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「帝国」言説と幕末日本 ―蘭学・儒学・水戸学そして幕末尊攘論― 桐原健真 講座明治維新 10『明治維新と思想・社会』有志舎、2016 年 はじめに ﹁帝国﹂言説と幕末日本 ││蘭学・儒学・水戸学そして幕末尊撰論││ 桐原健真 一八五四年(嘉永七)三月一一一日︑日米和親条約(神奈川条約)は締結された︒この条約の結果︑徳川幕府による鎖 国政策は終罵を迎え︑これ以降︑同様の条約がロシア・イギリスなどと結ぼれていくこととなる︒ この条約の書き出しは︑﹁亜墨利加合衆国と帝国日本両国の人民︑誠実不朽の親睦を取結ぴ:::﹂︹﹃幕末外国関係 文書之五﹄四五二頁︺という文言で始まっている︒現代の人間で︑この表現を奇異に感じるものは︑ほとんどいない に違いない︒しかしながらこの一文は︑まさにエポツク・メイキングな一文であった︒なぜならば︑これは︑みずか らが﹁帝国﹂(開BU町σ ) であることを国内外に対して︑徳川幕府が公式に認めた宣言に他ならないからである︒ 日米和親条約には︑日本語・英語・オランダ語︑そして漢文で記された四種類のバージョンが存在するが︑そのう ちの漢文版には︑﹁帝国﹂ないしは﹁エンパイア何日立同巾﹂に相当することばを見つけることは出来ない︒すなわち︑ 「帝国」言説と幕末日本 5 7 文中子日く︑﹁強国は兵を戦はしむ︒覇国は智を戦はしむ︒王国は義を戦はしむ︒帝国は徳を戦ふ︒皇国は無為 を戦ふ﹂と︒(文中子日︑強回戦兵︑覇回戦智︑王国戦義︑帝国戦徳︑皇国戦無為︒)︹﹃文中子﹄巻五︑九丁裏︺ こ こ か ら は ︑ ﹁ 皇 国 ﹂ を 頂 点 と し た 帝 国 王 国 覇 固 強 固 と い う ヒ エ ラ ル ヒ l の構図が存在することを読み取る ことができよう︒それは︑近世後期の日本知識人が抱いた﹁帝国﹂イメージに合致するものでもある︒また︑この﹃丈 中子﹂は︑ 一六九五年(元禄八)に和刻されており︑それなりの広がりがあったことは否定できない︒しかしながら︑ このような﹃文中子﹄中に一ヵ所しか見られない表現││﹁帝国﹂の語も管見の限りこの箇所だけであるーーが︑近 5 8 漢文版には︑﹁現今︑亜美理駕合衆国︑日本と国人の交ごも相ひ親睦することを謀り:::(現今亜美理駕合衆国謀与 日本国人交相親睦:::)﹂︹﹃幕末外国関係文書之五﹂四四九頁︺とのみ記されているのである︒この漢文版が他の版 一八世紀末の蘭学者に と異なっている理由は︑﹁帝国﹂という表現が︑漢文において正統なことばではなく︑中国語を専門とする唐通事や 儒学者である林大学頭などにとっては︑用いがたいものであったこともあろう︒﹁帝国﹂は︑ よって造られたいわゆる近代漢語のひとつだったのである︒ しかしながら︑この正統な漢語ではない﹁帝国﹂ということばは︑日米和親条約以後における数多くの外交文書に おいて当然のように用いられるようになった︒たとえば︑安政五ヵ国条約ではフランスを除くすべての条約に冶い て︑この語を見ることできる︒徳川時代後期の政治家や知識人は︑この﹁帝国﹂という新奇な用語が︑エンパイアや カイザライヒ同包括ミ片町(独)といったヨーロッパ語のたんなる訳語ではなく︑みずからの国の堂々たる称号である と考えていた︒ 二O O八年︑二一九頁︺︒すなわち平川によれば︑このことばは︑陪の王通(文中子)の﹃中説﹄(﹃文中子﹄) ぉ︑っとう なお︑平川新は︑﹁帝国﹂は蘭学者による造語ではなく︑古典漢語として存在していたと指摘しており興味深い︹平 J I I の﹁問易篇﹂に見えるという︒ 新 世後期の知識人の聞に流布しており︑﹁帝国﹂ということばを聞いたときに︑即座に想起されうるものであったかに ついては︑疑問が残る︒ ぬり もし︑﹁帝国﹂という一一字熟語の用例を挙げようとするのであれば︑王通が没して約一世紀の後に編まれた﹃日本 けいみかどあまねは しち 書紀﹄にも見られる︒すなわち︑欽明天皇紀一三年(五五二年)一 O月条に︑﹁百済の王臣明︑謹みて陪臣怒剛斯 致 契を遣して︑帝国に伝へ奉りて︑畿内に流通さむ o ﹂(﹃日本書紀﹄下巻︑一 O 一頁︑振仮名は原文に従った)とある︒ もちろんこれは︑﹁みかど﹂と訓まれていることからわかるように︑﹁帝の因する所﹂という意味であり︑本章で取り 扱おうとしている地理叙述に用いられる﹁帝国﹂とは︑必ずしも一致するものではない (他の中国古典にも︑﹁帝国﹂ の用例を見出すことはできるが︑やはり同様である︹桐原健真二 O O八年参照︺)︒ もし﹃文中子﹂が﹁帝国﹂の語源であるならば︑幕末期の国学者が︑﹁天皇の国﹂を意味し︑また﹁帝国﹂に優越 する﹁皇国﹂ということばに注意を払わなかったという事実をどのように考えればよいのだろうか︒幕末において︑ 大国隆正を始めとする国学者が︑日本は他の﹁帝国﹂に優越する存在であると主張したが︑この時︑彼らは日本を ﹁皇国﹂という彼らが慣れ親しんだことばではなく︑﹁大帝国﹂と呼んだのである(第五節参照)︒このことは︑彼ら にとって︑﹁皇国﹂と﹁帝国﹂とが文脈を異にする日本の自己認識であり︑﹁文中子﹄の説く﹁皇国﹂を頂点とするヒ エラルヒ lがーーー少なくとも国学者にとっては││一般的なものではなかったことを意味していると言えよう︒ 本章の目的は︑﹁帝国﹂ということば︑そして日本を﹁帝国﹂とする言説が︑日本知識人によっていかに形成され︑ 変容されていったのかを明らかにすることである︒本章の筆者は︑これまで﹁帝国﹂をめぐるいくつかの小論を発表 しており︑ここではこれらをふまえつつ︑蘭学者・儒学者そして水戸学者や尊撰志士といった︑近世日本知識人にお ける主要なカテゴリにおいて︑﹁帝国﹂ということばがいかに機能したかを見ていきたい︒そしてそれは︑幕末日本 における自他認識の構造を検討することに資するものともなろう︒ 「帝国」言説と幕末日本 う9 エンパイア日帝国? 二O O三年︑ 記述とともに︑﹁単一の主権を持った権威白色ロmF825‑宮山口匹︒江守の下にある領土や諸国民﹂といった表現も見 事実︑多くの英英辞典などにおいても︑ エンパイアに対しては︑﹁皇帝σBU22によって支配される領土﹂という メリカに対しても﹁帝国主義 Hインペリアリズム﹂という表現が成立しうるのだ││と吉村は指摘する︒ したがってエンパイアという表現は︑共和政期においても適応しうるものでもあり︑また皇帝が存在しないはずのア ように判断されるのであって︑その主権者がエンベラlE622(白量産主であるか否かは︑直接的には関係がない︒ ある国家がエンパイアと呼ばれるのは︑その外部に存在する諸国家を包摂しているという統治の形態においてその 五五1五六頁︺ 体の外部にある複数の﹁国ぐに﹂(さまざまな種類の政治集団)であるところにある ︹吉村忠典 の説明とは反対に︑支配の主体が﹁エンベラ1﹂と称するところにあるのではなく︑むしろ支配の客体が︑主 歴史的には︑ エンパイアの特質は︑日本の諸辞典における︹﹁皇帝の統治する国﹂という││引用者註︺﹁帝国﹂ 村は次のように一言ヨノ︒ などといったことばから導かれる﹁帝国﹂のイメージを﹁ロ l マ帝国﹂に用いることは適当ではないからである︒吉 インベリウム B H 5江口日ということばは︑近代的な意味での主権国家の観念と一致するものではなく︑﹁大日本帝国﹂ 用いられることから生じる﹁混乱﹂の整理を図るためであった︒なぜならば︑ エンパイアさらにはその語源としての 史を専門とする吉村がこの問題に取り組んだ一つの目的は︑みずからの研究領域において﹁帝国﹂という日本語が ﹁帝国﹂とりつことばに対して︑ はじめて体系的な概念史的検討を加えたのは︑吉村忠典である︒古代ロ l マ帝国 1 60 とができる︒さらに非英語話者の学習のために編まれた O るこ もミ A与雲町内人hS道三勺宣言ミミ(叶匹包・)に至って︑ J は︑﹁一人の支配者ないしは一つの政府によって支配されている国々や諸国家の一群同情︒与え85E222巳 g Fえ向︒ g E B ‑ ‑包 σ可︒52‑22mO2558昨﹂と記しており︑もはや支配者E‑2の称号自体を問うておらず︑ 学習者に対して︑ エンパイア本来の概念を的確に教えてくれている︒ そもそもインベリウムは︑古代ロ l マにおける最高公職者に付与された権限であり︑しばしば﹁命令権﹂とも訳さ れるものであった︒しかし︑ やがて︑その権力が行使される属州をふくめた領域の意味をも持つようになると︑イン ベリウム・ロマヌム H EUOHEBHNOEEE出といった表現が成立することとなる︒このようにインベリウムとは︑あく まで本国と︑その周緑化された諸国家全体を統治するような政治形態を意味するものであって︑その限りで︑主権者 が皇帝であるか否かは︑第一義的な問題ではなかったのである︒ ⑦巴匂 22はその派生語である︒したがって︑語源的な視点からいえば︑あくま なお︑この権能としてのインベリウムを有して外征に赴き︑凱旋した人間は︑インベラトル ‑ B宮EEHと呼ばれ た︒君主の称号としてのエンベラ1 で支配領域としてのインベリウムを前提として︑これを統治するがゆえに︑その主権者はエンベラ lと呼ばれるので あって︑その逆ではない︒その国がエンパイアと見倣されるか否かは︑あくまでその統治形態何知にかかっていたの だと言えよう︒ 一六世紀末に来日したスペイン人のアピラ・ヒロンが著した﹃日本王国記河内食尽き 主 h 同宣言︑ 一六世紀に日本を訪れ︑あるいは日本について叙述したヨーロッパ人はしばしば︑日本を﹁王国﹂と表記 このようなエンパイアの性質をよく示しているのが︑戦国期から近世にかけてのヨーロッパ人による日本理解で あろ︑っ︒ していた︒たとえば︑ ミザ﹄きとを想起すれば良い︹前野みち子二 O O六年︺︒しかし︑こういった﹁王国日本﹂理解は︑徳川幕府の成立 による圏内の安定にともなって変化していく││とヨーロッパ中世史家で日本の城郭史にも精通していた大類伸は︑ 「帝国」言説と幕末日本 6 1 日本学士院所蔵のキリシタン史料の分析から指摘する︒ キリシタン史料一般を通じて︑全日本の支配者即ち皇室を﹁ダイリ﹂(内裏︑内裡)と称して特別に取扱うと共 に︑実際的統治の代理を皇室から寄託された武家幕府の実権者たる将軍を﹁クボウサマ﹂(公方様)と呼ぶよう になった(室町︑戦国時代)︑そうして後に徳川幕府の支配権が確実化されるに及んで︑将軍を O B H ) 2 2と称す る風が︑キリシタン史料一般に使用されるに至った︒そうしてその将軍に従属した諸侯(特に有力な諸侯)を W5mと呼ぶ風習が行われた︑﹁奥州王伊達政宗﹂の如きがそれである︒従ってキリシタン史料の場合には︑日本 一九七三年︺ の有力諸侯が Eロぬの名で現れて来るのが常例であるので︑この点読者諸氏の正しい判読を希望する次第である︒ ︹大類伸 大類によれば︑ヨーロッパでは︑徳川幕府成立以後の日本を︑将軍 σ自匂22によって諸大名町一口容が支配されて いる統治形態と考えられるようになったという︒そして︑これ以降︑日本は﹁王国﹂としてではなくエンパイアとし て叙述されることとなり︑こうした日本理解は︑幕末に至るまで基本的には変わることがなかった︒たとえば︑元禄 期に来日したエンゲベルト・ケンベルの著作である﹃日本誌﹄の英語版には︑﹁六八に区分された諸州における日本 HB宮 SEHBE印日出向山口EZRZH)H2En‑seigs﹂と題する日本地図が収められている︒ただし 江 戸HBE℃ インベリウム 帝国 これは︑ ケンベルの死後に﹃日本誌﹂ の英語版(一七二七年)を刊行する際︑その翻訳に携わったカスバル・シヨ イヒツアーが付したものであるが︑ケンベルもまた︑日本がエンパイアあるいはカイザライヒ││彼はドイツ人であ )0 り︑﹃日本誌﹂はもともとドイツ語で記されたーーであると考えていた (なお彼は︑日本には天皇と将軍という二人 の皇帝が存在すると指摘しており︑この点については後述する このように一七世紀以降のヨーロッパ(のちにはアメリカも含む)では︑日本はエンパイアとして理解されていた︒ しかし︑それはあくまで︑その統治形態に基づいたものであって︑そこにおける主権者がいかなる存在であるのかと 6 2 いうことは︑必ずしも重要ではなかった︒だが︑このヨーロッパにおけるエンパイアの観念が︑ひとたび﹁帝国﹂と いう漢語によって表現されたとき︑まさにコペルニクス的な転回をとげることとなる︒すなわちエンパイアは︑﹁皇 帝の国﹂という意味で腰着され︑そこにおける主権者の存在形態に焦点が当てられるようになっていくのである︒ ﹁帝爵﹂というステイタス 吉村忠典が指摘するように︑﹁帝国﹂が︑世界地理の叙述上において体系的に用いられるようになったのは︑丹波 福知山藩主であった朽木昌綱がヨーロッパの地誌を記した﹃泰西輿地図説﹄(一七八九年︿寛政元﹀刊)をはじめと する︒昌綱は︑﹁皇帝の国﹂を意味するオランダ語のケイゼルレイキZ W21‑w(Z‑N2H皇帝︑忌}内 H国)から︑﹁帝 国﹂を生み出したのであろう︒ このケイゼルレイキということばの組成だけを考えれば︑それを﹁帝国﹂と訳すことには︑さほどの違和感がない ように感じられる︒しかし︑ヨーロッパにおいては︑ゲルマン語系統のケイゼルレイキは︑つねにラテン語系統のエ ンパイアとの緊張関係にあったのであり︑﹁皇帝の国﹂という意味だけが独り歩きすることはなく︑その統治形態と の兼ね合いのなかで︑ケイゼルレイキということばは用いられていたのである︒だが︑こうした緊張関係の存在を知 ることの無かった近世日本の蘭学者たちは︑主権者の様態を意味することばとしてケイゼルレイキを理解し︑そして ﹁帝国﹂ということばを用いていった︒たとえば﹁泰西輿地図説﹄には次のような叙述がみられる︒ 此の﹁ヱウロツパ﹂の州中三つの帝国あり︒其一は﹁イタリヤ﹂の帝なり︒則﹁ヱウロツパ﹂州中をす︹統︺ぶ るの帝王にして︑昔時﹁イタリヤ﹂より出て後︒﹁ドイツラント﹂の﹁ウヱイネン﹂に移て都せり︒:::其二は ﹁リユスラント﹂ の帝なり︒昔時は帝爵の固にあらず︒侯爵の国主たりしが︑近歳﹁ピイテル﹂姓なる人帝位に 「帝国」言説と幕末日本 6 3 2 6 4 即てより諸州を攻落し︑勢い甚大にして︑今世界第一の帝国となれり︒其三は﹁トルコ﹂の帝なり︒昔時は︑﹁ヱ ウロツパ﹂の地を領すること甚少かりしが︑近歳甚強大にして︑諸州を従て︑﹁アジヤ﹂の震旦につぐの帝国と なれり︒︹朽木昌綱﹃泰西輿地図説﹄二五1二七頁︑原片仮名︑句読点は適宜補った︒以下同じ︺ 昌綱は︑ ヨトロッパには三つの﹁帝国﹂があると記した上で︑その具体的内容を示していく︒しかし︑そこで挙げ られているのは︑﹁イタリヤ(ロ l マ)﹂・﹁リユスラント(ロシア)﹂・﹁トルコ﹂の﹁帝﹂であり︑﹁帝国﹂そのもので はない︒すなわち︑これらの国々が﹁帝国﹂であるのは︑その君主が﹁帝﹂であるからであって︑その国の統治形態 如何が第一の要件であるとは︑昌綱は考えていなかったのである︒このような叙述からも﹁帝国﹂と﹁帝﹂とがほぼ 同一視され︑﹁帝﹂あるところに﹁帝国﹂があるという認識の存在をみることができよう︒君主のステイタスが︑国 家のそれに直結するという思考様式は︑近代的な国家平等観念とは必ずしも一致するものではない︒しかしながら︑ 親藩│譜代│外様といった君主の家格が藩国家のステイタスと直接的に結び付いていた近世日本において││とりわ け小藩といえども譜代大名であった昌綱にとっては││﹁等爵﹂に基づいた叙述は理解し易いものであったに違いな ロシアは︑かつて﹁侯爵﹂の固であったが︑のちに﹁帝爵の国﹂となり︑ピヨ 1トル大帝の即位以降︑膨張を続け︑ なヨーロッパ国家であるロシアの歴史であった︒ る︒そして︑こうした諸国家によっ℃構成されるヒエラルヒ lの存在を確信させたのが︑日本にとってもっとも身近 のなかでも﹁帝国﹂こそが︑この﹁等爵﹂のヒエラルヒ Iにおける頂点に位置するものとして理解されていたのであ 諸国家の呼称を﹁爵﹂すなわち﹁等爵﹂(等級)とみなして︑その質的な相違を認めていたことは明らかであり︑そ といった国々の名が挙げられている︒これらの叙述が︑﹁爵名﹂という項目の下に展開されていることから︑日日綱が︑ また︑﹃泰西輿地図説﹄では︑この﹁三つの帝国﹂に関する説明に続けで︑ヨーロッパにおける﹁王爵の固﹂や﹁侯国﹂ 、"。 ついに今日では﹁世界第一の帝国﹂となった││と昌綱は言う︒このように︑君主の﹁等爵﹂は︑その固の地位と直 結するものであって︑本来は諸侯の地位でしかなかった固も︑隆盛を極めれば﹁帝国﹂となれるのであり︑裏を返せ ば︑﹁帝国﹂であるということは︑その固の君主は皇帝(﹁帝爵﹂) でなければならないということを意味する︒かく の知き認識が︑やがて幕末の尊接運動に大きな影響を与えることになるのだが︑この点については後述することとし て︑ここでは︑昌綱が︑﹁皇帝国王公侯﹂といった君主聞における身分秩序を︑﹁帝国王国公侯国﹂という国 家聞における階層秩序へと読み替えることで︑国際社会││﹃泰西輿地図説﹄では︑あくまでヨーロッパのそれだが ーーーを理解する枠組みを提示したことに注意しておきたい︒ ﹁帝国﹂ の受容と展開││蘭学を中心に││ かつらがわほ こうして誕生した﹁帝国﹂であったが︑これが近世後期の知識人たちのあいだに瞬く聞に広がったと言うわけでは しゅうほくさぷんりゃく ない︒たとえば︑﹃泰西輿地図説﹂の刊行から五年を経た一七九四年(寛政六)に︑奥医師で蘭学者であった桂川甫 周は︑ロシアから帰還した漂流民の大黒屋光太夫らに取材した海外情報を﹁北桂聞略﹄にまとめているが︑そこに は︑﹁等爵﹂に関する次のような記述が見られるものの︑﹁帝国﹂の語を見ることはできないのである︒ そこもと 帝号を称する国をイムベラトルスコイといひ︑王爵の国をコロレプスツワといふ︒彼邦にて他邦の者どもおち 合︑互に其許の国は何回にて何爵ぞと聞とき︑コロレプスツワなりといへばとり合者もなし︒イムベラトルスコ イなりといへば席中形を端し上座を譲ると也︒世界の間四大部洲にして其容る所の諸国千百に下らず︑其内帝号 を称する国僅に七固にて︑皇朝其一に居る︒きれば光太夫等何方に行ても少しも疎略にせられざりしなり︒︹桂 川甫周﹃北桂聞略﹄二四八1三四九頁︺ 「帝国」言説と幕末日本 6う 3 国々には﹁爵﹂が存在し︑﹁帝号を称する国﹂と﹁玉爵の国﹂とでは雲泥の差があるが︑世界中に七カ国しか存在 しない﹁イムベラトルスコイ B宮E吉田宮司﹂からやってきた自分に対するロシア人の歓待は申し分なかった︑と光 太夫は言︑っ︒この﹁イムベラトルスコイ﹂は︑現代日本語では﹁帝国﹂に相当するものであり︑この一文からは︑﹁帝 号﹂を頂点とする﹁等爵﹂が強い規範性を有しているという意識を見て取ることができよう︒しかし︑それでもな はるまわげ お︑ここには﹁帝爵の国﹂を端的に表現する﹁帝国﹂の語を見出すことができない︒光太夫のみならず︑甫周にとっ ても︑それはまだ自分のことばではなかったのである︒ ﹃北桂聞略﹄ の二年後に完成した日本初の蘭日辞典である稲村三伯﹃波留麻和解﹄(一七九六年) でも︑ケイゼルレ イキはたんに﹁帝王の国﹂とのみ訳されているだけで︑﹁帝国﹂とは記されていない︒だが︑この﹃波留麻和解﹄の 簡約版である藤林普山の﹃訳鍵﹄(一八一 O年︿文化七﹀刊)には︑ケイゼルレイキやケイゼルドム宮町内司号ヨといっ たことばに﹁帝国﹂の語が充当されている︒﹁帝国﹂は︑﹃泰西輿地図説﹄から二 O年の聞で蘭学者たちにとって一般 的な用語となったのだと言えよう︒また︑こうした﹁帝国﹂の受容は︑蘭学者内だけに留まらず︑少しずつではある が︑すでに外交の場面にも波及していたことが︑日露聞が緊張状態にあった一八一 0年代における外交文書にも見る ことができる︒ 予は︑大魯西亜皆固皇帝の聖命に依て︑広大なる伊児寄都加轄の鎮台なり︒我が鎮︑ずる所の地と︑其大日本帝国 さしっかわし の地とは接境なるに因て︑其天子公方高位の松前島及び其地北方諸御領地の鎮台え︑我腹心の官人︑魯西亜官船 なしくだされ︐ の甲必丹にして官章を帯る事を得るイリコルヅを差遣候問︑其鎮台腹心の御役人と︑左に相記し候親和之御相 談被成下候様相願候︹﹃通航一覧﹄一三三巻︑八六頁︑振仮名引用者︺ これは︑ロシア海軍のデイアナ号の艦長以下乗組員が日本に抑留されたゴロウニン事件の解決のために︑一八一二一 年五月三日(ロシア暦)にロシアのイルク l ツク総督が日本側へ送った書簡を翻訳したものの冒頭箇所にあたり︑こ 66 こに︑﹁大日本帝国﹂の文字を確認することができる︒この書簡の日本語翻訳担当者に名を連ねている足立左内・馬 場佐十郎・村上貞助・上原熊次郎の四人のうち︑だれが﹁帝国﹂ということばをここに書き込んだのかについて確定 することは難しい︒ただし︑ロシア語にも通じたオランダ通詞の馬場佐十郎が︑中津藩主の奥平昌高の命により編ん だ﹁蘭語訳撰﹂(一八一 O年)には︑ケイゼルレイキの訳語として︑﹁帝国﹂が用いられているので︑おそらくは馬場 を経由して︑このことばが外交文書に持ち込まれたと考えるのが自然であろう︒もとより幕府において︑日本を﹁帝 国﹂として呼称することが公的に認められたわけではない︒この書簡において﹁帝国﹂の語が用いられたのは︑あく までロシア側が日本を﹁帝国﹂と呼びかけたからであって︑日本側が自発的にそのように名乗ることはなかった︒﹁帝 国日本﹂という自覚は︑他者によって呼称されることによって初めて生じるものであったと言えよう︒ きいらんいげん このように展開した﹁帝国﹂が︑蘭学者のあいだで広く受容されるようになった最大の要因は︑一八O二年(享和 二)に︑土浦藩士で蘭学者の山村才助が完成させた﹃訂正増訳釆覧異一言﹄の登場だと考えられる︒同書は︑当時最 新の蘭学知識を用いて︑新井白石の﹃采覧異一言﹄(一七二三年︿正徳=一﹀成稿)を訂正・増補した世界地理書であり︑ ラテンフランスオランダいう この中で才助は︑﹁帝国﹂の概念規定を行い︑具体的にその国名を列挙している︒ およそ ﹁イムベラトヲル﹂亦羅旬語なり︒払郎察呼て﹁エムペレウル﹂と云ひ︑和蘭呼て﹁ケイゼル﹂と云︒乃 ゼルマニアモスコピア ち帝者の義なり︒凡威徳隆盛にして諸邦を臣服する大国の君に非ざれば︑此爵を称ぜず︒欧羅巴洲中︑惟 ベルシアアピシニイマ 入爾馬泥亜・莫斯耳未亜の一一国のみ︒其他は支那・都児格・莫臥児等を西人如此に称す︒又西書所載を按に︑此 ︑ 巻 一 一三五頁︑原片仮 外にも百児西亜・亜毘心域・馬羅可等の諸大邦︑又遅羅・日本及び瓜睦の璃犬口蘭等は︑皆勢盛に自立して他に属 せず︑各おの雄を一方に称するに因りて︑西人又呼て帝国とす︒︹﹃訂正増訳采覧異言﹂ 名︑振仮名は原文に従った︺ ここで才助は︑ ヨーロッパにおいて﹁帝国﹂と呼ばれる国々を︑三つのカテゴリに分けて整理しており︑これを表 「帝国」言説と幕末日本 7 6 「帝国」の条件 表 該当する国名 神聖ローマ・ロシア・中国・トルコ・ムガル ベルシア・エチオピア・モロッコ タイ・日本・マタラム=イスラム ①一②一③ 「帝国」の要件 諸邦を臣服する大国 大邦 自立し雄を一方に称する にすると上のようになる︒これら三つのカテゴリのいずれにおいても︑その規模の大きさの差はあ れ︑本国と︑その周緑化された諸国家の全体を統治しているか否かが︑﹁帝国﹂ の要件と見倣され ていることがわかる︒ しかし︑改めて才助の文章に就いて見てみると︑彼は当初︑帝爵を称することのできる君主の要 件について述べていたはずなのだが︑それがいつの間にか﹁帝国﹂の要件へと︑その叙述の内容が ずれていることに気付かされる︒こうしたずれは︑朽木昌綱が︑ヨーロッパの﹁三帝国﹂を叙述し ながら︑実際には︑これらの国々の君主としての﹁帝﹂について言及していたことと好対照をなし ている︒ すなわち︑皇帝が存在することで︑その固は﹁帝国﹂になると︑自国綱が考えていたのに対して︑ 才助は︑その国が﹁帝国﹂と呼ぶにふさわしい統治形態を有するがゆえに︑その君主は皇帝たりう ると考えていたのである︒才助が思い描いた︑周辺諸国をその影響力の下に支配するような統治形 態を有する固としての﹁帝国﹂という観念は︑インベリウム本来の意味に比較的近いものであり︑ それは︑多くの蘭書に接し︑その先にある地球規模の世界を把握しようと格闘した才助の知的営為 の賜物であったと言えよう︒しかし︑これらの国々を叙述するにあたって﹁帝国﹂ということばが 用いられたことで︑才助もまた君主の﹁等爵﹂という思考に絡め取られざるを得なかった︒この事 実は︑それを使う者に或る観念を与える﹁ことば﹂というものの持つ影響力の強さを我々に教える ものでもある︒ 才助が結局は︑﹁等爵﹂の論理に回収されてしまったもう一つの理由は︑﹃訂正増訳采覧異言﹄の 下敷きとなった新井白石の﹃采覧異言﹄における世界把握自体にあった︒なぜならば︑白石は︑ロー 6 8 マ・カトリックの宣教師であるシドッチから世界地理知識を得ており︑そのためヨーロッパ中世以来の伝統的な国 あんずる 際秩序観念││教皇・皇帝を頂点とする﹁凡そ六等﹂(﹁采覧異言﹂八一九頁)の﹁等爵﹂のヒエラルヒーーーをも 受容してしまったからである︒﹁按に︑欧羅巴諸国︑君長の爵︑尚多し︒六等に止まらず﹂︹﹃訂正増訳采覧異言﹂ 一三六頁︺といったように︑﹃采覧異言﹄を﹁訂正増訳﹂した才助であったが︑白石の世界観そのものまで﹁訂正﹂ するまでには至らず︑結局は彼も﹁等爵﹂の磁力から逃れることが出来なかった︒そして︑この﹁帝国﹂を頂点と する国際社会理解の構図は︑これ以降も蘭学者たちに承け継がれ︑君主の称号がその国の﹁等爵﹂の高下を規定する 一つの基準となったのである︒ しかし︑蘭学者たちに﹁帝国﹂という観念を与えたヨーロッパでは︑このころすでに︑伝統的な﹁等爵﹂による 国際秩序理解が終罵のときを迎えようとしていた︒その兆しは︑すでに三十年戦争後のヴェストファ lレン条約 (一六四八年)において︑ヨーロッパ諸国が主権国家として神聖ロ l マからの独立を獲得したことにも現れていたが︑ フランス皇帝に即位したナポレオンが神聖ロ 1 マを滅亡させるといった事件(一人O六年)は︑この流れを決定づけ た︒しかし日本においては︑こうした事実は必ずしも十分に理解されることはなく︑﹁等爵﹂という考え方はその後 も維持され続けることとなったのである︒ ﹁帝国日本﹂言説の成立 才助が﹁帝国﹂の要件として三つのカテゴリを設けていたことは︑すでに見たとおりである︒その第三のカテゴリ である﹁勢盛に自立して他に属せず﹂また﹁雄を一方に称﹂している﹁帝国﹂に︑才助は日本を分類している︒世界 地理書において︑日本を﹁帝国﹂ということばをもって明確に規定したのは︑才助を曙矢とすると言って良い︒しか 「帝国」言説と幕末日本 9 6 4 そもそも ふと 7 0 し︑﹁訂正増訳采覧異一言﹂において︑彼は日本に関してほとんど言及しなかった︒そうした発言が︑﹁御政道﹂に対 J匂みり する発言となる危険性を考慮した可能性は否定できないが︑このことについて彼自身は︑﹁抑日本の事実の如きは︑ 人々皆得て能く知る所の者なり︒何ぞ外邦の人の所言の説を借てこれを証することを須ひんや︒故に敢て増訳をなさ ず﹂(﹃訂正増訳采覧異一言﹄一 O五人頁︺と述べている︒日本のことは日本人が一番分かっているのだという主張から は︑才助における日本への無条件な愛着心を見ることができるのであり︑このような立場から彼は︑日本が﹁帝国﹂ であることの論証を試みるのである︒ 夫れ日本の亜細亜洲中に於て支那・莫臥児・百児西亜等に比すれば小なること固より論なし︒然れども其地の南 わたポルネ 北十四度に百一るときは︑決して小国と云ふべからず︒亜細亜海中の大島は︑日本・波爾匿一 何・蘇門答刺・瓜睦・ セイランアラビア 則意蘭・呂宋等なり︒然れども︑波爾匿何以下の五国及び其他韓組・亜刺比亜等の至大なる国も︑或は多くの君 ギリシアとりこ 長これを分け治め︑或は他国に従属して︑敢て日本の帝国一統せるに似ず︒然るに吾邦古来浮屠氏︹仏陀││引 用者註︺の説を用ひて︑或は粟散辺土の小固など︑称して︑自ら其己れが本国を賎むは︑愚昧の甚しき者と云ベ し︒彼浮屠氏の国の如きは︑古へは厄勤祭亜に破られて帝王檎となり︑今は莫臥児に併せられて︑回々教の国 となる者︑畳我が万古不易神聖伝統の帝国と同日の談ならんや︒︹﹃訂正増訳采覧異言﹂一 O五八1 一O五九頁︑ 振仮名は原文を参考にした︺ たしかに日本は中国やムガル・ベルシアに比べれば小さいことは否定できないが︑島国としての広がりは︑アジア における他の島国に比べて抜きん出ており︑決して﹁小国﹂と言うことはできないのだ││と才助は言う︒そして︑ 先に自らが列挙した﹁帝国﹂のなかUも︑その具体的な政治状況を鑑みれば︑﹁帝国一統﹂の日本には及ばないも の も存在していると指摘し︑あの三つのカテゴリ分類に基づく叙述を︑みずから否定することすら厭わなかったのであ る J 彼自身が︑具体的にどのような政治体制を理想とし︑現体制としての徳川政権をいかに認識してい たかについて は︑﹃訂正増訳采覧異言﹄からは見えてこない︒鮎沢信太郎が指摘したように︑蘭学者である前に土浦藩士でもあっ た彼は︑自らの属する体制そのものに対して疑問を抱くことはなく︑むしろ肯定的に捉えていたと考えられる︹鮎沢 信太郎一九五九年︺︒日本を﹁粟散辺士の小国﹂と呼ぶ仏者に対して︑やや強弁にも似た強い反発を示しているよ うに︑彼は︑﹁万古不易神聖伝統の帝国﹂である﹁己れが本国﹂を素朴に愛する人物であった︒こうした才助のいわ ば郷土愛的な感情に基づく﹁帝国日本﹂の観念は︑近世日本においてもっとも西洋に近い存在であった蘭学者たちに も承け継がれ︑たとえば︑未決の獄にあった高野長英が著した﹃わすれがたみ﹄(一八四O年︿天保一一﹀)にも︑次 かいびゃ︿ のような一文を見ることができる︒ 夫皇国は︑開聞来今に至る迄︑凡そ弐千三︑四百年にして︑儒仏の学行れてより︑既に千六︑七百年︑上は天 したわず 子より︑下は庶人に至る迄︑此弐学を尊奉せざる者なく︑伝習の久しき︑儒は半ば支那人にして︑僧は殆ど印度 人也︒然れ共︑人只其学を奉じて其固を不慕︒未だ其国を以て支那・印度に臣たらず︿只足利義満公明の封を受 めで く︒我国開聞来の恥辱とす﹀︒未だ壱人の皇国を叛きて外国に降る者を不問︒而して皇統連綿︑至今百二十有一 たきしんこくなり 世︑上は至仁に渡らせ給へば︑下は忠節を重んじ︑東方槍演の中に孤立して︑永く帝国と仰がれ給ふ︑実に目出 度神田也︒︹﹁わすれがたみ﹄一八二頁︺ 日本を﹁万古不易神聖伝統の帝国﹂と才助が讃えたように︑長英もまた﹁皇統連綿﹂の﹁帝国﹂たる日本を﹁実に 目出度神田也﹂と手放しで称揚する︒無論︑これを獄中における奴隷のことばと見倣すこともできるであろう︒しか し︑たとえそうであったとしても︑﹁帝国日本﹂という観念に基づく自己の﹁語り﹂が︑長英のなかに存在していた ことは否定できない事実である︒ こうした素朴で郷土愛的な﹁帝国日本﹂の観念は︑イデオロギー的に再構成されることで︑大きな思想的影響力を 「帝国」言説と幕末日本 1 7 あいざわせいしさい もった言説として幕末に展開していく︒そしてこの﹁帝国日本﹂言説の転換点に位置するのが︑後期水戸学の大成者 と呼ばれる会沢正志斎の﹃新論﹂(一八二五年︿文政八乙であり︑彼は次のように︑﹁帝国日本﹂のおかれた国際環 境を記している︒ 古者︑ 一回一の中に就きて︑分れて戦国となりしが︑今はすなはち各区に並立して︑こもごも戦国となれり︒ここ トルコゼルマンオロシア を以て中国︹日本││引用者註︺及び満清を除くの外︑白から号して至尊を称するものは︑日く莫臥児︑日く百 児西︑日く度爾格︑日く熱馬︑日く郭羅なり︒これ宇内を挙げて列して七雄となす︑分れて一区に雄たるの比 にあらざるなり︒︹﹃新論﹄九O頁 ︺ 会沢は︑才助が列挙した二もの﹁帝国﹂を︑七つの﹁帝国﹂││日本・中国・ムガル・ベルシア・神聖ロ l マ ・ トルコ・ロシア││に書き換え︑これを中国戦国時代の群雄割拠になぞらえて﹁七雄﹂と呼ぶ︒それは︑日本が地球 規模の戦国時代に直面していることを強く訴えるものであった︒ 会沢が﹁七帝国﹂という形で︑地球規模の世界を分節する際の典拠となったのが︑日本が﹁イムベラトルスコイ﹂ (帝爵の固)であると伝えた光太夫の﹃北撞聞略﹄であった︒すなわち︑﹁魯西亜通商五拾二国名目﹂条に紹介された 五二ヵ国中︑﹁皇帝統御の国﹂として上げられているのが︑﹁ヤポンスゴイ大日本﹂をはじめとする七ヵ国であり ︹﹃北権問略﹂一 O六1 一O八頁︺︑これらの国名は︑表記の違いこそあれ︑﹁新論﹄における﹁七雄﹂と完全に一致し ている︒会沢は︑このように﹁七雄﹂を認定すると同時に︑これらの国々が﹁帝国﹂と呼ばれていることを指摘する︒ 蘭学家の説に︑以上の七回は︑西夷皆称して帝国となして︑その他の亜昆心域・馬遅古・逗羅及び瓜睦の璃喜郎 等のごときも︑また帝国と称すむ︒然れども亜見心域はただその地域の広大なるを以て︑馬羅古はただ因子︹ム ハンマド││引用者註︺の正系なるを以てして白から雄たり︒然れども一はすなはち黒人愚阻の俗にして︑一は すなはち衰乱削弱す︒而して逗羅はすなはちその国富むといへども︑兵力は劣弱︑璃菩郎はすなはち諸蕃の要会 72 なりといへども︑国最も弱小にして︑皆以て雄を争ふに足らず︑故に論ぜざるなり︒︹﹃新論﹄九O頁 ︺ ﹃訂正増訳釆覧異一百﹄に﹁帝国﹂として記された一一カ国のうちエチオピア・モロッコ・タイ・スマトラは︑﹁帝国﹂ と呼ばれてはいるものの︑国力は不十分であり︑いずれも﹁雄を争ふ﹂(争雄)に足るものではないと会沢は主張し︑ これら四カ国から﹁帝国﹂の称号を剥奪する︒このとき会沢は︑かつて才助が﹁帝国﹂の要件として示した三つのカ テゴリを︑﹁争雄﹂に集約させ︑国土の大小や属国の多寡といった日本にとって不利な要件を回避するという操作を 行っている︒そして︑この﹁争雄﹂に二克化された﹁帝国﹂の要件規定は︑﹁帝国﹂に新たなイメージを与えること となった︒すなわちそれは︑﹁争雄﹂する主体としての﹁帝国﹂というイメージである︒ ﹃訂正増訳采覧異きこでは︑﹁諸国臣服﹂や﹁大邦﹂そして﹁一方に雄を称する﹂(称雄)といったように︑その国 を中心としてヒエラルヒ lを形成していることが︑﹁帝国﹂の最大公約数的要件であった︒すなわちそれは︑﹁称雄﹂ する固に︑﹁諸国﹂(万方)や﹁一方﹂が従うといったインベリウム本来の概念に比較的近い︑周縁性と普遍性を有す る統治形態としての﹁帝国﹂理解であったと言えよう︒しかし︑こうした理解は︑会沢によって︑領域性と固有性を 前提とした︑互いに﹁争雄﹂する主体としての﹁帝国﹂理解へと変質させられたのであり︑そしてそれは︑近代的な 主権国家のイメージに近似したものでもあった︒ このように会沢は︑﹁帝国﹂を再定義し︑さらにこれら諸﹁帝国﹂が地球規模の戦国時代を展開しており︑日本も またそうした﹁帝国﹂の一つ││しかももっとも神聖なそれーーであることを主張する︒このことは︑日本が﹁帝国﹂ として︑この戦国時代を闘い抜く世界史的使命を帯びた国であることを宣言するものでもあった︒彼にとって対外的 ︺ で論じたように︑﹁帝国 二O一O年 危機とは︑たんに現在直面している問題││一過性の災害ーーではなく︑より本質的な問題であり︑まさにみずから の存在意義そのものを賭けた戦いの一環として認識されていたのである︒ なお︑ここで付言しておかなければならないことがある︒別稿︹桐原健真 「帝国」言説と幕末日本 7 3 ケイヅルもと 日本﹂言説を大成した人物である会沢は︑実はこの﹁帝国﹂という新規なことばの使用を拒否していたという事実で ある︒すなわち彼は︑次のように述べている︒ 蘭学家︑前数閏の王を謂ひて帝となすは︑すなはち西夷称するところの実意爾なるもの︑原濯馬の先祖︹カエサ ル︺の名に出づ︒蘭学家︑訳して帝となすは︑ただ漢字を仮りて以て尊卑の等を分てるのみ︒その実はすなはち 我が所謂帝の義にあらず︒故に今は帝国等の字を用ひざるなり︒︹﹃新論﹂九O頁︑振仮名は引用者︺ かがくじげん 日本と中国以外の王朝において︑その元首を﹁帝﹂(至尊)と言うのは︑あくまで翻訳における便宜上のものであっ て︑それゆえ自分は︑この﹁帝国﹂ということばを用いないのだと会沢は一言守つ︒彼は︑後の著作である﹃下学適言﹄ (一八四七年︿弘化四﹀稿)においても﹁帝国﹂の語は﹁仮称﹂でしかないと︑その使用を拒否しており(七一九頁・ 七二二頁)︑このことは本章冒頭に掲げた日米和親条約の漢文慨に﹁帝国﹂のことばがみられないことを想起させる ものである︒儒学経典を始めとする中国古典に慣れ親しんだものにとって︑﹁帝国﹂は︑なお耳慣れぬことばであっ みつくりしょうごこんよず た︒しかし︑﹃新論﹄において展開された﹁七帝国﹂とその一角を占める﹁帝国日本﹂という言説は︑こののち︑﹃新 論﹂の流布とともに広く受容されていったのである︒ ﹁帝国日本﹂言説の展開││儒学・水戸学そして幕末尊譲論││ み を距つこと数年を過ぎず︒亦た形勢の一変するのみ︒因りて思ふ︑五洲中︑帝を称する僅僅数回にして︑今︑其 排の図に就きて之れを陪れば︑所謂帝国莫臥児は︑古図皆な載す︒而して此れ則ち無し︒蓋し其の亡ぶるや︑今 i p 仙台藩出身の若き儒学者であった斎藤竹堂は︑幕末における最高の世界地理書とも言われる箕作省吾﹃坤輿図 説﹄(一人四五年︿弘化二﹀)の蹴文において︑次のように述べている︒ 5 7 4 しごうぜん のすべか i の一を亡ふ︒五口が邦の土壌の若き︑彼の広きに若かずして︑慨然として帝国を以て万古に称する こと変らざれ ば︑則ち吾輩此こに生育する︑亦た幸ひなるかな︒斯の図を展ぶる者︑須らく是くのごとく観るべし︒(就斯図 脂之︑所謂帝国莫臥児︑古図皆載︑而此則無失︒蓋其亡也︒距今不過数年︑亦形勢之一変耳︒因思五洲中称帝僅 僅数回︑市今亡其一実︒若吾邦土壌不若彼之広︑而憤然以帝国称万古不変︒則吾輩生育子此︑不亦幸乎︒展斯図 者須如是観︒)︹﹁書輿地全国後﹂弘化元年︿一八四四﹀︺ 竹堂が言︑っ﹁斯の図﹂とは︑箕作が﹃坤輿図識﹂の前年に刊行した﹁新製輿地全図﹄のことであり︑ここには︑か つて描かれていた﹁帝国莫臥児﹂の名を見ることはできず︑代わりに︑イギリスの領有を一不す符合が散在している︒ ﹁帝国﹂ですら滅亡してしまうこの時代において︑﹁万古不変﹂に﹁帝国﹂の称を唱えている日本に生まれたことを竹 堂は率直に喜び︑そしてこの﹁帝国日本﹂を守るためにも︑海防が必要であることを読者に強く訴えかけた︒ もとより︑﹁王国﹂であるイギリスが︑﹁帝国莫臥児﹂を滅ぼし(ただし︑ムガル皇帝の退位は︑インド大反乱後の 一八五八年)︑またおなじく﹁帝国﹂である清国をアヘン戦争(一八四0 1四二年)において打ち破るといった現実 は︑もはや﹁帝国﹂を頂点とする﹁等爵﹂だけでは︑国際社会を描き出せなくなったことを︑日本知識人に痛感させ るものであった︒それゆえ﹃坤輿図識﹄では︑その国が主権国家として独立しているか否かを指標として︑諸国家の 相互関係を叙述することが試みられた︒すなわち﹃坤輿図識﹂は︑国々を﹁独立﹂と﹁附属﹂に分類し︑従属国は叙 一丁裏︺ 0 述を一段下げで表記することで︑その違いを明らかにするという視覚的にも理解しやすい表現方法を採用しているの ︑ 巻 である︹﹃坤輿図識﹄﹁凡例﹂ 一 しかしそれでもなお︑﹁等爵﹂による世界把握は︑完全に払拭されることはなかった︒すなわち﹃坤輿図識﹄は︑ ドイツ・トルコ・ロシアを﹁欧羅巴﹂における三つの﹁帝国﹂として掲げると同時に︑﹁其下尚侯園︑共和政治等の 国あり﹂︹巻二︑二丁表︑傍点引用者︑原片仮名︺と言及し︑また日本と中国を﹁亜細亜﹂の﹁二帝国﹂と紹介した 「帝国」言説と幕末日本 5 7 すくな 上で︑﹁其下王と称する者砂からず﹂︹巻一︑一丁裏︺と︑﹁帝国﹂の下位にある国々の存在を付記しているのである︒ この﹁帝国﹂という国家の﹁下﹂に﹁王﹂という君主の存在を叙述する﹃泰西輿地図説﹄以来の筆法は︑﹁等爵﹂と いう思考様式の強さを物語っていると言えよう︒そして︑こうした﹁等爵﹂的思考は︑国王を皇帝の冊封を受けた下 位存在であるという常識を持つ儒学者たちにとっても︑受け容れやすいものであった︒ 一八四0年代の儒学者の多くは︑蘭学者が日本語に翻訳した世界地理書の内容を取捨選択しつつ漢文で記してい しようへいこうあきかごんさい る︒東アジアにおける神聖な言語としての漢文によって表現することで︑﹁遠西﹂の知識をも﹁普遍化﹂していくこ とを彼らは自らの職分とも考えていたのである︒たとえば︑二本松藩校敬学館や昌平警の教授を歴任した安積艮斎の ﹃洋外紀略﹄(一八四八年︿嘉永元﹀自序)はよく知られており︑﹁坤輿図識﹄の補篇としての﹃坤輿図識補﹄(一八四六 1四七年)に序文を寄せた津藩校有造館の督学であった斎藤拙堂もまた︑一八四九年(嘉永二)ごろに︑﹁地学挙要﹂ と題する世界地理書を漢文で著している︒彼は︑﹁帝国﹂と題する節において︑﹁大日本﹂を筆頭とする中国・トルコ・ いんじっ ドイツ・ロシアを五つの﹁帝国﹂として掲げ︑つぎのように述べている︒ まおな 按ずるに我が邦の土彊の大︑支那諸国に及ばざると難も︑戸口は殴実にして︑国は富み兵は強く︑四隣を威服 す︒故に天下亦た推して帝国と為す︒当今︑亜細亜洲中︑現に帝国たる者は︑僅々二国のみ︒其の他︑莫臥児は 配て帝を称すも︑近世に至り転罵として亡滅す︒百児西亜は彊土頗る広く︑且つ其の先︑嘗て西洋に君臨す︒故 に猶を或は帝国呼ぶがごとし︒(按我邦土彊之大︒難不及支那諸国︒戸口股実︒国富兵強︒威服四隣︒故天下亦 推為帝国︒当今亜細亜洲中現為帝国者︒僅々二国而己︒其他莫臥児嘗称帝︒至近世斬罵亡滅︒百児西亜彊土頗広︒ 且其先嘗君臨西洋︒故猶或呼帝国︒)︹﹃地学挙要﹄一四丁表︺ ここでは︑かつて会沢が﹁帝国﹂としてその名を挙げたムガルやベルシアが︑一方は滅ぼされ︑他方は条件付きで ﹁帝国﹂と認められる存在となり︑あの﹁七帝国﹂は﹁五帝国﹂へとその数を減らしている︒こうした﹁五帝国﹂認 76 ︑ 晶 h t ルイ・ナポレオンの皇帝即位によるフランス帝国の成立(第二帝政︑ 一八五二年) の情報が広く受容されるよ 品同ふ 吾首 うになる一八五0年代後半に至るまで続いた(たとえば︑一人五三年の序文を付した新発田収蔵の﹃万園地名捷覧﹂ ︿三丁裏﹀参照)︒かくて︑﹃訂正増訳采覧異言﹄では一一を数えた﹁帝国﹂は︑会沢によって﹁七帝国﹂へ︑そして 今や﹁五帝国﹂へと再編されていったのであり︑そのいずれの場合においても︑日本がそのリストから外れることが 無かったことは︑近世の日本知識人にとっての誇りでもあった︒なぜなら︑﹁帝国﹂という﹁等爵﹂は︑たんに国力 フランスポナパルテどんぜい があるだけでは得られない特別な称号であると︑彼らは考えていたからである︒ イギリスしようけっぱ 近世︑払郎察の勃那抜児的︑諸国を呑監し︑自ら大帝と称すも数歳にして亡び︑其の園︑復た退きて王と為る︒ 英吉利︑猫板蹴麗し東西を侵陵すると難も︑敢て此の称に当らず︒亦た名分の犯かすべからざるを見るべきな り︒(近世払郎察勃那抜児的呑監諸国︒自称大帝︒数歳而亡︒其困復退為王︒英吉利雄猶擁蹴麗侵陵東西︒不敢 当此称︒亦可見名分之不可犯也︒)︹﹃地学挙要﹄一四丁表︑振仮名は引用者︺ 皇帝に即位したナポレオン(一世)は︑数年でその地位を追われ︑﹁帝国﹂を名乗ったフランスは︑﹁復た退きて王 と為﹂り︑またイギリスは︑世界各地を侵略する軍事力を有してはいるものの︑決して﹁帝国﹂の称号が与えられる ことはない︒まことに名分の確乎たることはこの上ないものだ││と拙堂は一言尽つ︒﹁帝国﹂が﹁王﹂になるというお なじみの筆法については︑改めて詳論するまでもないだろう︒拙堂もまた国家と君主の﹁等爵﹂を直結させて考える 人物だったのである︒ なお︑イギリスが﹁帝国﹂を称していなかったのは︑この国自体が連合王国口巳芯仏関Em 号B であったためであ り︑本国と植民地を合わせた全体は︑たとえその君主が﹁国王﹂であろうとも︑その統治形態からブリティッシュ・ エンパイア回ユ広島田口立目と呼ばれていた︒しかし︑そのような情報は︑徳川日本には必ずしも入ってこなかった のであり︑むしろ日本知識人の多くは︑あのイギリスですら﹁王国﹂に留まらざるを得ないと言う事実に︑﹁帝国﹂ 「帝国」言説と幕末日本 77 という﹁等爵﹂の価値を見いだし︑そして﹁帝国日本﹂に改めて誇りを覚えたのである︒それゆえ︑拙堂は﹁泰西の 爵号︑等を立つること甚だ公︹公平︺たり(泰西爵号立等甚公)﹂︹﹃地学挙要﹂四O丁裏︺と︑﹁甚公﹂という儒学者 としては最大級の讃辞をもって︑この﹁等爵﹂を褒め称えたのである︒ もとより︑現実のヨーロッパにおいては︑もはや拙堂が称讃した﹁等爵﹂による階層秩序は機能していなかった︒ その君主の称号にかかわらず︑独立国であれば等しく取り扱われるというのが││実際には多くの例外を含むにせよ ││ヨーロッパ諸国の外交上の前提であった︒それゆえ︑もし拙堂が︑﹁泰西﹂を﹁甚だ公﹂であると称讃するので あれば︑このような国家平等観念において﹁公﹂であったと言うべきであっただろう︒ 一九世紀とりわけ神聖ロ 1 マの滅亡とナポレオン戦争を経たヨーロッパでは︑﹁帝国﹂は単純に﹁元首が皇帝の wq 号E担﹂︹HBo‑‑﹄・詞﹁司・居留・ 称号を有するところの国家出2 2 2ロ∞宮罪者巳宮︒32FgEr口径包︿自z ・︺と規定されるに留まる存在となっていた︒それは︑かつての周縁性を有したインベリウム的な﹁帝国﹂イメー H H 3・ ジが後退し︑主権者によって統治される一箇の領域(印S2) という主権国家のイメージへと変化したと言ってよい︒ しかしそうした情報も︑国際社会を﹁等爵﹂によって叙述すること当然視していた日本知識人たちにとっては︑高貴 な君主としての皇帝を戴いている﹁帝国﹂││そしてその一つである日本││の尊厳性を再確認させるものでしかな かった︒こうした﹁帝国日本﹂言説は︑蘭学者と交流をもち︑肯定的に西洋を理解しようと勤めた斎藤竹堂を始めと する儒学者のみならず︑かつて﹃新論﹄において﹁帝国﹂の語を用いることを拒否した会沢正志斎すらも受け入れる アンゲリア ところとなっていた︒﹃地学挙要﹄と同時期に会沢が起稿した︑その学問体系を詳説する﹁下学適言﹄には次のよう に記されている︒ 川 只t4利aM 同 hpi ︹日本││引用者註︺ 及び清・独逸・魯西 強きは弱きを兼ね︑大は小を併す︒其の最も強大なる者は︑ 清及び魯西亜・漢父利・都児格︒ 而して独逸・仏 イスパプロイセン︑ 蘭・伊斯把・字漏生は之れに次ぐ︒其の序列尊卑の若きは︑ ︒ ﹀ 8 7 亜・都児格を以て第一等と為す︒(強兼弱︒大併小︒其最強大者︒清及魯西亜・漢父利・都児格︒而独逸・仏蘭・ 伊斯把・字漏生次之︒若其序列尊卑︒則以神州及清・独逸・魯西亜・都児格為第一等︒)︹﹁下学週一言﹄七二二 頁︑傍点・振仮名引用者︺ かつて世界が地球規模の戦国時代に突入したことを説いた会沢は︑現状がさらに混沌かつ深刻化し︑完全な弱肉強 食状態になってしまっていることを率直に認める︒この状況下において日本は︑もはや﹁最も強大なる者﹂でも﹁之 れに次ぐ﹂存在でも無くなっており︑﹁争雄﹂していた昔日の姿を見ることはできない︒会沢は︑ただ﹁序列尊卑﹂ において︑日本が﹁五帝国﹂の一として﹁第一等﹂であるという点に︑その尊厳性を求めたのである(彼はひっそり と﹁七雄 H七帝国﹂という﹃新論﹂ で唱えた自説をも撤回している)︒彼にとっても﹁帝国日本﹂という言説は︑自 民族中心主義におけるイデオロギー的基礎となっていたと言えよう︒ しかし︑ここに至つでもなお︑前節末尾において見たように︑彼が﹁帝国﹂という語を﹁翻訳家﹂の﹁仮称﹂でし かないと断じていることは︑﹁正名論﹂を著し︑名義の正されるべきことを主張した師の藤田幽谷を訪併とさせるも のでもある︒だが︑一八五0年代に入り︑﹁黒船﹂という現実の物理的な脅威を目の当たりにした水戸学者たちもま た︑この蘭学者たちによって西洋からもたらされた﹁帝国日本﹂という自己言及を積極的に肯定していくこととな る︒一八五三年のペリl艦隊来航直後に幕府の海防参与となった前水戸藩主の徳川斉昭が提出した意見書には︑﹁神 国は幅員広大ならず候得共︑外夷にては帝国とあがめ尊び︑恐怖致し居候﹂︹徳川斉昭﹁十条五事建議書﹂九頁︺と いった表現が見られる︒ここからは︑日本が﹁帝国﹂であることが︑その尊厳性の根拠として理解されていることが わかるであろう︒ この斉昭の文章における﹁神国は幅員広大ならず﹂という表現は︑﹃新論﹄の﹁神州は其︹大地││引用者註︺の 首に居る︒故に幅員甚しくは広大ならず﹂(神州居其首︒故幅員不甚広大)︹﹃新論﹄一一一八一頁︺という一文を想起さ 「帝国」言説と幕末日本 9 7 せるものである︒この時期の会沢は︑斉昭のために︑国交樹立要求を拒絶するアメリカ大統領宛の国書を起草するな どの任に当たっており︑この意見書にも会沢の影響があった可能性は否定できない︒また︑﹁外夷にては帝国とあが め尊び﹂という筆法からは︑﹁帝国﹂は正統な漢語ではなく︑﹁仮称﹂であって︑また︑日本が自称するところではな く︑あくまで他称なのだ︑という屈折した自己認識を見ることができるのであり︑事実︑会沢もまたこうした屈折し た形で︑日本が﹁帝国﹂であることを認めるようになっていた︒すなわち︑戊午の密勅の返納問題以後︑大きく混乱 する水戸藩内の状況を憂えた会沢が︑尊援派の激発を強く戒め︑鎖国の時勢に合わざることを説いたことで知られる ﹁時務策﹂(一八六二年︿文久二﹀)には︑次のような一文を見ることができるのである︒ はずかしむ 神州は万国よりも帝国と号して昔より尊れしを︑後日に及で万一尊号に暇庇を生ずる事にも至らば︑国体を 辱ることこれより甚しきはなかるべし︒︹﹁時務策﹂三六四頁︺ ここでも﹁帝国﹂は﹁万国﹂から号されるものであって︑自称とはされていない︒しかしながら︑このまま鎖国政 策をとり続けていけば︑﹁尊号に現庇を生ずる﹂可能性もある︑という表現からは︑﹁帝国﹂が﹁尊号﹂であるという 自己認識が存在していることは明らかである︒もちろん︑この﹁尊号﹂を天皇の意味で理解することもできるが︑そ の場合でも︑それは︑﹁帝国﹂を皇帝と連続的に考える﹁等爵﹂の論理に︑会沢も知らず知らずのうちに従っていた ことを示すものでもある︒ このように﹁帝国日本﹂言説は︑近世後期の日本知識人によって広範に受容され︑彼らの自己認識さらには自民族 中心主義を形作っていった︒そして︑このときに問題となったのが︑﹁皇帝の国﹂たる﹁帝国﹂の皇帝とは誰なのか ということであった︒ やがて成立する﹁大日本帝国﹂の存在を知っている現代の我々にとって︑この間いの答えはさほど難しくないよう に見える︒しかしながら︑この間いは︑日本知識人のみならず西洋人にとっても難しい問題であった︒すなわち︑本 8 0 章第一節の末尾で記したように︑ケンベルは︑日本には宗教と政治の各部面における二人の皇帝(天皇と将軍)が 存在すると述べており︑事実︑フィルモア米国大統領が﹁日本帝国皇帝陛下 E即日日宮丘町比冨a gq‑Fo回 H℃H町ゆえ τ宮ロ﹂に宛てた外交書簡は︑当然のように政治的皇帝としての将軍に渡されている︒そしてこれ以降︑幕府は外交 において日本の代表者として振る舞い続けた︒まさに︑将軍は日本の(政治的)皇帝であり︑また幕府は日本帝国政 府であった︒しかしながら︑大政委任論が広く受容された一九世紀において︑将軍・幕府が無条件に﹁帝国日本﹂を 代表することは難しく︑ここに天皇というあらたな要素が浮上し︑やがて条約勅許という大きな政治問題を惹起する に至ったことは周知の通りである︒ このような天皇という存在をめぐる外交・内政における問題の解消を試みたのが︑国学者の大国隆正であった︒ 一八五五年(安政二)に︑彼が徳川斉昭に献呈した著書﹁本学挙要﹄において︑天皇は外交を将軍に一任し︑諸外国 の君主と﹁同等の礼﹂をもって交際させるべきことを主張している︒なぜならば︑臣下である将軍が外国君主と﹁同 等﹂であれば︑天皇は必然的にこれらから超越した存在となり︑かくて日本はおのずから諸外国に冠たる﹁大帝爵 の国体﹂となることができるからである︹﹃本学挙要﹄四一七頁︺︹松浦光修一一 O O一年︺︒隆正は︑﹁帝国日本﹂言 説を受け容れつつも︑さらにこれを国学の伝統である天皇総帝論の文脈において読み替えることで︑いわば観念の上 で︑日本を﹁大帝国の大帝国﹂(﹁真公法論井附録﹄‑八六七年︿慶応三﹀︑四九六頁)たらしめんとしたのであった (隆正ら国学者における﹁帝国日本﹂の言説史については︑稿を改めて論じたい)︒ しかし︑こうしたいわば地球規模の大政委任論は︑結局のところ日本国内だけに通用する観念論に過ぎなかったこ とは明らかである︒むしろこのような観念論によって︑幕府外交を肯定し︑天皇の存在が軽んじられてしまうことへ の危険性を強く感じ取っていたのが︑尊王譲夷の志士である吉田松陰であった︒彼は︑将軍が外交を担当することに 対し︑﹁人臣たる者に外交無し﹂(﹁為人臣者無外交﹂︿﹃礼記﹄﹁郊特牲﹂﹀)と批判し︑そして﹁帝国日本﹂にふさわ 「帝国j 言説と幕末日本 8 1 しい西洋列強との国家間関係の樹立を訴えた︒皇帝としての天皇こそが﹁帝国日本﹂の本源的な根拠であり︑そして 徳川将軍はいかなる意味でも﹁元首﹂︹﹁明倫館諸生連盟上書文案﹂一八五八年︑四O頁︺ではあり得ないと考えた彼 は︑現在の外交的な失敗の原因を︑天皇の存在を無みするような将軍の不遜な態度にあると指摘する︒ おそ 抑々名分の明かならざるは︑僕切に僅るるものあり︒:::幕府自ら日本帝国政府と称するは︑︹﹁名分の明かなら ざる﹂に││引用者註︺似たり︒其の自ら日本国大君主と称するは︑則ち甚だ不可なり︒果してかくの如くん ば︑外国人必ず幕府を以て皇国の至尊と為さん︒︹﹃外蕃通略﹂一八五五年︑三五人頁︺ もし将軍がみずからを﹁元首﹂として振る舞おうとすれば︑諸外国は将軍を﹁至尊 H皇帝﹂と見倣すであろう︒し かし将軍は天皇の臣下である以上︑そうした振る舞いは決して許されないはずなのだが︑実際には︑将軍は皇官なら ぬ﹁大君﹂を自称し︑彼の麿下にある幕開は﹁大日本帝国政府﹂を自称している1 iここに松陰は二つの重大な問題 を見出す(松陰の﹁帝国﹂理解の詳細については︑拙著︹桐原健真二 O 一四年︺を参照されたい)︒すなわち︑天 皇の存在を棚上げする君臣関係における倫理上の問題と︑将軍が﹁皇帝﹂を自称できないために︑日本が﹁皇帝の 国﹂とは見倣されず︑その﹁等爵﹂を﹁王国﹂に落とされてしまうという外交上の問題である︒そして︑これら二つ おおむしゅりげきぜつひんびん の問題に対して︑松陰は次のように自らの危慎を表明する︒ 当今回海率ね漢文を用ふること皇国と異るなし︒則ち昔の保離駄舌︑今は則ち彬々たる同文なり︒是に於て私 に名号を立てて︑日く某帝国なり︑某王固なり︑某公爵なり︑某侯爵なりと︒夫れ保離献舌の無礼は深く刷用口むる に足らざるのみ︒一旦四海︑御宇天皇の大人洲を指斥して王国日本と為すものあらば︑征夷府何を以て天下に答 へ︑何を以て天朝に謝せん︒天下の士大夫亦何を以て自ら処らおん︒︹﹃外蕃通略﹄二五九1二六O頁 ︺ 外交文書は近世束アジアの普遍言語である漢文で作成されるものであるという松陰の認識が︑欧米諸国との国交樹 立が果たされた一八五0年代半ば以降には︑もはや過去のものになってしまっていたことは言うまでもない︒しか 8 2 し︑外交文書には漢文が用いられると理解していた松陰は︑実際の外交交渉の場面においても儒学的な名分秩序とし ての﹁皇帝│国王│公侯│土大夫﹂といったヒエラルヒ lの構図が有効であると考えていた︒それゆえ彼は︑日本が ﹁帝国﹂であるのは︑皇帝としての天皇が存在するからであり︑それゆえ日本が﹁帝国﹂であり続けるためには︑天 皇は皇帝として君臨しなければならないと主張する︒それは︑天皇を真の﹁元首﹂として日本に君臨させる試みでも あった︒ 鎌倉以来の武家政権を︑﹁六百年来の変﹂と断じ︑さらに﹁皆臣子の道ふに忍びざる所﹂︹吉田松陰﹁又読む七則﹂ 一八五六年︑四四四頁︺と全否定した松陰にとって︑真の﹁帝国日本﹂を希求することは︑最終的に天皇親政を結論 するものであった︒排外主義運動としての尊王撞夷が︑内政改革運動としての尊王討幕に転化した一つの理由には︑ ﹁帝国日本﹂を文字通りの意味での﹁帝国﹂にすることを求める飽くなき欲求があったと言えよう︒ 松陰は︑﹁帝国日本﹂言説から︑﹁真の元首としての天皇の下での独立した日本﹂というイメージを導き出した︒こ のような認識は︑彼が松下村塾において教育した彼の弟子たちだけではなく︑広く幕末志士たちにも共有されたもの であった︒﹁薩士盟約﹂(一八六七年六月)などで見られた︑﹁固に二帝なく家に二主なし︑政刑唯一君に帰すべし﹂ かみいちにん ︹﹁薩土盟約﹂五二八頁︺といった表現は︑たんに﹁天に二日無く︑土に二王無し﹂(﹃礼記﹄﹁曾子問﹂)のような古典 的な常套句に依拠していたのではなく︑﹁帝国日本﹂には﹁皇帝﹂が必要であり︑それは上一人でなければならない という認識にも支えられていたのである︒そこではかつてケンベルが叙述したような神聖皇帝と世俗皇帝の二者を戴 く固としてではない︑主権者である﹁皇帝﹂が君臨する欧米諸国同様の﹁普通の国﹂としての﹁帝国日本﹂が目指 されていたのであり︑このように紡ぎ出されていった﹁帝国日本﹂言説は︑やがて近代日本における天皇制イデオロ ギIの一つの源泉となっていったのである︒ 「帝国」言説と幕末日本 83 F おわりに ﹁帝国日本﹂言説は︑ 一九世紀における日本知識人に対して︑二つの自己認識を形作った︒第一が︑日本が諸国家 に優越する厳選された独立国としての﹁帝国﹂の一つであるという自民族中心主義的な自己認識であり︑もう一つが︑ 日本は西洋列強と比肩しうる﹁帝国﹂であるという進取に富んだ自己認識である︒これらの自己認識が︑いずれもき わめて観念的なものでしかなかったことは︑今日の目からすれば明らかである︒しかし︑それが﹁中華﹂のようにみ ずからが発信したものではなく︑西洋という他者によって与えられたイメージに立脚するものであった点で︑客観性 と普遍性が担保されていると︑多くの日本知識人は考えた︒ 人聞は他者の存在なくして自己を自己として認識することが出来ない︹ヘ lゲ ル 一 八O七年︑特に N 1 A参照︺︒ 近世日本の知識人や政治家もまた︑彼ら自身が何者であるかを︑他者としての西洋を通して理解したのである︒とり わけ西洋からもたらされた地理書における﹁帝国日本﹂の観念は︑﹁西洋列強と比肩する数少ない東洋の国﹂という 自己意識へと彼らを導いた︒言︑つまでもなく︑ほどなく︑この﹁比肩する﹂は﹁比肩すべき﹂に転換していく︒明治 日本は︑その出発点において︑みずからを﹁文明国﹂と見倣すことはできなかったからである︒ しかしながら︑このときでも近代日本の知識人や政治家は︑日本は﹁帝国﹂なのだから︑日本が西洋列強と﹁比肩 しうる﹂存在であるということは信じていた︒このような自己認識が存在したからこそ︑近代日本では︑﹁富国強兵﹂ や﹁西洋に追いつき追い越せ﹂といった政治的標語が︑強い共感を帯びつつ唱えられることとなった︒近代日本は︑ 西洋という鏡のうちに映し出された寸帝国日本﹂を自分自身として認識し︑そして理解したのであり︑またそのなか に見出した像において︑みずからを近代化したのである︒ 8 4 参考文献一覧 ︿史料﹀ Il‑‑ ﹁時務策﹂(前掲﹁水戸学﹄) ﹃下学適言﹄(﹃国民道徳叢書﹄第三一編︑博文館︑一九一一年) 会沢正志斎﹃新論﹄(日本思想大系五三一﹁水戸学﹄岩波書応︑一九七三年) Il‑‑ 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‑﹁幕末維新期尊援論における国際社会認識の転回﹂(韓日文化交流基金・東北亜歴史財団編﹃一九一 Ill1Jt ﹃吉田松陰﹄(ちくま新書︑二O 一四年) 平川新﹃開国への道﹄(小学館︑二 O O八年) ヘ1ゲル(金子武蔵訳)﹁精神の現象学・上﹄(岩波書庖︑一九七一年︿ヘ 1ゲル全集四巻﹀) 前野みち子﹁国号に見る﹃日本﹄の自己意識﹂(﹁一言語文化研究叢書﹄五号︑一一O O六年) 松浦光修﹃大国隆正の研究﹄(大明堂︑二O O一年) 吉村忠典﹁﹃帝国﹄という概念について﹂(﹃史学雑誌﹄一 O八巻三号︑一九九九年︿のち吉村忠典﹁古代ロ l マ帝国の研究﹄岩波書庖︑ 二O O三年所収﹀) 同 C HGEE‑25‑qpg‑NOS‑ D E S ‑﹀ω ・︒もミミミ芯町︑たさき巳室︑ミミ己主SFOH沙門ι・ 国 のりお ※古代ロ l マにおけるインベリウム概念については︑初期キリスト教史研究者である松本宣郎氏の教示を賜った︒厚く感謝したい︒ 86 執筆者紹介(執筆順) 小 林 丈 広 →編集担当者紹介参照 若尾政希→編集担当者紹介参照 桐 原 健 真 ( き り は ら けんしん) 谷山正道(たにやま まさみち) 斎藤洋一(さいとう よういち) 白川部達夫(しらかわべ たつお) 八 鍬 友 広 ( ゃ く わ ともひろ) 1 9 7 5年生まれ金城学院太学文学部教授 1 9 5 2年生まれ天理大学文学部教授 1 9 5 0年生まれ小諸市立郷土博物館館長 1 9 4 9年生まれ東洋大学文学部教授 1 9 6 0年生まれ東北大学大学院教育学研 究 科教授 石唐人也(いしいひとなり) 1 9 7 3年生まれ一橋大学大学院社会学研 究 小田龍哉(おだ 科教授 1 9 7 3年生まれ 課程 りょうすけ) 同志社大学大学院博士後期 編集担当者紹介 小林丈広こばやしたけひろ 1年生まれ.金沢大学大学院修士課程修了. 6 9 1 現在,同志社大学文学部教授. 9 9 9 京都町式目集成.i (京都市歴史資料館. 1 8年). W 9 9 主要著書: 明治維新と京都.i (臨川書庖. 1 仁風」史料集成.i(監修,近現代資料刊行会, i 1年). W 0 0 年). 近代日本と公衆衛生.i(雄山閤出版. 2 r r 6年) 1 0 2 若尾政希わかおまさき 1年生まれ.東北大学大学院文学研究科博士後期 3年の課程単位取得退学. 6 9 1 現在,一橋大学大学院社会学研究科教授.博士(文学). 安藤昌益からみえる日本近世.i (東京大学 9年). W 9 9 i太平記読み」の時代.i (平凡社. 1 主要著書: W 安丸良夫集』全 6巻(島薗進・成 2年). W 1 0 4年). 近世の政治思想論.i (校倉書房. 2 0 0 出版会. 2 r 3年) 1 0 田龍一・岩崎稔と共編,岩波書庖. 2 除 03sl 行 Il 発 掘耕一荘一岨刷 一 ﹁ ‑ 維一思創 治一と日 明一新山 一維肘 座一治咋 講一明訓 編者明治維新史学会 発行者永滝 稔 発行所有限会社有志舎 3 0 0香、宝栄ビル 4 1 東 京 都 千 代 田 区 神 田 神 保 町 3丁目 1 5 0 0 ‑ 1 0 〒1 4 8 4 )8 1 1 5 3 3( 5 FAX 0 8 0 )6 1 1 5 3 3( 電話 0 p j . e n . a r u k a s . a h s i h s u y / / : p t t h 1 9 4 6 6 6 ‑ 2 ‑ 0 1 1 0 振替口座 0 DTP 言 海 書 房 装顧古川文夫 印刷株式会社シナノ 製本株式会社シナノ 。 n a p a n] di e t n i r .P 6 1 0 i2 a k k a iG h s n i h s i i j i e M ISBN978‑4‑908672‑07‑1 喝六 白川部達夫 斎藤洋 谷山正道 桐原健真 若尾政希 7 8 7 5 1 2 小林丈広 八鍬友広 5 2 1 明治維新と思想・社会 近世後期の政治常識 ﹁帝国﹂言説と幕末日本 1 1蘭 学 ・ 儒 学 ・ 水 戸 学 そ し て 幕 末 尊 捷 論 │ │ ││大和の碩儒谷三山の言説と門人たちーー 幕末の社会情勢と地域知識人 維新前後の身分意識をめぐる葛藤 世直しと土地所有意識の変容 民衆教育における明治維新 ラ4 1 1 1 1 4 8 1 論 刊行広あたって 総 四 五 曜 可 建 湾 喝 建 Vl 唱︑七衛生観の生成と医学・医療の近代化 文献目録 石居人也 目 次 Vll 226 2ラ ラ