暮らしの道具

ヘチマたわし鋳掛(いかけ)蠅帳(はいちょう) 水枕ミカン箱保温・保冷ジャー手回し洗濯機ほうきワンピース型紙オブラートタワー写真用三角コーナーへちまコンパクトミラーおしろい粉ねじしめ錠ラーメンどんぶりくじらのひげ糸巻きバリカン廃物利用五百種ジュラルミン 防虫剤の袋カーテンの留め金具有線放送アルミ洗濯バサミいずみ買い物かご薬箱しんし洗濯板黒電話ハエたたきひのし噴霧器まな板手洗い器箱ずし真空管乾電池応接間8ミリフィルム歯磨きペナント

 

ヘチマたわし

 ヘチマは糸瓜と表記され、インド原産のウリ科の蔓性植物。一年草。日本には江戸時代頃に伝わったとされている。バネ状にのびるまきひげが木や他の植物、支柱に絡みつくように枝葉を伸ばしていく。実は細長く、きゅうりを太らせたようなプロポーションである。  ヘチマは成熟すると強い繊維が発達する。その実全体を腐らせてなかの繊維のみの状態にして「たわし」として活用された。特にヘチマは栽培も比較的容易で家庭で作られることも多かった。

鋳掛(いかけ)

 フライパン、やかん、バケツ、洗面器、たらいなど、油や水といった液体を蓄えて使う金属製の道具は暮らしに欠かせないものである。それだけに、日々使用するものがほとんどで、使用頻度は高く、ゆえに穴が開いたり、ひびが入ったりということも多い。鍋に穴が開いたら煮炊きはできない。そこで、穴の開いたところや傷んだところを切り抜いて、ブリキや金属をあて、小さな穴は鋲やハンダで固定して金槌でたたいて平坦にする。  鋳掛という方法で穴をふさぎ、長く使うのが一般的であった。語源は金属を「鋳て」(溶かして)「かける」から「いかけ」である。  


 
 

蠅帳(はいちょう) ハエから食べ物守る 保管場所として重宝

 最近は生活環境も衛生的になり、ハエの数も減ってきたように思われるが、人とハエとの間には長い戦いの歴史があり、さまざまな駆除方法が考えられてきた。
 方法には二種類ある。
 一つはハエを積極的に撃退する方法だ。最もポピュラーなのはハエたたき。「ハエ取り棒」は、先端がロート状に開いたガラス管の道具で、球状の手持ち部分に水や酢を入れ、天井などにいるハエを捕まえる。粘着材のついた「ハエ取りリボン」、ハエが入ると出られなくなる「ハエ取り器」と呼ばれるトラップなどもよく用いられた。  写真の蠅帳(はいちょう)は、攻撃ではなく、守備のための道具だ。何のことはない、ハエが入らないように、金網を張った食物や食器置きの台所用具だ。しかし、実に重宝されたようである。
 冷蔵庫などが普及する前は、食べ物を保管するためになくてはならないモノだったと聞く。現在よりはるかに多く飛び回っていたハエを寄せ付けないのと同時に、網は風通しが良いので、保存場所として優れていた。  

水枕

 発熱を伴う疾患では、熱を冷ますための工夫が古くから行われてきた。基本的には冷たい水や氷を使う。寝た状態で前頭部を冷やすには氷のうが用いられ、後頭部を冷やすには水枕が使われる。
 写真の水枕は昭和30年代後半に購入され、使われない状態で残されていたものを資料館に寄贈していただいた。頭を乗せる部分が凹型になっており、頭が安定するようである。
 水枕の歴史は古く、明治時代にはゴム製の枕が作られていた。国産初の水枕は、明治36~37年に、兵庫県のラバー商会が製造した。この水枕は、布にゴムのりを塗って、枕の形に張り合わせたものであった。
 大正12年には、国産初のシームレス(継ぎ目がない)タイプの水枕が開発された。2枚のゴム板を挟んで熱を加え、溶かしてゴムの袋を作り、これによって水枕は堅牢(けんろう)となり、水漏れなく長持ちするようになった。  


 
 

ミカン箱

 「ミカン箱」と聞くと、写真のような木箱を思い出す。「ミカン箱やリンゴ箱を机の代わりにして勉強していたんだ」という話もよく耳にする。
 資料館では、このミカン箱をテーマにした展示会を開いたことがある。タイトルは「屋根裏の蜜柑(みかん)箱は宝箱」である。
 なぜ、古びた木箱が宝箱なのか。古い民家を取り壊す際に、資料になりそうなものを提供いただいているが、屋根裏や納屋などから、このミカン箱に収められた戦前の教科書や皿、茶わん、レコードなど、かつての暮らしぶりを現代に伝える資料が出てくるからである。
 そうして残されていたものが、その家の歴史や生活を物語るからで、ミカン箱は、それを現在まで保存してきた宝の箱といえる。中身とは別に“わき役”である箱自体も大切であり、懐かしさを感じる。  

保温・保冷ジャー

 基本的には、魔法瓶や水筒を大きくしたもの。中はガラス製で鏡面になっており、のぞきこむと自分の顔が小さくゆがんで映る。
 写真のジャーは、実際には使わないまま押し入れにしまわれていたそうで、3,100円という定価表示札や取扱説明書も、箱の中に残されていた。検査責任証によると、昭和36年2月に製造されている。説明書には「ご家庭の必需品 強力魔法ひつ」と記されており、ご飯を保温するのが主な使い道だったようだ。
 製品自体も懐かしいが、説明書の「強力魔法ひつ」などの表現・表記にも懐かしさを感じる。  


 
 

手回し洗濯器

地球儀のように球形の物体に脚と手回し用のハンドルが取り付けられたもの。球体はアルミ製で直径約35センチ、上部に15センチほどの取り外しできる蓋が付いている。一見すると近未来的な造形で用途不明であるが、これは洗濯をするための道具である。ただし、「機」ではなく「器」、洗濯器である。右側に取り付けられたハンドルを回転させることで、球体のなかに入れた洗濯物を攪拌し汚れを落とすというものである。
 昭和30年頃に発売されたもので梱包されていたダンボール箱には「かもめマジックホーム洗濯器」と記されている。さらに、「人工衛星型」とネーミングされている。
 昭和30年頃といえば、三種の神器として電気洗濯機が急速に普及し始めていた頃であり、電気洗濯機他の電化製品の普及により、家庭での電気使用料も急激に増加し家計における電気代の負担が重くなってもいた頃でもある。
 そんな時に、電気を使わない洗濯器として発売されたようである。古くは、同じようなスタイルで木製の樽を使った洗濯器が欧米で使われていたようだ。洗濯の歴史を知る上で貴重な資料でもある。    

ほうき

 古くから日常生活で使う道具の素材には、自然のなかで採取できる樹木や植物などがよく使われる。道具を作るために、素材となる植物を栽培することもある。木材はいうまでもないが、竹や草なども大切な素材である。日本家屋の象徴ともいえる畳の表はイグサという植物から作られている。最近の畳のなかみはスチロールなどが用いられているが、かつては、稲藁が主体であった。ほとんどが植物製である。  写真のほうきは、いずれも植物から作られている昔から使われている典型的な箒だ。両者とも座敷箒として用いられる。右側は、いね科のホウキ草とも呼ばれるホウキモロコシが材料で、左側はやし科のシュロの幹の繊維を使ったものだ。もち手には竹が使われている。
 それぞれ素材となる細長い植物や繊維を巧みに束ねて掃きやすい形に整えられている。地域や用途によって形や大きさは様々である。箒は素材や作り方によって重さやしなり方に違いがあり、掃き具合も異なってくる。
 このほか、箒の材料としては、ホウキギという草があり、あかざ科ホウキギ属の一年草で、「とんぶり」がとれる。また、竹の枝を束ねた竹箒はホウキギと並んで庭箒の定番である。
 ホウキは使用していくと先のほうから擦れて短くなっていく、自然素材であるからこそ、ホウキ自らが削れることで、畳や板の間を傷めることなく掃除ができるのだろう。    


 
 

ワンピース

 写真は40年から50年ほど前のワンピースである。左は黒地にカトレアだろうか、花柄がデザインされた生地でゆったりとした身ごろをとったワンピースである。右は渋めの赤、青、緑色などの縦のストライプ生地を用いウエストで切り替えてあり、ベルト通しが付けられている。おそらく同じ生地で作ったベルトがあったと思われる。ボタンは立体的で大きめのものが付けられている。いずれもひざ上くらいの丈の短いワンピースである。
一見すると、このワンピースを着て街歩きをしても新しさを感じさせるデザインである。仕立てを見ると、既製品ではなくおそらく型紙や雑誌をもとに自身で縫製したもののようだ。
 着物などは大切に保管され、世代を超えて受け継がれていくという側面があり残っているが、こうした昭和30年代から40年代ころの洋服、特に日常的に着用するようなものや子ども服などは捨てられてしまうことが多く、貴重なものとなっている。    

型紙

 写真左は、昭和26年6月号の「主婦之友」の付録で流行スタイル350種、夏の婦人子供男子服という特集である。右は、ワンピースの実物大型紙である。
付録を広げていくと、有名洋裁家がデザインした夏の婦人服がカラーで掲載され、後半にはその仕立て方が型紙とともに詳細に記されている。50年以上前の流行のはずが、今見ても新鮮さを覚える。
映画やテレビドラマなどで昭和20年代から30年代頃を時代背景とした作品が、多く見られる昨今、私たちは、知らず知らずのうちにこの時代のファッションをあらためて目にし、知らない世代には、新鮮なデザインとして焼きついているとも思われる。
 こうした過去の服飾関係の雑誌や型紙は、当時の流行を知る資料として、実に貴重なものである。なぜなら、これらの型紙に従って服を仕立てれば、その時代の流行スタイルをそのまま再現できるのである。    


 
 

オブラート

オブラートはヨーロッパで開発され、明治時代に日本に伝わったようだ。今のように紙よりも薄いものではなく、硬く、せんべいオブラートとも呼ばれていたようだ。
その後、さまざまな改良が施され、薄くて水により溶けやすく、口に含んでも違和感のないオブラートが開発された。
写真の円形の金属製の入れ物は、オブラートが入っていたもの。ふたを閉めても3㎜ほどの厚みに100枚のオブラートが封入されていた。その薄さに驚かされる。昭和20年代から30年代頃のものと思われる。
オブラートは薬を飲むのに使われるほか、飴菓子などをくるんで互いが付かないように利用されている。九州のおみやげとしても有名なボンタン飴などにオブラートが使われている。
ストレートな物言いではなく、表現を和らげ、相手を刺激しないような言い方のことを「オブラートに包んだような」という。そんな表現もあまり耳にしなくなった。    

タワー

 写真は、左から東京タワー、名古屋テレビ塔、大阪の通天閣のおみやげ品である。金属製のそれぞれのタワーは重量感がある。最近ではプラスチック製のものが主流となっているようだ。いずれも昭和30年代のおみやげ品である。 名古屋のテレビ塔が昭和29年、現在の通天閣は昭和31年、東京タワーは昭和33年に完成した。今でこそ名古屋のテレビ塔周辺は高層のビルが立ち並んでいるが、昭和29年当時のテレビ塔の絵葉書を見ると、周辺にはまだ木造建築の建物が広がっており時代の移り変わりを感じさせる。建設当時は、それぞれのタワーはそれぞれの地域のシンボリックな建築物としてそびえ立つ巨大なものに見えただろう。 これらの3つの塔は、内藤多仲(たちゅう)という1人の人物によって設計された。地震の多い日本の耐震構造理論を提示し、鉄塔を数多く設計した『塔博士』といわれる。    


 
 

写真用三角コーナー

 明治時代から昭和初期頃の古いアルバムを広げると真っ黒の台紙にモノクロ写真が貼りこまれている。アルバムのサイズはさまざまであるが、B5サイズくらいで横長のものをよく見かける。こうしたアルバムに写真を糊で直接台紙に貼る場合と、写真のように四隅をとめる紙製のコーナーを用いる場合とがある。 写真用コーナーを使うと、写真に糊をつけることなく、台紙に止めることができる。再び取り外すことができ写真をいためることがない。 写真コーナーにはいろんなタイプのものがあり、オーソドックスなのは止めた際、三角形が表に見えるタイプである。三角形の部分に写真の4つの角を差し込むものだ。 写真のタイプは、3ミリほどの帯状にとまるタイプで半円形をしている。これは、大正時代から昭和初期頃のものである。実際に写真を挟み込むと額縁をつけたようで美しい仕上がりとなっている。写真を引き立てるための工夫が、形や色、デザインに見られる。 昭和30年代から40年代にかけては、裏面にシールが付いたビニール製の三角コーナーが主流となる。その後、台紙全体に接着面があり、写真を乗せてフィルムをかぶせるタイプが流行した。このタイプは、写真を台紙上で自由にレイアウトすることができ重宝した。    

へちま

 瓢箪やヘチマなど古くから身近で栽培できる植物から道具を作るということが行われてきた。 瓢箪はその実の内部を腐らせて容器に、ヘチマは実全体を腐らせてなかの繊維のみの状態にして「たわし」として活用された。特にヘチマは栽培も比較的容易で家庭で作られることも多かったようだ。
ヘチマはたわしとして実が使われるだけでなく、家庭で作る化粧水としても有効活用されていた。長く伸びた蔓を地上30から40センチ程度の位置で切り、その切り口を一升瓶などに差し込んでおくと液体が溜まる。いわゆるヘチマ水と呼ばれるものである。ヘチマ水には保湿効果があり化粧水としてよく用いられた。 ヘチマ水を使った製品としての化粧水やクリームなども古くから販売されている。歴史民俗資料館には、ラベルをうまくビンや紙製のラベルからはがし取り、台紙に張り込んだものが提供されている。その台紙をめくっていくと写真のように昭和の初めの頃と思われるヘチマコロンというラベルが見受けられる。ビンの表、裏そのほか小さなラベルまでうまくはがしてコレクションしてある。
最近では家庭でヘチマを栽培している様子もあまり見なくなったが、時おり我が家では今でも毎年栽培しているという話を耳にすることがある。    


 
 

コンパクトミラー

 写真は化粧用のコンパクトミラーで昭和20年代から40年代頃に使われたものである。携帯用の白粉、ファンデーションケースとしてのコンパクト。あけると下側に白粉、上側に鏡が取り付けられている。
 その名のとおり、携帯に適したサイズで、手のひらにのせて鏡を見ながら化粧ができる。 
 コンパクトの表面には、さまざまなデコレーションやおしゃれな色が使われている。
円形や四角形、八角形などさまざまな形に加え、べっ甲、七宝、螺鈿、真珠、彫金などさまざまなデコレーションが施されていて美しい。    

おしろい粉

 写真は、おしろい粉のパッケージである。昭和初期から昭和 30 年代のもので紙製の円形、四角形の入れ物である。大きさはちょうど手のひらに載るサイズで直径 8 セ ンチ前後のものが多い。化粧品のパッケージは、まさにおしゃれであり、デザイン性に富んでいる。
 化粧の歴史を紐解くと、古代にさかのぼり、人類の歴史に相当する長きもののようである。日本においても、時代ごとに流行がある。化粧品のコマーシャルを見ていると最近ではその変化も四季以上の移り変わりをしているようだ。
  化粧には時代や流行の変化はあるが、ファンデーションとしてのおしろい粉の機能は今も昔も同じようである。    


 
 

ねじしめ錠

 近年、空き巣や強盗などのニュースは毎日のように目、耳にする。家の防犯に関するグッズもさまざまなものが販売されている。なかでも基本的な強化策として進入を防ぐための鍵の増設や、特殊な鍵への交換がよく行われているようである。
写真の鍵は、木製フレームのガラス窓などでよく使われていたねじしめ錠である。名前のとおり、ねじを締める要領で2枚の窓を固定することであかないようにするものだ。窓枠の一方には、ねじを挿入される受け金具が、もう一方にはねじ状の金具が装填されている。2枚の窓枠が閉じた状態でこの金具が一致するようになっている。 昭和30年代後半くらいから、アルミサッシが普及し、こうしたねじしめ錠は姿を消しつつある。
木造の家屋では、窓の建てつけが悪くなると、当然この金具の位置がずれ、うまく鍵をかけられない事態も頻発した。巧みに窓枠を傾けて無理やり鍵をしめたという経験を持って見える方も多いだろう。
このタイプの錠前には、ねじの軸部が折れ曲がる構造や、ねじ部分が丸い球に挿入されフレキシブルに動くものなどがある。 ガラガラ、ピシャッとガラス窓をしめ、そのあとカラッカラッとねじを回して鍵を閉める音が耳に残っている。    

ラーメンどんぶり

 写真は、一般家庭でもよく使われていた丼で、内側の周辺には雷文、底には喜ぶという文字が2つ重なった双喜模様が描かれ、側面には龍と鳳凰が描かれている。 昭和30年代頃に使われていたようで、なじみの方も多いかもしれない。 雷文はその名のごとく、稲妻をあらわしている。中国古代の青銅器などにも見られる伝統的な模様である。龍と鳳凰も同様に中国の伝統的な絵柄で陶磁器にも頻繁に登場する。そういう意味では、中華料理、中華そばの味を高める器ともいえる。 この雷文、龍、鳳凰などは緑・青・赤・黄色の4色で描かれている。実際には、印判を手おししたものが基調となる。それぞれの柄や文字が描かれたスタンプに顔料を付けて押し、龍の体や鳳凰の羽などは筆を走らせている。 丼の形状は高台からの立ち上がりはやや丸みを帯び、口縁に向けてはストレートに広がっており、内容量は最近用いられる膨らみのある丼より少なめである。口径19.5センチ、高さ6センチである。    


 
 

くじらのひげ

 写真の釣竿の穂先は、ワカサギ釣り用のものでこうした繊細な当たりを感じ取るために鯨のひげを竿状に加工したものである。昭和30年頃のもの。鯨のひげは、細く竹ひご状態に加工すると強い反発力を生み出す優れた素材として古くから利用されてきた。カラクリ人形等の動力となるゼンマイや西洋では落下傘状に広がるスカートの芯や工芸品に加工された。 もう一方の靴ベラは三重県二見ヶ浦のみやげ物で鯨のひげを加工したものだ。プラスチックと異なり鯨の体の一部であるひげは、放置しておくと虫が付き、この靴べらのように虫食い状態となる。鯨のひげである証でもある。 鯨のひげというと、人でいうアゴヒゲのようなものを想像するが、元は板状のもので、この板が何枚も並びフィルターのようになっており、鯨が小魚などを捕食した後、一緒に入り込んだ海水を、このフィルターを通して排出し、魚のみを食するためのザル・タモのようなものである。学校の給食に鯨の竜田揚げなどが頻繁に登場していた頃のものである。    

糸巻き

お裁縫という言葉を聞くと、おばあちゃんが日当たりのよい縁側で座布団に座って繕い物をしている情景が浮かんでくる。かたわらには、針山や裁縫箱が置かれていた。裁縫箱には、いくつかの引き出しがあって、鋏や指ぬき、針、糸などが上手に収納されていた。
写真は、そうした裁縫箱に収められていた糸巻きである。木製のものや、紙製、セルロイド製のものなどがある。
四角形の四隅が少し突き出しており、糸をうまくかけることができる。糸巻きにはこのほかにも大小、絵柄などさまざまなものがある。裁縫箱の引き出しの中には、こうしたかわいらしい糸巻きを見つけることができる。    


 
 

バリカン

 写真は昭和30年代に理髪店で使われていたバリカンである。バリカンは今でも現役の道具である。
 このバリカンの名称は、理髪器具としては「クリッパー」と言うようで、バリカンという名称は、明治時代に日本に持ち込まれた際、フランスのバリカン・エ・マール製造所のものであったことからバリカンがポピュラーな名前として定着したようだ。
バリカンを握るスピードとバリカンを頭の上で進めるスピードが食い違うと、バリカンに髪の毛が挟まり引っ張られ痛い思いを子どもの頃体験した方も多いことだろう。
 先般、20代、30代の女性にバリカンを見せてこれを知っているかを質問したところ、意外にも知らないという方が多かったことに驚いた。確かに、髪形を丸刈りにするということは、ほとんど男性が主であったことから当然かもしれない。最近は、中学校も長髪の学校が増え、子どもの頭をバリカンで虎刈りにしてしまうこともなくなったようだ。    

廃物利用五百種

「もったいない」という言葉、表現が盛んに用いられている。身近な暮らしのなかでのもったいないから、莫大な費用を必要とするものまで、さまざまな事柄に「もったいない」が使われている。 ノーベル平和賞を受賞したケニア出身のワンガリ・マータイ氏が、日本人の「もったいない」の考え方が環境問題に大切だと提唱したことから、この言葉が世界に広がりつつあるようだ。 もったいないの基本は、やはり無駄にしないこと。一見捨てるべきものを何かに有効活用するということ、いわゆるリサイクルである。 写真は「廃物利用五百種」という昭和13年に発刊されたもので、第二次世界大戦に向かう頃、モノを粗末にしない、貴重な資源として再利用していこうという主旨のものである。 木製のみかん箱は、本箱や食器棚、斜めにカットしてちりとりに。缶詰の空き缶は、空襲時に明かりが外に漏れないよう燈火管制用に電球に取り付ける。ワイシャツは、袖口を鍋つかみに、ほかをカーテンやエプロンに。雨傘の骨は、洗濯物を干すハンガーに、布はエプロンや子どもの散髪をする際のカバーにといった具合で生活のなかで消耗されていく品々を2度、3度と再利用しようとアイデアを提示している。    


 
 

ジュラルミン

 ジュラルミンは、アルミニウムと銅、マグネシウムなどとの合金で、軽さを特性とするアルミに銅などを加えることにより強度と軽量化を両立した。その特性から航空機やケースの材料に使われる。 ジュラルミンは、第二次世界大戦中、各国の戦闘機の製造に伴って大量に使用された。日本のゼロ戦にも用いられていた材料である。 戦争が終結してからしばらくの間、戦闘機等に使用されていたジュラルミンを再利用して様々な道具が作られた。 写真のパン焼き器、すり鉢、アイロンはそんな時期に作られたものである。戦時下では、武器の生産のため、鉄でできた日用品やお寺の鐘などあらゆるものが供出の対象となり、暮らしのなかから姿を消した。代わりに陶器で作られた湯たんぽやアイロン等が使われていた。終戦後は、兵器が解体され、その素材であるジュラルミンが再び日用雑器として人々の手に渡った。 私たちの身近な道具は、時に、歴史や経済と深く結びついているということを、こうした道具から感じとることができる。    

防虫剤の袋

写真は、衣類用の防虫剤の袋で、セロハン製であろうか?この袋の中に白い樟脳が2個入っていた。 赤、黄、緑など色とりどりの透明の袋は、色合いとともに、触ったときのパリパリとした手触りが懐かしい。 防虫剤の袋の端を一つ一つはさみでカットし木製やトタンでできた衣装ケースやたんすにほうり込んでいた。 今市販されている防虫剤の多くは、袋から出してそのまま引き出しに投入するタイプのものである。防虫剤を入れる際に、ハサミで端を切り取っていたということも、こうした、ごみと紙一重の資料から読み取ったり、思い起こしたりすることができる。    


 
 

カーテンの留め金具

写真は、昭和30年代頃までだろうか、よく使われていたカーテンの留め金具である。リング状の金具でカーテンとこの金具を糸でまつって取り付けるもの。他は、リングの開口部でカーテンをはさむようにして取り付けるものである。 いずれも、窓などカーテンを取り付ける場所に針金を張り、その針金にリングを通すというものだ。今使われているカーテンレールのようにはスムースには開け閉めができなかった。分厚い生地のカーテンではなく、薄手で軽い生地が適していたようだ。  

有線放送

写真は、かつて大活躍していた有線放送用の電話機である。一見すると黒電話のようであるが、ダイヤルが付いているはずの部分には、丸いスピーカーが取り付けられている。これは、農業協同組合、いわゆる農協などによって設置されていたもので特定の地域内の固定電話兼放送設備である。一般的には「有線放送」「有線電話」多くは「有線」と称されていた。 昭和30年代頃に各地で増設され、昭和40年代に入りピークをむかえ、その後、各種電話事業の進展に伴い、廃止される地域が多くなっていった。 遠足や運動会などの行事で雨が降りそうな際、有線をとおして連絡を受けることができた。また、受話器が外れていると、我が家の番号が呼び出されたり、台風情報や時間を知らせる音楽放送など、様々な情報が伝えられた。    


 
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