昭和の名選手また…山内一弘氏が死去

[ 2009年2月6日 06:00 ]

大毎時代の山内和弘氏(1960年10月撮影)

 プロ野球往年の強打者で元本紙評論家の山内一弘(やまうち・かずひろ)氏が2日午後7時26分、肝不全のため都内の病院で死去していたことが5日分かった。76歳。愛知県出身。この日、近親者で密葬を済ませた。52年、毎日(現ロッテ)に入団した山内氏はミサイル打線の中核として活躍。指導者としても尽力した。教えだしたら徹底的に指導することからついた異名が「かっぱえびせん」。昭和の名プレーヤーがまた1人、世を去った。

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 家族によれば、山内さんは4年前から体調を崩し、闘病生活を続けてきたが1月30日に容体が急変。2日に息を引き取った。ここ1年間ほどは足のむくみを訴え、車椅子生活が続いていた。それでも亡くなる直前まで野球と球界のことを独り言のように話していたという。「派手なことはしたくない。遺灰は川にでも流してくれればいい」との故人の遺志で、5日に近親者で密葬を済ませた。川崎市内の自宅には仏壇も置かず、02年に野球殿堂入りした際の写真を飾ってあるだけだった。07年3月24日、ロッテの開幕戦で始球式を務めたのが、公の場に姿を見せた最後。ボールは3メートルほどしか投げられなかった。
 山内さんは52年に毎日入団。卓越した技術で田宮謙次郎、榎本喜八両氏らとともに「ミサイル打線」の中核として活躍した。60年、大洋(現横浜)との日本シリーズは大洋のエース・秋山登氏と山内さんの対決が日本中の注目を集めた。63年12月には小山正明氏との「世紀のトレード」で阪神移籍。16回出場した球宴で3度のMVPと大活躍した。
 「シュート打ちの名人」「打撃の職人」「オールスター男」――。異名の多い野球人だった。毎日時代はデーゲームが終わった後に榎本氏と2人で3時間以上、打撃練習を行うのが常。内角球を腰の回転と巧みなバットコントロールで安打にする技術は「打撃の神様」川上哲治氏も認めた。「巨人の選手として川上さんの下で現役でやりたかった」(山内さん)ことが心残りだった。
 指導者としての熱意も群を抜いていた。教えだしたら徹底して指導する。「やめられない、止まらない」のフレーズが有名な菓子のCMからついた異名が「かっぱえびせん」。相手チームの選手に指導することさえあった。
 95年、日本プロ野球OBクラブが、体系化した野球理論を後世に残そうという意図で川上、青田昇、張本勲、豊田泰光の各氏に山内さんら、そうそうたる打撃人を集め、検討会を行ったことがあった。しかし内角打ちには「始動はひじから」と主張する山内さんに「始動は腰から」と反論する青田氏が対立。結果的にまとまらず、技術論の出版は中止された。自らの野球理論には絶対の自信と矜持(きょうじ)があった。
 名球会会員が亡くなるのは昨年2月の江藤慎一氏以来。阪神・金本、中日・山本昌、広島・前田智らの若手が会員に加わる一方、山内さんが7人目の物故者となってしまった。

 ▼小山正明氏(山内氏と世紀のトレード)残念です。山内さんとはトレードされた者同士、それぞれのトレード先でお互い頑張らなきゃ、というプレッシャーがかかったし、気合も入ったのが懐かしい。一緒にタイガースでコーチもしたしなあ。最近は名球会のイベントにも顔を出さなかったから、心配してたんだけど…。もうちょっと頑張ってほしかった。

 ◆山内 一弘(やまうち・かずひろ)1932年(昭7)5月1日、愛知・一宮市生まれ。起(おこし)工から川島紡績を経て52年に毎日オリオンズ入団。60年に本塁打王と打点王に輝き、パ・リーグMVPを受賞した。阪神、広島を経て70年に現役を引退。首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回獲得。65年にプロ野球史上初の300本塁打、67年には川上(巨人)に次ぐ、史上2人目の2000本安打を達成した。引退後はロッテ、中日で監督を計6年間務めて通算成績は712試合で336勝313敗63分け。コーチとして巨人、阪神、オリックス、ヤクルト、台湾プロ野球・和信で指導。02年に野球殿堂入りした。

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