醸造の知識あれこれ


1、発酵と醸造の違い
 「発酵」という言葉は広く使われていますが、「醸造」との違いからみると、発酵は「人間に有用な物質を微生物を使って目的とする単一化合物を生産する」という定義が適当と考えられます。 アルコール発酵、有機酸発酵、炭水化物発酵、ビタミン発酵、アミノ酸発酵、核酸発酵、2次代謝産物発酵(ペニシリン、抗生物質、酵素、タンパク質など)、など様々な化学物質が微生物の素晴らしい機能を活用して発酵によってつくられています。 自然界には人間に有用な化学物質を生産する未知の微生物がまだまだ存在しており新規微生物の発見の可能性に満ちています。 一方、醸造という言葉は味噌醸造、醤油醸造、清酒醸造、焼酎醸造、食酢醸造などと使われるように、生産物は単一化合物でなく、微生物の代謝生産物そのものが製品となります。 醸造に関わる微生物は麹菌、酵母、乳酸菌、酢酸菌などがですが醸造微生物といいます。 醸造物の製造を概観してみると全てに麹菌と酵母が関与していますので、麹菌と酵母の研究は重要です。

2、醸造と麹菌
 麹菌は糸状菌(カビ)に属し麹をつくるための微生物です。 麹とは蒸米や蒸麦に麹菌を接種して繁殖させたものですが、麹菌は生きるために菌糸の先端からデンプンやタンパク質分解酵素など様々な酵素を生産し蒸米や蒸麦のデンプンやタンパク質を分解し、生成するグルコースやアミノ酸を栄養源として増殖します。 醸造では麹菌が生産したこの様々な酵素やグルコース、アミノ酸などの代謝生産物を利用します。 味噌や清酒・焼酎の製造では原料の一部(20〜40%)を麹とし、醤油は原料の全部を麹とします。 麹に使われる原料を麹原料、残りの原料を掛原料と分けますが、麹原料の種々の酵素で掛原料のデンプンやタンパク質を分解します。また麹原料に由来するグルコースやアミノ酸は酵母や乳酸菌の栄養源の一部になります。 このように醸造では麹が不可欠な存在です。 蒸米上で麹菌を育てることを「製麹」といいますが、麹菌の生物ですので造る人や条件で出来上がる麹に大きな違いが生まれます。 これが蔵ごとに風味の異なった醸造物が生まれる大きな要因となっていますが、人々に好みにあった醸造物の選択の楽しさを与えていることにもなります。

3、醸造と酵母
 酵母は単細胞微生物です。 醸造ではアルコール、有機酸、香気成分などを細胞外に放出し醸造物に風味を造る主役です。 19世紀後半における酵母のアルコール発酵の研究を出発点として、生命科学の根幹をなす「解糖系」、「TCA回路」、「呼吸系」が明らかになりました。 酸素のある状態では、酵母も人間と同じくグルコースを炭酸ガスと水まで分解してエネルギーを獲得しますが、酸素のない状態での増殖ではグルコースを炭酸ガスとアルコールにまで分解します。 お酒の主成分はアルコール(エチルアルコール)ですが、嗜好品のため風味が重要な品質評価の基準になるため、香気成分、有機酸、糖類、アミノ酸などのバランスが重要です。 風味の良いお酒を造るには良い酵母が必要となります。

4、新しい酵母の育種
 酵母は出芽という方法で無性生殖で増殖しますが、無性的な増殖は優れた形質を保存する上でメリットがあります。 しかし生存環境が厳しくなると胞子を造ります。胞子は雌雄があり、α型とa型と呼ばれています。α型、a型の胞子は栄養条件がよくなると単独で増殖しますが、両者を混ぜると結合しα/a型になります。これを交配といいます。形質の異なるα型とa型を交配させれば新しい形質を有する酵母を造ることができます。しかし残念ながら清酒酵母は胞子形成能が低く交配育種で新規な形質を有する酵母を造ることは難しいのが実状です。 そこで醸造学講座では一時的に胞子形成能を回復させる研究を行っています。

5、蒸米のデンプン、タンパク質を分解する酵素
 麹菌は麹の中に約200種類の酵素を生産するのではないかと考えられていますが、これまで研究された酵素は僅かです。 醸造に必要な酵素は何か、酵素活性は何単位必要か、まだまだ研究しなければならない酵素が多くあります。 デンプンを分解する酵素として、α-アミラーゼ、グルコアミラーゼ、α-グルコシダーゼの3つが研究されています。α-アミラーゼは液化酵素と呼ばれ、デンプンを構成しているアミロースやアミロペクチンの分子内部をランダムに加水分解し、分子を細分化することにより可溶性にします。 グルコアミラーゼは糖化酵素と呼ばれ、可溶化されたデンプンの非還元末端からグルコースを一個づつ加水分解して生産します。α-グルコシダーゼはα-1.6結合を含むオリゴ糖を基質として加水分解反応でグルコースを生成します。 タンパク質を分解する酵素は複雑で、清酒・焼酎と味噌・醤油では必要とする酵素が異なります。 それは清酒・焼酎は安全醸造のため酸性条件(pHは3前後)で仕込みますので酸性で作用する酵素(酸性プロテアーゼ、酸性カルボキシぺプチダーゼ)が、味噌・醤油は中性で仕込みますので中性で作用する酵素(中性プロテアーゼ、アミノぺプチダーゼ、グルタミナーゼ)が研究されています。 従って、清酒、焼酎、味噌、焼酎ではそれぞれ麹菌の菌株が異なります。

6、清酒醸造は世界で一番アルコール濃度の高い醸造法
 ワイン醸造は単発酵、ビール醸造は単行発酵、清酒(焼酎)醸造は並行複発酵という発酵形式で醸造されます。 発酵終了時のアルコール分を比べてみますと、ワイン醸造は約14%、ビール醸造は約5%、清酒(焼酎)醸造は約20%と大きな違いがあります。 並行複発酵とは麹酵素による原料穀類の液化・糖化と酵母による発酵が並行している発酵形式をいいます。一般に酵母の発酵力は糖濃度が約1〜2%で最大であり高糖濃度になると発酵力が低下します。清酒醸造は発酵期間中のグルコース濃度が1〜2%の低い濃度で発酵が持続します。 このため最終アルコール濃度が約20%という世界に類もみない高濃度の酒類を造ることができます。 また段仕込みも約20%の高濃度アルコール分とする仕組みです。段仕込みとは酒母、初添え、仲添え、留添えと4回に分けて仕込む方法です。 なぜこんな面倒なことをするのでしょうか? それは蒸米が解けたら次を仕込むという方法を繰り返すことで使う水の量を減らすためです。 水の使用量が少ないためアルコール濃度が高くなります。

7、なぜ蔵ごとに酒質が異なるか
 前述のように酵母は出芽という無性生殖で増殖しますので、同じ形質をもった酵母を大量に増やすことが簡単にできます。つまり良いお酒を造るためには優良酵母を所有することが重要です。これに対して麹は良い麹菌をもっていても麹の造りかたが異なると異なった麹ができます。麹菌を蒸米や蒸麦に散布して30-40℃で3日間ほどかけて麹菌を育てて麹を造ることを製麹(せいきく)といいます。この製麹を行う人が蔵ごとに異なるためできた麹も異なります。その理由は麹菌がなぜ酵素を生産するかを考えれば分かります。麹菌は蒸米や蒸麦という環境で生きるためにデンプンやタンパク質を分解する種々の酵素を菌糸の先端から生産する訳ですが蒸米内部における酵素反応は水分に大きく影響します。蒸米水分は製麹のスタート時は約36%もありますが最後には約18%と低下します。3日間の間で水分の発散と麹菌の増殖とのバランスをとることが麹造りですが、麹を造る流儀が蔵ごとに異なるため様々な麹が出来上がります。これが蔵ごとに酒質が大きく異なる原因と考えられます。「銘酒の陰に名杜氏あり」という言葉がありますが、酒造りではまだまだ人間の感性が重要視されています。醸造学講座ではこのような観点から製麹における麹菌の酵素生産について詳しく研究しています。

8、なぜ原料米を精白すれば良いお酒ができるか
 清酒醸造では価格の高い酒造好適米を使用し更に精米で米を磨いて白米とします。米を磨くほど白米価格が高くなり大きく製造コストに響きます。大吟醸酒造りでは精米歩合35〜40%の白米を使用します(精米歩合とは玄米重量に対する白米重量のパーセント)。何故こんなに米を磨くのでしょうか? 磨かなければ高品質の大吟醸酒が造れないのでしょうか? 不思議です。 「清酒製造技術」には米を磨くと粗タンパク質含量が減少するから生成酒の品質が向上する、と記載されています。 タンパク質は分解するとペプチド・アミノ酸が生成しますが、醸造学講座ではお酒のペプチドやアミノ酸組成に米を磨かなければならない理由が存在するのではないかと推論し研究を行っています。 将来、米を磨かなくとも良いお酒を造れる麹菌や酵母を育種したいと考えています。

9、麹菌の代謝生産物
 味噌・醤油は麹菌が生産したタンパク質分解酵素で米、麦、大豆のタンパク質をアミノ酸、ペプチドまで分解して風味と栄養素が付与された日本が誇れる調味料です。また、麹菌は増殖に必要なアミノ酸やビタミンは自前で合成する能力がありますので、 麹菌の代謝生産物はタンパク質分解物以外に麹菌が造った必須アミノ酸、ビタミンや機能性ペプチドが麹に含まれています。 味噌・醤油は日本人の健康に必要な必須アミノ酸やビタミン、機能性ペプチドを供給していると考えられます。 欧米では麹を使った食品はなく必須アミノ酸やビタミンは肉食で補っていると考えられます。

参考書
改定醸造学、講談社サイエンティフィク