■ジェットコースターに乗っているかのような5年半

どこまで昇るんだろうという高揚感といつ落ちるんだろうというスリルが同居する。ペトロヴィッチ監督と共に歩んできた5年半は、まるでジェットコースターに乗っているかのようだった。降りなければならなくなった今、心にぽっかりと穴があいたような感覚に包まれる。

06年の6月に就任したペトロヴィッチ監督は、降格の危機を救って救世主となって期待されて迎えた07年に京都との入れ替え戦に敗れてJ2に降格する。しかし、続投要請を受けて戦った天皇杯でファイナルに進出し、翌08年はJ2で圧倒的な力を誇示しながら現在に至るチームのベースを築き上げた。そして、J1に戻った09年は4位に躍進し、10年はクラブ史上初となるACLに出場してナビスコカップのファイナルにも進出。しかし、ACLはグループリーグで敗退し、ナビスコカップもロスタイムに失点してタイトルを取り逃がした。今年は育ててきた選手と共にタイトルを狙って好スタートを切ったが、勝負所で強さを発揮できなかった。

あらすじを記しただけでも激しく上下動してきたことが分かる。ドキドキワクワクしながら上へ上へと昇っていくと急転落下する――。ペトロヴィッチ監督が広島を率いた5年半は敗北の記憶が多く残るものの、心を揺さぶるドラマチックな時間だった。

ペトロヴィッチ監督のサッカーは内容もジェットコースターのようだった。魅力と威力を兼ね備えた攻撃を展開する一方で、容易に失点するもろさも持ち合わせていた。個々のアイディアを尊重してチャレンジを続けるサッカーは、スペクタクルを提供するとともに自滅を何度も繰り返した。手にしかけた勝利を取りこぼしたことは幾度とある。しかし、ペトロヴィッチ監督は短所の修正に着手するよりも長所の継続と追及に力を注いでチームを一歩一歩上昇させた。

■広島だけでなく、日本サッカー界に与えた影響も大きい

「お父さんのようだった」と選手が語り、監督が「子供のような存在」と語る固い絆の下に、一貫してブレない指揮官に絶大な信頼を置く選手たちはただひたすら最高到達点を目指して邁進する。ペトロヴィッチ監督は、頑固という言葉はネガティブに捉えられがちで、柔軟という言葉はポジティブに捉えられがちな中、頑なに追求することで最高到達点が高くなることを示してきた指揮官である。

「いい時も悪い時もあったが、チームは私が率いてから年々成長してくれた。毎年チームがステップアップしてくれるというのは監督冥利に尽きるうれしいことだった。私が大きな喜びを感じていることは、選手たちが見せてくれたサッカーが日本のサッカーにも大きな影響を与えたということだ。われわれがやってきたことの多くは日本の中で新しいことだったと思うが、それを多くのチームが取り入れてやってくれるようになった。そのことに対して私は誇りを持っている」。
本人が自負するように、ペトロヴィッチ監督が広島に植え付けた攻撃的なスタイルは、広島だけでなく、日本サッカー界に与えた影響も少なくない。

もっとも、ペトロヴィッチ監督が広島に残したことは、『パスをつないで攻める攻撃的でアグレッシブなサッカー』といったサッカーのスタイルだけではない。ペトロヴィッチ監督の哲学は選手も観客も試合を楽しむことであり、そのための手法が攻撃的なサッカーであった。森崎浩司が「サッカーを楽しむことをいちばん学んだ」と話すように、選手たちにも観客にもサッカーの楽しみ方を提供し、勝敗を度外視したサッカーの素晴らしさを広島に教えてくれた指導者だった。

■ペトロヴィッチ監督の哲学は「サッカーを楽しむこと」

ペトロヴィッチ監督が広島に残した功績は計り知れないが、「このチームでタイトルを取ることは大きな夢だった。それができなかったのは残念だ」と本人も話すように、タイトルを獲得できなかったことだけが残念で仕方ない。