の不利な地域でした。古い水田の水不足を解消するとともに山林原野を開拓し、皿池も干拓して農地造成を図るというものです。水源は東条川支流に鴨川ダムを建設し、そこへ東条川上流からも導水路にて水を供給し、さらに下流の受益地近くに2つのダムを建設して、用水の安定化を図るという大事業でした。この事業は17年の歳月を経て、昭和39年に完成します。
さらにその3年後、昭和42年に着手されたのが加古川中流の西部に位置する加西市を中心とする、約3700haの農地でした(加古川西部農業水利事業)。ここは県下屈指の農業地帯でしたが、恒常的水不足に悩まされてきた地域です。水源の確保においては、仕出原川、杉原川、野間川と3本の河川を利用し、平成3年に完成しています。
加古川西部に続いて昭和45年に着手されたのが、何百年におよぶ悲願であった印南野台地、約7500haの開発。東播用水事業です。これは、加古川のはるか上流、篠山町にて加古川の流れをせき止めて(川代ダム)、そこから東条川の大川瀬ダムに導水(13.4km)、さらに大川瀬ダムから吉川町周辺の農地を潤しながら、延々22.7kmの導水管にて山田川に築いた呑吐ダムと連結し、9kmの導水管によってようやく印南野台地に達するというものでした。総延長約45kmに及ぶ壮大な水利ネットワークを形成するこの歴史的大事業は、平成5年に完成しています。

  

国営事業の事業区域