下関球場 ホエールズ発祥地 港町の誇り
西日本スポーツ、中日スポーツ、東京中日スポーツ、デイリースポーツによる4紙合同企画「ボクの思い出スタヂアム」。今回は源平の昔から豊かな歴史に彩られた本州最西端の港町、山口県下関市の下関球場、関門海峡の対岸の北九州市にあった豊楽園球場を取り上げる。(文中敬称略)
49年に球団設立
今季のセ・リーグは広島だけでなく、DeNAの快進撃にも沸いた。球団創設1年目の1950年以降、日本一は大洋時代の60年と横浜時代の98年の2度。ともに本拠地以外でも優勝パレードが行われた。捕鯨や遠洋漁業の一大基地として栄えた山口県下関市だ。
「大洋はのう、昔下関におったんやけえの」。下関市の小学校教諭、佐竹敏之(57)は自著「大洋ホエールズ誕生前!」(文芸社)に父の言葉を記している。直近の98年の優勝パレードには約6万人が集まる人気だったが、これも下関が球団発祥の地だったからだ。
下関では戦前から社会人の林兼商店野球部が活躍した。同商店は戦後の45年に大洋漁業(現マルハニチロ)へと社名を変更し、49年11月にプロ野球「まるは球団」を下関市に設立。直後に2リーグ制が発表され、セ・リーグに加盟。本拠地は下関市となった。
佐竹によると、同漁業社長の中部兼市は「鯨1頭分余分に捕れば、選手の補強なんか大したことない」と話していたという。当時は捕鯨で多大な収益があり、球団設立に要した約6000万円の巨額の費用も問題なく賄えたようだ。
この新球団が主に使用したのが、49年11月に完成した下関球場だ。ユニークなのは市民にも出資を呼び掛けたこと。同年9月の市報「下関」には「下関球場・株式募集」や「ひろく一般市民各位の出資を願う」などの見出しが躍っている。
◆下関球場(旧)アラカルト
▼所在地 山口県下関市向洋町
▼広さ 両翼88.4メートル、中堅115.8メートル
▼公式戦 50~62年、65~71年、73~75年にセ・リーグ75試合、パ・リーグ3試合の計78試合が開催された
川崎移転後のチーム名変遷 川崎球場から横浜スタジアムに本拠地を移した1978年から横浜大洋ホエールズ、93年から横浜ベイスターズのチーム名を使用。2002年に筆頭株主がマルハからTBSに変わった。DeNAによる球団買収に伴い、12年から現在の横浜DeNAベイスターズ。
▼(は)マーク 親会社の大洋漁業の商標。同漁業のルーツで1924年に設立された林兼(はやしかね)商店にちなむ。球団が誕生した下関球場時代から70年代までユニホームの袖を飾っていた。最後に付いた緑とオレンジの「湘南カラー」のユニホーム(74~77年)はインパクト抜群。
セ・リーグ1年目「開幕戦」も
下関球場は、50年3月10日にセ・リーグ1年目の「開幕戦」が行われたことでも球史に名を残している。福岡市の平和台球場と2球場で同時開催。下関球場では2試合があり、地元のマルはホエールズが2-0で国鉄に快勝。中日も5-0で大阪(阪神)に勝った。
開幕戦はマルはのエース今西錬太郎が完封勝利で客席を沸かせた。ユニホームの左袖に付いた球団名「(は)」は、林兼商店にちなんだ大洋漁業の社章だ。ただ、開幕直後にはチーム名を「大洋ホエールズ」に変更。この名前は長く親しまれた。
50年は開幕2戦目の3月11日に松竹の岩本義行が、中日戦でセ・リーグ第1号本塁打となる満塁弾を下関球場で放った。このように大洋以外の球団も試合を行ったが、球場の経営は振るわず、下関商高の「下商野球部百年史」には50年11月に「3200万円で市に身売りし、『下関市営球場』へと変わった」とある。
佐竹は「当時の下関市の人口は約20万人。地方都市には興行的に限界があった」と話す。フグやウニなどとともに下関の名物と称されたホエールズだったが、ナイター施設のなかった当時の平日の動員力は約2000人程度しかなかった。
53年に松竹との合併で大洋松竹ロビンスとなり、本拠地を大阪と下関とした。動員力を期待して大阪球場で32試合を開催。下関球場では2試合しか行わなかったが、苦戦は続いた。54年の洋松ロビンスを経て、再び大洋ホエールズとなった55年に本拠地を川崎市の川崎球場に移転。下関球場はあるじをなくした。
日米野球開催も
既に下関から東京へ本社を移していた大洋漁業だが、同社の発祥の地である下関を重視。本拠地移転後も下関球場では年間数試合の公式戦やオープン戦を開催した。また、50年代には米メジャーの球団などを招いた日米野球も人気を呼んだ。
79年に加入して現役最終年の84年まで大洋でプレーした基満男(69)は「オープン戦で下関に行くと、フグをごちそうになったのが一番の思い出。伊藤博文ゆかりの春帆楼でチーム全員でな。さすが大洋漁業のお膝元と実感したよ。本当にわがチームという感じ。港が目の前で朝一番に船の汽笛で起こされたけどね」と往時をしのぶ。
85年を最後に老朽化のために解体。跡地には下関市立市民病院が立っている。88年に完成した新球場は下関北運動公園内にあり、90年3月11日には近鉄の超大物ルーキー野茂英雄が、大洋とのオープン戦で「プロ初勝利」をマークしている。
99年に隣県の福岡県を本拠地とするホークスが日本一になって以降、下関でもホークスファンが主流を占めるようになったという。「横浜ベイスターズ下関ファン集いの会」で役員を務める佐竹は「親会社も変わり、優勝パレードももうないかもしれませんが、ずっと応援します」と笑った。(西日本スポーツ・相島聡司)
豊楽園球場 西鉄もう一つの根城
戦前は大陸への玄関口としても栄えた関門・北九州地方は野球熱が高い地域だった。社会人では下関市の大洋漁業、関門海峡の対岸の北九州では門司鉄道管理局(現JR九州)や八幡製鉄(現新日鉄住金八幡)などがしのぎを削っていた。
戦後はプロ野球の人気も急上昇。1948年7月には福岡県小倉市(現北九州市小倉北区)に新球場が産声を上げた。現在のJR小倉駅北側にあった「豊楽園球場」だ。プロ野球は48年から57年までセ、パ両リーグで計70試合が開催された。
51年に西鉄ライオンズが球団合併で誕生すると、福岡市の平和台球場だけでなく、豊楽園球場での公式戦開催の機運がさらに高まり、西鉄戦は6試合が開催。翌52年には12試合(平和台球場は18試合)が開催され、準本拠地的な存在となった。
西鉄総務広報部のアーカイブ担当、吉富実(62)は「当時の経営陣に『沿線人口が200万人いないと商売にならない』という考えがあった」と話す。55年の人口は福岡市域の約59万人に対し、北九州市域は約87万人。ファンの拡大を図ろうという狙いがあった。
現在より西側にあった小倉駅が現在地に移転することに合わせ、57年を最後に取り壊しが決定。翌58年に完成した小倉球場(現北九州市民球場)に役割を譲った。最後の公式戦は、57年にV2を果たした西鉄「野武士軍団」のシーズン最終戦だった。
この記事は2016年11月01日付で、内容は当時のものです。