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有鄰


平成15年9月10日  第430号  P4

 目次
P1 ○有鄰——かならず仲間がいるよ  高島俊男
P2 P3 P4 ○座談会 中世鎌倉の発掘 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  石田衣良(いしだいら)と『4TEEN(フォーティーン)』        金田浩一呂

 座談会

中世鎌倉の発掘 (3)
仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって



(大きな画像はこちら約~KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。

単葬墓の667体のうち刀創のある頭蓋骨は1.3%

編集部 出土した人骨の鑑定からは、どのようなことがわかりますか。

平田
刀創のある男性頭骨 (由比ヶ浜南遺跡)
刀創のある男性頭骨
(由比ヶ浜南遺跡)
由比ヶ浜南遺跡発掘調査団提供

私のところで調査したのは単葬墓(単体埋葬墓)で、集積墓(集積埋葬墓)は山口県の土井が浜人類学ミュージアムで調査されています。

単葬墓の出土数は、約4,000体のうちの667体と、かなり少なく、はるかに集積墓のほうが多い。

刀創(とうそう)をまず調べましたが、667体のうち、刀創があったものは9例だけで1.3%です。非常に少ないのです。

1956年に調査された、有名な材木座遺跡の報告書では、刀創例は頭蓋283例のうち191例、受傷率は65.7%という高率なんです。受傷率だけを比較すると非常に違うのですが、材木座の刀創では斬創という、非常に深い、頭蓋腔内に刀が入り込んでいるような傷は1.8%しかないのです。

斬創ほど深くない切創が九・九%です。一番多いのが掻創(そうそう)と言って引っかいたような傷で、死後に皮膚をむいたとか、人の手が加わったのではないかと考えられる傷が54.1%、半分以上を占めています。

ところが由比ヶ浜南遺跡の人骨には、単葬墓は9例だけですが、掻創の存在する頭蓋骨はないんです。その辺が同じ鎌倉の刀創でもかなり違うところなんです。

 
  静養館からは深い刀創や下顎骨のない頭蓋骨が出土

平田 もう一つ、かなり以前の調査ですが、同じ由比ヶ浜中世集団墓地遺跡の静養館遺跡では、刀創は91例中6例、6.6%なんです。しかも、6例すべてがものすごく深い傷です。由比ヶ浜南遺跡の刀創も深いものはあるんですが、ちょっとその比ではないというか、一個体で上顎がそぎとられて耳の後ろの乳様突起という固い部分もそぎとられて、あと頭蓋がぱかっと割られているような、静養館はそういう激しい刀創が特徴なんです。静養館はすぐ隣ですね。

齋木 大きな建物の裏(北)側が静養館です。

平田 隣合わせの遺跡なのにちょっと違う。静養館の頭蓋の集積墓の、もう一つの特徴は下顎骨がないことです。下顎骨がないということは、軟部組織がほとんど腐ってなくなった後に頭だけを拾って集めたということです。筋肉がある状態で埋葬されていれば下顎骨はあるんです。下顎骨が全く出ていないということは、かなりの間放置されていたか、ほかに埋葬されていたかもしれませんが、頭だけを集めた首塚という状況で発見された。

受傷率も比較データとして重要なんですが、刀創の種類や深さ、その辺は人骨の鑑定結果から改めて考えなければいけないと思うんです。墓の性質ですね。由比ヶ浜南では集積墓もいろいろなんです。

齋木 集積墓は、下顎がないのも、あるのもあります。

平田 集積墓の40基の中でも性質はかなり違うんでしょうね。

齋木 頭部のみが大多数を占める埋葬穴や、四肢骨がそろっている人骨が大多数を占める埋葬穴もあります。

 
  ハンセン病の骨病変のある人骨が初めて確認される

編集部 骨病変として、非常に珍しい例があったというお話ですが。

平田 一体だけですが、ハンセン病の人骨があったんです。熟年期の女性です。ハンセン病は、非常に特徴的な骨病変を示すんです。手のひらに中手骨という細長い骨があります。正常ではこの骨の先端の部分は丸いのですが、末端(指先)に向かって鉛筆のように骨が細くなって萎縮してしまった症例が見つかりました。

あとは腓骨と言う、すねの外側の細い骨の下端が、やはり萎縮して、消失した状態です。典型的なハンセン病の症例として日本で正式に発表されたのは、この由比ヶ浜南遺跡から出土した人骨が第1例なんです。

松尾 一般にハンセン病で死んだ人は相当数が多いと考えられていますけれども、実際は症例としては少ないんですか。

平田 日本で典型的な古人骨の症例としては初めてですね。一目でハンセン病とわかる変形です。極楽寺はハンセン病と関わりがありますね。

西岡 極楽寺の悲田院がそうですね。

ハンセン病の骨病変 (由比ヶ浜南遺跡)
ハンセン病の骨病変
(由比ヶ浜南遺跡)
上段は正常右中手骨、下段はハンセン病のもの
由比ヶ浜南遺跡発掘調査団提供
 
  死後硬直を解く一種の呪術を持っていた律宗の僧侶

西岡 遺跡のある場所は、極楽寺の管轄下にあったのではないかという推定もあるようです。律宗には、土砂加持というのがあるんです。最初は一種の呪術のようなものだったらしいんですけれども、死後硬直を起こした遺体に水銀まじりの砂をかけると、硬直が解けて成仏できる。戒律で守られた律宗の僧は汚れることがないので、その人たちが光明真言という特別な呪文を唱えて砂をかけて清める。律宗の、特に民衆と直接触れ合う部分での宗教活動だったようです。

松尾 死後硬直を柔軟化するんですか。

西岡 もとがどうもそんなことであったらしいんです。

松尾 今回の単体埋葬の中でも変わった例として、体を強引に二つ折りにして埋葬している例もあるんです。

平田 ちょうど腰から足を持ってきて、足首が頭の上にくる。完全に折り曲げてあるのが何例もあります。それは中世でも見つかったことはないんです。

病変としては結核もあったようです。骨折も比較的多くありましたね。

体を二つに折った単体埋葬遺構 (由比ヶ浜南遺跡)
体を二つに折った単体埋葬遺構 (由比ヶ浜南遺跡)
由比ヶ浜南遺跡発掘調査団提供

齋木 お歯黒を塗ったのが3例ありましたね。

平田 女性で、年齢構成は壮年期が一体、熟年期が二体です。頬側にあたる歯の外側だけで、舌側の、歯の内側にはない。


山稜部の要害遺構も忍性が介在か

松尾 13世紀の後半期には、山稜部に要害遺構もつくられ、由比ヶ浜南遺跡の大規模な建物も建てられた。

西岡さんから、蒙古襲来に対する鎌倉の防衛というお話がありましたが、合戦・抗争歴を調べますと、このころは北条時輔の乱や、霜月騒動があって鎌倉の中で政治的にかなり不安定になってくる時期でもある。そういうときに忍性が鎌倉に入ってくる。文永元年(1264)には早速貧者の救済事業も始めていますし、極楽寺に拠点を構えてからも、海岸の支配権とか、和賀江嶋の管理権といったものを得ると同時に、各種の土木工事、つまり要害遺構も鎌倉の中で進めている。

幕府からの依頼もあったんでしょうけれども、鎌倉幕府とより密接に結びついたからこそ、率先して要害遺構をつくって防備をかためる。これはもちろん軍事機密に属することでしょうから、史料には残っていませんけれど、山稜部の要害遺構が13世紀の後半以降につくられるのには、忍性の介在は大いに可能性があると考えられるんです。

編集部 要害遺構をつくるためには石を切る必要がありますね。例えば、石の加工などは律宗の人たちが得意とするところであったことと関係してくるんですか。

齋木 鎌倉で鎌倉石が多く使われ始めるのが十三世紀後半からです。それまでは土丹を敷き詰めたりしています。13世紀後半から方形竪穴などの建物に使われ始めます。その時期から石を切る技術が普及したのだと思います。

西岡 昔は石を切るとか、土をいじるのは、大変たたりがあると考えられていたんです。土木工事を始めようとしたら、よくよく土地の神様に祈りを捧げてやらなければいけない。律宗に属している人は、そういうものからは解放されている。ですから、律宗の人は大手を振って土木工事ができた。そういうバックボーンがあったんです。

松尾 鎌倉の山の人工的な改変に、忍性を始めとする律宗というのが、労働力を確保しているわけです。

 
  浜の空間は念仏や法華の僧の布教の場

西岡 律宗と言うと鎌倉のことは何でも解決するように見えますが、実はこの浜の住人たちの信仰は何だったか。

日蓮の弟子で、日昭という人が、浜土(はまど)の門流をつくるんです。これはまさに浜に拠点があったわけです。今は三島の玉沢妙法華寺というお寺に移っていますけれども。

浄土真宗は三浦の野比(のび)に移っている最宝寺が、もとは高御蔵(たかみくら)最宝寺と言いまして、材木座の弁ヶ谷(べんがやつ)にありました。極楽寺に囲われた生けすのような場所なんですが、そこに住んでいる人たちの信心として、念仏であれば真宗とか時宗、一方で法華なんかも出てくる。そういう構造は見えてくるんです。

松尾 元弘の乱のとき、時宗の他阿(たあ)上人の『自筆仮名消息』に、同士討ちの罪をおかしたので、浜に引き出されて首を斬られる武士に念仏を唱えさせる僧侶のことが出てきますね。

西岡 社会の底辺のほうで身近に死体と接している聖的な坊さんたち、そういう存在が後のいろいろな宗派につながってくる。

律宗の行法は基本的に密教ですから、大変豪華でお金がかかる。庶民がおいそれとは頼めない。それで、一般庶民の信仰を集めるものが別に育っていったんだろうと思います。

 
  浜は商人や職人ら富裕層が集まっていた場所か

齋木 海岸部では非常に特徴的な遺物があります。瀬戸の小型花瓶が海岸部から多く出土します。町の中ではあまり出土しない。これが宗教具だとすれば、浜地のほうが宗教との関わりが強いということにもなるかもしれません。

松尾 中に火葬骨を入れている例もありますね。

出土した古瀬戸花瓶 (由比ヶ浜南遺跡)
出土した古瀬戸花瓶 (大きな画像はこちら約60KB)
(由比ヶ浜南遺跡)
由比ヶ浜南遺跡発掘調査団提供

西岡 浜辺に住んでいた人たちは、相当裕福な人たちだったんじゃないかと思うんです。特に蒙古襲来の時期は、九州に向かっていろんなものを運ばなきゃいけない。その流通に介在する人たち、あるいは職人とかがたくさん集まっていただろう。彼らを統率する長者と言われるような人は、ものすごい金を個人的にぽんと出せて、寺を一つ二つ建てられるぐらいの人たちなんです。

そういう人たちは、鎌倉幕府の公的な官職の体系には入ってこない。下っ端の武士に見える人が、実はものすごく金を持っている。そのような人が意外とこういう場所にいたのではないかと思うので、中世の由比ヶ浜を、『地獄草紙』のようなイメージで想像してしまうと、ちょっと違う んじゃないかなという気が私はしております。

松尾 冒頭に、世界遺産のことを申しましたが、元弘3年の乱によって、つまり政権の置かれた都市が戦闘によって陥落し、時の政権が交代したという例は、日本の歴史の中では鎌倉が唯一じゃないかと思うんです。

由比ヶ浜南遺跡の人骨を見ても、女性や子供の人骨もかなりたくさんあるわけで、すべてが戦争犠牲者とはかぎりませんが、現代史に通じるような側面があります。

そういう点を鎌倉が内包していることも、鎌倉の特性として世界遺産に向けて注目すべき点ではないかなと思っています。

編集部 貴重なお話を、ありがとうございました。



 
 
齋木 秀雄 (さいき ひでお)
1949年前橋生れ。
共編著『中世都市鎌倉と死の世界』高志書院2.835円(税込)。
 
西岡 芳文 (にしおか よしふみ)
1957年東京生れ。
 
平田 和明 (ひらた かずあき)
1954年東京生れ。
 
松尾 宣方 (まつお のりかた)
1945年鎌倉生れ。
 


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