音楽界の迷信

兼常清佐




    1 迷信

 音楽の世界は暗黒世界である。いろいろな迷信が縦横にのさばり歩いている。
 私はピアノを例に取る。私は楽器のうちで一番ピアノを愛する。私のこの愛するピアノを今しばらく例に取って見る。
 批評家はほとんど例外なしに言う。――パデレウスキーやコルトーのような大家の弾くピアノの音は非常に美しい。彼らのタッチは実に巧妙である。この美しい音は全く彼らのタッチから来たものである。彼らの鍛錬を重ねた指の技巧をもってしてこそ、はじめてこの美しいピアノの音が出る。普通の人々がそのタッチをまねて見ようと言っても、それは全然出来ない事である。この美しいタッチの技巧こそ、彼ら世界の大演奏家の生命である。そしてこのような名人の美しいタッチの音を楽しむ事こそ、高級な音楽の鑑賞である。――
 これが迷信である。常識で考えて見ても、そんな怪しげな事があり得ようはずがない。ピアノさえ一定すれば、パデレウスキーが叩いても、私がこの万年筆の軸で押しても、同じ音が出るにきまっている。名人のタッチなどというようなわけのわからないものがピアノの上に存在しようとは本気では考えられない。これが迷信である。
 ピアノの先生はほとんど例外なしに言う。――お前はタッチを勉強しなくてはいけない。ピアノの鍵盤の打ち方こそピアノの技術の真生命のあるところである。鍵盤の打ち方ひとつで音はいろいろに変る、打ち方の上手な人の指からは、美しいピアノの音が出る。お前は手の形、指の形などを十分によく注意して、よく先生の言うとおりに直して、いいタッチの出来るように勉強しなくてはならない。先生に習わないで自分一人でやったのでは、指や手の形がわるくて、ピアノの音が美しくない。――
 これが迷信である。常識で考えて見ても、そんな出鱈目な事があり得ようはずがない。パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない。どの指で、どんな形で、どんな打ち方で叩こうと、そんな事は音楽の音とは別に何の関係もない。それはただ先生が御愛嬌にそんな事も言って見るだけのものである。それを本当と思いこんで、真面目になって、その通りをピアノの上でやって見ようとするのは、本気で考えると頗る馬鹿げた話である。それが迷信である。音楽はただ音楽である。楽器は楽器より以上の何物にもなり得ない。ピアノはピアノで出来るより以上の仕事は決して出来得ない。私はこのお話で多少でも本当の事と迷信との間に境界線が引けたとしたならば、すくなくも私が朝夕弾いているこの一台のピアノだけは、非常にそれを喜んでくれるであろう。

    2 事実

 ピアノを弾くという事は、一体人間のどんな種類の仕事であるか、同じような仕事のタイプライターとどう違うものであるか、――そのような問題は人の考えるほど簡単なものでない。それに正しく答えようと思えば、その仕事のいろいろな部分が正しく数量的に記述されていなければならない。その記述という事は決して容易なものではない。私共のその実験はまだ半途である。
 ピアノという楽器はどんな機械的な性質のものであるか、――これも重要な問題である。しかしこれも人間の仕事を数量的に記述する事がむずかしいように、むずかしい。或る程度を越えては今のところ不可能である。
 ハママツのヤマハ・ピアノ会社は、一昨年航空研究所のスハラ博士の超高速度活動写真でピアノの槌の動き方を撮影した。一秒五〇〇〇こまの超高速度フィルムが竪台と平台とで二本ある。このフィルムを読んで見ることは、他の機会で述べるように、数学的には非常に興味がある。しかしそれでもまだ遥かに材料が足りない事と、このフィルムは写真の視野が狭くて、ただ槌の頭だけしか見えないから、他の部分との関係がわからない事とで、これから直接に、十分にピアノの機構を説明するというわけには行かない。
 このヤマハ・ピアノ会社の実験は、ニッポンで今までピアノについて試みられた一番大がかりなものであろうが、それにしてもその結果はただピアノの槌の運動の一部分を説明したに過ぎない。ピアノくらいの機械でも、それを完全に記述し、何から何まで説明することは、想像以上に困難な仕事である。
 しかしピアノについては、何から何まで説明し尽されないにしても、その一部分でも説明されたら、それだけ音楽という事実の真相が明るみに出される事になる。私は今多少でもそれを試みてみたい。

      A タッチの技巧

 音楽批評家やピアノの師匠が熱心に主張するようなタッチの技巧というものが、事実上に本当にピアノの上に存在するか、ピアノは名人が叩くのと、私が万年筆の軸で押すのとで、本当に、事実上、音が違うものであるか。
 常識で考えて、そんな事実の存在しない事は明瞭である。これがピアノのようなものであるからこそ、そんな迷信が今日でも平気で行われている。他の機械なら、誰もそんな事を真面目に考える人はない。
 しかし手数をさえ厭わなかったら、それは実験して見る事が出来る。ピアニストに実際にいいタッチを試みてもらって、その音を撮影すればいい。そして、そのあとでその同じ鍵盤を万年筆の軸で押すなり、あるいは猫に鍵盤の上を歩かせるなりして、その音を撮影して、この二つがはたして違っているか、どうかを、比べて見ればいい。この場合に撮影機械のほうの条件を一定にしておけば、この二つの写真は大体で客観的な事実を物語っていると思ってもよかろう。
 イグチは勇敢にこの実験に応じた。私は理化学研究所のタグチさんの実験室で彼のタッチを実験した。私共はピアノを置く場所を急造した。下に畳を敷き、周囲をネルの壁でかこった。その上を毛布の幕で被った。そしてピアノの音をトーキーのフィルムに撮影した。イグチは彼の持ついろいろのタッチの技巧をこのピアノの上で試みた。また私共はイグチの指の動き方を高速度活動写真でも撮影した。このような実験は必ずしも非常に正確だとは言えないかもしれない。しかし物の傾向を暗示するには十分である。そしてもちろん私の仕事はこれで終らない。これはほんの予備試験である。
 その音の写真はどれもみなほとんど同じ音質を示している。イグチが最悪と考えたタッチからでも、最良と考えたタッチの音が出ている。逆に言えば、イグチが半生を費して鍛錬に鍛錬を重ねたタッチの技巧も一番素人くさい、一番悪い打ち方の音も本質的には別に何の変りもない。
 ニッポン当代の名演奏家、第一流のピアニスト、イグチは、どんなタッチの技巧をもってしても、ピアノの音波の形を変えることは出来なかった。それならば、そのイグチの出来ない事を外の誰がするか。
 イグチの師匠イーヴ・ナットはするか。イグチの尊敬するピアニスト、ゴローヴィッツはするか。あるいはパデレウスキーやコルトーならするであろうか。
 イグチに出来ないものなら、パデレウスキーにも出来ない。出来る道理がない。イグチの代りにパデレウスキーをつれてきて、この実験をやったとしても、結果は同じような事になるにちがいない。
 ピアノがきまれば、その音はきまる。どんな粗製のぼろピアノからでも、名人に叩かれたら美しい音が出るというのでは、ピアノの製造に骨を折る甲斐はない。もしそんなことが実在するならば、ピアノ会社は全く浮ぶ瀬がなくなる。ピアノがきまれば、絃も、槌も、鍵盤も、ペダルも、みなきまってしまう。いかにパデレウスキーでも、その指の力で絃を変えたり槌を変えたりするような魔術は使われない。この場合に変化し得るものは、話を常識的に簡単にして見れば、ただ槌と絃との距離を槌が動く時間だけである。つまり槌の速さだけが人々で変えられる唯一のものである。この距離をsとし、槌の動く時間をtとすれば、槌が絃を叩つ途端の ds/dt[#「ds/dt」は分数、縦中横] はピアノの音を変えうるただ一つの要素である。そしてこの ds/dt[#「ds/dt」は分数、縦中横] をきめるものは、簡単にいえば、鍵盤が沈む時の角速度である。今パデレウスキーが鍵盤を押し沈めた時と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたとしたら、この猫の足のタッチからは、パデレウスキーが指のタッチと同じピアノの音が出たにちがいない。
 これより外にまだピアノの音を変える秘密があると主張する人は、まずその人の方から、その要素をあげて説明して下さい。私にはそんな事は考えられない。もちろんピアノの音の強さに従って、ピアノの音の波形は、つまり倍音の関係は、多少ちがってくる。その事は相当に面倒な物理上の問題で、私は別の機会に述べる。そしてそれだからこそ私は前にことわっている。パデレウスキーの指と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたらとことわっている。もちろん猫にはそれは出来ないかも知れない。しかしパデレウスキーのタッチの時の鍵盤の角速度を計っておいて、それと同じ角速度を機械で与えたとしたら、その時は機械は十分パデレウスキーを真似る事が出来る。
 タッチというような怪しげなものが、如何に音楽批評家やピアノ師匠の迷信に過ぎないものであるかは、も少し外の方面のピアノの音を考えて見るといよいよ明瞭になる。

      B 音の混雑

 ピアノの音は実際変るべき理由のあるところで、実際いろいろに変っている。そしてその事は音楽批評家にもピアノの師匠にも、まだあまり考えられていない。
 私は楽器は大体二つに分類されると思う。楽譜のとおりに弾けば、大体で楽譜のとおりの音の出る楽器と、楽譜のとおりに弾いても楽譜のとおりの音の出ない楽器である。風琴やヴィオリーネは前の方で、ピアノは後の方である。ピアノで或る曲を弾けば、その音は楽譜に書かれた音とはかなり違ったものになる。そしてそれは誰が弾いても同じ事である。
 たとえば今 c' の音を或る速さで二度つづけて弾いたとする。楽譜には同じ c' の音符が二つ書いてある。そしてこの二つの音は全く同じ c' の音だと批評家も師匠も聞いている。この事を疑った批評家をまだ私は知らない。
 しかしピアノの構造の上から考えて見れば、そんな事はあり得ない。この二つの音の間には、音の混雑から起る相当な音色のちがいがなくてはならない。ピアノは音響学的には甚だ粗末な機械で、音を止めるものはただ一箇のダンプァーだけである。そしてそのダンプァーは柔かなフェルトで出来ていて、平台ピアノではその重さで上から絃を押えるだけの仕掛になっている。しかもそのダンプァーの位置は絃の端の方である。しかし長いピアノの絃には相当な張力がかかっているし、絃の質量も相当ある。今その絃が或る程度のエネルギーをもって鳴り初めたとしたら、あんなダンプァー一つくらいでその振動が一瞬間にぱたりと止まるわけがない。その止まりきらないところを第二回目に叩いたとしたら、音は当然混雑するはずである。
 もしダンプァーが絃の振動を一瞬間に止めたとしても、ピアノには響板というも一つの振動体がある。この響板はピアノの音には絶対的に必要なものである。しかしこれにはダンプァーも何もない。全く鳴らしほうだいの鳴りほうだいである。どんなパデレウスキーでも一タッチごとにピアノの下にもぐって、その響板の音を止める事は出来ない。或るエネルギーをもって響板が鳴り初めたら、それが全く静止するまでは次の音は叩かれないはずである。響板が鳴り止む前に次の音を叩けば、その音は必ず前の音と混雑するに決っている。
 これは事実上その音を撮影して見ればわかる事である。
 c' の音を二度つづけて叩いた時の第二回目の音を次にあげておく。第一回目はどれも前に挙げたのと同じ事である。同じ音でもすでにこのくらい違ってくる。これがもし協和しない他の鍵盤の音だとしたら、その混雑さは読者諸君にも容易に想像する事が出来よう。
 これは本当に実在する事柄である。写真がそれを説明し、理論がよくそれを承認する。それにもかかわらず、この事実がこれまで何故に批評家や先生の耳には聞かれなかったか、たとえばショパンの有名な『プレリュード』のh短調や Db 長調では同じ鍵盤がつづけさまに叩かれる。その時には、第二の音は第一の音とはすでに相当音の性質が変っている。ペダルを使えばそれは特にひどくなる。しかし楽譜は決してそんな事を要求していない。これが何故に音楽上の問題にならないか。普通はただ同じ性質の音がつづいていると思われているが、それで何の不都合もないものであるか。
 この明瞭な事実さえも聞き落されるくらいなところへ、写真もそれを証明しないし、理論も容易にそれを承認しないタッチなどいうような怪しげなものだけに限って、特に明瞭に批評家やピアノの先生の耳に聞き取られていいものであろうか。そんな事は私共の常識がまず承知しない。
 私はピアノの音について、もう少し他の事をお話して見よう。

      C 音の遅速

 ピアノを弾く人は、ピアノの音が鍵盤を叩いた瞬間よりもいくらか遅れて出るという事実にあまり気がつかない。しかし、そのような事実を平気で聞き落していいものであろうか。
 ピアノ鍵盤は沈むのに時間がかかり、その鍵盤の運動が槌で絃を叩く運動になるまでには、いろいろピアノ特有の機構があって、また時間がかかる。この時間は以前にヤマハ・ピアノ会社でオスチログラフの方法で計算され、今またタグチさんの考案によるトーキーの方法でも計算された。この時間の遅れは、もちろん鍵盤の沈む角速度によって一定していないが、ヤマハ・ピアノ会社では〇・〇三秒であり、タグチさんが考案した方法では、まず大体〇・〇二秒くらいである。いずれにしても、今ピアニストが或る音を出そうと思ってから、後〇・〇二秒から〇・〇三秒くらいしなければ音は出ない。よほど上等なピアノの機械でも、この音のおくれを無くする事は出来ない。
 しかし、この時間の遅れは、決して平気で聞き落してもいいような瑣末なものでない。そしてその時間は鍵盤の沈む角速度に関係するから、音楽としては誠に重要な一問題である。たとえばショパンの『プレリュード』Db 長調で、はじめ Db の部分をpで弾いたあとで、中の c# の部分をfで弾いたら、その部分のピアノの音が一体で早く出すぎると感じなくてはならぬはずである。
 あるいは今ショパンの『エテュード』As 長調――作品二五の第一――を弾くとする。その第一七小節から五小節の間は右手が六つの十六分音符を叩く間に左手は四つの十六分音符を叩く。この曲をクリンドヴォルト版に従って四分音符一〇四の速さで弾くとすると、この小節の左右の指の喰違いの時間は、ざっと〇・〇五秒である。槌の動きの遅いピアノでは、これはほとんどピアノのそのものの音の遅れの時間に近づいてくる。もし左手も相当強く叩けば、この喰違いの時間は非常に曖昧になる。もしここをペダルをかけて弾くなら、この時間は決して普通の人の耳にはいらない。
 誰でも弾くツェルニーの『四〇練習曲』の第二六A長調は、ペテルス版では曲の速さが八分音符三つが八八となっている。この場合では右手と左手の喰違いはピアノそのものの時間の遅れより早くなる。もし先生がぼろぼろピアノでこの曲を弟子に教えながら、お前の左手と右手との時間が悪いなどと言うなら、そんな先生は明かに出鱈目という先生である。音ははっきり聞いていない証拠である。
 これはほんの一例である。ピアノにはこのような事はまだまだ沢山ある。これはみな十分明瞭な事実である。それにこの明瞭な事実は批評家にも、ピアノの先生にも一般に聞かれていないで、そして存在の曖昧至極なタッチの巧拙という事だけがひとり明瞭に聞き出されていいものであろうか。一体そんな事で私共の常識が承知するだろうか。
 諸君の中にはタッチの稽古をした人もあろう。あんな先生の言う事は真面目になって本気で聞いていられるものでない。それは大抵音と関係しない事である。音の出る前の指や手の形の事である。たとえば指を鍵盤に直角に曲げて叩けという類である。指紋を取るように指を平に延べたらいけないという類である。しかしこれは単に分力の問題である。そして鍵盤の沈む角θは普通5度内外であるから、この場合 [#ここから横組み]sinθ=0[#ここで横組み終わり] あるいは [#ここから横組み]cosθ=1[#ここで横組み終わり] と見て少しもさしつかえない。指の曲げ方などは常識で考えてピアノを弾く事には問題にならないくらい僅なものである。各※(二の字点、1-2-22)勝手に弾きやすいように弾けばそれでいい。その外いろいろなタッチの教は、結局手踊の一種である。甚しいのになると、音が出た後の手の力の抜き方や、手くびの動かし方がタッチと言われている。そんな事を本気になって聞いている方も悪い。もう音の出てしまった後の鍵盤で、どんな手踊をしてみたところで、その音と何の関係もあるわけがない。ピアノ演奏家の生命といわれているタッチの技巧は、まず大抵こんなようなものである。これが迷信でなくて何であろう。
 円タクの運転手は円タクの構造をよく知っているはずである。ハンドルを握る手つき一つで円タクの速力が非常に変るなど言って、ハンドルの上で手踊をするような運転手の車には、あぶなかしくて乗っていられない。ピアノも一つの機械である。演奏家はその機械の運転手である。それにピアノ演奏家はピアノの構造にまるで無関心である。機械運転の手つき一つで音が変るなどと平気で言っても世間に堂々と通用する。音楽の世界が迷信の世界である証拠である。
 これはピアノ演奏家や音楽批評家が本気で音を聞かない事から起るのであろう。多くの音楽学校には聴音という時間がある。これはゆっくり時間をかけて和絃を聞きわける練習である。和絃を聞きわける事は、ただ普通な音楽的な練習である。音波の性質の変化を聞きわけるような微細な音響学的な仕事に比べたら、はるかに容易である。その聴音の時間には6の和絃6‐4との和絃を聞き間違えたくらいな学生が、卒業して先生になった途端に弟子をつかまえて、お前のタッチの音は――などと言ったのでは、およそ話の辻褄が合わない。それは手踊の師匠や茶の湯の師匠のように、ただ手つきを目で見て言っているだけの事である。
 そして批評家はこの事について何故に心にもない事を言わなくてはならないか。ピアノの c' の鍵盤をあるいは指で叩いたり、あるいは万年筆の軸で押したり、あるいは猫の足に蹈ませたりするのを隣の部屋で聞いて、それが一々区別出来るかと問われたら、誰も容易には区別出来るとは考えられまい。答えられると思う人は、勇敢にまず自分でやってごらんなさい。そしたら一度で合点が行く。一つの音でさえタッチの区別の出来ないのに、どうしてあれほど複雑な曲でタッチの変化が耳にわかるか。そしてわからないものをわからないと言うのが、何故批評家の恥になるか。わからないものを正しくわからないという方がかえって批評家の権威でないか。
 また私共聴衆は何故に、名人のタッチなどいう曖昧至極なものに感心したような顔をしなくてはならぬのであろうか。それは半分は英雄崇拝の感情を、仮に「美しいタッチ」という言葉で言い表しただけのものであろう。英雄崇拝の感じはどうもやむをえないものとすれば、それを言い表す美しいタッチという言葉が間違っている。音楽にあまり経験のない人は、どうしても演奏家を目で見て楽しもうとする。何かの理由で偶然その演奏家が世間的に有名な人だとしたら、それに英雄崇拝の感じが混ってくる。目がある以上は目で演奏家の姿を見てそれを楽しんでも悪くはあるまい。ただ演奏家の手つきが、ぐにゃぐにゃとして、さも柔かそうに動くから、そのピアノからも柔かそうな音が出るだろうと思うのは、それがそもそも迷信のはじまりである。
 ピアノは結局音を聞く楽器である。私共が本気になってピアノの音だけを聞くとしたならば、今までのような荒唐無稽なタッチなどいう事はとくの昔になくなっていいはずである。
 ピアノ演奏家に許される事は、ただ楽譜の不備を実際的に補う事だけである。楽譜が音楽を記述する方法は、音の高さを除いては全然非数量的である。ただ大体「速くアレグロ」とか「遅くアダジオ」とか、「強くフォルテ」とか「弱くピアノ」とか言うだけである。どのくらい速くか、どのくらい強くか、数量的には書かれない。楽譜はちょうど寸法の書いてない洋服の註文書のようなものである。その寸法を自分の考えで入れて、実際洋服に仕立てるだけがピアノの演奏家の仕事である。その寸法に多少の独創があると言えばあるくらいのものである。もし楽譜が改良されて、作曲家の考えを数量的に書くようになれば、ピアノの演奏家には全く独創という事はなくなる。全く機械と同じものになる。
 そして今のピアノの稽古は、表情を習うのが高級な稽古だと言って、弟子は主としてその肝心な寸法を先生に習い、その通りを一生懸命模倣しようとする。それでは全然機械である。全然芸術の独創というようなものはない。
 これが私の見たピアノの音楽である。私はピアノの演奏家にならなかった事を非常に幸福に思っている。

    3 私の考

 読者諸君、諸君は私のこの話を聞いても、にわかに同意しないであろう。諸君はきっとこう言うであろう。――お前の言う事も本当かも知れないが、それでも何となくまだ何か後に残っているような気がする。まさかパデレウスキーが鍵盤を叩いた音と猫が鍵盤を蹈んだ音が同じだとは、どうも何となくそう思われない。お前の話こそどこか間違っていないか? お前の話は実際本当の事か?
 私自身はこの話は実際本当だと思っている。音楽というものは、結局こんなものだと思っている。私自身の常識はこの私の話をよく承認してくれる。この反対の事は私には考えられない。
 諸君は何故に演奏家などいう怪しげな中間の存在物にそんなに心が惹かれるのか。音楽が成立するためには、演奏家は明かに第二義的な存在ではないか。
 ショパンは美しい曲を作った。そしてプレエルのピアノでそれを弾いた。恋人のジョルジュ・サンドはその美しさに胸を躍らせた。同じように今ここにヤマハやカワイのいい音のするピアノがある。ショパンの全集がある。そしてその美しさに胸を躍らす私共聴衆がある。それで音楽は完成していないか。
 ショパンのタッチが柔かで綺麗だったと伝説には謳われている。しかしイグチのタッチは柔かで綺麗でないか。イグチで悪いなら――パデレウスキーでもいい。コルトーでもいい。ショパン以後百年も技巧ばかり磨いて来た今の時代のピアノ演奏家が、まさかショパンほどもピアノが弾けないとは思われない。そして曲が同じなら、誰が弾いたところで、結局同じ事である。もし個人特有なタッチの技巧というものがないならば、あとは僅に曲の速度や、強弱の変化や、音の均合などが個人的な特徴になって来るだけである。
 そんな僅な事はどうでもいい事ではないか。同じ曲を少し速く弾こうが、遅く弾こうが、そんな事が私共に一体何の芸術的な意味を持つか。ショパンやリストの世にも美しい作曲は、僅ばかり速く弾かれようが、強く弾かれようが、そんな取るにも足らぬ小さい事ぐらいで、毫もその価値は変らない。特にその速さも、強さも、均合も、みな先生の真似事だとなったら、私にはますますそんな馬鹿々々しい事に係り合おうという気は起らなくなる。私はいい音のするピアノがあればいい。ショパンやリストの全集があればいい。弾くのはイグチ一人で十分である。イグチが手を病んだなら、――機械ピアノで誠にこの上もなく十分である。私はパデレウスキーなんかに用はない。
 私はパデレウスキーなんかに全く用はない。私はそんなものの興味で音楽を聞くのでは決してない。私がピアノを特に愛するのは、ピアノという楽器の音が特に私の耳に気持のいい感じを与えるからである。そしてこの美しい楽器に書かれたショパンやリストの名曲が特に私の感じに訴えるからである。私がピアノの音楽で聞こうと思うものは、リストが描き出した華やかな音の夢である。ショパンの唄った淋しい人生の哀歌である。それより外のものには用はない。
 諸君は円タクで郊外をドライヴする事があろう。その時諸君はなるべく乗り心地のいい円タクを選ぶであろう。諸君は窓から野や森の景色をながめて、自然の美しさを鑑賞するであろう。そして目的地についたら、円タクの運転手には五〇銭玉を一つ払って帰ってもらうであろう。この場合に、まさか自然の景色を見る事を忘れて、運転手のハンドルの握り方やペダルのふみ方ばかりを見つめている人はあるまい。もしそんな人があるとするならば、それは極めてくだらないドライヴをする人である。
 乗り心地のいい円タクは、音のいいピアノである。美しい自然の景色は、正に芸術家の美しい創作に比べられる。パデレウスキーは運転手である。私共は彼に五〇銭玉を一つ払って、おとなしく帰ってもらえばそれで十分である。この上にパデレウスキーは一体何を私共に要求する事が出来るか。
 私は時々ウエノの森を散歩する事がある。そこで音楽学校の学生が美術学校の学生と仲よく話をしながら帰ってくるのに出会う。それを見る度にいつも私は異様な感じがする。一人は自分の独創的な芸術を画布の上に描き出そうという事を理想としている美術学校の学生で、まさかその一生をラファエルやセザンヌの模写をして過そうと思うような人はあるまい。またその模写にしても、先生が青といえば青、赤といえば赤、何から何まで先生の言う通りに追随する事が一番大きな事業だと思うような人はおそらく一人もあるまい。しかし音楽学校の学生の方は、その美術学校の学生の決してやるまいと思う事だけをやっている。そして仕事は模写と追随だけである。曲はショパンやリストの作ったものである。ピアノはピアノ会社の作ったものである。その弾き方は何から何まで先生の言い付け通りである。もし個人的なものが知らず識らずタッチの上に表われるというかも知れないが、不幸にしてそのタッチというものは世の中には存在しない。やはり今のピアノの学生の仕事を取ってみれば、ただ模写と追随という事より外に何物も存在しない。
 この二人の学生は、将来どうして私共の芸術を求める心を同じ程度に満足させてくれるであろうか。私はピアノ弾きにならなかった事を、いつも幸福だと思っている。
 私はこの話は、ただピアノを例に取って、音楽の演奏という事が何を意味するものかを考えてみただけである。そして私はショパンとジョルジュ・サンドとプレエルのピアノの三つで音楽が成立していた時代が一番理窟にあった、迷信のなかった時代だと思う。私はジョルジュ・サンドの役が買いたかった。

 附記 この小篇は当時方々から多少の反駁を被ったものである。この小篇の基礎になった実験は、私はもう一度別の方法で試みる。それには非常な用意がいる。それは別のところで報告する。





底本:「音楽と生活 兼常清佐随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年9月16日第1刷発行
※プライムはアポストロフィ「'」で、シャープは番号記号「#」で代替入力しました。
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2009年4月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について