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愛の旅人

福永武彦「廃市」

僕と安子

2008年03月08日

 この冬、記録的な少雨で掘割の水かさが減り、柳川名物の川下りがコースを短縮するほどだった。それでも、水はゆるゆると流れ、少し耳を澄ませばチロチロ、ボコボコボコと、あちこちからせせらぎの音が聞こえてきた。

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福永武彦が描いた美しい水の町を思わせる掘割。ひな人形が行き交う舟を見守る=福岡県柳川市で

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「柳川ひな灯(あか)り」。あんどんの光が商店街を優しく包み込んだ=福岡県柳川市で

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花嫁舟で披露宴会場へ向かう新郎新婦。街中から祝福の声があがる=福岡県柳川市で

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 福永武彦が1959年に発表した小説『廃市(はいし)』にも、冒頭から水音が仕込まれていた。

 廃市――北原白秋がふるさとの水郷、福岡県柳川市を指して使った。詩集『おもひで』の序文にある「さながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)である」という一文が、福永の心をとらえた。

 白秋とまな弟子の写真詩集『水の構図』に収められた柳川を眺め、一度もそこを訪れずに物語を生み出した。モデルは柳川でも、舞台は架空の町。福永は「nowhereとして読んでいただきたい」と後記に書いた。

 掘割が巡る「死んだ町」。旧家の姉妹、郁代と安子、郁代の夫直之の三角関係。ひと夏だけそこを訪れた「僕」は、その家の崩壊に立ち会う。

 養子の若主人が愛人のもとに走ったため妻は寺に引きこもり、間に入った普段は快活な妹が心を砕く――。僕が考えたありきたりの筋書きは、ミステリーを読み進むように次々と覆る。姉は夫が好きなのは妹だと信じ込むが、その夫は別の女と心中。通夜の席で、姉妹は互いに「直之が愛したのはあなただった」と激しく言い争う。

 直之が愛したのは、やはり妹安子だったのではないか。夏が過ぎ、町を去る汽車の中で僕は考えた。そして、自分も安子を愛していたと気づく。

 届かぬ思いとあきらめ。孤独な魂の絶望と死。福永文学の大きなテーマは自らの人生と結びついている。79年に61歳で亡くなった福永の生涯は、常に病と共にあった。死後に公開された病歴の表には、結核や胃潰瘍(かいよう)など、37年間で26回の入院、療養の記録が並ぶ。

 「病気しなかったら書けなかったのじゃないかなと思われる部分がいっぱいある」。妻貞子(ていこ)(故人)は雑誌の対談でそう話した。

 水に抱かれた美しい町に死が忍び込んでいくこの物語に魅せられ、映画化にこぎ着けたのは映像作家、大林宣彦さん(70)だった。10代のころ、故郷の広島・尾道で福永の代表作『草の花』に出会う。「自分が書いた小説か」と思うほど偏愛した。文章が奏でるリズム、そして主人公たちの孤高の魂。福永と一心同体とさえ思った。

 83年、スタッフ全員で偶然、2週間の夏休みが取れた。その期間を使い、小さな16ミリカメラを柳川に持ち込んで、念願の福永作品を撮影した。

 大林さんは映画の冒頭、「僕」がこの町に到着する列車の音に、川の水音を交差させた。「あれで、福永さんの世界に導かれていく感じを出せた」と振り返る。

 福永文学の底流にあるもう一つのカギ。それはこの「水」だった。

心の中で広がった水の音

 福永武彦の作品には、水の風景が頻繁に登場する。『心の中を流れる河(かわ)』『忘却の河』『海市(かいし)』……。福永自身、幼いころから繰り返し「河」の光景が夢に現れたと自著で語っている。『廃市』を生んだ源も、その原風景を作った「河」だったのかもしれない。

 福永は幼いころ、母親を亡くした。当時、親子3人で暮らした福岡市浪人町(現同市中央区唐人町(とうじんまち)周辺)を歩き、幼年期の記憶がほとんどないという福永の心の中の「河」を探した。

 川はすぐに見当がついた。だが、それは福岡市中心部の大濠(おおほり)公園から博多湾に向かって流れ出る排水路。江戸時代からあり、大正末期に付近で遊んだ福永少年も、その流れは目にしたはずだ。戦前は「お堀」、戦後になって「黒門川」と名付けられたと、近所の人が教えてくれた。今では暗渠(あんきょ)となり、上を片側2車線の道路が走る。

♪  ♪  ♪

 さらに西へ数分歩くと、菰(こも)川に出る。コンクリートで固められたその川のほとりに古書店があった。店主の田中和隆さん(76)はここで生まれ育ち、1955年から店を開いている。

 「大正時代はわからないけど、子どものころはすぐ下流が砂浜だった。海が近く、朝早くには船の汽笛が聞こえてきた。でも、黒門川も菰川もどぶに近く、せせらぎが聞こえる雰囲気じゃなかったですよ」

 軽井沢の作家というイメージが強い福永だが、18(大正7)年に福岡県二日市町(現筑紫野市二日市)で生まれ、3歳から8歳までの4年半を福岡市で過ごした。両親と3人で暮らし、当仁(とうにん)尋常小学校に入学。母親を亡くしたのは弟が生まれた直後、7歳になったばかりのころだ。

 翌年、父親に連れられて東京へ。弟は養子に出され、母親を思い出させる一切から遠ざけられて育ったという。以降、福永は10代のころ一度、父親と九州旅行をしたほかは、亡くなるまで九州に戻ることはなかったという。

 排水路の話を大林宣彦さんに伝えると、「そうかあ」と言葉を句切った。「でも、むしろそういう所だから、水の音だけが純粋に広がっていったのかもね。『廃市』に出てくる川は、実態の風景ってのがあまりない。水の音しかしないんですね」

 福岡県柳川市では、『廃市』がどう受け止められたのか。2月の夜、柳川文芸クラブの月に1度の例会に参加し、会員10人に聞いたところ、原作になじみは薄く、読んだ人も「陰気だ」と戸惑いが強かった。だが、話が弾むにつれ、「旧城下町特有の、落ちぶれ始めた素封家の滅びの美学と重なる。モデルが柳川だったからこそ成功した小説」という評価も出てきた。

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 映画の撮影前も、「廃市」という題が行政や観光関係者に不評だった。「白秋先生も困った言葉を使ってくれた」というわけだ。ところが83年秋、映画完成直後にあった恒例の「白秋祭」で、川船に乗った大林さんは感激する。当時の市観光協会長で現柳川商工会議所会頭、立花寛茂(ともしげ)さん(67)があいさつでマイクを握り、「廃市柳川の映画を撮ってくださった」と、大林さんに感謝の言葉をかけたのだ。

 かつて、北原白秋の『おもひで』や『水の構図』が柳川のバイブルだった。それを見た福永が『廃市』を書き、さらに大林さんが映画にした。立花さんは言った。「地元が気づかない視点で生活や風景をとらえてくれた。柳川も変わってしまったが、あの視点は現代にも通用する」

 映画のラスト。「僕」の乗る動き出した列車を追いかけながら、下男の三郎(尾美としのり)が叫ぶ。「この町じゃ、みんなが思うとる人にちっとも気づいてもらえんとですよ……」

 原作にはないせりふだが、時間の歯車が狂ってしまった町で互いの思いがずれ、届かなくなる愛の結末を描いた、切ないシーンになった。

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 一方、現実の柳川では物語と逆に、この映画撮影がきっかけでカップルが誕生した。「廃市」撮影に協力した地元の若いボランティア同士だ。

 そのうちの一組、高椋成和さん(56)、綾子さん(52)夫妻の結婚式は、大林さんが仲人だった。夫妻の長女、由希子さん(21)は大林さんを「東京のおじいちゃん」と呼ぶ。大林さんも講演会などのたびに「九州に孫がいる」と話している。

 綾子さんは、当時のボランティア仲間と2人で、今年も大林さんにバレンタインデーのチョコを贈った。20年以上続けている年中行事だ。

 「そうやって、いまだに柳川と結びついていられるっていうのはね、やっぱり福永さんの『廃市』という作品が持つ力なんだろうと思いますよ」。にこやかに大林さんは言った。

〈ふたり〉

 都会の大学生の「僕」は卒業論文を書くためにある夏、掘割の巡る古い町の旧家・貝原家に滞在した。この家の娘安子に身の回りの世話や水の町の案内をしてもらううちに、僕は快活でよく笑う安子にひかれていく。

 安子の姉郁代とその夫直之は仲の良い夫婦で、安子もそんな2人をうらやみ、義兄を慕っていた。ところが、互いの思いはしだいにねじれ、最後は直之の心中事件へと向かう。義兄の死を知り、取りすがって泣く安子を、僕は直之の死という現実を超えて慕わしく感じる。

 町を離れる僕が「また来る」と言うと、安子は「こんな町のことなんかすっかりお忘れになるわ」と答える。汽車の中で僕はそんな安子を愛していたと気づくが、すでに時間が戻らないことも悟る。

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