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愛の旅人

「吹雪物語」「日本文化私観」
»〈ふたり〉へ坂口安吾と矢田津世子―京都・伏見、秋田・五城目

 駅を降りて大きな鳥居をくぐると、ぽつぽつ雨が落ちてきた。まだ午後4時過ぎというのに、京都・伏見稲荷大社の境内はうす暗く沈んでいる。

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伏見稲荷大社の千本鳥居。鳥居の列が果てしなく続き、異次元へ迷い込んだような感覚にとらわれる=京都市伏見区で

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さまざまな願いが記された神石が奉納される=京都市右京区の車折神社で

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大本教本部には戦前の弾圧で破壊された石像が残されている=京都府亀岡市で

相関図

  

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 本殿をやり過ごして裏へ回ると、奥の院に通じる朱色の鳥居のトンネルの入り口に着く。小ぶりな鳥居が折り重なるようにびっしりと続いている。薄闇に浮かぶ不気味な朱色の列をくぐっていくと、いきなり奥から下りてくる人が現れ、ぎょっとするのだった。

 作家・坂口安吾が伏見にやってきたのは1937(昭和12)年2月。長年住み慣れた東京を1000枚の原稿用紙だけを持ってたった。長編小説「吹雪物語」を執筆するためである。

 そこは商売繁盛の伏見稲荷の門前町、「一陽来復を希(ねが)う人生の落武者が稲荷のまわりにしがない生計を営んでオミクジばかり睨(にら)んでいる」(「古都」)と安吾が書く町。優雅で由緒正しい古き都・京都のイメージとはかけ離れた庶民の町だ。

 京阪電車伏見稲荷駅のすぐ近く、路地の奥に、安吾の下宿はあった。京都は空襲を受けていないから、町の骨格はそのまま残る。駅前の喫茶店で尋ね、書簡集に残る略図をたよりに探し当てた二階屋に、上田アサ子さん(85)は健在だった。

 「いつも丹前みたいなのを着て、きたない格好でしたよ。でも、とても感じのいい人でした」

 安吾作品にも登場する、かつての下宿の娘さんだ。こたつにあたりながら、上田さんは70年前を思い起こす。「インテリさんでした。やさしい人、お行儀のいい人。祇園の喫茶店に連れて行ってもらったことがありました。確か『ボレロ』っていう店でした」

 当時十四、五の娘だった。2階の安吾の6畳間は原稿用紙や布団で足の踏み場もなく、掃除をしておくとお駄賃をくれた。

 その6畳間は、窓がサッシになっただけで、今も変わらないという。急な階段を上り、部屋に立ってみる。空き部屋になって久しいらしく、がらんとしている。窓際のカーテンだけが、人の気配の名残を感じさせた。

 安吾はよく近くの稲荷に散歩に出かけた。(鳥居をくぐって)奥の院の山の上まで30分で上ったと、知人への手紙に書いている。下宿に碁会所を開き、碁ばかり打っていた日々もあった。京都じゅうを歩き回った。酒を飲んだ。でも、後年のように暴れることはなかった。安吾31歳の青春である。

 1年4カ月後、安吾は帰京する。「吹雪物語」をようやく書き上げたのだった。書き損じの原稿の山が、部屋に残った。「吹雪物語」執筆の苦闘のあとは、上田家の数日分のかまどのたきつけになった。

 安吾が京都に行ったのは、数年来の苦しい恋愛があったからだった。美貌(びぼう)の作家、矢田津世子(つせこ)の面影を、振り切るためであった。

崩れがちな自信と戦い

 JR奥羽線秋田駅を30分ほど北上すると八郎潟駅で、そこから干拓地と反対側に車で15分も走ると五城目町に着く。初冬の北の町は、日がかげると、がぜん冷え込む。昭和の作家、矢田津世子が生まれ育った町である。

 「五城館」と呼ばれる町の交流センターに、矢田津世子文学記念室があった。津世子が長年住んだ東京・落合の家が解体されるに伴い、家にあった原稿、取材ノート、衣装などが遺族から寄贈され、記念室ができた。川端康成横光利一からの手紙も展示され、見ごたえがある。とりわけ坂口安吾からの30通余りの手紙が貴重だ。

♪  ♪  ♪

 「手紙はやっぱりいけない。会って下さい。僕は色々話さなければならないやうな気がします。(中略)思っていることを、うまく書くことができません。会って下さい。そして話しませう」。400字詰め原稿用紙のます目通り、丁寧な万年筆の筆跡とうらはらに、切迫した息づかいを感じさせる。日付は1936年3月16日。住んでいた東京・本郷の菊富士ホテルからだ。

 津世子と知り合って4年、同人誌の仲間として、プラトニックな恋人として、ふたりは互いの家に出入りする仲だった。安吾は翌日のデートに備え、話す内容を予行演習したという。そのうち、彼女に年上のパトロンのような男がいることを知り、絶望する。この手紙の3カ月後、「僕の存在を、今僕の書いている仕事の中だけ見てください。僕の肉体は貴方の前ではもう殺そうと思っています」という手紙を出して、つらい恋愛に自ら終止符を打つ。京都に行くのはその半年後だ。

 安吾は京都を彷徨(ほうこう)する。

 「社殿の前に柵をめぐらした場所があって、この中に円みを帯びた数万の小石が山を成している。自分の欲しい金額と姓名生年月日などを小石に書いて、ここへ納め、願をかけるのだそうである」(「日本文化私観」)と安吾が書いた車折(くるまざき)神社は京都市街の西、嵐山の手前にある。「一管のペンに一生を託してともすれば崩れがちな自信と戦っている身には、気持ちのいい石ではなかった」

 境内の様子は現在もさして変わらない。社殿の前にやはり丸い小石が積まれ、「祈願 年商1000万円目標達成」「年商1億 年収3000万になりますように」といった字が読み取れる。特別祈願のご案内という案内板には、商売繁盛や家内安全のほかに金運上昇、債権回収などの項目もあった。

♪  ♪  ♪

 1582年、亀山(亀岡)城を出陣した明智光秀の軍勢1万3000は、中国地方ではなく京都・本能寺へ向け、山城と丹波の国境、老(おい)ノ坂(さか)峠を駆け下った。その350年後の1935年12月、京都府警の武装警官500人を乗せたバス18台は、老ノ坂峠を逆に越え、亀岡になだれ下っていった。第2次大本教(おおもときょう)弾圧事件である。

 荒れていた亀山城一帯を大正年間に買い取った大本教は、綾部とともに亀岡に本拠を構え、豪壮な神殿、道場を建造した。弾圧は、指導者出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)の言動、大本教の活動が「不敬罪」「治安維持法違反」にあたるというのだ。神殿などはダイナマイトで爆破、一帯は徹底的に破壊された。安吾は弾圧のほぼ1年後、この廃虚を訪れ、小雪の中をドテラの着流しにステッキといういでたちで歩き回った。

 「戦後になっても、爆破された建物や石像の残骸(ざんがい)が散乱していたそうです」と大本教本部教務局の田渕松寿さん(57)は言う。今も、首のない観音座像が石段の脇にあり、落とされた首の跡が残る仁王像が立つ。花びらのような模様が彫られた石が、落ち葉の中に沈んでいた。破砕された宮殿の一部だろうという。ここでも、70年前の安吾の後ろ姿を幻視する思いだった。

 亀岡から戻ってしばらくして、東京・深大寺の茶屋で、フランス文学者出口裕弘(ゆうこう)さん(78)にお目にかかった。昨年、「坂口安吾 百歳の異端児」を著した出口さんは、安吾作品を雑誌で読んでいたという筋金入りの安吾党だ。名物のそばをすすりながら、「僕は安吾を『過激誠実派』と言うんだが、生涯、津世子を忘れなかったと思う。あれこそ本当の恋愛だ」と話す。

 安吾は戦後「新日本地理」の取材で秋田へ行く。秋田で記者に印象を問われ、「私は秋田を悪くいうことができないのです。なぜなら、むかし私が好きだった一人の婦人が、ここで生まれた人だったから」と語り、吹く風もなつかしく、風の中にとけてしまってもふしぎではないと書く。7年前に亡くなった、結局は片思いだった恋人を、ふるさとで思うのである。

 「いいなあ、素直でいいなあ、こういう安吾、僕は好きだなあ」。出口さんはしきりにうなずくのであった。

文・牧村健一郎 写真・荒元忠彦
(01/20)
〈ふたり〉

 坂口安吾=写真一番下左=は、1906(明治39)年、新潟市に生まれる。父仁一郎は政治家で漢詩もよくし、五峰と号する。安吾は31年にデビュー、新人作家矢田津世子に恋するが、結ばれなかった。新潟を舞台に、癖の強い男女が長広舌をふるう観念的な長編「吹雪物語」は壮大な失敗作とされるが、戦後、「堕落論」で一躍流行作家になった。無頼派と呼ばれ、大酒と睡眠薬の中毒でしばしば暴れた。55年、群馬・桐生の自宅で急死した。妻三千代との間に息子1人。新潟市が安吾賞を昨年制定、第1回受賞者に劇作家野田秀樹が選ばれた。

 秋田県五城目町生まれの津世子は、9歳で家族と共に上京、麹町高等女学校を卒業、一時名古屋に住む。美貌で知られ、写真館で撮った写真=同右=がショーウインドーに飾られ、写真館の子息で後のタレント三国一朗に強い印象を残す。安吾と一緒に同人誌「桜」に参加。時事新報社会部長と恋人関係にあり、安吾を苦しませた。作品に「神楽坂」「茶粥の記」などがある。病気がちで、これからという36歳で死去した。



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