ヤン・レツルの略歴

  中区大手町の平和記念公園に残る原爆ドーム(竣工時・広島県物産陳列館)、その設計者「ヤン・レツルの略歴」についてこの頁で取り上げました。
ヤン・レツル(Jan Letzel :1880-1925)
国内で設計に従事したおおよそ10年間に二十余りの作品を残したそうです。
広島県物産陳列館(1915年、1945年原爆被災)、宮島ホテル(1917年竣工、1952年8月焼失)
聖心女子学院(1909年竣工、本館・正門)、大日本私立衛生会(1911年竣工)、上智大学、上野精養軒、松島パークホテル(1913年竣工)など。
広島県産業奨励館(後の原爆ドーム)の設計者ヤン・レツルの経歴を集中的に調べたわけではないのですが、いろいろな資料を見て少しずつわかってきたことをまとめようとしている頁ですので略歴としました、そのようにみていただければ幸いです。
*資料は広島市公文書館発行「物産陳列館から原爆ドームへ」などを参考にしましたので、Wikipediaとは違っている処があります。
「原爆ドーム100年の記憶-平和への願いをつないで-」(2015年3月26日〜7月15日まで))が現在改修中の平和記念資料館東館ですが、地下一階の廊下壁に資料が貼り出され展示されていました。
その中にレツルの画像がありましたので撮影しましたので、この頁を更新しました。
生まれた処をオーストラリア・ハンガリーと記述していましたが、オーストリア・ハンガリー帝国と愛媛県Gさんに誤記の指摘をいただき訂正しました。
21.09.27.訂正
15.03.26.更新   04.05.07裕・記編集
1880 明治13年 9月4日オーストリア・ハンガリー帝国に属したポーランド国境に近い町ナホト(現チェコ)に生まれる。
*Wikipediaでは4月9日としています
1900 明治33年 プラハの美術専門学校入学。
プラハ・アカデミー建築家でヤン・コチェラ教授※の最初の弟子の一人として師事する。
※ウィーンにおける分離派の第一人者オットー・ワグナーの弟子に当たる
1903 明治38年 卒業。プラハの設計事務所入所。1905年エジプト(当時英国領)カイロの設計事務所で勤務した。
1907 明治40年 7月来日、横浜のゲオルグ・デ・ラランデ建築事務所に設計士として就職。
1909 明治42年 10月、(同じチェコ人)ヤン・ホラとレツルエンドホラ合資会社を設立、東京市銀座出雲町三番地に建築事務所を開設。
1913 大正2年 4月事務所を麹町区の三菱一号館(三号館との資料も)に移転するが、同(1913)年7月会社解散。
1915 大正4年 設計事務所も閉鎖(第一次世界大戦の不景気で)。
レツルが設計した廣島縣物産陳列館(4月5日の)竣工式には招待されていません。
∵日本が1914年8月第一次世界大戦に参戦したことで、オーストリア国籍のレツルは敵国人となったからだそうです。
1916年(廣島縣物産陳列館竣工の翌年)帰国とする資料もあります。
1918 大正7年 〜1921(大正10)年、独立したチェコスロバキアの東京の公使付きの商務官を勤める。
1925 大正14年 12月26日プラハで病死、享年45歳。

15.03.26.平和記念資料館東館廊下展示資料を撮影しました
レツルの手紙:設計したレツルが竣工式に呼ばれなかったのは第一次世界大戦日本の敵国人だったからと説明文で知りました

15.03.26.平和記念資料館東館廊下展示資料を撮影しました
ヤン・レッツェル(※Wikipediaの画像と同じもののようですが下の方を切り取った画像になっています)



「広島ゆかりの人たち」編


「原爆ドーム」編



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原爆ドーム(概説)
旧・廣島縣産業奬勵館
(広島県産業奨励館は)湾曲した建物
原爆ドーム鉄骨部分(楕円形について)
設計者:ヤン・レツルの略歴
広島県産業奨励館・噴水跡


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