もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第68回 流血の成田空港反対闘争


   新国際空港反対同盟支援の学生と警官隊の衝突を伝える
   朝日新聞(1968年4月1日付)




 米軍王子野戦病院開設問題と並行する形で、この時期、取材に追われたのは成田空港問 題だ。まさに「きょうは王子、あすは成田」といった日々だった。

 成田空港問題の発端は、一九六六年(昭和四十一年)七月三日の佐藤栄作内閣による閣 議決定だった。新東京国際空港を千葉県成田市三里塚町を中心とする地区に建設するとい う決定である。
 政府は「羽田空港が飽和状態になった」として、六二年から、新しい大型の国際空港を建 設する用地をさがしていた。六五年には、千葉県富里地区に内定したが、現地住民が強く反 対し、建設を強行すれば流血の惨事も予想される情勢になった。このため、佐藤首相の裁 断で富里地区に隣接する三里塚案に変更、空港の規模も当初計画の半分以下に縮小し た。
 新空港の面積は一〇六〇ヘクタール。内訳は成田市九七二ヘクタール(九二%)、芝山町 七三ヘクタール(七%)、大栄町一五ヘクタール(一%)。買収という手続きが必要ない国有 地と県有地が、合わせて三二%を占める。このことも、三里塚が新空港の建設地に適してい るとされた理由だった。が、民有地にある約二百五十戸の移転が必要、とされた。また、民 有地の六〇%が畑なので、政府は農業を続ける人のために代替地をあっせんすると発表し た。
 新空港には四〇〇〇メートル、二五〇〇メートルの滑走路が一本ずつ建設される。完成は 五年後の七一年三月。七〇年度中には少なくとも四〇〇〇メートル滑走路一本を完成させ る、とされた。
 これに対し、地元住民から「地元に相談もなく一方的に決めるとは。われわれは先祖伝来 の農地を手放したくない」との声が上がり、地元の約一〇〇〇戸、約三〇〇〇人の農民によ って「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」(戸村一作委員長)が結成された。

 本格的な工事は六七年十月十日から始まった。この日明け方、新東京国際空港公団は警 官隊千五百人の出動を求めて空港敷地内に外郭測量用のクイを三本、打ち込んだ。これに 対し、反対同盟側は社会、共産両党の地方議員団、労組員、農民ら約千百四十人がクイ打 ち阻止を図ったが、警官隊に排除され、測量隊によりクイが打ち込まれた。
 クイ打ち作業にあたって、報道各社は大規模な取材態勢を敷いた。朝日新聞は、前夜から 東京本社の社会、写真、連絡、航空、運輸、編集庶務の各部や千葉支局、近隣の通信局か ら計約六十人を現地に送り込んだ。成田市三里塚の大竹旅館に取材本部が設けられた。 私も前夜から取材本部につめた。
 広大な空港予定地。見渡す限り、落花生や野菜の畑だ。いかにも肥沃な農地という感じ。 そこを、入り組んだ農道が縦横に走る。反対派はクイ打ちが予定される地点に至る農道に 集結していたが、そこに警官隊と測量隊が到着し、もみあいになった。排除された農民らは 土や小石を投げて抵抗した。このため、警官側にけが人が出た。
 別のクイ打ち予定地点では、老人たちが地面に座り込んでいた。三人一組の警官が、一 人ひとりを抱えて運び出し、クイが打たれた。お題目を唱える老婆、「おれたちの土地を… …」と地面にしがみつく老人。老人たちの目には涙があった。悔しそうな老人たちの表情が 忘れられない。

 公団は、三本のクイを打ち込んだが、実際は一本でも打ち込めれば成功と考えていた。そ れだけに、三本とも打ち込めたことを「予想外の成功」と受け取り、「空港建設への突破口が 開けた」と、幹部の表情も明るかった。しかし、こうした楽観的な展望も、短期間で一転する。 反対同盟が反代々木系学生との提携に踏み切り、反対闘争を強めることになったからであ る。
 反対同盟と反代々木系の三派全学連の初めての共闘は六八年二月二十六日に成田市 営球場で行われた「三里塚空港実力粉砕二・二六現地総決起集会」だった。これには、約千 六百人(警察調べ)が参加。集会後のデモ行進で、学生多数が高台にある成田市役所と公 団成田分室に突入を図り、警備の警官隊と衝突、警官側に三百六十人、デモ隊側に三十三 人のけが人がでた。これには、頭に重傷を負った戸村一作反対同盟委員長も含まれてい た。
 戸村は無教会派のクリスチャンで、農機具商を営んでいた。農民らに請われて反対同盟の 委員長になった。戸村の負傷は、反対同盟員に衝撃を与え、同盟員をいっそう結束させた。 戸村は、自宅わきに巨大な看板を建てた。そこには、警官隊に殴打されて頭から血を流して いる戸村の絵が描かれていた。この看板は、反対同盟にとって成田闘争のシンボルとなっ た。
 三月十日には、やはり市営球場で、反対同盟と反代々木系の労働者組織、反戦青年委員 会共催の「成田空港反対三・一〇集会」が開かれ、約四千五百人(警察調べ)が集まった。う ち三派全学連の学生約千人が角材や投石で公団分室への突入を図り、警官隊と衝突して 百九十八人が逮捕された。負傷者は双方で約五百人にのぼった。
 三月三十一日には、三里塚第二公園で、反対同盟と三派全学連共催の「成田空港反対 三・三一共闘集会」が開かれ、約二千四百人(警察調べ)が集まった。うち学生千人が成田 市役所・公団成田分室に向かってデモ行進し、市役所前に警官隊がつくった阻止線(バリケ ード)と向かい合った。学生の一部はバリケードを破って、市役所・公団分室への突入を図 り、これを阻もうとした警官隊と激しく衝突した。学生五十一人が公務執行妨害罪などで逮捕 され、四十三人が負傷した。負傷者の内訳は警官二十三人、学生十九人、報道関係者一 人。

 この日夜、埼玉の自宅に帰り、着替えのためズボンを脱ごうとして、右足のすねのあたりが 破れているのに気づいた。脱いでみると、ズボンの裏側にねっとりとした黒いタール状のもの がこびりついている。乾いた血のりだった。で、右足のすねを見ると、穴があいている。穴の 中に赤い肉が見えた。
 とっさに、私は「そうだ、あの時だな」と思い至った。そういえば、成田市役所前の、学生と 警官隊の攻防戦を取材中、前方から大小の石が雨あられと飛んできたのだ。
 この日、バリケードを挟んで学生集団と警官隊が激しい攻防を繰り返したが、私は、警官 隊の後方にいた。長崎県佐世保での米空母エンタープライズ寄港阻止闘争の取材では、規 制された学生の側にいて警官隊による警棒の乱打を浴び、負傷したことから、この日は警官 隊の後ろにおれば、警官隊による実力行使に巻き込まれることはあるまいと考えたからであ る。しかし、学生たちが警官隊に向かって投げた石が前方から飛んできた。私は身をかわし ながら、それを避けていたのだが、一つが私の右すねに当たったのだった。仕事に夢中だっ たからだろうか、その時は気がつかなかった。痛みも感じなかった。
 翌朝、近くの医院へ行った。二針縫った。鋭く尖った石塊だったのだろう。ズボンを引き裂 いたうえ、すねに突き刺さり、肉をえぐりとったのだった。が、石が骨に当たらなかったのは 不幸中の幸い。もう数ミリそれていたら、骨折は必至だった。
 このけがのことは、上司には報告しなかった。「お前、またけがをしたのか」と言われるの がいやだったからである。「佐世保で警官に殴られたことによるけががまだ完全に治ってい ないのに、こんどは学生にやられた。まさに満身創痍。報道の第一線で働くということは、時 として危険極まりないことなんだ」。そんな感慨にひたったものだ。
 右足がひどく重かったが、一日も休まず、現場取材に出かけて行った。成田でけがをした 翌日も、王子で反代々木系学生による米軍野戦病院開設反対デモがあったからである。
 いまでも、右足のすねに傷痕がある。

 ところで、反対同盟が反代々木系の学生や労働者の戦闘力に注目して彼らとの提携を強 めるにつれて、反代々木系と敵対関係にある共産党は反対同盟から離れ、社会党も距離を 置くようになった。そして、反代々木系勢力はその実力闘争を一段とエスカレートさせていっ た。
 彼らにとって、成田での行動は自分たちの土地を守ろうとする農民への支援闘争であるば かりでなく、軍事空港阻止の闘いでもあった。当時、反代々木系学生集団のリーダーが語っ たものだ。「日本では、民間空港といえども、いったん出来てしまえば、日米安保条約がある 限り、米軍によって軍事的に利用されかねない。であれば、なんとしても開港を阻止せねば」
 関西の大学在学中に反代々木系学生の一人として成田闘争に参加し、公務執行妨害罪 で逮捕されたことのある、いま機械メーカー勤務の男性が語る。「あのころ、ぼくの耳にはベ トナム人の叫びが聞こえていた。彼らは、民族の独立を求め、侵略してきた米国軍隊の高性 能の近代兵器に対し小銃で立ち向かっていた。それも、サンダルばきで。いたたまれない気 持ちだった。一人の人間として、彼らと連帯しなくてはと思った」
 エスカレートする成田空港反対闘争にも、ベトナム戦争が濃い影を落としていたのである。 もちろん、彼らにとっては、反体制運動、反権力闘争の一環でもあったが。(二〇〇六年二 月十八日記)





トップへ
戻る
前へ
次へ