変わり行く日本食 6 「洋食」物語

 明治末年から大正時代になると西洋料理が和洋折衷型の「洋食」に形を変えて東京の中流家庭に入ってきた。ご飯と一緒に食べられるようにアレンジされた一皿料理、 カツレツ、カレーライス、コロッケの三大洋食が町の洋食屋で人気を集めたのである。

 カレーライスを日本に最初に紹介したのは福沢諭吉とされている。カレー料理はインドの肉煮込み料理であったが、インドを統治していたイギリスに持ち込まれてカレーライスになり、それが日本に伝来したのである。明治5年に刊行された「西洋料理指南」にはカレーライスの調理法について「葱、生姜、ニンニクを刻み、バターで炒め、鶏、海老,牡蠣などを加えて煮、カレー粉と小麦粉を加えてさらに煮る」と書いてある。

明治20年代には、肉のほかにジャガイモ、タマネギ、人参をたっぷり加え、小麦粉でとろみを付けて米飯に掛け、福神漬けや らっきょうの甘酢漬けを添える日本独特のライスカレーになった。肉独特の味や臭みを消すライスカレーは当時の日本人に馴染みやすかったのである。カレー粉は大正17年にヱスビー食品の創業者、山崎峯次郎により国産化され、具を加えるだけでカレーができる即席カレールウが出来たのは昭和7年である。カレーライスに添える福神漬けは明治19年に東京上野の「酒悦」が売り出した。大根、ナタマメ、ナス、椎茸、蕪、ウド、紫蘇の7種類を七福神に見立て、醤油と味醂で漬け込んだ福神漬けを、日本郵船の食堂でライスカレーに添えたところ好評だったのが最初であった

ライスカレー」と「カレーライス」の二通りの呼び名があるが、カレーソースとご飯を別々に出すライスカレーからご飯の上にカレーソースをかける日本独特の方式に変った明治の末ごろからカレーライスと呼ぶようになったらしい。因みに英語ではカリー・アンド・ライスである。昭和4年に開業した大阪の阪急百貨店の食堂ではライスカレーが1日に1万3千食も出たと言うから、この頃にはカレーライスはすっかり日本食になっていたことが分かる。

大正時代の流行歌「コロッケの唄」に「ワイフもらってうれしかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ。今日もコロッケ、明日もコロッケ、これじゃ年がら年中コロッケ」とあるように、コロッケは明治30年代に現れ、大正の不況時代に大流行した。

コロッケの原型はフランス料理のクロケットである。クロケットは鶏肉、牛肉、海老、ハム、卵黄、タマネギ、マッシュルームなどにペシャメルソーストを合わせ、つなぎにじゃがいもを混ぜて丸め、パン粉を着せて油で揚げたものであり、フランス料理では付け合せに使う。それが日本では裏ごししたジャガイモに少量のひき肉を混ぜ、塩、コショウで味付けし小判形に成形して、パン粉をまぶして揚げるいもコロッケ、又の名を肉屋のコロッケに変った。キャベツの千切りを付け合せにしてソースをかけて食べる主菜になったのである。昭和前期の不況の時代には4個10銭のコロッケが飛ぶように売れたという。その後、ホワイトソースを使ったカニコロッケ、野菜を入れた野菜コロッケなどが現れ、冷めてもおいしいコロッケは弁当のおかずに重宝された。

 昭和になって広まった洋食はとんかつである。豚肉の肩ロースやヒレを厚めにスライスし、小麦粉、溶き卵、パン粉を付けて油で揚げたものを、箸で食べられるようにカットした料理である。生キャベツの千切りを付け合せにして、濃厚なとんかつソースをかけ、溶き辛子を添えるのが定番になっていて、味噌汁とお新香を添えご飯と一緒に食べるとんかつ定食は今や日本料理の代表のようになっている。

 もとは豚肉や牛肉を脂で炒め焼き(ソテー)にしたホールコットレッツが日本風に改良されて、炒め揚げするのではなく天麩羅のように油で揚げるカツレツとなり、さらを箸で食べられるようにあらかじめカットしておく「とんかつ」になった。 とんかつの誕生の歴史を少し遡れば、明治28年に東京銀座の煉瓦亭で「豚肉のカツレツ」が売り出され、大正7年に浅草の河金が「カツカレー」を売出し、昭和4年に下谷のポンチ軒が分厚い豚肉にパン粉を付けて揚げた「ポークカツレツ」を、ナイフやフォークを使わずに済むよう、包丁で切って出す工夫をした。これに刻み生キャベツを添えて「とんかつ」にしたのである。昭和7年頃、上野の楽天、浅草の喜多八がこの「とんかつ」を相次いで売り出したところ、客が引きも切らずに来るようになったという。小学校の先生の初任給が40円ぐらいであった時代であるが、とんかつは洋食屋で20-30銭の人気メニュウであった。

そのとんかつが日本食であると言われるまでに普及したのは第二次大戦後のことである。序でながら、串に刺した肉に、パン粉を付けて揚げる串カツは世界にも全く類のない日本独特の串焼き料理である。また、とんかつ のおいしさは独特のとんかつソースに負うところが大きい。とんかつソースの原型はイギリスのウスターソースであるが、戦後に醬油をベースにビネガー、糖蜜、ライムジュース、でんぷん、香辛料を混ぜ合わせ、さらに野菜や果物を加えて熟成させた濃厚なとんかつソースが開発されたのである。

このような「洋食」は明治維新になって突然流入してきた西欧料理を日本人独自の嗜好や食習慣に合わせて吸収、同化しようとした60年間の産物である。ほぼ同じ時期に同じように西欧料理に出会ったはずの中国や朝鮮ではどうしてこのような「洋食」が育たなかったのであろうか。例えば、中国の上海は外国人と接触する機会が多かったから、広東料理などにはトマトケチャップ、牛乳、スパイス、などが多く取りこまれている。かし、中国や朝鮮の伝統的な民族料理は少しも揺らぐことなく、日本のように西欧料理をどっぷりと家庭にまで取り入れて同化した和洋折衷型の「洋食」に類する料理は出現していないのである。

ここに、縄文、弥生の時代から奈良、平安朝を経て鎌倉時代に至るまでは中国や朝鮮の先進的な食文化を積極的に取り入れ、室町時代後期には南蛮人の食文化を学び、明治、大正、昭和の時代には欧米の食文化を積極的に吸収して、しかもそれをそのまま用いるのでなく、日本の風土や国民性に合わせて取捨選択して同化しつつ、民族の独自性を守って和食文化を育てててきた日本食文化の積極性を見出すのである