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道ごころ 平成24年10月号掲載
京都・神楽岡宗忠神社ご鎮座150年
    黒住教、江戸末期から明治への奔流 その3
9.七卿落(しちきょうおち)―― 文久(ぶんきゅう)3年(1863)

 神道山の宝物館に常陳(じょうちん)されている書のひとつに、明治の元勲(げんくん)として名高い三條實美(さねとみ)公の「神文書(しんもんしょ)」があります。これは三條公入信の誓(ちか)いの書です。
 神文之事/忝不可動/天地同体之一心依而謹/奉神文者也/文久2年3月2日/三條實美花押/奉/
宗忠大明神
 (神文の事 かたじけなくも天地同体の一心動かすべからず よって勤(つつし)んで神文奉(たてまつ)る者なり 書き判
 奉る 宗忠大明神)
 切れ味鋭い筆先に、その気迫が今に伝わってくる神文書です。三條公は、先輩格の九條尚忠(ひさただ)、二條齊敬(なりゆき)公らとともに御道信仰手厚く、宗忠神社ご鎮座にも尽力(じんりょく)した方です。この公卿(くぎょう)方の御道信仰は、左記の教祖神の御神詠を自ら筆を執って認(したた)めて宗忠神社に奉納した、二條公の御心に強く現れています。
 かぎりなき天照神(あまてるかみ)と我がこころ
  へだてなければ生き通しなり
いのち懸(か)けて国事に当たっていた公卿方にとって、「生き通し」こそ心深くに響いた教えであったことが分かります。一方、この三條公をはじめとする若き公卿方は、尊皇攘夷(そんのうじょうい)の活動を激しく展開していました。後(うし)ろ盾(だて)は、幕府に強く攘夷を迫り続けられた孝明天皇でした。
 後に“8・18政変”といわれる文久3年(1863)8月18日、三條公ら若き公卿7名は京都を追われ長州(山口県)に行かされました。世に言われる「七卿落」です。この日、8月18日、孝明天皇は病のため床(とこ)に就(つ)かれていたことになっていますが、これほどの大事を陛下がご存じないはずはないと思われます。
 ここに孝明天皇は、語らずして御自らの攘夷論を排した御心を公(おおやけ)にされたのです。このことも、和宮様(かずのみやさま)の降嫁(こうか)と同様、孝明様の天地の親神天照大御神へのご信仰という、一段と高いご見地からのご聖断であったと拝察することです。
 なお、三條實美公は、明治維新(めいじいしん)後、まさに復活なって新政府の要職にあって敏
腕(びんわん)をふるい、後に“維新の元勲”と称(たた)えられるようになりました。

10.蛤御門(はまぐりごもん)の変(へん)――元治(がんじ)元年(1864)

 元治元年(1864)7月19日、攘夷派と開国派との争いが激しくなり、ついに皇居の西門のひとつ蛤御門の辺りにまで及んできました。孝明天皇に仕える二條齊敬関白など側近の重臣方は、陛下の御身に万が一のことを危惧(きぐ)して比叡山へのご動座(天皇陛下が他へ行かれること)をしきりにお勧(すす)め申し上げました。その時、孝明様は「宗忠大明神の御神意(ごしんい)やいかに」と仰(おお)せになり、二條家の櫛田左近将監(くしださこんしょうげん)が早馬(はやうま)を駆(か)って宗忠神社に走り来ました。迎えた赤木高弟は熱いお祈り中で、「ご動座ご無用!」とお答え申し上げました。
 孝明天皇はいよいよ泰然(たいぜん)として動かれず、程なく戦いは潮が引くように鎮まっていったと伝えられています。
 この禁門(きんもん)の変、一般的に蛤御門の変といわれる戦いは、ひとつ間違えば国を二分しての内戦となり、それは周辺にやって来ていた西洋の列強の付け入るところともなり、明治維新はおろか、わが国はいずれかの白人国家の植民地になっていたかもしれない、日本の一大危機の時であったのです。
 この時から、孝明天皇の御道ご信仰はいよいよ強いものとなりました。

11.孝明天皇の勅願所(ちょくがんしょ)に―― 慶応(けいおう)元年(1865)

 蛤御門の変の翌年慶応元年(1865)4月18日、孝明天皇は宗忠神社に「勅願所」の旨(むね)を仰(おお)せ出されました。
 「孝明天皇紀」のこの日の項(こう)に
 「関白二條齊敬、内旨(ないし)(孝明天皇のご命(めい))を承(う)けて神楽岡宗忠神社の社人(しゃにん)に国家安泰(あんたい)を祈らしむ」とあります。
 天皇陛下のご安寧(あんねい)を祈り、国の安泰、人々の平安を祈る勅願所は、千年の都京都を中心にいくつかの古い社寺がありますが、ご鎮座なって程ない、しかも孝明天皇が仰せ出された勅願所は神楽岡・宗忠神社だけであります。
 まさに決死の布教に明け暮れ、時の帝(みかど)にまで御道をお伝え申し上げた赤木忠春高弟は、奇しくもこの日4月18日を前にした4月16日に静かに息を引きとりました。赤木高弟、教祖神を一身にいただき実にいのち懸けての大業(たいぎょう)、聖業を成し遂(と)げての昇天でした。

12.孝明天皇崩御(ほうぎょ)――慶応2年(1866)

 神道山の黒住教宝物館に常設されている数々の書の中心に、孝明天皇の“断簡(だんかん)”(御手紙の切断されたもの)があります。それは判読しがたい文字もありますが、凡(おおよ)そ次の通りです。
 「開春の吉慶▢事▢なかる日をへて、 ことに例年にたちこえ 天下安寧国家清平の時いたり候(そうら)へば めでたさ尽きること無きを期し候(そうろう)」
 極めて厳しい時代、いわば暗闇(くらやみ)の中にあって明日の光を確信されている大御心(おおみこころ)が伺えて胸熱くなります。
 その孝明天皇は、慶応2年(1866)12月2日(新暦1月30日)、崩御(ほうぎょ)になりました。
 御身を削けずるような御日々が伺える御ぎょ製せいが残されています。

 朝夕に民安かれと思う身の心にかかる異国(とつくに)の船
 この春は花鶯(うぐいす)も捨てにけりわがなす業(わざ)ぞ国民(くにたみ)のこと
 烏羽玉(うばたま)の冬の夜すがら起きて思い伏して思う国民のこと
 我(わが)命あらん限りは祈らめや遂(つい)には神のしるしをも見む

 吉田松陰(しょういん)は、孝明天皇のご日常を伺って次のように書き残しています。
 「墨夷(ぼくい)(ペリーのこと)来航(1853) 已来(いらい)は、毎晨寅(まいあさとら)の刻(こく)(午前4時)より斎戒(さいかい)(心身を清める)ましまし、敵國懾伏(てきこくせっぷく)(おそれ従う)、萬民安穏(ばんみんあんのん)御祈願遊ばされ、かつ供御(くご)(お食事)も両度(りょうど)の外(ほか)、召し上がられず候(そうろう)」
 この年、慶応2年9月、二條家に奉斎(ほうさい)されていた孝明天皇御宸筆(ごしんぴつ)の「天照大御神」一幅が宗忠神社に奉納され斎(いつ)きまつられることとなりました。現在の宗忠神社本社の上座(かみざ)に鎮まる「上社(じょうしゃ)」にまつられています。
 孝明天皇、御身に代えての維新の大業は、翌慶応3年(1867)10月に将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん)し、翌年(1868)、明治の新時代の幕開けとなるのです。時に明治天皇は御歳(おんとし)十六、摂政(せっしょう)(天皇陛下が未成年のとき、そのつとめを果たす役)は、二條齊敬公がつとめられていました。