如意寺跡1(宝厳院跡)

 如意寺は、かつて京都市左京区鹿ヶ谷から滋賀県大津市の園城寺にかけての山中に東西2.5km、南北1kmにわたって位置した山岳寺院です。正確な開創年代は不明ですが、平安時代中期には平氏の氏寺的役割を果たしていました。園城寺の別院として、建物数70近い壮大な伽藍が形成されましたが、応仁の乱以降の戦乱によって破壊され、そのまま廃寺となりました。


はじめに

 現在、園城寺には「園城寺境内古図」という鎌倉時代から南北朝時代の絵図がある。これは「北院」「中院」「南院」「三別所」「如意寺」の5幅に分かれており、北院・中院・南院に分かれていた中世園城寺の境内および三別所と呼ばれる近松寺・尾蔵寺・微妙寺、および如意寺を描いたものである。縦長画面を巧みにとった構図で描かれており、建造物は立体的に表現される。中世園城寺の様相を示す史料として名高い。そのなかの一幅が如意寺を描いたものである。この一幅は通称「如意寺幅」と呼ばれる。

 「如意寺幅」には、如意寺の中心伽藍のほか、宝厳院・大慈院・西方院・赤龍社・深禅院といった子院も描かれており、如意寺が山岳寺院でありながら壮大な伽藍を有した巨大寺院であったことが窺える。

 「園城寺境内古図」には、幾つかの写本・類品があり、円満院旧蔵の12幅からなる京都国立博物館本、6幅からなる旧実相院本、6曲1隻からなる個人蔵本、6曲1隻からなる園城寺山内寺院伝来本がある。このうち京都国立博物館本は桃山時代の作で、園城寺本と図柄が同じであることから、同本に基づいて制作され、元来は屏風仕立であったとみられている。園城寺本とは幅員が異なっており、園城寺本では1幅であった「如意寺幅」は、京都国立博物館本では3幅となっている。また図柄は同じとはいえ、写し崩れがあり、また樹木・雲の表現は近世狩野派の特色が表われている。

 ところで、この「園城寺境内古図」の「如意寺幅」に描かれた如意寺であるが、極端に史料が少なく、開創年代など不明な点が多いだけではなく、近年まで詳細な所在地すら明らかでなかった。これを明らかとしたのが梶川敏夫氏で、「如意寺幅」や近世の地誌などの詳細な検討と、現地踏査によって如意寺の姿が明らかとなり(梶川1991)、これを契機として如意寺の研究が格段に進むことになる。


鹿ヶ谷への入口(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

 如意寺は、京都市左京区鹿ヶ谷から滋賀県大津市にかけての東西2.5kmにわたる広大な地域に、複数の子院が林立していた。「如意寺幅」では、京都市左京区鹿ヶ谷の付近に「鹿谷門」が描かれ、距離縮尺表現である金雲を隔てて楼門である「月輪門」が描かれていることから、この京都側を表とし、奥の本堂空間をへて、園城寺がある大津側に至るようなルートを正規なものとしていたとみられる。

 「如意寺幅」によると、地(下部)に描かれる鹿ヶ谷から、月輪門・熊野三社・宝厳院・大慈院と西方院・赤龍社と深禅院・本堂地区が、それぞれ天(上部)に向って描かれる。また右側には山王社・正宝院が描かれている。これらはすべて廃寺となっており、現在は痕跡しか残されていないが、その跡地は比較的良好に残されており、鹿ヶ谷から徒歩で訪れることが可能となっている。

 まず京都市左京区に位置(外部リンク)する如意寺の西側の玄関口鹿ヶ谷から、順番にたどってみよう。なお他にも赤龍社の跡地である雨神社の付近には林道が通っており、正宝院跡もその付近まで林道が打通していることから、自動車でのアプローチも可能なようであるが、実際に通行可能かは確認していない。



鹿ヶ谷から月輪門跡まで

 「如意寺幅」によると、東側の玄関口として「鹿谷門」が描かれている。この門は切妻造の四脚門で、門の手前には堀があり、堀には木造の小橋が架けられている。またこの門の左右には築垣(ついかき)が描かれている。

 園城寺の寺誌である『寺門伝記補録』には、「如意寺幅」の図像や名称を解説した「如意寺図説」(以後「図説」と略)という項目があり、それによると、この鹿谷門は如意寺の西門であり、かつ同寺の惣門であったという(『寺門伝記補録』巻第9、聖跡部丁、諸堂記目録、如意寺図説)。この鹿谷門の跡地の現在地は不明であるが、概ね霊鑑寺から鹿ヶ谷への登山道の入口付近とみてよいだろう。

 鹿ヶ谷への登山道入口からおよそ600m登ると、最初の造成された平坦地に到達する。標高約270mのところに位置しており、これが「如意寺幅」に描かれる最初の堂の跡地と推測されている。この堂は桁行4間、梁間2間の桧皮葺入母屋造の建物として描かれており、その右手の階段の下部の端に位置している。「如意寺幅」にはこの建物の名称が記されていないが、「図説」には名称が一致しない建造物がただ一つ不動堂があるのみであるから、この建物は不動堂とみられ、すなわちこの跡地は不動堂跡とみられる。


鹿ヶ谷へとむかう山道(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)



不動堂跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

 不動堂跡から山道は蛇行しており、桜谷川を右手に見ながら登ることになる。標高290mほどのところに長さ約20mほどの急な石階段がある。この階段は「如意寺幅」にも描かれており、その上部には楼門が位置していた。

 またこの階段の右手側には「楼門の滝」があり、階段や楼門と相俟って、この付近を荘厳なものとしていたとであろう。

 階段を通過することは現在では危険であり、とくに降りは勢いあまって転落する可能性がある。そのため現在の山道は、階段を通過することなく蛇行して上に登っていく。この途中の標高300m付近に造成された平坦地がある。これは「如意寺幅」に描かれた浴室であり、桧皮葺入母屋造で桁行3間、梁間2間の規模の建物であった。なおこの跡地には近世など比較的最近の遺物があることから、滝に関連した祭祀施設が比較的近年まで存在していたと考えられている。



階段跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)



楼門の滝(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)



浴室跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

 石階段の頂点よりやや上がったところにある標高312mの地点には、現在「俊寛僧都忠誠之所」なる碑があり、戦前に建立された石碑がある。これは後白河法皇・俊寛(1143〜79)らによる鹿ヶ谷の陰謀が、鹿ヶ谷で行なわれたことにちなんで建立されたものである。

 鹿ヶ谷の陰謀は安元3年(1177)6月に後白河上皇と院近臣が平清盛一族打倒の企てて発覚し、俊寛らが流罪となった事件であるが、鹿ヶ谷の陰謀の地について、『愚管抄』では「東山の辺りに鹿ノ谷というところに静賢法印という、法勝寺の前の執行で信西の子の法師がいたのだが、(中略)いささか山荘をつくったところに(後白河法皇)の御幸があった」(『愚管抄』第5)とあるように、静賢(生没年不明)の山荘で謀議が行なわれたとされるが、後世『平家物語』では、「東山の麓の鹿の谷というところは、後ろは三井寺に続いてゆゆしき城郭であった。俊寛僧都の山庄があり、彼は常日頃から寄合をし、平家を滅ぼそうと謀をめぐらしていた。」(『平家物語』巻第1、鹿谷)とあることから俊寛の山荘として有名となり、さらに謡曲『俊寛』でさらに人口に膾炙することになる。

 ところで、「如意寺幅」によると石階段の頂点には楼門が描かれている。すなわち現在石碑が建っている場所は、俊寛や静賢の山荘があった場所ではなく、如意寺の楼門があった場所ということになる。

 この楼門は「月輪門」といい、桧皮葺入母屋造で、3間2階建であり、左右に回廊があった。「図説」によると、月輪門は「園城寺の西門」とされていた(『寺門伝記補録』巻第9、聖跡部丁、諸堂記目録、如意寺図説)。如意寺は前述した通り園城寺の一別院という位置づけにあり、如意寺の月輪門が、園城寺の西門とみなされていたように、園城寺と如意寺の関係は、極めて強い隷属関係にあったとみてよい。「如意寺幅」には月輪門の左側に「住吉社」が描かれており、住吉造の建物が月輪門の回廊に近接するが、跡地は判明しない。


「俊寛僧都忠誠之所」石碑(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)。ここに月輪門が位置していた。

熊野三所と宝厳院

 「俊寛僧都忠誠之所」石碑から50mほど進むと築地跡がある。この築地跡は山道の左側から桜谷川にむかって張り出している。ここから東に約600m行ったところに中世の如意ヶ嶽城跡があり、如意寺もまた応仁の乱後の戦乱によって廃寺となり、この付近一帯が軍事拠点化したことから、土塁跡の可能性や、潅漑施設の可能性が指摘されている。

 築地跡の左側が「如意寺幅」に描かれている発心門の跡地と推定される。発心門もまた月輪門と同様、桧皮葺入母屋造で3間2階建の楼門であるが、回廊や築地の類は描かれていない。月輪門から発心門に至るまで、中門・稲荷社が描かれているが、その跡地は判明しない。「図説」には「宝厳院の楼門」とされており(『寺門伝記補録』巻第9、聖跡部丁、諸堂記目録、如意寺図説)、ここから宝厳院の伽藍区域であることが知られる。


築地跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)。この左側が宝厳院の門であった発心門の跡地とみられる。

 発心門跡を通過すると左手すぐに広大な造成された複数の平坦地がみえる。これが熊野三所跡である。

 「如意寺幅」によると切妻造の四脚門を入口とし、その左右には回廊がある。回廊の内部の左側には桧皮葺入母屋造の建物があり、その左手奥には流造の小社が3棟ある。これらは「図説」によると拝殿と熊野三所で、3棟の建物はそれぞれ東は本宮、中は新宮、西は那智であったという。

 さらに「如意寺幅」には、中門からみて奥方向の段差の直前に2棟の建物が描かれており、それぞれ四所明神・五体王子と注記される。四所明神の奥の段差には石階段が描かれているが、この跡地は不明である。

 これら熊野三所のエリアは、現在東西170m、南北190mにわたって複数の平坦地があり、それぞれが良好な状態であるものの、「如意寺幅」の画面構成とは著しくことなっている。また西端には山道の左右に築地跡がそびえ立っており、如意寺が廃寺となった後に、軍事施設建造などの大規模な再造成が行なわれた可能性がある。


熊野三所跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)



熊野三所跡表面採取の瓦(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)



築地跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)。道の左右に築地跡がある。

 熊野三所跡の東端の築地跡には、山道が二筋に分かれている。この右側をおよそ100mほど歩くと、正面に写真下のような巨岩がみえてくる。この巨岩の左側を山道を通過しているが、巨岩の右側は桜谷川の源流の一つである湧水がある。

 この巨岩の手前を右側に曲がり、桜谷川とその源流の一つである湧き水を通過して薮を掻き分けて30mほどすすむと、一辺20〜30mほどの平坦地に出る。そこをさらに東に登っていくと宝厳院の般若堂跡に到達する。


巨岩(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)



巨岩を背後に宝厳院跡へと進む(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

 般若堂跡は、南北30m、東西20mほどの平坦地で、人工的に造成された平坦地であるため、背後は崖のようになっている。

 「如意寺幅」によると、般若堂は桧皮葺入母屋造の方3間の建造物で、周囲に縁を廻らせる。「図説」によると、般若堂は宝厳院の本堂と位置づけられており、般若堂には金泥の大般若経一部(600巻)が納められており、衆僧は毎日転読(てんどく。経典を題名・巻数のみ読み、空中で翻転させて略読したと見なすこと)して怠ることがなかったという(『寺門伝記補録』巻第9、聖跡部丁、諸堂記目録、如意寺図説)

 現在の般若堂跡は礎石跡が残存しており、3間で1辺12m四方の建造物があったことが推測される。この間数は「如意寺幅」の般若堂跡と一致しており、ここが般若堂跡であることが確認される。

 宝厳院は「如意寺幅」によると、般若堂のほかに神倉社・満山護法・鐘楼といった建造物が確認されるが、これらの正確な位置については明らかではない。


宝厳院般若堂跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)



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