寄り道・道草75
藤沢で造られた酒

 八柳 修之

 藤沢にあるお酒の工場と言えば、現在、大庭(城南)にあるメルシャンワインくらいである。

 江戸時代、幕府は酒株制度を設け、酒株を持つ者のみに酒造りを許可した。この制度は明治8(1875)年に廃止されるまで続いたが、酒株を持つことが出来た者は、地元有力者、資金力がある商人に限られた。藤沢宿では坂戸町で問屋を務めた平野屋(屋号牧野屋、平野元会長実家)は、小田原北条氏に仕えた士族であったが、天正18(1590)年、秀吉に降伏後、大庭で酒造業を始めている。また、堀内家古文書には紀ノ国屋仁兵衛(1725年)、近江屋喜兵衛(1745年)、キノ勘五郎(1748年)、日野屋善太郎(1755年)など上方の酒屋の名が見られるという。

 宿場町、酒と女はつきものである。天保6(1835)年藤沢宿の飯盛旅籠数は27,8軒あったとされる。濁酒に代わってすみ酒が上方から入るようになると地元の酒を駆逐していった。時代は下って、大正8(1919)年、伊丹の白雪で知られる小西新右衛門らは大日本醸造(株)を設立し大庭城南に本社・工場を建設、サツマイモを原料としてアルコールや焼酎を生産した。その後、米騒動が起きるなどの米不足、食糧難対策を背景に、大正10(1921)年三共製薬と共同して、合成清酒の製造試験を開始、理化学研究所のビタミンの発見者として知られている鈴木梅太郎博士が発明した清酒合成剤を使用し、1年余にわたる試験の結果、大正12(1923)年、高橋是清、鈴木三郎助ら財界の協力を得て、大和醸造(株)を設立、新清酒あるいは理研酒と呼ばれる銘柄「新進」の製造を開始した。

メルシャンワイン(藤沢市城南)

 その後、特許料を支払えば理研酒を製造できるようになり、理研酒は合成清酒の主流となった。昭和12(1937)年、大和醸造の工場敷地は7000坪、建坪2637坪、社員90名余、年間合成酒4,814kl、焼酎8,664kl、ほかワイン、ウィスキーも製造した。合成清酒「新進」は、米を使わない酒、二日酔いしない酒と宣伝され、陸海軍の御用ともなった。戦後、食糧難時代を反映し、一時合成清酒の販売は伸びたが、やがて米余り時代に入るとともに出荷が減少し、昭和36(1961)年、味の素が設立した昭和酒造(現メルシャン)に吸収合併された。現在、メルシャンはキリングループにあり、国内最大のワイン製造設備を持ち、輸入果汁の醸造と輸入ワインの瓶詰を行い、メルシャンの酒類生産量の94%を占め同社の中核工場となっている。

出典:「藤沢わがまちのあゆみ」児玉幸多編 発行 藤沢文書館。「藤沢市史」第6巻 藤沢市 「藤沢市制50周年記念写真集」。藤沢市HP メルシャン、小西酒造