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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

毒親ー個人の家族からの解放

 キャリル・マクブライド著『毒になる母―自己愛マザーに苦しむ子供』(原本は2008年刊、私の手持ちは2015年の講談社+α文庫)を機に、「毒親」問題をめぐる書物は国内外を問わず山のように出版されるようになりました。

 私の同業者の中でも、母親からの支配と呪縛に苦しみ続けている大学生、とくに女子大生の問題がしばしば話題に上ります。様々なことに頑張り続けているのですが、自己肯定感を持てず、自分らしさに誇りをもって社会への参入に進めないなど、母親に由来する生き辛さを抱えていることに共通点が認められます。

 「毒親」に関する多くの議論の共通点は、マクブライドの著書の副題にある母親の「自己愛」問題です。子育てという親子の相互作用において、子どもを愛でる「対象愛」よりも「自己愛」に偏重し、自分の必要や情緒的ニーズを満たすことを常に優先する関与によって、子どもを傷つけていくのです。

 かつての似非科学である「母源病」(久徳重盛著『母源病』、サンマーク出版、1979年)は、不登校などの子どもの問題の原因は、母性に欠ける母親に原因があるとする「母性神話」の議論です。これは、多くの母親に罪意識を強いただけの「罪深い」主張で、「毒母」の議論とは全く異なります。

 マクブライドによると、「毒母」のいる家庭では父親の存在意義はなくなっており、母を中心として父親は「衛星のように」ぐるぐる回っているだけで、母親の子どもに対する支配や悪影響を問題とするのではなく、母親を守る側に立って家庭には何ら問題が無いかのように振舞うと言います。

 複数のきょうだいで子どもたちが構成されていて、その中に不登校やメンタルヘルスに関連する問題を抱えた子どもが出現すると、父母はともに親としての無力をさらけ出し、実質的にはネグレクトの状態に子どもを置きがちとなって、きょうだいの中の誰かが「親に代わって」孤軍奮闘を強いられることもしばしば起こります。

 マリー=フランス・イルゴイエンヌ著『モラル・ハラスメント-人を傷つけずにはいられない』(紀伊國屋書店、1999年)も、グローバリゼーションの進展が大競争を勝ち抜いて生き残ろうとする個人の強迫性を産み出し、さまざまな職場で自己愛に偏重した人間によるハラスメントが広がりを見せてきた問題を指摘しています。

 生活の単位である家族においても同様の文脈があるでしょう。格差の拡大が進む現実を前にして家族の生活防衛をしようとする強迫性が、子どもへの過剰な教育熱を産み出す問題は、すでに指摘されてきたと思います。子どものニーズや発達の必要を優先するよりも、親の自己愛に囚われた「過剰な教育熱」となっている場合があるでしょう。

 自分の安心と世間体を確保するための「お受験」が、子どもの将来の「自立」に心を砕いているかのようにみせかけていて、その実は親の自己愛の所産でしかないなどは、そこら中に転がっています。

 毒親の問題は、日常生活世界の中では、さらに多様な表れをみせます。

 情緒的に未成熟な母親が娘を友だちのように扱っていることが、娘の自立を阻んでいることもあるでしょう。親が子どもとの境界線を設けずに同列化しているため、家族の中は「親がいない」「子どもしかいない」ような様相を呈します。

 障害のあるきょうだいの子育てが絡んで、家族相互のコミュニケーションがうまく進まない中で、障害のある子どもの世話や養護の役割を親の配下で別の子どもに背負わしたり、分担させたりすることもあります。このような機能不全状態が、障害のある人のきょうだいに共依存や生き辛さをもたらしていく問題は、これまでに指摘されてきました(ナイスハート基金『障害のある人のきょうだいへの調査報告書』、2008年。この文献はインターネットから閲覧・ダウンロードできます)。

 ところが、このような「毒親」の問題は、日々の親子の様子から「虐待」と認められることはほとんど全くありません。しかし、親による長期的な支配と悪影響に起因して、子どもの人生にかかわる「生き辛さ」を背負わされ、場合によっては、心身の自律さえ阻まれて、メンタルヘルス上の困難を抱え込むことが珍しくないとすると、実質的な心理的虐待に該当する行為とはいえないのでしょうか。

 一見したところ、「虐待」ではなく、せいぜい「不適切な養育」としか認知されないが、実は子どもに取り返しのつかない悪影響を及ぼしているのです。この問題を真正面から取り上げたものが、友田明美著『子どもの脳をき傷つける親たち』(NHK出版新書523、2017年)です。

 小児精神科医の友田さんによると、「不適切な養育=マルトリートメント」によって脳が物理的に変形することを写真付きで解説します。程度のひどい暴力的な虐待ではなく、ネグレクトや子どもによる威嚇・脅迫・罵倒によって、あるいはまた、子どもの前で繰り広げられる夫婦げんかによっても、このような脳の変化が生起することを明らかにしています。

 先週のブログで指摘したように、子育てが私化されて「子育てをどのようにするのかは親の勝手でしょ」という方向に振れる問題は、まことに深刻な事態をもたらしていると考えるべきでしょう。

 セルフヘルプ・グループの活動をしている精神障害のある友人は、多くの障害のある人の体験に基づいて、「社会における差別や偏見の中で、もっとも深刻で悲惨な事態は、家族による差別と虐待だ」と言います。

 親が無理解や世間体を盾にして、障害のある人にとって必要な医療や社会的なサービスにつながることにためらい、場合によっては、阻もうとすることさえあることを「最も深刻な事態」だと指摘します。同様の問題指摘は、多くの肢体不自由の人たちからも聞いていますし、支援付意思決定が当たり前とはなっていないわが国では、知的障害のある人にも共通する問題です。

 知的障害のある子を持つある親御さんは、「入所施設を拡充してほしい」と、ある公的な場で発言をされました。その方は、障害者自立支援法の施行と「地域生活移行」の促進に向けて決議まで出した団体の幹部なので、改めて私が真意をお尋ねしてみたのです。

 すると、「私が何とか元気で面倒を見ることのできる間は、通所とグループホームでいいの。でも、目をかけてやることができなくなったら、やっぱり入所施設。これがほとんどの親の本音です」とおっしゃいました。障害のある人への介護・養護にかかわる家族責任と表裏一体をなす「施設入所」の問題の克服は、地域生活移行を声高に叫んだところで、実態が変わる訳ではありません。

 このようにみてくると、わが国においては、障害のある無しにかかわらず、個人の家族からの解放が重要な課題なのではないでしょうか。子育てや介護の主たる責任が家族に置かれることによって、今や家族が生き辛さを産出する工場となっているのかも知れません。

 このような問題を親の身勝手さや自己愛的な親のあり方に帰結させたところで、自己愛から脱却することのできる親は少数の例外でしょうし、脳まで傷つけられた子どもが自分の問題を克服することには著しい困難がつきまといます。ましてや、自分たちの生活防衛の必要から、自己愛への固執に傾きがちとなるのは、当然の成り行きだと思います。

 子に対する親のあり方を不断に問い続けることと併せて、子どもの問題を親のあり方の問題に還元することなく、社会的に克服を目指す視点が必要です。

 むしろ、個人に軸足をおいたライフサイクルを展望しうる社会システムの転換が求められているように思います。そのような意味で、事実婚への流れや介護・福祉サービスにおけるダイレクト・ペイメントの推進がもっと重視されるべきです。この辺りを深めたい方には、落合恵美子著『21世紀家族へ(第3版)-家族の戦後体制の見かた・超えかた』(有斐閣選書、2004年)をおすすめします。

日本知的障害者福祉協会障害者施設部会全国大会

 さて、先週は日本知的障害者福祉協会の第6回障害者支援施設部会全国大会に参加するために高知に赴きました。障害のある人の介護・養護の責任から家族を解放し、障害のある人が尊厳のある個人として家族から解放されるための地域支援システムの拠点として、障害者支援施設は自らの果たすべき役割を見据えるべきだと考えます。

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