「北鎌フランス語講座 - 文法編」と連動し、短い例文を使って徹底的に文法を説明し、構文把握力・読解力の向上を目指します。

フランス語原文でパスカル『パンセ』を読む

パスカル『パンセ』

このページでは、ブレーズ・パスカルPascal)の『パンセ』(Pensées)の中の「考える葦」で有名なくだりを、「文法編」の説明に基づいて一文ずつ解説します。
17世紀の文章ですが、現代の文章とほとんどまったく変わりません。

  L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature, mais c'est un roseau pensant. Il ne faut pas que l'univers entier s'arme pour l'écraser ; une vapeur, une goutte d'eau suffit pour le tuer. Mais quand l'univers l'écraserait, l'homme serait encore plus noble que ce qui le tue puisqu'il sait qu'il meurt et l'avantage que l'univers a sur lui, l'univers n'en sait rien.
  Toute notre dignité consiste donc en la pensée. C'est de là qu'il faut nous relever et non de l'espace et de la durée, que nous ne saurions remplir.
  Travaillons donc à bien penser ; voilà le principe de la morale.

L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature, mais c'est un roseau pensant.

 L'homme n'est qu'un roseau

冒頭の「L'homme n'est qu'un roseau」については、文法編の「否定文」のページの「ne... que ~」の項目で詳しく解説しましたので、そちらをご覧ください。
  「人間は一本の葦(あし)でしかない」
  「人間は一本の葦にすぎない」
  「人間は一本の葦にほかならない」
のいずれかの訳になります。

 le plus faible de la nature

その後ろの「le plus faible de la nature」について見てみましょう。
「le plus」は最上級の表現です。「faible」が形容詞「弱い」なので、「le plus faible」で「最も弱い」。その後ろの「de」は、最上級と一緒に使う場合は「~の中で」という意味です。「nature」は「自然」。つなげると、「自然の中で最も弱い」となります。
さて、これはこの文の前後に、どのようにしてつながるでしょうか。

もし直前にコンマがなければ、直前の名詞にかかるでしょう。しかし、最上級によって修飾される名詞は、特定・限定されるため、普通は定冠詞がつきます。もし、

  le roseau le plus faible de la nature

となっていれば、「自然の中で最も弱い葦」となります。
しかし、「le plus...」の前にコンマがあり、なおかつ「roseau」の前に定冠詞 le ではなく不定冠詞 un がついているという 2 つの理由によって、「le plus...」を「roseau」に掛けることには無理があります。
また意味的にも、前に掛けて「自然の中で最も弱い葦」とすると、葦の中にも強い(丈夫な)葦と弱い葦があることになり、内容的におかしくなります。
(ここでは、自然界には竹のような強くて丈夫な植物もあれば、折れやすい弱い植物もあり、色々な種類の植物の中で最も弱いものは葦である、という認識のもとに、人間を葦に喩えているわけです)

実は、この「le plus faible de la nature」の le は「最上級を作る」働きと、「le + 形容詞」で「~なこと・~なもの」として「形容詞を名詞化する」働きとを兼ねていると考えられます。つまり、最上級の名詞化(最も~なもの)です。
そして、コンマを挟んで「un roseau」と「le plus faible de la nature」が同格になっている(あるいは「un roseau」を「le plus faible de la nature」によって言い換えている)と解釈することができます。
訳は「一本の葦、すなわち自然の中で最も弱いもの」となります。

 mais c'est un roseau pensant

ここでいったん文が途切れ、接続詞「mais(しかし)」で以下につながります。最後の「pensant」は、形容詞としてこのまま辞書に載っており、おまけにこのパスカルの文が例文に載っていたりしますが、本当は形容詞と取るよりも、あくまで現在分詞だと捉えたほうが、「penser(考える)」という動作がはっきりと感じられ、より優れていると思われます。形の上では見分けはつきませんが、形容詞か分詞か迷ったら分詞と見なし、元の動詞に戻して意味を取るべきです(ただ、「pensant」を形容詞と取っても、分詞と取っても、日本語に訳すと同じになってしまいます)。

分詞は関係代名詞 qui を使って書き換え可能ですので、「mais」の後ろを書き換えると次のようになります。

  c'est un roseau qui pense. (それは考える葦である)

この文では、「qui pense」が関係詞節で、これが先行詞の「un roseau」に掛かっています。

【ここまでの訳】
「人間は一本の葦、すなわち自然の中で最も弱いものでしかない〔にすぎない、にほかならない〕。しかし、それは考える葦である。」

Il ne faut pas que l'univers entier s'arme pour l'écraser ; une vapeur, une goutte d'eau suffit pour le tuer.

この文は「ポワンヴィルギュル」(英語のセミコロン、つまり「;」の記号)によって 2 つの部分に分かれていますので、まず前半を見てみます。

 Il ne faut pas que l'univers entier s'arme pour l'écraser

「Il ne faut pas ~」は「~してはならない」という禁止の意味になるのが普通ですが、稀に「~する必要はない」という意味になることもあります(ある程度詳しい辞書なら、不定形 falloir の項目を隅々まで目を通せば載っています)。
基本的には「Il ne faut pas ~」は「~してはならない」の意味に取り、どうしても「~する必要はない」という意味に取らないと変だ、という場合にのみ、その意味に取ればよいでしょう。ここでは、その稀な「~する必要はない」の意味です。

「Il faut que」の後ろの動詞は接続法になります(否定の「ne... pas」が入っても同様)。ここでいうと「arme」が接続法です。ただし、第1群動詞の場合は、1~3人称単数と3人称複数の接続法現在は直説法現在とまったく同じ形になりますから、形の上では直説法現在と見わけがつきません。
「univers(宇宙)」はもともと s で終わる男性名詞。「entier」は形容詞で「~全体」。
「arme」の不定詞 armer(武装させる)は他動詞で、その直接目的が再帰代名詞「s’」になっているため、「自らを武装させる」→「武装する」となります。
前置詞「pour」は、後ろに動詞の不定詞がくると「~するために」という意味。「écraser」は他動詞で「押しつぶす」、その直接目的が「l’」(人称代名詞の直接目的3人称単数)です。 le も la も母音の前では「l’」になりますが、ここでは後ろに出てくる「le tuer」の「le」と同じものを指すと思われるため、男性単数のものを指します。前に出てきた男性単数というと、「L'homme(人間)」と「un roseau(葦)」(および「le plus faible(最も弱いもの)」も一応男性単数)がありますが、どれも内容的に同じものを指すため、「L'homme(人間)」を指すとしておきましょう。
ここまでで「人間を押し潰すためには宇宙全体が武装する必要はない」となります。

 une vapeur, une goutte d'eau suffit pour le tuer

後半に移ると、「vapeur」は「蒸気、水蒸気」。前に「une (一つの)」がついているので「一滴の(水)蒸気」。
「goutte」は「雫(しずく)」という意味ですが、「une goutte de ~」で「一滴の~」という量を表す形容詞句になります(「une goutte d'eau」で「一滴の水」)。
この「d'eau」は、さきほどの「une vapeur」にも掛かっていると取ることもでき、そうすると「une vapeur d'eau」で「一滴の水蒸気」となります。
「suffit」は自動詞 suffire(~だけで十分だ)の現在(3人称単数)。この動詞は「物」が主語になるため、ほとんどいつも 3 人称で使います。「pour」と組み合わさると、

  A suffit pour B. (B するためには A だけで十分だ)

という使い方をします。もともと「だけ」というニュアンスを含んだ動詞です。
または仮主語の Il を使った次のような表現も多く使われます。

  Il suffit A pour B. (意味は上と同じ)

パスカルの文では、仮主語は使っておらず、上の A に相当する「une vapeur, une goutte d'eau (一滴の水蒸気、一滴の水の雫)」が主語になっています。
この主語は複数のように感じられるかもしれませんが、動詞が「suffit」というように 3人称単数の形になっているので、「一滴の水蒸気、いや一滴の水の雫」という感じで言い換えられていて、実質的に一つのものとして捉えられているために、単数形になっていると解釈できます。
「le」は文の前半の「l'」と同じものを指します。「tuer」は他動詞で「殺す」。
ここまでで、「人間を殺すためには一滴の水蒸気、一滴の水の雫だけで十分だ」となります。 ⇒ 余談 1

【ここまでの訳】
人間を押し潰すためには宇宙全体が武装する必要はない。人間を殺すためには一滴の水蒸気、一滴の水の雫だけで十分である。

Mais quand l'univers l'écraserait, l'homme serait encore plus noble que ce qui le tue puisqu'il sait qu'il meurt et l'avantage que l'univers a sur lui, l'univers n'en sait rien.

この文は、大きく見ると「puisqu'」の前までで意味的に切れます。

 Mais quand l'univers l'écraserait, l'homme serait encore plus noble que ce qui le tue

「écraserait」は規則動詞 écraser の条件法現在
「quand」は普通は「...な時に」という意味の接続詞ですが、辞書で「quand」を引くと記載されているように「譲歩」の意味になることもあり、「...な時」が非現実な(まずあり得ない)時である場合には、 quand の後ろを条件法にして、「(たとえ)...な時があったとしても」という意味になります。
ただ、現在の事実に反する仮定の場合は、「si + 直説法半過去」を使うのが最も一般的なので、「quand + 条件法」は「si + 直説法半過去」で言い換えることが可能です。ここも、「quand l'univers l'écraserait」の部分は次のように言い換えることができます。

  si l'univers l'écrasait (たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても)

この écrasait は直説法半過去(3人称単数)です。

後半に移ると、「serait」は être の条件法現在(3人称単数)。「encore」は比較級と一緒に用いて「さらに、いっそう」。「plus 形容詞 que ~」で「~よりも〔形容詞〕」。
そのため、「noble」はここでは「貴族」という名詞ではなく、「高貴な」という形容詞です。
「ce」は先行詞になると「~なこと・もの」という意味になります。「qui」は関係代名詞で、 「ce qui」で英語の what に相当します。
この部分を文の要素に分けると、「ce」が小さな主語(S)、「le(彼を)」が小さな直接目的(OD)、「tue(殺す)」が小さな動詞(V)です。
以上で、「しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は人間を殺すものよりも遥かに高貴なことだろう」となります。

 puisqu'il sait qu'il meurt et l'avantage que l'univers a sur lui, l'univers n'en sait rien

「puisqu'」以下では、「et(そして)」を挟んで理由が 2 つ述べられています。
理由を表す接続詞で最も一般的なのは parce que(英語の because)ですが、 puisque はこれとは少し異なり、読者がすでに承知していることを前提にした表現なので、「ご存知のように」「当たり前のことだけれども」というニュアンスが含まれます。
「il sait qu'il meurt」の「il」はどちらも「人間」を指します。「sait」は他動詞 savoir(知っている)の現在(3人称単数)、「meurt」は自動詞 mourir(死ぬ)の現在(3人称単数)。
「彼は彼が死ぬことを知っている」となります。これが理由の一つ目です。

「et」以下に移ると、「avantage(優位性)」は英語の advantage と同じ意味で、 -age で終わるため男性名詞。「avantage sur ~」で「~に対する優位性」となります。
「que」は関係代名詞で、「que」の前から「lui」の後ろまでがカッコに入ります(関係詞節になります)。細かく見ると、「l'univers」が主語(S)、「a」は(ここでは助動詞ではなく)他動詞 avoir (持っている)の現在(3人称単数)、そしてこの他動詞 avoir の直接目的(OD)が先行詞となっている「l'avantage」です。
つまり、この部分は次の文がベースとなっています。

  L'univers a l'avantage sur lui. (宇宙は人間に対して優位性を持っている)

「lui」は「人間」を指し、前置詞の後ろなので強勢形になっています。
さて、この「l'avantage que l'univers a sur lui (宇宙が人間に対して持っている優位性)」は、どのようにして前後につながっているのでしょうか。

その前に、「l'univers n'en sait rien」の部分を見ておくと、「en」は動詞の直前にあるため中性代名詞です(意味は後で述べます)。「sait」は他動詞 savoir(知っている)の現在(3人称単数)。「ne... rien」で「何も... ない」

さて、ここは遊離構文になっています。主節は「l'univers n'en sait rien」で、ここから「l'avantage que l'univers a sur lui」が「遊離」して文頭に飛び出した形になっています。そして、この遊離した部分を、主節の中の代名詞(中性代名詞) en で受け直しているわけです。
この en は「de + 物」に代わる en で、英語の of it に相当します。この部分を en を使わずに(そして遊離構文を使わずに)書き換えると、次のようになります。

  l'univers ne sait rien de l'avantage que l'univers a sur lui
    (宇宙は、宇宙が人間に対して持っている優位性について何も知らない)

この時の de は「~について」の意味。
この文の「l'avantage que l'univers a sur lui」が遊離して前に出てきたため、それを代名詞に置き換える場合は、前に de があるため、「de + 前に出てきた物」が en に置き換わって、動詞(sait)の前に出たわけです。

中性代名詞 en は、しばしばこのように savoir が「ne... rien」と組み合わさった場合に入り込みやすい言葉です。例えば、

  Je ne sais rien. (私は何も知らない)

だと、まったく何も知らないわけですが、中性代名詞 en が入ると、「それについては」という風に限定されます。

  Je n'en sais rien. (私はそれについては何も知らない)

【ここまでの訳】
しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は人間を殺すものよりも遥かに高貴なことだろう。なぜなら人間は人間が死ぬということを知っており、宇宙が人間に対して持っている優位性、それについては宇宙は何も知らないからだ。

Toute notre dignité consiste donc en la pensée.

「Toute」は tout(すべての)の女性単数。「notre(私達の)」は所有形容詞。「dignité」は「尊厳」。語尾が -té で終わっていたら女性名詞です。

「tout(すべての)」を単数形で定冠詞(または不定冠詞)と組み合わせて使うと、ある一つの物を取り上げて、それ「全体」という意味になります。この場合、定冠詞は所有形容詞で代用可能です。
ですから、「Toute notre dignité」は「すべての私達の尊厳」というよりも、むしろ「私達の尊厳は」「私達の尊厳はまるまるすべて(そっくり、ひとえに)」という感じです。

副詞(または接続詞)の「donc」は「それゆえ」という意味。
このように、前の文とのつながりを示す副詞(または接続詞)が文頭ではなく文中に埋め込まれるケースもよく見受けられますが、もちろん文頭に出して次のように言うことも可能です。

  Donc, toute notre dignité consiste en la pensée.

訳すときは、文中に埋め込まれていても、文頭に持ってきたほうが日本語では自然になる場合が多いでしょう。

「consiste」は前置詞 en か dans とセットで
  「~で構成される」(英語の consist of )
  「~に存する」(英語の consist in )
のいずれかの意味になります。「consiste à + inf. (~することにある)」という意味もありますが、ここでは直接は関係ありません。

「pensée」は女性名詞で「考え、思考(すること)」。もともと penser(考える)という動詞の過去分詞 pensé(考えられた)が名詞化してできた言葉です。
題名『パンセ』(Pensées)は、この複数形です。

【ここまでの訳】
それゆえ私達の尊厳は、ひとえに思考することに存する。

C'est de là qu'il faut nous relever et non de l'espace et de la durée, que nous ne saurions remplir.

 C'est de là qu'il faut nous relever

「C'est ~ que...」を使った強調構文で、「de là」の部分が強調されています。
que の後ろでは、「Il faut + 不定詞(~する必要がある)」と再帰代名詞が組み合わさった形で、 nous は再帰代名詞です。
この文で強調構文を使わないと、次のようになります。

  Il faut nous relever de là.

「Il faut + 不定詞」という表現では意味上の主語は明示されませんが、再帰代名詞が「nous」なので、「私達」が意味上の主語だとわかります。この動詞は、
  se relever de
という使い方をしていますが、辞書で relever を引いて再帰代名詞と一緒に使う用法を探しても、ぴったりくる意味は記載されていません。それもそのはず、古典的な文学作品を読む場合に定評のあるリトレ(Émile Littré)の辞典relever を引くと、一番最後(45 番目)の意味に「おそらくパスカルにしか存在しない用法(emploi qui n'est peut-être que dans Pascal)」として、この例文が記載されています。
こうした場合は、なるべく relever を原義(語源的な元の意味)に近づけて推測するしかありません。もともと接頭語 re- は「再び」の意味で、これを省いた lever は「(横になっていたもの・寝ていたものを)起こす、持ち上げる」という意味の他動詞。 se relever de ~で「~から再び自分を起こす」が原義ですが、この文脈に置きなおしてみると、「~を拠り所として再びそこから身を立てる」「~に立脚する」くらいの意味で使っていると推測されます。
「là」は「そこ」という場所を表す言葉ですが、ここでは内容的には前の文の「la pensée」を指すと取れます。
ここまでで、「そこにこそ、私達は立脚する必要がある」となります。 ⇒ 余談 2

 et non de l'espace et de la durée

「espace」は「空間」で男性名詞。普通は「空間」の対義語としての「時間」は「le temps」を使いますが、ここでは「la durée」(英語の duration。普通は「持続」「持続時間」という意味)を使っています。しかし、とりあえず「時間」と訳しておきます。

et non」というのは、同じ働きをする文の要素を対比・並置する場合に、先行する文を否定しながら受ける言葉です。

ここの「et non de l'espace et de la durée」は、「non」使わずに書き換えると、次のようになります。

  et ce n'est pas de l'espace et de la durée
    (空間と時間にではない)

さらに、前に出てきた「qu'il faut nous relever」も補うと、

  et ce n'est pas de l'espace et de la durée qu'il faut nous relever
    (私達が立脚する必要があるのは、空間と時間にではない)

となります。これは、「ce n'est pas ~ que... (...なのは~ではない)」という、強調構文の否定です。

 que nous ne saurions remplir

que は関係代名詞ですが、前にコンマがあります。英語では、
  関係代名詞の前にコンマがなければ前に掛けて訳す(限定的用法)
  前にコンマがあれば訳し下ろす(非限定的用法)
と習ったかもしれませんが、フランス語の場合は(おそらく英語以上に)関係代名詞の前のコンマの有無は、あまり重要ではありません。内容的に変でなければ、コンマがあっても前の先行詞に掛けて訳して構いません。
先行詞は l'espace と la durée の両方です。後ろの「remplir(満たす)」が他動詞で、その直接目的(OD)が先行詞になっているために、関係代名詞 que が使われています。つまり、ここは次の文がベースになっています。

  Nous ne saurions remplir l'espace et la durée.
     (私達は空間と時間を満たすことはできないだろう)

saurions は savoir の条件法現在(1人称複数)。 savoir は条件法にして否定の ne をつけると、後ろに不定詞がきて「~できないだろう」という意味になります(辞書の savoir を引くと載っています)。この場合、 ne だけで否定になります(ne の単独使用)

remplir (満たす)という動詞は、基本的に次のような使い方をします。

  remplir A de B (A を B で満たす)

つまり、第 5 文型をとる動詞です。例えば、

  remplir la vase d'eau (器を水で満たす)

ちなみに、「eau(水)」は部分冠詞がつくべき所ですが、前置詞 de の後ろでは部分冠詞は必ず省略されるため、無冠詞になっています。
ただし、この「de B 」の部分は出てこないで、単に

  remplir la vase (器を満たす)

という使い方をすることもあります。こうなると第 3 文型になります。
いずれにせよ、remplir という動詞は「場所(容器)」が直接目的(OD)になります。上の例では「vase(器)」であり、パスカルの文では「l'espace」と「la durée」です。
「l'espace(空間)」はともかく、「la durée(時間)」は場所(容器)ではないと思われるかもしれませんが、場所(容器)としてイメージされているわけです。

逐語訳は、「私達が満たすことはできないであろう空間や時間」となります。 ⇒ 余談 3

【ここまでの訳】
そこにこそ私達は立脚すべきなのであって、私達が満たすことはできない空間や時間に(立脚すべき)ではないのだ。

Travaillons donc à bien penser ; voilà le principe de la morale.

「Travaillons」は規則動詞 travailler の現在(1人称複数)と同じ形ですが、主語 nous がないため、命令形です。travailler は普通は「働く」という意味の自動詞ですが、ここでは à と一緒に使う間接他動詞で、

  travailler à + 名詞 「~に努力を傾ける」
  travailler à + 不定詞 「~しようと努力する」

という意味・使い方をします。
間に「donc」が挟まっていますが、これはさきほどと同様、文頭に持ってくることも可能です。なお、現代の会話では、donc は命令形とセットで使うと、間投詞的に「おい」「ねえ」「さあ」のような意味で使います。

「bien」は副詞で「よく」。「よく」というのも漠然とした言葉ですが、辞書で「bien」を引くと「しっかりと」「正しく、適切に」「よくよく、大いに」など、色々な意味が載っています。
そのうちのどの意味か特定することはできません。もともと漠然とした言葉なので、漠然と訳しましょう。

「voilà ~」は「これが~です」という意味でよく使いますが、前の文章を受けて「以上が~です」(または、これから述べる文章を指して「以下が~です」)という意味にもなります。「~」の部分には名詞(または名詞相当の語句のグループ)がきます。
「voilà」を使ったら、ほかに動詞は使いません。なぜなら、もともと「voilà」の「voi」の部分は voir(見る)の古い命令形で、語源的に「voilà」の中に動詞が含まれているからです。
「là」は「そこ」というふうに場所を指示する言葉なので、「voilà ~」は本来は「そこの~を見なさい」という意味です。つまり、次のように意味が変遷しています。

  「そこの~を見なさい」(語源)
 →「これが~です」(具体的なものを指し示す)
 →「以上(以下)が~です」(文脈全体を指し示す)

voir (見る)は他動詞なので、語源的には「voilà」の後ろの名詞は直接目的です。ここでも、「le principe de la morale(倫理の原則)」という名詞相当の語句が、いわば「voilà」の直接目的になっています。

ちなみに、「voilà」の対になる「voici」も、「là(そこ)」が「ci(ここ)」に置き換わっただけで、同様の語源による、似たような意味になります。
脱線になりますが、19 世紀ドイツの思想家ニーチェの本の題名『この人を見よ』は、聖書の福音書(ヨハネ 19, 5)から採られていますが、聖書のラテン語版では

  Ecce homo. (この人を見よ)

となっていて、これはフランス語では

  Voici l'homme.

と訳されます。

【ここまでの訳】
それゆえ、よく考えるように努力しよう。これが倫理の原則である。


〔余談 1〕
なぜ「一滴の水蒸気、一滴の水の雫」が人間を殺せるのでしょうか。「一滴の水蒸気、一滴の水の雫」の有無が問題になるのは、パスカルが深くかかわった「真空状態」の時ではないかという気がします。
1643 年、パスカル 20 才の年に、イタリアでガリレオ・ガリレイの弟子トリチェリが「真空」の実在を証明しました。これを聞き及んだパスカルは、それと同じ水銀とガラス管を使った実験を行い、さらに 1648 年にはフランス中央山塊にある山の上と下で水銀柱による実験を行って「大気圧」の存在を証明しました(その功績により今なお気圧の単位には「ヘクトパスカル」が用いられています)。また同じ年にパスカルの原理を発見したことでもわかるように、パスカルは 20 代にして「圧力」、「大気圧」、「真空」については現代科学の基礎を築いた人物の一人となり、1654 年(パスカル 31 才の年)に科学から遠ざかって瞑想にふける(そして『パンセ』の原稿を書き留める)ようになってからも、キリスト教で半ばタブー視されていた(神による創造物の範囲を超えかねない)「真空」の問題については深い洞察を向けていたに違いありません。「一滴の水蒸気、一滴の水の雫」が人の生死を左右するという言葉には、真空の状態に置かれれば人は一瞬にして死ぬという洞察があったのではないでしょうか。

〔余談 2〕
昭和 41 年刊行の『世界の名著 パスカル』(中央公論社)の前田陽一訳では、この部分は「われわれはそこから立ち上がらなければならない」となっていて、「se relever de」を「立ち上がる」と訳しています。この訳は、以後の日本語訳にも影響を与えているようですが、私としては「立脚する」ぐらいがよいのではないかと思います。

〔余談 3〕
『パンセ』の他の箇所では、宇宙は無限の空間的・時間的広がりを持つのに、人間は空間的にも時間的にも(例えば身長も寿命も)限られている(有限である)、という認識が繰り返し語られています。
「私達が満たすことはできない」というのは、要するに「私達が空間的にも時間的にも無限大にはなりえない」という意味だと思われます。
また、とりあえず「時間」と訳した「durée」は、「寿命」つまり人間が生きる「期間」という意味合いが強いと思われます。







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