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愛の旅人

「無憂華」「金鈴」

九條武子と良致

2007年10月20日

 「恨めしや〜」なんて手紙をもらうと、ちょっと怖い。浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)で要職を歴任した岡部宗城(しゅうじょう)でさえ縮み上がっている。

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九條武子が設立に尽力した京都女子大の錦華殿。兄の大谷光瑞夫妻の邸宅が、学園の建学記念館として復元された=京都市東山区で

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武子の命日「如月忌」、西本願寺の本堂は女性で埋め尽くされる

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京都女子大や中学・高校に続く「女坂」。元気な女子生徒の声が響く=京都市で

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 ある日、幽霊の絵入り手紙が京都の西本願寺に届いた。棺おけから2人の女幽霊がドロンと首を出している。差出人は大谷籌子(かずこ)と九條武子の連名だ。

 そのことを回想して、岡部が1951(昭和26)年発行の仏教雑誌「ブディストマガジン」に寄稿した。

 籌子は九條家の生まれ。西本願寺の大谷家に嫁ぎ、本願寺派22代宗主・大谷光瑞(こうずい)の夫人となった。光瑞の妹が武子で、九條家に輿入(こしい)れした。夫の九條良致(よしむね)は籌子の弟という間柄である。

 しかも九條武子といえば、比類のない気高さで明治、大正、昭和と国民的に慕われた麗人ではないか。死後の霊など俗信や迷信に頼らない浄土真宗の教えに生きた女性でもある。幽霊の絵だなんて、とても信じられない。

 回想録には、いつ西本願寺に届いたのか書かれていないし、手紙の行方もわからない。聞きただそうにも、出版から5年後に岡部は亡くなっている。

 わずかな手がかりを求め、福島県須賀川市の勝誓(しょうせい)寺に岡部玄(げん)さん(70)を訪ねた。「先々代の住職で」と、おじいちゃんの思い出話が始まった。

 大谷家からの信頼が厚かったこと。関東大震災後に東京・築地本願寺に勤め、焼失した本堂の再建では、光瑞や設計した建築家伊東忠太を補佐したこと。晩年に初代の須賀川市長になったこと。「そんな祖父が、うそっぱちを活字に残したりはいたしません」

 きっぱりと言い切られた。

 西本願寺の記録では、光瑞・籌子と良致・武子の両夫妻は1909(明治42)年に前後して外遊。諸国で出会った女性の教養の高さに、両夫人は目を見張った。女性の地位向上のため、仏教に根ざした女子大を京都につくろうと、翌年帰国した2人の話は膨らむ。

 ところが本山に相談しても、男社会にどっぷりつかった当時の西本願寺は「女子大なんて」と取り合わない。何とも恨めしいとばかりに、催促の手紙の最後に幽霊の絵があった、と岡部は記している。おちゃめな両夫人のいたずらだったのかもしれない。

 幽霊はともかく、2人の熱意は本山を動かし、後に京都・東山に現在の京都女子大が開学した。その昔、タヌキが出ると言われた三十三間堂そばの坂道は、今では「女坂」と呼ばれる華やいだ女子大の通学路になっている。

 緩やかな坂道を5分も歩くと、門のそばに洋館が見えてくる。建学記念館として00年に復元された「錦華殿(きんかでん)」である。円を描くバルコニーのあるこの建物はかつて西本願寺内にあり、その室内で帰国間もない武子と籌子が女子大の夢を語り合っていた。

 それからわずか十数年で、武子を取り巻く世界も彼女自身さえ大きく変わるのだから、人生はわからない。

大震災でしなやかに強く

 九條武子はジャーナリストでもあった。読売新聞の婦人部顧問として随想を連載し、歌壇の選者も務めている。

 書かれる立場から書く側へと。あっと驚く転身だったと思う。

 武子と夫の九條良致は、新婚間もない1909(明治42)年、先に出発していた大谷光瑞・籌子の兄夫婦を追って欧州へと旅立った。良致は3年間の留学のためロンドンに滞在し、武子は一足早く翌年に帰国した。ところが約束の年になっても夫は帰らない。

 さあ、ゴシップ記事の出番だ。

 ロンドンに良致の愛人? 武子は心の病に? 20(大正9)年に夫が帰国してなお「武子さん離婚しなさい」と書き立てられる始末である。

♪  ♪  ♪

 武子には、ジャーナリスティックな観察眼があった。兵庫県内の知人にあてた23年9月17日付の長い手紙を読むと、関東大震災の激しい揺れや市街をなめ尽くす火災の恐怖が生々しく伝わってくる。良致の帰国後、東京・築地本願寺のそばで夫婦で暮らし、9月1日の震災に遭遇した。

 防災上の貴重な資料にもなっている手紙からは、復興から取り残される弱者、とりわけ女性や孤児に向けられた武子のまなざしがうかがえる。運転を部分的に再開した電車に「中々(なかなか)女は乗れませんの」とある。きっと男どもが本性をむき出しにしたのだろう。

 武子が本格的に新聞、雑誌に書き始めたのは震災を体験してからだ。記事や歌などをまとめ、27(昭和2)年7月に出版されたのが『無憂華(むゆうげ)』だった。翌年2月に武子が亡くなったこともあり、売れに売れた。発売1年で170版を重ね、古書店で私が求めた奥付には「昭和六年六月十五日普及版三百卅五版」とある。

♪  ♪  ♪

 印税はそっくり貧困層の医療や福祉にあてられ、後に病院へと発展する。東京・JR錦糸町駅から、魚屋さんの店先をのぞき込んだり、ラーメン屋さんに立ち寄ったりしながら、私が訪ねた「あそか病院」である。女性の願いによって建てられ、守られてきたことは、病棟に並ぶ3人の胸像が物語っている。みな女性。真ん中が武子だ。

 下町の病院ができて今年で77年。経営する社会福祉法人の理事長は近衛正子さん(83)で14代目になる。正子さんは武子のめいで、大谷家から近衛家に嫁いだ。近衛文麿の息子・文隆との短い結婚生活を引き裂いたのは、戦争である。敗戦の混乱期に旧満州(中国東北部)で、文隆は旧ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され、再会の願いはかなわないまま異国で死んだ。

 「私のような思いを、二度と誰にもしてほしくない。その思いで、平和や福祉にかかわってきました」。正子さんは静かに静かに語るのである。

 武子も同じ思いで、メディアの世界に飛び込んだのではないかと思う。あれほど醜聞を書き立てられながらも、武子は新聞や雑誌を「輿論(よろん)のみちびき手」と理解していた。書かれる立場だったからこそ実感した活字の力で、目指したのは、震災ですさんだ人々のこころの復興であったか。

 私の推論を、武子に詳しい筑紫女学園大准教授の中西直樹さん(46)が後押ししてくれ、彼女の別の手紙の一節も教えてくれた。

 「本願寺には厄介(やっかい)にならず、やれるだけやり度(た)いと思うてをります」。25(大正14)年の12月15日、知人にあて医療への意気込みを伝えている。本願寺とは京都の本山・西本願寺である。

 「京都に女子大をつくりたかった十数年前は、本山が協力してくれないと恨み節だったでしょう。それが『本願寺には厄介にならず』ですよ。震災でしなやかに強くなりましたよ」

 それから2年と少しで、敗血症に命を奪われた。享年42。美しい盛り。

♪  ♪  ♪

 危うく良致を忘れるところだった。

 なぜか、良致の情報は少ない。武子の伝記を書いた京都女子大名誉教授の籠谷(かごたに)眞智子さん(75)にも、調査に難渋した思い出がある。それでも、興味深いエピソードを掘り起こした。

 酔うと正体をなくし、玄関先に寝転がっては武子に介抱されていたこと。籠谷さんは「武子の心配を独り占めしたくて、わざと酔っぱらったのではないでしょうか」と解説してくれた。日英に隔たった別居生活では妻をあまり顧みず、武子は「夜くればものの理みな忘れひたふる君を恋ふとつげまし」(『金鈴』より)と、胸をかきむしった。それでいて、良致は、妻の死が迫るとウイスキーをあおり「武子が死んだらどうしようかな」と泣きぬれる。

 そんな愛すべき男、良致。40(昭和15)年8月、東京の自宅で脳出血のため死す。享年57。彼もまた、両腕からすり抜けてはじめて、愛の深さと重さを知ったのである。

文・森本俊司、写真・南部泰博

〈ふたり〉

 京都・西本願寺の浄土真宗本願寺派21代宗主・大谷光尊と側室の藤子との間に生まれた武子は1909年に九條良致と結婚した。良致は父が五摂家の公爵・九條道孝で、姉には後の大正天皇の皇后(貞明皇后)や22代宗主・大谷光瑞の妻になった籌子がいた。ふたりは結婚後すぐに日本と英国とに離れて暮らし、約10年間の別居となった。このため不仲説が取りざたされた。

 武子は今の京都女子大学の設立に尽力。関東大震災を機に医療や福祉活動を続け、後の「あそか病院」(東京都江東区)の基礎を築いた。柳原白蓮(びゃくれん)らと共に「大正三美人」と称され、20(大正9)年に出した歌集『金鈴』が反響を呼んだ。命日の2月7日には「如月忌(きさらぎき)」の法要がある。(写真はロンドンでのふたり。「あそか会」提供)

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