Web版「五中−瑞陵60周年記念誌」


第3部 終戦から現在まで

  1.敗戦のウズの中で    2.最後の五中生    3.瑞陵高校の誕生
  4.新しい校風    5.瑞陵の移り変わり



1. 敗戦のウズの中で

<8月15日>  真夏の太陽がギラギラと輝き、工場の周辺は手入れの行きとどかない雑草の草いきれでムッとしていた。昭和20年8月15日正午―――。熱田中学校生徒の大半は、勤労動員先の軍需工場の一隅で、終戦に関する重大放送に耳を傾けた。三菱航空機道徳工場に、熱田造兵廠に、そして疎開工場の大府、高岡にと、2年生以上はすべて軍需工場に散っていた。
  ポッダム宣言の受諾―――終戦を告げる玉音放送は、学業を投げうち、聖戦完遂(当時はこう信じていた)のため、油と汗にまみれて働いていた五中生の心を大きくゆさぶった。日本が負けたのだ。ある生徒は心の支えを失ってぼう然となり、ある生徒はこれで工場生活と別れを告げると別の感慨を抱いた。
  最高気温36.5℃、湿度76%という猛暑の中、先生も生徒も、重苦しいムードに包まれ、家路を急いだ。誰もがむっと口をとじ、物を言うのを避けていた。この気持ちをどう表現したらよいのか、誰にもわからなかった。すべてが空しかった。
  その日から22年たったいま、当時の学校で、8月15日をどう受けとめ、どのようにすごしただろうか。関係者の話しから拾ってみよう。なお終戦時の動員先はつぎのようであった。
 ▽5年=(年限短縮のため4年卒業となっていたが、進学者以外は引き続き残っていた)三菱空気大府工場
 ▽4年=熱田造兵廠
 ▽ 3年=同(三クラス)富山県・高岡工場(二クラス)
 ▽ 2年=三菱航空機大府工場、一部は矢作製鉄所
 ▽1年=勤労奉仕・学校授業


鈴木貞一校長

 [校長・鈴木貞一]三菱航空機の一部が大府へ疎開するにつれ、生徒も移動することになったので、同行していた。玉音放送―――日本が敗けたのだ。B29空襲による大被害にもしおたれず、まだまだやる気でいただけに、一大ショックだった。放心したようになり、もうどうでもよい気になった。生徒は担任の先生にまかせ、というより放ったらかしたまま家へ帰り、寝てしまった。帰りの車中、兵隊が悲憤こう慨していたのを今でも覚えている。夕方からは灯火管制をといたが、B29が一機、超低空で名古屋の上空を飛び、偵察していたのが憎らしく、印象的だった。
 [教諭・中野利貞]3年生とともに熱田の造兵廠へ出ていた。もっとも半数は夜勤のため、でていなかった。工場前の道に全員が集まり、正午の重大放送に聞き入った。雑音がひどく、何をいっているのかさっぱりわからなかった。工場長は「ソ連が参戦したので奮励努力せよというこよだろう」といい、やがて午後の作業にはいった。そのうち夜勤組の生徒がとんできて「日本が負けた」と知らせた。それが全工場へ伝わり、誰からともなく作業がいっせいにピタリととまった。無気味な一瞬だった。急に負けたという実感が湧き深刻になった。しかし、工場側は帰してくれないので、午後5時まで残り、点呼して帰った。夜勤組の生徒は出てこなかった。われわれも翌日からは出勤しなかった。しかし、ぼう然として、習慣通り灯火管制だけは数日続けた。

<授業再開>  20年8月15日は、日本を大きく変えたスタートの日である。もっともそれがどう変わるのか、見通すことのできる日本人はだれもいなかった。五中−熱田中が40年の伝統に終止符を打ち、瑞陵高として新しく脱皮しようなど、当時の職員、生徒の誰が予想しえただろうか。
  8月21日学徒の動員が解除された。しかし、すでに16日から誰いうとなく、動員先の工場へは出勤せず、残務整理の先生、生徒が一部工場へ出て事務に当たっただけである。終戦後のことについて多くの記憶はあいまいだ。鈴木校長は「しばらく生徒は休ませ、9月からぼつぼつ授業を始めたようだ」と回顧する。当時の先生、生徒も焼け跡整理や畑になった運動場の手入れなどをしたりして、台風シーズンのころは勉強していたような気がするといっている。
  ともかく、形の上からは9月から授業を開始している。熱田中学は理科教室二むねが戦災にあっただけだから、校舎の心配はまず少なかったが、全焼して他で仮授業するところもあった。名古屋市内の他の被災した中等学校を見てみると――。

 ▽愛知一中(一部焼失)自校で授業▽明倫中(半焼)自校で▽中川中(全焼)中村国民学校で▽惟信中(一部焼失)自校で▽愛知中(一部倒壊)自校で▽南山中(一部焼失)自校で▽県一女(半焼)市一女で▽県二女(全焼)南押切国民学校で▽市二女(全焼)旗屋国民学校で▽市三女(全焼)筒井国民学校で▽椙山一女(全焼)椙山女専付属校で▽中京女(全焼)往還町に建築中▽桜花女(ほぼ全焼)自校と建中寺で▽瑞穂女(全焼)広路国民学校で▽金城女専付属(ほぼ全焼)自校で▽愛工(全焼)愛商で▽中川工(ほぼ全焼)自校で▽名工(半焼)自校で▽名商(一部焼失)自校で▽貿易商(転用中)愛商で▽中京商(全焼)吹上国民学校で▽前津商(全焼)市二商で▽東邦商(半焼)自校で▽金城商(全焼)東邦商で▽名商二女(疎開)市一で▽実務女(全焼)交渉中▽中京女商(全焼)吹上国民学校で▽名女商(全焼)市一で▽名市一工(全焼)高蔵国民学校で

  授業は再開したものの、戦後の混乱と人手不足は、学校を圏外にはしてくれなかった。中学生に勤労奉仕を求めなければならない面も多かった。その一つに市電の車掌があった。戦時中から明倫中、享栄商、市二、市三、の生徒が勤労動員で従事していたが、女子生徒がやめたあとを、熱田中が当たることになった。これには最上級生の4年生が出たが、みんなけっこうたのしんでいた。いまでいえば、カッコいいというところか。下級生はこれに便乗し、タダで市電に乗った連中も多く、厳しくいう者はケチだなぞかげ口をいったりしていた。
  焼け跡整理も仕事の一つ。なにしろ40機以上のB29超重爆撃機による大空襲13回、偵察、宣伝ビラ撤布もいれれば103回という空襲で、名古屋の中心部はすっかり焼け野が原。市の47%、12万5千戸が灰となり、52万人が焼け出されていた。御園座の東、いまの白川公園や栄交差点付近など、進駐米軍受け入れや都心部の整備のため、勤労奉仕が続いた。食糧増産のため学校菜園を続けたグループもいる。市電の運転手、車掌は10月15日までで打ち切られた。

<天井のない教室>  学校へは戻ったものの、そこには懐かしい学び舎の面影は少なく、荒れはてた姿が残っていた。焼い弾を防ぐため天井は抜かれ、廷焼防止のため渡りろうかはとりこわされたまま。窓ガラスは破れほうだい。しかも残ったガラスもよく盗まれるので、中央に大きく「五中」のマークが入れてある仕末。天井がないため、隣の教室から講義の声や笑い声まで聞こえてくる。創設期のバラック校舎をしのばせる授業風景が続いた。
  渡りろうかがないため、雨の日はカサをさしたり、雨がっぱをかぶって授業の教室へ出かける先生の姿も見られる。当然、校長の任務は荒れはてた学校の復旧が大きな仕事となった。前に見たように、戦災を受けた市内の中等学校は多い。それに終戦直後のこととして建設資材は極度に不足している。自校で授業を再開」できた熱田中学はまだまだ良い部類だったのだ。
  この時、関係者の間で今だに惜しまれている事態が一つ起きていた。戦災で失った理科教室の復旧問題である。ただちに復旧にかかるかどうかで、職員会議が重ねられた。すぐ実施すべきだという意見と、国全体がもうすこし建て直ってから、本格的建設のものをつくるべきだという意見にわかれた。結局、後者が採用された。すぐ着工するには、難関が多すぎたのだ。主体となるべき県は焼失校の復旧などで、全面的に頼ることはできず、学校が中心となり、父兄、卒業生から寄付を仰ぐことにならざるを得ない。建設資材、理科実験器具も入手難だ。
  教室復旧が延期されたことは、のち新制高校設立、統合によって、愛知商業学校校舎(現瑞陵高)へ移転しなければならない最大の原因となった。五中と瑞陵が結ばれる上で、校舎、校庭が変わったことが、旧五中生に疎外感をあたえていることは否定できない。心の結びつきとなる五中山、住みなれた木造校舎。こうした形が失われたことは、いまだに残念なことをしたと、当時の職員は回雇している。
  話しは元へ戻るが、とにかく授業は再開された。召集、徴用の先生方もぼつぼつ帰校してくる。疎開していた生徒や軍関係の学校へ進んだ生徒の復学も始まった。久しぶりに学校は活気を取り戻した。もっとも先生、生徒の不足は続く。なにしろ開戦前、138万人に達していた名古屋の人口が、20年11月の人口調査で60万人を割っていたから、当然のことである。各学年は5クラス編成を縮小し、4クラス編成となる。これでも戦災被害の少なかった熱田、瑞穂などの区に生徒が多かったため、名古屋市内では恵まれた方だった。5年がア行、4年がカ行、3年がサ行、2年がタ行、1年がナ行でつけられていた各クラスは、再編成されてオ組・コ組・ソ組・ト組・ノ組は姿を消す。23年ごろまでは五教室があいたままだった。
  軍関係学校から復校した生徒は、当分在校生との間に違和感を抱いていた。元気のいい連中が下級生を集めて“お説法”する姿が見られた。下級生もやがて反発を示す。軍関係の復学者だけを集めた特別クラスも一時あるほどだった。
  敗戦の影響は各方面に見られた。空襲で家を失った先生方が、一時学校で生活する。生徒控室、柔道場、守衛室などに柔道場の畳をひいて、五世帯が寝起きしていた。鈴木校長もその一人で、焼け残りの材木で校長公舎がつくられてた。


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2. 最後の五中生

<八高入学率1位>  「熱田中学は八高への進学が一番いい学校だと聞いてきました」岐阜県から戦後しばらくして転校してきた生徒が、ある先生に語った。22、3年は上級学校、なかでも第八高等学校への進学率がよく、一中、明倫中をしのいでいた。いまでいえば名大への入学者がもっとも多いということになる。
  戦前の八高入学者は一中約70人、熱田、明倫各30人というところだった。それが戦後しばらくは熱田55人、一中40人、明倫30人と順位が入れかわっていた。(ある先生の記憶よると熱田48人、一中41人、明倫39人である)勉強のできなかった戦争中と、教育界に混乱が起きた時期にあって、五中生がいち早く勉強と取り組んだ結果である。
  熱田、瑞穂という比較的戦災の少なかった地区に住む生徒が多かったことも影響しているのだろう。陸士、海兵など軍関係学校へ進んだ生徒が復学し、前にもましたファイトで勉強に向かったことも原因の一つだ。もっとも一部には八高へ無試験編入もあった。しかし、混乱の中にありながらも、熱心に授業に当った先生の努力が大きく物のをいったことを忘れてはならない。


建物は昔のままでも、内部は荒れ果てていた −熱田中正面玄関−

  「敵を知り己れを知れば百戦危うからず」と、勤労動員中もひまを見つけて英語を教えた先生。戦後もニューズ・ウイークリーなど英字新聞や雑誌をとり寄せて教材とした先生など、生徒に基礎学力をつけることを第一の使命と考えた先生が多かった。生徒もこれに答えて勉強に取り組んだ。しかし、敗戦のウズは学園にも及び、静かに勉強さえしていればいいという時代は去ろうとしていた。学習内容の変化ばかりでなく、学園の民主化という基礎方針は、旧制中学、五中の伝統にも変動を与えずにはおかなかった。
  勉強といっても、現代の受験勉強とはおよそ異質なものだった。それぞれが好きなことに熱中していた。これはあらゆる面にいえることで、文芸活動にこる者、自治会運動に情熱を傾ける者、スポーツにうち込む者と、それぞれの特徴を生かす方面に力を入れた。灰色だった戦時中の思いをふり切るように、何かに若さをぶつけて行った。
  とくに精神の空白を埋めようという意欲は盛んだった。乏しい書物を求めて古本屋あさりが続いた。新制中学の教科書さえ整のわぬほどの用紙不足だった。国民全体が文字に飢え、粗悪な仙花紙に何か印刷してあれば、それだけで売れた時代である。本格的な出版はまだ望めず、古本屋が全盛をきわめていた。
  学生の間では、基本的なもの、クラシックなものが人気を呼んだ。もう一度、基礎から考え直そうというのだ。そこで哲学がクローズアップされた。西田幾多郎の「善の研究」、阿部次郎の「三太郎の日記」などがむさぼり読まれ、幾多郎全集の発売には、徹夜の行列が続いた。文学青年グループは、ペラペラな雑誌「展望」に連載された太宰治の「斜陽」を回覧し、新鮮な感覚にひかれていった。若さにとって、すべてが新鮮で生き生きしたものに思われた。その何かに打ち込むことが、たまらなく貴重であった。受験勉強の網の目にしばられている現在とくらべ、まだ“よき時代”であったといえよう。
  なお、戦時中の特例であった中等学校以上の修行年限一年短縮は21年2月、元へ戻され、中等学校5年、高校、大学予科3年となった。19年から22年にかけての卒業生は新制高校への切り替えもあって、複雑な卒業となった。


<スミ塗り教科書>  20年8月30日、厚木飛行場ヘ第一歩を踏みしめた連合軍最高司令官マッカーサー元師は、大日本帝国の解体と日本民主化に対する指令をつぎつぎと発した。10月GHQ(連合軍総司令部)が指令した五大改革の一つに、学校教育の民主化があげられる。これに当たったのがCIE(民間情報教育局)であり、教育制度の改革を声明する。
  改革の第一弾は、修身、日本歴史および地理の授業停止で、年末に指令される。21年3月には米国教育使節団が来日し、報告書を提出した。アメリカにならった義務教育9ヵ年の六・三制が誕生する基礎をつくった。六・三制は当然これまでの中等、高等教育を改革せずにはいない。旧制中学校としての五中−熱田中も、新しく瑞陵高として生まれ替わるべく方向づけられた。


進駐軍の命令で奉安殿は撤去されることになった

  名古屋市への米占領軍進駐はやや遅れ、20年10月26日、第25師団2万7千5百人が名古屋港へ上陸する。司令部は広小路の大和ビル。軍政がしかれ第30軍政部、のちの愛知軍政部が絶対的な権限を持って愛知県名古屋市に君臨する。教育に関してはオブライエン少佐が担当し、御真影の奉還、奉安殿の撤去がまず実施された。各校長が県庁地下の金庫室、あるいは東加茂郡旭村敷島国民学校の疎開先に、泊まり込んでまで守った御真影も、いまや一片の反古となろうとした。
  ザラ紙の教科書も、軍国色を一掃するため、不適当とされた部分に墨をぬり、切りとり、ノリづけをおこなってつぎはぎとなった。それは敗戦日本の教育を象徴していた。やがて禁止された修身・国史・地理の教科書回収も始まる。
  一方、先生に対する資格審査もあり、復員軍人の授業停止、軍歴調査が行われた。愛知県教職員適格審査委員会も開かれ、21年末までに90人の不適格者が出された。いわゆる「追放」である。県によってかなりまちまちだったこの審査もかなりの厳しさだったが、幸い熱田中には影響を及ぼさなかった。戦時中、国策に協力し、大いに活躍した教員が、追放の二字におびえ、生徒の前でもすっかりおとなしくしている時、民主化のかけ声と共に、連合軍が推進していた組合活動は、教職員の中にも活発となった。熱田中学も時の流れに敏感であった。いち早く教員組合を結成、中堅職員が中心となり大いに発言した。
  「できるだけ意見をかわそう。しかし決まったことは守り、かげでブツブツいうな」こういう申し合わせがされ、職員会議でも活発な意見が出された。本格的な授業体制にはいった21年の新学期、新しく高師、大学を出た先生が多くはいったことも大きな刺激だった。鈴木校長もしばしば突きあげられた。職員の間にまず新風が吹き込まれた。
  38年の総選挙に共産党から当選した加藤進氏が熱田中、八高で講師をしたのもこのころ。歴史の授業で、歴史とは何ぞや、つまり唯物史観だけをおしえており、たまりかねた校長が辞任を求めるといった時代である。

<生徒自治会>
  こうした先生の動きや、目ざましい共産党の進出が生徒に影響を及ぼさないはずはない。社会科学研究会のグループができ、青年共産同盟に参加する生徒も、20人余りいて「天皇制打倒」などを訴えたりした。クラブとして認めろといち早く校長室へ交渉に行ったり、各種大会に参加したりして、先生の神経をとがらせたものだ。すでに20年11月、学校報国団は改組し校友会組織とするよう県から指示されていたが、生徒の自主的な組織としての自治会ができるのは、21年秋になってからである。
  級長、副級長制がなくなり、クラス選出の自治委員ができたのは、21年4月と思われる。もっとも、先生の指導により学校の方針としてスタートしている。これら自治委員が集まって熱田中学校自治会に統一するのに半年近い月日を必要とした。野球部、バレー部、音楽部といった校友会のグループもでき始めた。自治会にせよ、クラブ活動にせよ熱心なものは熱心だが、無関心組も多い。ただすべてが自主的であった事実は忘れてならない。各部とも5人から10人そこそこの同好の士が集まり、顧問の先生を迎えて小規模ながらもスタートして行く。
  22年秋、生徒の企画、運営する文化祭、運動会が行われた。自治会の主催ということになっているが、各部が集まってそれぞれ絵の展覧会を開いたり、音楽会をしたりまた運動会をしたりということだった。もちろん参加は自由で、家にこもってガリ勉という生徒もかなりいた。

<創立40周年>
  熱田中学を名乗る最後の年、22年11月3日創立40周年記念式典が行われた。翌23年4月からは新制高校として生まれ変わることは決定している。40周年が旧制中学の最後を飾るものになることに、五中関係者は深い感慨を覚えた。
  鈴木校長を中心に、記念事業をしようではないかと五中会員の有志が集まって相談を始めたのが22年7月30日のこと。何分にも、戦後の混乱期で名簿も整っていない時代だけに、連絡その他困難は多かった。しかし8月31日の各回代表実行委員会で、記念事業と役員が決められた。記念式典を最大の行事とし、校内学芸会、講演会、同窓会総会、運動会、音楽会などが計画される。役員として記念事業協賛会長に篠田信一(三回)副会長に松村静雄(六回)川本林造(十三回)の三氏が選ばれ、実行委員として200人、校内主任には辻晃一教諭(十九回・現名古屋市教委学校教育部長)当たった。五中会長である鈴木校長は京浜地区会員相談会に出席するため上京するなど、計画は進んだ。
  40周年記念式典は11月3日、母校講堂に1,400人を集めて開かれた。このうち五中会員である卒業生は200人、残りは生徒と父兄である。君が代合唱のあと、大塚初代校長はじめ物故会員に対し黙とうを捧げた。鈴木校長、篠田会長のあいさつのあと、勤続現・旧職員に謝恩金各1万円が贈られた。なかでももっとも長いのは小島鋭之助先生の勤続33年である。来賓として青柳愛知県知事、塚本名古屋市長、栗田八高校長、堀一中校長、外村父兄会長から祝辞が贈られ、生徒代表としては栗山康介があいさつした。
  「この荒れ果てた“講堂”というより“荒堂”で五中最後の記念祭を迎えるのは、しあわせであるような、悲しいような複雑な気持ちです」第1回卒業制佐治克己氏は回顧談のなかでこう述べ、集まった人たちに深い印象を与えた。亡びゆくものへの挽歌と、新しく生まれ出でようとするものへのほのかな不安が参会者の心を支配していた。「おお大和、瑞穂の国の……」五中校歌を全員が一語一語かみしめながら歌った。
  式典後も記念撮影、生徒対OB懇親運動会と、名ごりは尽きなかった。以後のスケジュールはつぎの通りである。
  ▽ 11月4日=校内記念学芸会、音楽会
  ▽ 11月5日=午前会員岡部金治郎博士の講演、午後同窓会総会
  ▽ 11月6、7日=校内運動会
  ▽ 11月9日=名宝文化会館で午前音楽会、午後会員江戸川乱歩氏記念講演会と同氏原作の映画
    「パレットナイフの殺人」上映
  22年当時としては、豪華な催しであったということができる。記念事業に協賛して会員から集められた寄付金で、23年1月には仮理科室の修復と理科備品の購入、2月には旧柔道部を改修して記念図書館とする工事が始められ、名簿も6月には完成している。つぎに記念行事の趣旨書から当時の状況をしのんでみよう。


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3.瑞陵高校の誕生

<まず熱田高校>
  22年4月、六・三制による新学制が発足した。新制中学校が開校したのである。連合軍による至上命令として、否応はなかった。校舎がない、先生が足らぬ、教科書が間に合わない。ないないずくしの新制中学であった。これより前、旧制中学側の先生には大きな動揺が起きた。半数は新制中学へ転出させられるという身分上のことである。だれもが表面きってイヤとはいわないが、内心の不安は隠せなかった。校長として転出する人はまだしも、平教員での異動は嫌われた。
  こうした事情を反映してか、新制中学へ移った先生は予想を大きく下回わる153人(愛知県下)で、全体の4%と圧倒的に少なかった。熱田中学からは数人にとまどった。しかし、翌23年からは新制高校の発足が予定されている。この内容がまたさっぱりつかめていない。いずれにせよ新制中学のワクを大幅に破ったものということだけは予想された。先生たちの動揺は続く、その反面では組合活動が本格化し、若い新しいエネルギーが盛りあがった。
  新制高校のテストケースとして22年6月、愛知一中に特別科(実験科)が設けられた。全国でも初めての試みである。これは愛知の教育界に“ジョンソン旋風”をまき起こした、東海北陸軍政部のジョンソン民間情報部教育課長の示唆によるものと言われる。愛知・岐阜・三重・静岡・石川・富山の6県を管轄とし、東片端に事務所を置いた東海北陸軍政部は、新学制の実施に当り、古いカラをすべて破るよう徹底的に指導した。制度に、人事に、その影響は大きかった。  ただ新制高校のスタートは、新制中学の発足で忙殺されている県教育部の手がまわりかね、23年4月には、旧制中学の看板を書き替えただけのものだった。
  40年の伝統を持つ五中−熱田中学も、こうして「愛知県立熱田高等学校」と二たび看板をかえる。もっともこの名称もわずか半年のはかない命だった。名前は替わっても、内容は旧制中学とほとんど変わらなかった。先生も、生徒も、そして校舎も――――。準備の整わぬ間の暫定的な措置で、新入生のないかわり、5年生は進学するか、卒業するか、新制高校3年生として残るか、いずれかの道を選んだ。高校、高専、大学も翌年は新制大学に切り替えられることになっている。六・三・三・四制へ転換する混乱期だ。4年生は旧制高校へ進学する最後のチャンスが終わった。3年生は「熱田高等学校併設中学校卒業」の免状を受けとった。2年生は併設中学校在学中ということで3年生に進む。いずれも形だけのことだが、やがて来るべき大きな変化を予測するに足るものだった。


<校舎移転に反対>
  当時、名古屋市内の県立旧制中学(普通科)は六校あった。愛知一中、明倫中、熱田中、昭和中、中川中、惟信中である。いずれも高校と名だけは変えた。この6人の校長のうち一中、明倫は退職、惟信が追放となり、残る3人が地方転出となった。すでに教職員適格審査委員会は、校長、視学を除く90人の不適格者を21年末に決定している。6校長の異動は総仕上げという形で行われた。


小川卓爾校長

  こうして23年6月23日付で、熱田中学最後の第五代校長鈴木貞一氏は刈谷南高へ去り、熱田高校の後任には小川卓爾氏が校長に就任する。五中関係者がいまだに残念に思っている校舎移転問題が、この直後に起きる。「高校統合」がそれである。
  高校統合は新制中学校の校舎難が直接のきっかけとなって起きた。ほとんどの新制中学は独立校舎を持たず、小学校の間借り生活ですごしている。翌年にはまた新入生があり、いまの倍となる。新校舎の建築には限度がある。そこで目をつけられたのが旧制中学。5学年が3学年になり、余裕がでるというのである。
  東海北陸軍政部のジョンソン教育課長の強い指示もあり、統合問題は急速に進められた。9月中には移転を完成せよという。統合は機械的に進められた。地区的に旧制中学をまとめ、近くにある県立、市立中学は2、3校を一つにした。小学区制を前提とした統合である。7月頃から具体案をめぐって、各校さまざまの思惑から運動が始まった。
  名古屋市内にあった25の旧制中等学校は半数の12校に縮小される。男女共学の線に沿い、旧制中学と旧制高女が合併した形の多い中で、熱田だけは愛商、貿易商、名南との合併となり、しかも校舎は熱田高では狭いので、愛商で発足する計画が出された。
  五中関係の教職員は大きな不満を抱いた。辻晃一,篠田武清氏ら有志職員を中心に、反対の意見書をつくり、反対運動に乗り出す。愛商では敷地が狭く、将来不便になる、たとえ校舎は古くても設備は熱田高校のほうがいいというのが理由である教育委員会に陳情もした。県庁に教育部長、総務部長,五中関係、愛商関係と地元の代表が集まっての協議会も持たれ、一時熱田高の校舎を使う方へ傾いたこともあった。
  しかし、最大で唯一の理由である校舎の狭さが、最後までたたった。わずか三教室だけ差があるのと、建築年次が違うというのである。焼失した理科教室の復旧を延ばしたことが、ここで大きく響いた。それに反対運動といっても、一部教職員の動きにとどまったことは、運動に限界を与えた。代わったばかりの校長を反対の先頭にたてることはできない。前年、五中の最後を前にして40周年記念式典を祝ったばかりの五中会同窓会も積極的な動きは見せなかった。一部の県、市会議員は動いたが、必ずしも熱田中のためではなかった。あらゆる方面から連絡をとり合った強力な運動を進めるまでに至らなかったことが、いまとなって後悔されている。
  生徒も統合には敏感であった。講堂で生徒大会を開き、反対を決議した。一中、明倫が市三、県一と合併し、熱田だけが愛商と合併させられるのはおかしいという点と、愛商校舎へ移転する点の2つである。代表者は県庁を訪れ、副知事に面会して決議を伝えたが、そこまでで終る。
  校舎が愛商へ移ったことは、五中卒業生が瑞陵高に親近感を持ちにくい、もっとも大きな原因となる。同窓会幹部がのちに五中、瑞陵同窓会一本化を決めても、会員の中に反対意見が多かったのもこのためである。
  ともかく反対運動は実を結ばず、9月1日に統合が発表され、20日までに移転させられた。住みなれた校舎に別れをつげ、机をかついで裏門から隣の愛商校舎へ移動して行った先生や生徒の胸には、感慨深いものがあった。
  参考までに、当時の統合校を記しておこう。(○印が残る校舎、旧制中学当時の名称で表わす)○一中・市三、○県一・明倫、○県二・中川、○中川・惟信(中川は分割される)○名南商・春日野、○名商・市二、○愛商・熱田・名南・貿易商、○昭和、○市二商・市一工・市工芸・市女商、○愛工・千種工、○明徳工・八剣工

<愛商校舎で>
  23年10月、旧愛商校舎で熱田高、愛商、貿易商、名南高の4校が集まって授業が開始された。校舎も窓にはガラスが少なく、校庭は荒れたまま。統合したといっても、4校が同じ校舎にはいったというだけで、授業は別々。融和しようにも、方法がないといったところだった。学校の名もまだなかった。


五中(上)、熱田高(中)、瑞陵高(下)の校章は類似点を秘めて作られた

  熱田高にわずか在籍した小川校長は旭丘へ転出し、新しく早川甚三氏が校長として着任した。瑞陵初代校長である。他の3校長はそのまま残り、それぞれの学校から来た職員、生徒をみていた。
  何しろ2千6百人の大世帯へと一気にふくれあがったのだ。教職員だけで130人となった。県下一、いや日本でも一のマンモス校であった。まとまりがつくのは容易でない。生徒同士のトラブルも絶えなかった。女学校といっしょになった学校と違い、熱田中、愛商というそれぞれ伝統もあり、特色も違う者同士が一つ屋根の下に集まったのだから、無理もない。職員間でも顔を知らず、ろうかでタバコを吸っていた若い先生を生徒と間違え、どなったりするような失敗談まで生まれる。
  新しい学校は誕生したものの、まず名前をつけ、校章をきめなければならない。全生徒職員から校名を募集し、全生徒の投票で決めることになった。「瑞丘」「瑞穂ヶ丘」など多くの案が出された中から3回も決戦投票してようやく決まったのが「瑞陵」である。瑞陵は旧制八高の寮歌にもよく出る地名で、五中、愛商それぞれの応援歌にも登場する呼称である。旧八高から瑞陵へかけての一帯が「瑞穂ヶ丘」と呼ばれていたためだ。
  校名に続いて校章。これも図案を募集したものの思わしいのがなく、熱田高の美術担任だった山田光春教諭が手直しして、現在の「瑞」を図案化した校章となった。校章のマークは、熱田高の校章にそっくり当てはまる輪郭になっており、熱田高のものは五中の校章を元にしたものだっただけに、校名、校章ともに、五中に深い郷愁を秘めてできたものになった。  愛商校舎へ移ったものの、不満な熱田高生徒らは、できたばかりの校章を受けとると同時に窓から投げ棄てたり、ろうかをゲタばでき歩くなどのレジスタンスを示した。新しく赴任したばかりの早川校長も、五中出身者だけに、すぐ熱田中校舎への復帰運動を始めた。
  県庁と交渉し、旧五中敷地の北半分に入る予定の県立女子短大には事務局長と話し合って1年延期を認めさせ、すでに南半分に入っていた竹田中学(現瑞穂ヶ丘中学)には、明けてもらうよう話し合いを進めた。しかし、学校敷地はすでに市へ移管され、竹田中側が移転先がないと頑張って話しがまとまらず、そのうち早川校長の転任で復帰運動は立ち消えてしまう。
  すぐ使える校舎が足らないという理由で、愛商へ移転した統合だったが、半年後には小学区制が生まれ、意味はなくなってしまった。それに今では敷地が狭いため、運動場に悩むほか、耐火建築のため校舎改築もあと回しになるなど、不便も生じている。
  早川校長の着任が半年遅かったことは、県の将来への見通しの甘さと並び、五中・瑞陵の結びつきのうえで大きなマイナスであったことは否定できない。



<カンテラで授業>
  夜間部定時制の苦労も大きかった。22年4月には60人の募集に、予科練、少年兵帰りから復員者までまじり、250余人が志願する盛況だった。年齢も15歳から35歳までくらいとさまざま。  


昭和30年定時制の生徒に給食が行われるようになった。


完備した給食設備が昭和32年完成した。全国でも模範的なものといわれる。

  授業がまた大変だった。午後6時半ごろ、2時間目が始まるころから停電する。困ったあげく、携帯用カンテラが登場した。油は配給のヤシ油だった。黒板の両側にカンテラをぶらさげ、薄暗い光りの中での勉強は明治時代を思わせた。ヤシ油は冷えると固まるので持ち運びに便利で重宝がられた。
  試験の時は必ずロウソク持参することがしばらく続いた。こうした当時をしのんで「椰子(ヤシ)のともしび会」と名づけたクラス会も続いている。
  こんな時代で楽しかったこと。それはパンの特別配給があったことだ。貴重品だったパンが5円で手にはいった。黒くて堅いまずいパンだったが、それでも空腹は満たしてくれる。もっとも毎日は渡らず、3日に1個ぐらいの割だった。黒パンの順番がくるかこないかは出席率にも影響した。
  やがて“代返”ならぬ“代食”がはやり出す。欠席者の分をせしめようと、代わりに返事してパンを手に入れるようになった。このため当然渡るべきものも渡らなくなり、順序が乱れて黒パン争奪戦が始まったことさえある。
  食糧事情が好転するにつれ、まずさから評判が悪くなり、パン合戦となった。放課にパンを小さくちぎって誰彼かまわず投げ合う。教室の中を乱れとぶパンは、疲れた心身をいやす剤となっていた。のちにララ物資(アメリカからの援助物資)によるミルクの給食も始まる。定時制生徒には、たとえわずかでも、県の暖かい手がさしのべられた。
  停電の件は加藤吉彦定時制主事の尽力もあり、配電線が重要産業なみのA級線に切り替わり、かなり改善されて行った。
  23年10月の統合で、熱田、愛商の夜間部は統合され、瑞陵高校定時制として発足した。普通科、商業科各1クラスで、設備不足のため一時旧熱田高校舎を使ったこともある。
25年4月からは普通、商業各2クラスとなった。
  瑞陵高初代の定時制主事は“坊ちゃん”のあだ名で親しまれた加藤吉彦教諭で、大きな話しをしては職員や生徒を笑わせ、暗くなりがちな空気を引き出していた。  クラブ活動は活発で、26年東京で開かれた全国定時制弁論大会に愛知代表として出場した立松誠信君は、見事優勝し、この特長をのばして現在県会議員となっている。演劇部はとくに有名で、全国大会優勝、文部大臣賞を二度に渡って獲得し、その名を高めた。生活体験発表も全国大会へ出場している。


△GO TOP

4.新しい校風

<残る五中色>  昭和二十四年四月、新しい瑞陵高が再スタートした。学区制・共学制・総合性を三本の柱とし、学校差なくすことを目的とする、画期的な改革である。東海北陸軍政部ジョンソン教育課長の強力な指導がその背景にあった。旧制中学をそのまま延長した形での新制高校は、愛知、岐阜、三重、福井、石川、富山の六県下では姿を消す。新制高校が実質的にスタートしたのはこの時といってもいいだろう。
  熱田も一中も明倫も、全てが生徒の住所によって決められた学校へ散って行った。前年中学三年生が名ごりを惜しんで別れたようにー。瑞陵高は熱田区全部と瑞穂区のうち瑞穂小、高田小、御劔小、汐路小(山崎川以西)、田光中の各学区が、学区であった。総合制としては普通科、商業科、家庭科の三つが設けられた。完全な男女共学制も実施された。 集まった生徒はやはり出身中学、女学校のグループが自然にできあがり、それぞれのカラーを保ちながらも、じょじょに一つの瑞陵高を形成しようとしていた。あらゆる県立、市立校の生徒がいたが、なんといっても最大のグループであり、発言権を持っていたのが熱田中学出身者だった。生徒自治会は生徒会と名を変えたが、おもな役員は全て旧熱田中で占めた。クラス委員やクラブ・キャプテンも同じだった。
  先生も同時に入れ替わった。やはり住所を第一に配分し、専攻、経歴を多少考え、学校差のつかないように考慮し、前任校にとらわれぬ完全異動だった。現実にも移校と新制中への転出合わせて千百三十人で、全教員の六一lに及ぶという、愛知県教育界始まっていらいの大移動となった。すっかり面目を改めたとはいえ、瑞陵高にはやはり五中出身の先生がかなり残った。それに校長の早川甚三氏もやはり五中の先輩。


早川甚三校長



瑞陵高校創設期の教職員(昭和25年)

  五中出身の先生生徒が再発足した瑞陵高のシンとなったのはその後固まって行く瑞陵の校風に大きな影響を与えたことを否定するわけにゆかない。すべててが大きく変わったとはいえ、制度を動かすのは人である。新制高校の中には、旧制中学の色彩が、かなり残されていた。五中カラーが、他校の性格をミックスし、独自なものに転化してゆく。
  変わったといえば、男女共学になったことが大きかった。「男女七歳にして席を同じうせず」式で中学低学年まで過ごしてきた者にとっては、まさに一大変化である。フォークダンスも最初照れてなかなか進まなかったこともあった。一中、明倫、中川などが女学校と統合するのに、うらやみのまじった気持ちで見ていた熱田中生徒も、半年遅れて同じチャンスが与えられた。しかも、今度は混合クラス編成の完全実施である。
  これは女子生徒にとっても同じこと。クラブ活動にもある種の活気がみなぎった。交際もかなりフランクに行われたが、一対一の個人的つき合いはつまはじきされる傾向が強かった。このあたりの微妙な感情については、別学で女学生とつき合えば退学処分にされかねない戦前派のオールドボーイにも、小学校からずっと共学で育った戦後派の現代っ子にも理解しにくい面があるだろう。
  石坂洋次郎の「青い山脈」が、新鮮な感覚で受け、映画化され、主題歌が流行した時代のことである。やがて結婚にまで進んだカップルが数組でたのも過渡期の特徴であろうか。

<生徒の手で>
  クラス編成や授業もまた過渡期らしくかなり自由だった。クラス制に変わって、「ホーム・ルーム」という名がつけられた。どのルームになるかは先生の間で、男女半々、無差別に決められたが、生徒の希望でかなり自由に替わることができた。気の合った同士、出身校別のグループなどが替わり合い、原案からかなり変わった形になった。人気のある先生のところへ集まるということもあった。
  このため女子のとくに多い組や男子がほとんどのルームもできた。授業は講座制で、すきな科目を選択することになり、大学入試の科目に合わせ、しかも科目によっては先生を選ぶことも不可能ではなかった。授業が終わるたびにぞろぞろつぎの授業のある教室へ移動する風景は、大学の講座制とはまた違う独得なものであった。
  点の甘い先生、授業内容が充実した先生のところへ集まるのは自然の勢いで、多少の弊害もあたったようだ。教科書より第二読本を用いたり、独自に歴史や国語の原典を引用しての授業もあるなど、意欲的な先生もいた。受験中心、教科書第一主義のいまから見れば、夢のような話かもしれない。それでも、受験科目と関係のない時間には、内職と称して自分の勉強をするところは、今と変わっていない。校舎はおんぼろで、雨の日は天井のない渡りろうかを傘をさして渡ったりした。


クラブ活動は盛んだった(昭和25年)


初の修学旅行は、3年目にようやく行われた(昭和25年)

  おとなしく、権威に従うところがある反面、自由に行動し、先生をいじめるくせのあった熱田中生徒の中には、相変わらず意地の悪い質問をしたり、先生に議論をふきかける者も絶えなかった。とくに市立の女学校から来た先生の中には、職員室へ帰って憤慨している姿も見られたという。
  新しく寄せ集めた先生の中には、高校教育をどう進めてよいかとまどう人も多く、一面生徒の自主性尊重が叫ばれたので、生徒の活動はかなり自由であった。というより放任された点がなくもなかった。
  文化祭や運動会は全部生徒の手で運営された。クリスマスパーティーを教室で開いたりして、学校側は行き過ぎをチェックし、ブレーキ役に回ることも多かった。
  修学旅行が初めて行われたのは二十五年十月、第三回卒業生の時からである。生徒会の手でことしこそは行きたいものだと、一年近く前から委員会を設けて計画を始めた。最大の難関は、男女がともに修学旅行に出たことがないということだった。かなり長くもめ、「別々に行くなら、男女共学になった意味がない」などねばり、どうしても許さぬなら、直接県へ行って談判するとまでいい、結局は許可になった。
  同じ問題は他にも起きていたらしく、男女ともに修学旅行に出たのは、瑞陵が県下初めてだが同時に他でも一、二校実施したようだ。このあと県から修学旅行に関する通達が出されている。ようやく基準が決められる段階にきたわけである。
  スタート当時は、共産党の影響も及んでいた。二十四年秋、青年共産同盟に属する二十人ほどの生徒が中心となり、各高校に呼びかけて、瑞陵の講堂で授業料値上げ反対大会を開いたことがあった。これを聞きつけた東海北陸軍政部の係員がかけつけ、ただちに解散させた。人員整理、教員のレッドパージ、松川・下山・三鷹と重大事件が起き、日本が急激に右旋回しようとしていた時のことである。
  外出して不在だった早川校長は、ただちに軍政部へ出頭せよとの命令を受ける。軍政部へおもむいた早川校長は「責任をとれ」とつめよられた。しかし「事後の処理をするのが校長の責任だ。どう処置するかはまかせて欲しい」とつっぱね、その言い分が通って結局何の処分者も出さずに過ぎた。
  連合軍の干渉のもっとも厳しかった一時期で、愛知県も同年十月一日に、教員のレッドパージを実施、瑞陵高からもがい当者を一人出した。

<甲子園へ初出場>
  クラブ活動がかなり活発に行われ、学校に活気がみなぎり出した二十四年八月、野球部は、待望の甲子園に出場することができた。投手はのち中日ドラゴンズに入団した徳永喜久夫(三回生)で、愛知県大会ではやはり現ドラゴンズ・コーチ本多逸郎の投げる犬山高と対戦し、11−4で快勝している。


甲子園出場の瑞陵高エース徳永投手(昭和24年)


愛知県大会で優勝した野球部チーム(昭和24年)

  甲子園では一回戦で地元の芦屋高(兵庫)と対戦し、惜しくも敗退した。しかし、当時の野球熱はかなりのもので、大量応援こそは行かなかったが、みんながラジオにかじりついたものだ。二十五年春の選抜高校野球でも甲子園に出場した。同年夏の大会には三たび甲子園の土を踏んだが、またもや地元の北野高とぶつかり、3−2で惜敗。しかし二十四年秋、愛知県で開かれた国体では、硬式野球の決勝戦で宇都宮高を延長13回の末くだし、見事優勝をかちとっている。まさに瑞陵野球部の黄金時代であった。この後、数年は県大会で決勝または準決勝戦まで進むことがあった。
  スポーツではこのほかにハンドボールが強く、よく全国大会へ出場した。バドミントン、軟式庭球などAクラスのチームも多かった。よく遊びよく学べーを地で行った時代で、大学入試も、名大こそ旭丘・明和に及ばなかったものの、東大へは七人と県下1位で、クラブ活動に勉強にと学校としては創設期の活気にあふれていたといえよう。一面では入試もいまほど深刻な時代ではなく、まさに”よき時代”であったかも知れない。
  初代早川甚三校長は小さな物事にこだわらない自由人で、生徒の個性をのばし、自発活動を尊重していた結果が反映したものとみることができる。わずか一年半の任期ではあったが、瑞陵高の方向づけと基礎づくりに大きな影響を与えた。早川校長時代につくられた「生徒手帳」には、この方針が「本校の教育方針」によく表れているので、つぎにかかげてみよう。
 
   本校の教育方針
 
  日本国憲法。教育基準法、学校教育法等の精神に則り特に生徒の個性と人格を伸張発展させ平和な社会の形成者を育成するようにつとめる。
 
   生徒訓育方針
 1 生徒会並にクラブ活動を重視し、生徒の自発活動の分野を最大限に拡大する。
 2 自由を保証することによって責任を自覚せしめる。
 3 学校の諸行事や評価の仕事に生徒を参与させる。
 4 生徒自らによって守られる準則をつくらせる。
 5 生徒をしてなしとげた喜びや技能を発揮する喜びを味わせる。
 6 教師は生徒の問題解決を助け、よりよき行動を示唆し適切な忠告を与える。
 7 男女は相互に理解協力し、立派な社会人としての素質を養い、人類の進歩に貢献することを目的とする。従って男女生徒の交際は明朗にして常に公明を持し、相互の人権を尊重し、生徒としての本分を逸脱するようなことがあってはならない。
 8 懲戒(退学、停学、謹慎、譴責、訓戒等)=略=

<五中山会>
  終戦から学制改革に至る数年間は、先生にとっても生徒にとっても混乱と激動の時代であったが、時代の大勢に流されながらも、必至に新しい何物かをつかもうとした時でもあった。一応の落ち着きを取り戻した二十六、七年ごろから、熱田中学時代を懐かしむ数人の旧職員が集まって「恬然会」と称し、ささやかな集まりを続けた。これを聞きつけた人たちが、ひとつ皆にも呼びかけて、共通の思い出を語り合おうとできたのが「五中山会」である。
  幹事代表の竹中忠夫先生は、その間のいきさつをつぎのように述べられる。
  「私共ちょうど熱田中学が熱田高校から瑞陵高校と変わってきた時期に在職したものにとっては、新制高校になる前の旧制熱田中学の最後のことが忘れられない、しかも、当時が六十年の歴史の中でいろいろの意味で最盛期でなかったかと思う。というのは長い間の戦争がやっと終わって、周囲が虚脱と混乱の間にぼうぜんとしている内に、いち早く教育本然の姿に立ちかえったのが、熱田中学であったような気がする。
  当時は敏腕をうたわれた鈴木貞一校長のもとに、勤続二十四、五年という桑野孝之、後藤繁先生という五中を除いては生き甲斐を感じないという古強者をはじめ、多士済々の職員が元気はつらつの働き盛りの時であった。生徒諸君も名古屋の南部、知多、尾張一帯の優秀者を迎え、意気盛んなものがあった。
  その結果は運動や学習の方面に表われ、野球、バスケット、ハンドボールなど県下で優勝する部が続々と出た。進学に於いても、当時の一中、明倫を遥かにしのぎ、断然優位を占めた。その時のPTA会長近藤金弥氏が、PTAの会合で泣かんばかりに喜んでいられたのが、眼前に浮かんで来る。
  この勢を一撃のもとにくじいたのが、学制改革であった。その後の数年は誠に見るも無惨な混乱の時代であったように思う。この統合前の熱田中学を懐かしく思う心が、どこからともなく集まって、数人の旧職員の間に”恬然会”と称する集まりとして数年続いたのが、この”五中山会”の発生である」
  第一回の会合は三十年十月九日、千種区覚王山通りの公立共済組合・王山荘で開かれ、約四十人の旧職員が集まった。「五中山会」の名称は、三十三年、第三回の会合で、故堀勝治郎校長の提案によって生まれたという。会は毎年一回開かれることになり、会員の弔慰に関する申し合わせも決められた。それはお互いに老いて行くにつけ、せめて会員の死亡の際には、できるだけ全会員に通報し、会の名において一輪の花でも捧げようという、ささやかな友情の表れであった。
  年一回の会合ではあるが、旧職員がこの日を楽しみにし、ありし日の五中・熱田中をしのび、多くの卒業生の活躍ぶりを語り合うありさまは、回顧的といえばそれまでだが、五中を誇りに思い、生徒との対話に情熱を傾けた先生の多かったことを物語っている。ただ年とともに物故される会員が多く、発会当時の百二十名が、いまでは八十八名にまで減ってしまった。最初から毎年欠かさず出席し、昔変わらぬ元気な顔を見せていた「大砲さん」こと小島鋭之助氏が四十年の集まりから姿を消したことは寂しさを感じさせる。
  いまでは毎年六月の第一日曜日が定例回と決められ、場所も発会当時からの王山荘。同会では卒業生有志の応援出席を歓迎している。四十二年末現在の幹事は竹中忠夫氏=千種区鍋屋上野町九五七ノ一=を代表に、つぎの方々である。野村夏治(市教委事務局)伊神貫二、奥田二恵(以上、旭丘高)服部孝尹(菊里高)篠田武清(熱田高)福井光義(名南工)木村与平(椙山)桑野孝之(南山高)
 

5.瑞陵の移り変わり

<記念際の盛況>  「瑞陵の生徒は自由活発でのびのびしている」「あまり物事にこだわらずサッパリした面が強い」「おとなしいが権威に盲従せず、自主性が強い」−他校から瑞陵へ転任してきた先生、瑞陵から他へ移った先生方の瑞陵評である。もちろん、良い面での評価だけに反面「英智に欠け、スマートさがない」「妙な自意識が強く、反対のための反対も見られる」という苦言も聞かれる。しかし、こうした中にかつての五中の気風と似た面が強いと思う人もある。
  学校、生徒の動きにもう一度戻ってみよう。昭和二十九年は、学校にまとまりが生まれ、活気をとり戻した年とされる。第一に生徒会発行の自治会誌「瑞窓」の創刊があげられる。七月にプランがたてられ、翌三十年二月に発行の運びとなった。開校記念祭の盛りあがりが第二である。全生徒を収容できる講堂がないため、式典と音楽会を初めて校外へ持ち出し、市公会堂で挙行された。台風15号が襲い洞爺丸事件の起きた日に当たったため、停電下で実施され、ローソクの光の下での「ガイーヌ」演奏は幻想的でさえあった。


昭和30年に初めて発行、以来生徒会の手で毎年出されている自治会誌「瑞窓」


記念祭は年々盛んとなり、瑞陵高生のまとまりをつくる上で大いに役立った。仮装行列は有名となった。(昭和28年)


(昭和32年)


(昭和32年)


ボンファイヤー(昭和30年)


仮装行列(昭和32年)


棒倒し(昭和30年)


  記念祭運動会では、名物化した仮装行列と、応援合戦もコンクール形式にした。このため、熱は一段と高まり、受験勉強のためバラバラになりがちなクラスのまとまりに大きく役立った。ボンファイヤー(ファイヤー・ストリーム)も初めて登場する。 
  第3に逍遥歌、応援歌が生まれ、記念祭に応援団活動に歌われ、「瑞陵」意識を高めるのに役立った。これら一連の出来事は、学校に活気を与えようとした先生方の意図と、生徒会側の盛りあがりが一致した結果である。 
  第4に応援団の誕生である。夏の高校野球愛知県大会に瑞陵の好調を伝えた後、「開校以来の応援を繰り出す予定」と新聞に書かれたことに刺激されたのがきっかけで、瑞陵応援団が結成された。 
  いずれも瑞陵が創立期の混乱から立ち直り、学校としてのまとまりを見せようとした表れである。ただその背景に瑞陵の沈黙があった。新制中学出身の生徒は混乱期の中で育ったためか、やや無気力な傾向があった。クラブ活動も進学も下降気味だった。これではダメだという気分が学校に高まった結果ともいえよう。ここで初めてつくられた逍遥歌、応援歌を紹介しよう。作詩はいずれも国語担当の三谷逸美教諭、作曲は音楽担当の水谷昌平教諭である。  

昭和29年度当選・逍遥歌 「神の啓しに」     
一.神の啓しにありといふ      
     瑞穂の栄えを名に負える
   こヽ瑞陵の朝ぼらけ
     我が問ふ夢ぞあこがれの
   光ただよふ花園に
     結ぶ情けの友垣や 
   熱き血汐に相呼びて 
     三年の春とめぐるかな     

二.ポプラは青く空に映え  
     自由の鐘は鳴りわたる 
  見よ瑞陵の塔高く 
     汝が指す道の輝けば
  男女の集ひ来て  
     求むる学びの一筋や
  若き励みに競ひつヽ 
     三年の秋とみのるかな   

三.熱田の杜はたそがれて  
     星影清くさ遥らげば 
   あヽ瑞陵の明きまど  
     誰が吹く笛ぞ妙の音に 
   永遠の愁ひの筆おきて  
     汲めよ宴の美酒や  
   いざや尽きせぬ思ひこめ   
     三年の生命讃えなむ 


同・応援歌 「あヽ若人の血は燃えて」     
一.あヽ若人の血は燃えて 
   瑞穂ヶ丘に幾星霜
   時こそ到れ潜龍の
   炎き風巻き雲を呼び
   青雲かける栄えの日よ
    瑞陵 瑞陵 瑞陵
二.見よ意気あふる瑞陵の
   鉄と堅き陣営を
   好敵来たりと刃向へど
   常勝我にほヽえめり  
    瑞陵 瑞陵 瑞陵  
三.おヽ起たんかな伐たんかな    
   生命の叫び高らかに
   かむべし猛虎いざ瑞陵
   みつる血汐の火を吹きて
   呑むべし巨龍あヽ   
    瑞陵 瑞陵 瑞陵   
四. 聞け狂瀾の勝どきを  
   敵勢寂しと声もなし  
   戦塵ここに収まれば  
   我ら選手は肩あげて  
   さん然楯をかざすなり   
    瑞陵 瑞陵 瑞陵   
五. いざ讃えなむ妙の技     
   雄々しき力勲しを     
   我が瑞陵の旗の下     
   僚友よこぞりて歓喜の     
   勝利の歌にまひ抜かん      
    瑞陵 瑞陵 瑞陵

<くずれた学区制>   31年4月、これまでの小学区制は廃止され、普通課程は尾張学区となった。実質的には学区制の廃止である。逆コースとして反対する声もあったが、旧制中学的なものを望む声、受験への有利さを求める父兄の声などが強まり、小学区制−学校差をなくそうという最初の目標は7年間にしてつぶれ去った。 
  前年9月、県教委の内定に対し、市教委、市小・中校長会、県教組らは強く反対し、文部者にまで持ち込まれた。文部省は介入せずの態度をとり、妥協案として31年度は旧学区から4割、全志願者から6割を入学させると決まり、県教委案が強行された。変則的なスタートだった。 
  旭丘、明和といった学校は、かっての一中、明倫というイメージで、同校卒業生の子弟はじめ、多くの希望者が集まり、Aクラス校と早くもランクされた。しかしなぜか瑞陵は反対に五中の後身であるという感じで評価する人は少なかった。集まった生徒は平均化し、手のつけられぬひどい生徒はいない代わりに、クラスのリーダーとなるような優秀な生徒が目立って減った。 
  29年から記念祭を中心に、盛りあがろうとしていた活気は、皮肉なことに再び沈黙へ向かった。生徒会、クラブ活動も活発には行われなかった。ただ、勉強だけは比較的よくして、大学合格率もじょじょに上向く。32、3年は進学率も低く、名大受験者は50人を割り、合格者も17、8人と最低の状態で、父兄や先輩から励ましの声が聞かされるありさまだった。大学区制入学者の卒業時からは立直りの方向へ進んだ。 


芝村義邦校長


芝村校長時代の瑞陵高職員(昭和28年)

  ここで少し触れてみたいのは受験に対する瑞陵教職員の姿勢である。もともと瑞陵は、旭丘とともに理想主義的傾向が強かった。新制高校のあり方についても、学区制・男女共学・総合性というあり方を支持し、受験一本ヤリには反対であった。学区制改革についても、学校としての結論は出さなかったが、当初の理想に反すると反対の空気が強かった。補習授業を否定しているのは、市内で旭丘と瑞陵くらいだといわれている。商業科、家庭科もあり、高校は完成教育だとして、それら施設の充実をはかり、クラブ活動を奨励している。商業科の廃止された現在でも、進学中心の体制をとる方針にはなっておらず、口にすることは一種のタブーだとさえなっている。最近になって学校の実践項目に「学習活動の充実、改善を図る」の一項目が入れられたのが、変化といえばいえそうだ。 
  瑞陵の性格について、旭丘へ移った先生はつぎのように見ている。「名古屋市内で自由な校風をもっているのが第一番に菊里で、旭丘、瑞陵がこれにつぐ。進学を重視している点では旭丘と明和だが、気質的には瑞陵と旭丘に共通するものがある。伝統へのあこがれは旭丘の生徒に強く、一中の後身であるという意識が強く、瑞陵は五中との関係について中途半端な気持ちのようだ」 
  理想主義的なものは熱田中学時代にも強かったが、瑞陵高では創設当時の気風のほか、25年から10年間存在した第2代校長芝村義邦氏の影響があるようだ。新学制の精神はくずしたくないと、進学一本ヤリに傾かず、商業・家庭科の充実に力を注いだ。スポーツなどクラブ活動を重視したのもその表れである。愛商の独立運動をセーブし、在任中は商業科を廃止しないと頑張ったのも同じこと。旭丘、明和などは3年ほど早く商業科をなくし、進学中心に切り替えていたのに比べ、頑固なまでだった。

<商業科課程を廃止>   熱田と合併した愛商は、長年の伝統を受け継ぐため、熱心な独立運動を続けていた。愛知商業高校が発足したのは26年4月で、新入学した1年は惟信高校に間借りし、27年から元明倫中学校舎の東区白壁町に移った。旧愛商を受け継ごうと、学籍簿その他の返還要求が続いた。卒業生の就職上からも愛商の後身である方が都合よく、同窓会も瑞陵商業科を後輩とみる事に大きな抵抗を持っていた。この問題は35年に商業科を廃止するまでもめ続けた。 


芝村校長は総合制に熱心で、商業科(上、昭和27年) 家庭科(下、昭和27年)の充実に力を注いだ。


  商業科の問題は、総合制のたて前からも大きかった。もっとも学内で普通科、商業科の関係は複雑で、必ずしもしっくりは行っていなかった。芝村校長は最後まで商業科対策に力を入れていたが、大きな流れをどこまでも支えるわけには行かなかった。 
  31年に学区制がまずくずれ、これに伴って女生徒の入学が減り、男女共学性も転期になった。1クラス8、9人にまで減ったこともある。いまでは11人ほどにばん回したが、進学コースによって理科系、文科系と分けたため、著しいかたよりが見られる。総合制は商業課程廃止で大きくくずれ、新学制発足当時の3本の柱はいずれも大きく後退し、変化した。 
  35年の商業科廃止は、学校内にも変化を与えた。普通課程が2クラスふえ、普通科中心、進学に重点が移って行った。大学進学率も大学区制、商業科廃止と段階をへて上昇して行った。これとともに新制中学側の評価もあがり、旭丘、明和につぐものと見られるに至った。大学進学率が高校の評価とつながっていることには議論も多いが、生徒会、クラブ活動も活発に行ない、合格率もよいという傾向になるには、今一段の努力が望まれている。

<50周年は無視>   昭和32年には五中−瑞陵高を通算すれば、50周年記念の年に当った。しかし、50周年の記念行事を開こうという声はどこからも出なかった。五中卒業生は瑞陵をその後身と認めていなかった。校舎は移り、商業科・家庭科は併設され、進学率は最低の状態だったことに、怒りを覚える人が多かった。


寺島義彦校長


実力テストの結果に見入る生徒たち(昭和30年)

  同窓会の側では、幹事の段階で五中・瑞陵の一本化を決め28年ごろから交流はしていたが、一般の空気は必ずしも同じではなかった。瑞陵高には、すでに五中出身で熱心な先生は他へ移り、教職員の間から何の動きも見られなかった。新しい先生や生徒の中には、新しい瑞陵高を築くことが必要で、五中の亡霊に悩まされたくないという気持ちもあった。 
  こうしてどこからも50周年の声はあがらないまま過ぎた。五中、瑞陵の結びつきの中で、もっとも冷たい時期であった。 
  しかし、五中・瑞陵同窓会一本化の努力は五中会会長で前瑞陵高校長の早川甚三氏を中心につづけられた。34年春には五中・瑞陵各卒業生合同の名簿が初めてつくられ、39年秋には第2号もできあがった。名簿は同窓生を結びつける最大のきずなである。40周年記念のさいも非常に苦労し、必ずしも正確なものが得られなかった。新しい名簿も満足なものといえず、しかも会員に行き渡らないので問題はあるが、とにかく名簿作成は大きな前進であった。 
  39年1月末、学校には待望の講堂兼雨天体育館の「瑞光館」が完成した。建設の話が具体化するとともに、同窓会一本化の動きもさらに一歩進み、五中・熱田中・熱田二中・実務中・女子商工・貿易商・瑞陵高の各卒業生を会員とし、現旧職員を客員とする瑞陵会会則もでき、39年総会により発会した。瑞陵会だよりも発行された。この動きは60周年記念事業へと結実され、名実ともに五中・瑞陵一本化へ大きく踏み出した。

昭和39年2月に完成した講堂兼雨天用体育館の「瑞光館」


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第3部の入力作業では、次の方々のご協力をいただきました。 敬称略  斎藤兼次(瑞陵18回)、高柳栄一(瑞陵45回)、渡辺裕木(瑞陵47回,メキシコ在住)、鈴木悠哉(瑞陵48回)

 第4部 60周年記念事業

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