海賊(読み)かいぞく(英語表記)pirate

翻訳|pirate

精選版 日本国語大辞典 「海賊」の意味・読み・例文・類語

かい‐ぞく【海賊】

〘名〙
① 海上を横行して、航行する船舶や、時に沿岸の集落を襲ったりして、財貨を略奪する盗賊。海賊人(かいぞくにん)。〔続日本紀‐天平宝字八年(764)〕
※源氏(1001‐14頃)玉鬘「かいぞくの舟にやあらん、小さき舟の、飛ふやうに来る」 〔後漢書‐法雄伝〕
② 中世の水軍の呼称。海上で活躍する海の領主が結成した武力集団。海賊衆。
※明徳記(1392‐93頃か)下「ただ是より御船にめされて、此程めしつかはれつる海賊梶原を召具せられ」

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デジタル大辞泉 「海賊」の意味・読み・例文・類語

かい‐ぞく【海賊】

海上を横行し、往来の船などを襲い、財貨を脅し取る盗賊。
中世、海上戦力にすぐれた武士とその集団。北九州・瀬戸内海に本拠をもつものが多かった。水軍。
法律用語。公海公空を横行し、船や航空機を襲って暴行・略奪などする盗賊で、国際条約による取り締まりの対象とされるもの。
[補説]国連海洋法で「海賊行為」を、「私有の船舶または航空機の乗組員または旅客が、私的目的のために、公海における他の船舶または航空機等に対して行うすべての不法な暴力行為、抑留または略奪行為等」と定義。
[類語]山賊凶漢凶賊奸賊賊徒賊子逆賊謀反人悪人悪者悪漢悪党悪玉悪女毒婦食わせ物詐欺師山師ペテン師いかさま師あくわる凶徒凶手人非人人でなし奸物曲者暴漢暴れ者暴れん坊暴徒荒くれ者ごろつきならず者地回りやくざ暴力団無頼漢無法者与太者ごろちんぴらあぶれ者

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「海賊」の意味・わかりやすい解説

海賊
かいぞく
pirate

海上において、私的目的で、他の航海の安全を脅かす行為をする者のこと。海賊は、人類一般の敵(hostis humani generis)といわれ、国際法上では、公海自由に基づく旗国(船籍国)管轄の例外として、いずれの国も公海上で海賊を捕らえ自国に引致し処罰することが認められてきた。1958年の公海に関する条約および1982年の国連海洋法条約によれば、海賊行為piracyは、私有の船舶・航空機の乗組員・旅客が、私的目的のために、公海またはいずれの国の管轄権にも服さない場所にある船舶・航空機またはその中の人・財産に対して行う不法な暴力行為、抑留または略奪行為をいい、その教唆、幇助(ほうじょ)なども海賊行為に含まれる。また、いずれの国の軍艦、軍用航空機、権限ある他の政府船舶・航空機も、海賊船舶・航空機(国籍を問わない)を公海上で拿捕(だほ)することができ、その軍艦等の所属国は刑罰を決定できる。

[水上千之]

 この種の海賊行為は船の航行の歴史とともに古くからみられ、積み荷の略奪をねらう単純な個人的海賊のほかに、時代、地域によって、それぞれの政治、経済、社会、軍事的事情のもとに組織された海賊の諸集団があった。それは、貿易や戦争の一部であったり、国家の保護、援助を受けたものもあり、国、地域の歴史に深くかかわっていて、固定した一つのイメージでは律することのできない面をもっている。

[松村 赳]

ヨーロッパ

古代の地中海海賊

西洋の海賊は歴史とともに古く、すでに古代エジプトの盛時にその富をねらう海賊が地中海に出没していた。また、伝説的なクレタの王ミノスは海賊を掃討して海洋王国を築いたと伝えられており、紀元前15世紀、そのクレタ文明を滅ぼしたアカイア人はエジプトやフェニキアの商船や都市を襲い、富を奪った。島が多く湾や入り江に恵まれているエーゲ海は、ここに住み着いたアカイア人などにとって海賊行為にまことに好適な条件を備えていた。やがてバルカン半島にギリシア人のポリスが栄えるようになると、海賊はこの方面にも活動範囲を広げ、前6世紀には、40隻ものガレー船をもち海賊の大頭目として知られるサモス島の僭主(せんしゅ)ポリクラテスも現れた。前5世紀アテネが全盛期を迎え、強力な海軍を備えてデロス同盟を指導するようになると、海賊も制圧されたが、前4世紀アテネの力が衰えると、ふたたびはびこった。

 陸軍国であったローマは、ポエニ戦争(前3~前2世紀)に際し海賊を雇って海軍国カルタゴに対抗したが、国を滅ぼされたカルタゴ人は海賊の仲間に加わり、まもなく海賊は西地中海にも広まって、周辺一帯を版図に収めたローマの海上貿易を脅かし、とくに食糧船が頻繁に襲われて、ローマはたびたび食糧難に陥った。また、カエサル(シーザー)は若いころ海賊の捕虜になったことがあるが、そのころには海賊の跋扈(ばっこ)がとくに甚だしくなっており、ついに、カエサルのライバルとなるポンペイウスが、前67年、計略によって約1万人を殺害、約2万人を捕虜にして海賊を一掃した。そのあと、初代皇帝アウグストゥスが海軍を整備したこともあって、しばらく地中海はローマにとって平和な「われらの海」になった。

[松村 赳]

中世の北方海賊

中世の西ヨーロッパ諸国は、8世紀末ごろからバイキングの侵寇(しんこう)に痛めつけられた。首が長く底の浅い軽快な舟を操る彼らは、海岸だけでなく河川沿いに内陸にまで侵攻し、教会や貴族の財宝、農民の作物・家畜を奪い、町や村を焼き払った。彼らの活動は11世紀後半にはいちおう収まるが、その後、地中海の東方貿易に呼応して北海、バルト海でも通商が盛んになってくると、ふたたびバイキングの残党その他の海賊が勢いを盛り返し、スウェーデン沖のゴトランド島を根拠地に商船を脅かした。そこでドイツの諸都市は自衛のため同盟を結んで武装船団を組むようになった。すなわち、ハンザ同盟の結成には海賊が一因をなしていたのである。

[松村 赳]

バルバリア海賊

地中海では、ローマ帝国が解体に向かうとともに海賊が復活し、続いて9世紀ごろには、アラビア半島から進出したイスラム教徒が地中海の島々を占領して南フランスやイタリアを荒らした。その後、十字軍の過程を通じてヨーロッパとアジアの交易(東方貿易)が盛んになり、地中海が通商路として栄えるようになると、その富をねらって海賊の動きも一段と活発になった。彼らは、北アフリカの地中海岸いわゆるバルバリア海岸を根城とするイスラム教徒で、中世末期の国土回復戦争(レコンキスタ)によってイベリア半島を追われたムーア人がこれに合流し、16世紀初めウルージとハイレディンという兄弟によって一種の海賊王国に組織された。

 彼らはとくにスペイン船を襲い、スペイン王(兼神聖ローマ皇帝)カルロス1世の版図であったチュニジアを奪ったので、王はたびたび海賊討伐を試みたが、彼らの背後にはオスマン帝国などのイスラム勢力が控えていたので成功しなかった。1571年、ようやくスペイン艦隊はレパントの海戦でトルコとバルバリア海賊の連合艦隊を撃破し、以後トルコの勢いは衰えたものの、海賊のほうはすぐに立ち直り、相変わらず商船を襲うとともに、捕らえたキリスト教徒を奴隷として売買した。『ドン・キホーテ』の作者として有名なスペイン人セルバンテスも奴隷となった一人であった。そして17世紀初めには大型船の建造を覚えて大西洋にまで進出し、他方ではイスラム教徒以外にもさまざまな人間が加わって、バルバリア海岸は国際的な海賊根拠地の観を呈した。しかし、ヨーロッパ諸国が絶対主義体制を整え、陸海の軍事力を充実させてくると、彼らはしだいに各国共通の敵とみなされるようになり、17世紀後半フランスやイギリスがたびたび討伐艦隊を派遣したので、それ以降は衰退の一途をたどった。それでも、彼らの小規模な海賊行為はなお2世紀近く続けられた。

[松村 赳]

近世の私掠船

中世のヨーロッパは権力分散の社会で、秩序維持の責任は国王にあるのか地方の貴族にあるのかはっきりしない面があり、それが海賊の跳梁(ちょうりょう)を許した一因であったが、16、17世紀になり、絶対主義体制が確立してくると、名実ともに国家が成立し、国王が治安維持の責任者になった。一方では、いわゆる「地理上の発見」とそれに続く植民地獲得競争をめぐって国際紛争が激しくなった。このような情勢の変化を背景に、海賊のあり方も変わってきた。

 当時、中南米に広大な植民地を確保し、その富を独占していたのはスペインであったが、それに挑戦したのは島国イギリスであった。イギリス海峡は大西洋とバルト海を結ぶ通路を扼(やく)しているため、中世以来イギリス南西部には海賊やそれに近い者が住み着いていたが、彼らは、スペインが中南米の富を運び込むようになると、これを襲い始めた。とくに16世紀後半のエリザベス時代(1558~1603)には、ホーキンズ、ドレークらがカリブ海や中南米沿岸に遠征してスペイン人の植民市や船を襲撃し財宝を奪って、スペイン王フェリペ2世を激怒させ、1588年の無敵艦隊来襲の一因となるとともに、その来襲時にはイギリス艦隊の司令官や艦長として勝利に貢献した。こうしたことからもわかるように、当時の「海賊」は相手かまわず手当たりしだいに襲う無法者ではなく、一種の補助海軍力という性格をもっていた。当時は、ある国の海賊に財宝を奪われた場合、国王は船長に、同じ国のどの船でも港でもよいから襲って、奪われたのと同額の財宝を奪い返してよい、という私掠(しりゃく)許可証を発行し、戦時中にはそれが敵船・敵港襲撃の許可証になった。したがって私掠行為は、見境なく襲う海賊行為とは本来区別されるべきものであるが、このころは戦時と平時の別がはっきりしなかったこともあり、私掠許可証を口実に平時にも襲ったり、友好国や自国の船から奪ったりするようになって、海賊行為と区別がつかなくなっていった。

[松村 赳]

バカニーア

17世紀のカリブ海は、本国と植民地の間を往復するスペイン商船の通り道であったうえ、領有のはっきりしない島が無数にあって、海賊にはかっこうの猟場であった。そのため、ジェームズ1世(在位1603~1625)の親スペイン政策によって追放されたイギリス人をはじめ、フランスやオランダの新教徒が集まった。彼らはバカニーアBaccaneerとよばれ、フランス人はトルチュ島、イギリス人はジャマイカ島を最大の巣窟(そうくつ)としたが、襲撃は共同で行うこともあった。イギリス、フランス、オランダの本国政府は、この地方をめぐる植民地争奪戦に彼らを補助海軍力として利用し、植民地総督を通じて私掠許可証を交付、その活動を黙認した。

 しかし、彼らの活躍もあって、おもな島々が分割領有され、イギリス領のジャマイカをはじめ、その島々が砂糖やタバコの生産によって本国に大きな富をもたらすようになるとともに、他方で各国の海軍力が整備されてくると、本国にとってバカニーアの利用価値は薄れ、往々にして通商を妨げる彼らの存在はかえってじゃまになり、取り締まられるようになった。イギリスが1665年、私掠船長というよりは海賊のヘンリー・モーガンSir Henry Morgan(1635?―1688)をジャマイカ副総督に任命し、毒をもって毒を制するやり方で海賊鎮圧にあたらせたのは、その典型例であった。

 こうして、17世紀末から18世紀初めには彼らはしだいに影を潜め、スペイン継承戦争(1701~1714)の際、従来は仲間として協力しあうことの多かったイギリス人とフランス人のバカニーアが反目するに至ったことは、その傾向を助長した。そして、海賊討伐に派遣されながら自ら海賊に転落したキッドや、大胆な略奪で恐れられたあと壮絶な死を遂げた黒鬚(くろひげ)ティーチEdward Teach(Blackbeard)(1718没)のように、一匹狼(おおかみ)となって各地を荒らす海賊はまだしばらくはみられたが、少なくとも欧米ではしだいに姿を消し、海賊の中心舞台は紅海、インド洋方面に移っていった。

[松村 赳]

文学と海賊

海賊は、海洋のロマンに包まれているとともに、冒険心をかき立てるところがあるため、よく文学にも取り上げられている。漂流小説『ロビンソン・クルーソー』の著者デフォーは『海賊シングルトン』(1720)を書いているし、19世紀の詩人バイロンには『海賊』(1814)という作品がある。また、海賊の首領が残したと伝えられる財宝は、謎(なぞ)解きのおもしろさもあって、これも文学の主題によく使われる。ポーの『黄金虫(こがねむし)』(1843)やスティーブンソンの『宝島』(1883)はその代表例である。

[松村 赳]

イスラム

アラビア近海には古代から海賊が横行し、聖典コーランにも「すべての船舶を強奪する王」ということばがみえている(第18章79節)。紅海入口のペリム島、アラビア海のソコトラ島なども海賊の根拠地として有名であったが、とりわけガルフ(アラビア湾=ペルシア湾)に臨むカタールからムサンダム岬に至る地方は昔は海賊海岸とよばれ、このへんの住民をよぶジャワスミという名は海賊の別名で、「その生業は海賊行為、快楽は殺人」とまでいわれた。前7世紀ころからその討伐がたびたび行われた記録がある。イスラム時代に入ってもその害はやまなかったが、1818年以来イギリス人がこれに痛撃を加え、海賊民の首長らと休戦(トルース)条約を結んだので、以来トルーシャル海岸とよばれた。

 また北アフリカのチュニジア、アルジェリア、およびモロッコの一部の海岸地方に住み着き、西地中海を往来する欧州船および沿海地方を荒らしたのがバルバリア海賊で、その快速船をイタリア語でコルサーロとよんだので、アラビア語でも海賊をクルサーンとよぶようになった。

[前嶋信次]

日本

古代から中世・近世の初頭にかけて海上の諸権益に生活の基盤を置き、海上交通の発達に伴って繁栄してくる港湾や航路筋の海辺、島々に拠(よ)って活動し、つねにその時代の支配者と対立した海の豪族をいう。

 律令(りつりょう)政府は756年(天平勝宝8)、大量の物資が運べる海上輸送に着目して、山陽・南海道諸国の舂米(つきよね)を海路で運ぶことを決め、その後、九州地方の雑米(ぞうまい)や調(ちょう)・庸(よう)も盛んに瀬戸内海を経由して中央に送られた。海上交通の発達は航路筋の諸国の港湾を繁栄させたが、一方で海賊発生の大きな要因となった。

 古代の海賊では、939年(天慶2)に宇和海にある日振(ひぶり)島に拠って王朝国家に反旗を翻した藤原純友(すみとも)が名高い(天慶(てんぎょう)の乱)。しかし、それ以前の貞観(じょうがん)年間(859~877)にも、往還の人々が殺害されたり、公私の雑物が略奪されたり、官米の運漕船が襲われて米が奪われ、乗組みの百姓が殺害される行為が多発している。猛威を振るった純友は941年6月、伊予の警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれたが、純友の率いた海賊集団は、西国に特徴的な浮動性の強い大小の富豪浪人が中心となり、彼らに従う従類と律令制下の貧しい農・漁民が加わったものであった。

 中世以後、伊勢(いせ)・志摩・肥前地方の海賊が著名であるが、ここでは瀬戸内海の野島村上氏(能島村上氏)の場合をみてみよう。南北朝の1349年(正平4・貞和5)、内外の諸勢力に妨害されて東寺(とうじ)の荘園(しょうえん)弓削(ゆげ)島の所務が停滞したとき、野島村上氏は東寺の要請を受けて高額な警固料を受け取って、警固の役目についている。伊勢の大湊(おおみなと)、近江(おうみ)の琵琶(びわ)湖でも海賊が警固料をとる風習があったが、まさに警固料は海賊の重要な財源となった。野島村上氏は永正(えいしょう)(1504~1521)ごろ、管領(かんれい)の細川高国(たかくに)から瀬戸内海東部讃岐(さぬき)の塩飽(しわく)島の代官職を与えられ、戦国時代には安芸(あき)の毛利(もうり)氏、豊後(ぶんご)の大友(おおとも)氏に依頼されて水先案内を務めている。野島村上氏の根拠地野島は燧灘(ひうちなだ)と鼻栗(はなぐり)瀬戸が眺望できる海上の要衝にあった。ルイス・フロイスは、海賊領主野島氏の姿を「海賊は同所に大なる城と多数の部下、領地及びたへず出動する船を有し能島殿と称して甚だ有力である。それで他の諸国の沿岸の地では、彼を恐れて毎年年貢を納めてゐる」。「彼はその紋章と署名のある絹の旗を与へ、疑はしい船に出合ったときこれを示すようにと伝へた。これは彼の与へ得る最大の好意で、各地方には彼を主君と認めざる海賊も多数あるが、航海者が最も恐れるのは彼である」と活写している。

 海賊領主の野島村上氏は1585年(天正13)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の瀬戸内海進出によって、野島城を退去して、毛利氏の領国周防(すおう)に移り、やがて毛利氏の船手組(ふなてぐみ)に編成されて海賊の生活と縁を切った。

 このように海賊は初めは独立した立場を堅持し、南北朝内乱期にもっとも活躍するが、守護大名、戦国大名、近世大名などの海辺部支配が段階的に進むにつれて存立の基盤を失い、自身の性格から、大名の水軍組織である海賊衆、警固衆、船手衆に組み込まれて封建家臣へと転身する経緯をたどるのが一般的である。1588年(天正16)7月、秀吉の発布した「海上賊船禁止令」によって、海賊はその存在を否定されて姿を消した。

[宇田川武久]

中国

中国では17世紀の明(みん)末清(しん)初の鄭芝竜(ていしりゅう)・成功(せいこう)父子と19世紀初頭の鄭一嫂(ていいっそう)が名高い。鄭芝竜は福建省出身で、密貿易によって台頭、大陸沿岸一帯に強大な海上勢力を有して活動し、1628年には明朝に仕えて海上権を掌握した。父の財力を受けた成功は、ルソンなどの南洋諸地域と貿易し、明朝復興のため清の軍隊と戦い、厦門(アモイ)、江南に進出、1661年にはオランダ人を追って台湾を領有するなど活躍をした。鄭一嫂は、複雑な海岸線をもつ広東(カントン)の海辺を巣窟(そうくつ)とし、砲門多数を備えた大小500余艘(そう)の船団を保有し、沿岸の村々からは年貢を徴収して財源とし、しばしば清朝の水軍と戦った。

[宇田川武久]

『『世界ノンフィクション全集48』(1963・筑摩書房)』『ユベール・デシャン著、田辺貞之助訳『海賊』(白水社・文庫クセジュ)』『ジョルジュ・ブロン著、三輪秀彦訳『カリブの海賊史』(1973・早川書房)』『ヤツェク・マホフスキ著、木村武雄訳『海賊の歴史』(1975・河出書房新社)』『別枝達夫著『海事史の舞台』(1979・みすず書房)』『別枝達夫著『海賊の系譜』(1980・誠文堂新光社)』『スタンリー・レーン・プール著、前嶋信次訳『バルバリア海賊盛衰記』(1981・リブロポート)』『チャールズ・ジョンソン著、朝比奈一郎訳『イギリス海賊史』上下(1983・リブロポート)』『ジョン・エスケメリング著、石島晴夫訳『カリブの海賊』(1983・誠文堂新光社)』『宇田川武久著『日本の海賊』(1983・誠文堂新光社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「海賊」の意味・わかりやすい解説

海賊 (かいぞく)

国際慣習法上,海賊pirateとは国家機関としてではなく私的目的で,公海において他の船舶の交通の安全を脅かす性質の暴力行為を行う者をいう。1958年の〈公海条約〉では,私有の船舶・航空機の乗組員,乗客が,私的目的のために,公海上またはいずれの国の管轄権にも服さない場所で,他の船舶・航空機またはこれらのなかにある人,財産に対して行うすべての不法な暴力行為,抑留または略奪行為を,海賊行為と規定した(15条)。したがって,公船,軍艦,政府航空機による同様の行為は海賊とはみなされず,国際不法行為として当該国家の国際責任を生ずる。また,領海内や同一船機内の行為が除かれるのは,それぞれ沿岸国や登録国が抑圧すれば足りるからである。海賊は,古くから〈人類一般の敵hostis humani generis〉とされ,いずれの国も,これを逮捕し財産を押収できる。拿捕した国の裁判所は,自国の国内法に従って処罰し,拿捕押収した船機,財産を処分できる。なお,処罰が各国の手にゆだねられている点で,海賊行為は,厳格な意味での国際犯罪とはいえない。
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オデュッセウス(ユリシーズ)やアキレウスなど古代伝説の中にもすでに海賊の存在が認められる。前600年ごろ,ギリシアのサモス島の王ポリュクラテスは,数十隻のガレー船を擁して海賊行為を働き富を築いたが,エジプト王アアフメス2世の大艦隊を襲って失敗し殺された。前81年,若き日のカエサルがロドス島遊学の途次,エーゲ海で海賊に捕らえられ,身代金を払って釈放されるとすぐ追討軍を率いて逆襲し,彼らを一網打尽にしたという話は有名である。当時,地中海にはローマからの亡命者も加わる大がかりな海賊がはびこり,ローマへの穀物輸送を脅かし人心を動揺させていた。前67年,護民官ガビニウスの提案で,ローマ帝国はポンペイウスに海陸の大軍をゆだね,地中海から黒海に及ぶ広範囲の海賊掃討を行った。その後,ローマ帝国の没落による海上貿易の衰退で,海賊も一時的に消滅した。8世紀に始まるバイキングの遠征はノルマン人の民族移動と表裏一体になっていた。バイキングは〈入江に出没する海賊〉という意味である。長さ約20m,幅約5mのロングシップと呼ばれる船を通常40本のオールで漕ぎ(帆で走らせることもあったが),スカンジナビアからイギリス,ヨーロッパ,グリーンランド,アメリカにまで進出した。バイキングの海賊としての脅威は11世紀中に鳴りをひそめ,代わって12世紀にはスラブ人の海賊がバルト海を席巻した。13世紀になってスラブ海賊を追放したのはハンザ同盟である。ハンザ同盟は14世紀から15世紀にかけてその最盛期に入り,加盟都市もバルト海から北海沿岸にまで広がった。当初海賊制圧に働いた同盟所属船の船員の中から,やがて海賊行為の魅力に取りつかれるものが現れ,それまでの民族移動とは異なる新たな海上強盗集団を結成するようになった。パイアリットpirateと呼ばれる海賊である。

 16世紀後半に始まるイギリスとスペインの抗争では,交戦相手国の船を略奪してもよいという国王の私掠免許を盾に取った海賊行為の応酬が公然と行われ,両国の制海権争奪戦に大きな役割を果たした。J.ホーキンズF.ドレーク,R.グレンビル,M.フロビッシャー,カンバーランド伯ら私掠船の船長は,イギリス史上にその名を残している。1588年にイギリス艦隊の一員となってスペインの無敵艦隊を撃退したのも,このような私掠船出身の指揮官だった。同時代の地中海では,キリスト教ヨーロッパ諸国とイスラム教オスマン・トルコとの対立抗争があったが,トルコ海軍の陰の力となったのがアフリカの北西バルバリア沿岸のバーバリー海賊である。彼らは〈コーセアcorsair〉と呼ばれ,その残忍な手口はキリスト教徒を震えおののかせていた。バーバリー海賊の最盛期は16世紀前半,バルバロス兄弟を首領としたころであるが,19世紀に入ってヨーロッパ諸国の強大な海軍力に制圧されるまで,その子孫による海賊行為はやまなかった。

 17世紀初期,ヨーロッパ諸国に平和が訪れると,私掠航海のうまみを忘れられない連中は,合法的な海賊行為を続けるため,ヨーロッパの国際法が適用されないアメリカ水域へ移動した。カリブ海一帯にはスペインの領土が多かったので,もっぱらスペイン船がイギリス,フランス,オランダなどの私掠船のえじきとなった。しかし,まもなくカリブ海でも私掠船が認められなくなり,職を失った船員や軍人はそのまま西インド諸島に住み着き,野獣を捕らえて皮を剝(は)ぎ,その肉を薫製にして生計を立てる〈バカニアbuccaneer(〈肉を薫製にする人〉の意)〉となった。バカニアは本来スペイン領インディアンの職業であったが,スペイン人に迫害されたため余儀なく海賊に転じ,バカニアが海賊の称となった。フランス系バカニアはとくに〈フリビュスチエflibustier〉と称した。マストを倒して難破船に見せかけたり,みすぼらしい漁船を装ってスペイン商船を接近させ,相手の油断をついて襲撃するのがバカニアの常套手段だった。その残虐さゆえにインディアンに捕まるとすぐ殺され,食べられてしまったというロロノア,バカニア出身でありながらのちにジャマイカ副総督になって海賊鎮圧に励んだというH.モーガン,黒ひげと奇行で知られる典型的な海賊E.ティーチ,風変りな女海賊のボニーとリードなど,多くのバカニアがカリブ海に出没した。17世紀から18世紀にかけてインド洋や大西洋に出没したパイアリットのJ.エーバリー,キャプテン・キッド,B.ロバーツは,それぞれもとはカリブ海のスペイン警備船,イギリスの私掠船および商船の出身である。東西インド航路船をねらう海賊の跳梁は16世紀から19世紀にわたるが,どくろ旗Jolly Rogerが海賊船の旗印に使われたのは18世紀初頭の三十数年間にすぎなかった。その後,各国海軍の組織化が進むにつれて海賊は徐々に掃討され,第2次英米戦争(1812-15)においてアメリカ軍に協力したラフィットJean Laffiteが最後に名を残した海賊であった。
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アラビア近海は,古来海賊のはびこったことで聞こえている。コーラン(18:78)に〈すべての船を分捕りする王〉のことが出ている。紅海の入口のペリム島,アデン湾沖のソコトラ島なども海賊の根拠地として聞こえたが,ことに有名なのはペルシア湾であった。ホルムズ海峡から湾内にはいるとアラビア側にアラブ首長国連邦があるが,その海岸地方は海賊海岸と呼ばれてきたほどにアラブ系海賊の横行舞台であった。そのあたりの住民を総称してジャワスミJawasmiというが,これが海賊の別名となったほどで,とくにオマーン半島最北端のムサンダム岬から東西に240kmほどの海岸線が中心で〈彼らの生業は海賊行為,その快楽は人殺し〉といわれたほどである。中世のアラブ,ペルシアの航海者がこれらに苦しめられたことはいうまでもない。インドの西岸も同様であった。すでに1世紀にプリニウスもエジプトやアラビアからインドへ行く途中には海賊が多いから,弓手の部隊を船に乗りこますと伝え,13世紀のマルコ・ポーロはインドのグジャラート地方の海賊のことを詳しく語っている。14世紀にはイブン・バットゥータがインドの海岸でたびたびこれに遭遇したことを述べている。後者によるとエチオピアの戦士が最も海賊に対して威力があったとある。8世紀に中国の賈耽(かたん)はマラッカ海峡の海賊のはびこったありさまを伝え,13世紀に趙汝适(ちようじよかつ)はその《諸蕃志》で,三仏斉国(スマトラのパレンバン)では鉄索を張ってこれを防いでいるとしるしている。このほかタイ,カンボジア,セイロンなどのそれも名高かった。1798年にアラビアのジャワスミがイギリス船バッセイン号を捕らえたのを手始めに,しばしばその東インド会社の船などを襲ったので,イギリス人は組織的にその掃滅に乗り出し,1819年末に本拠地ケシュムをおとしいれ,賊船を焼き払った。イギリスの勢力がペルシア湾から中東地域に確立しえたのは,この事業を土台としてであった。北アフリカでは,モロッコ,アルジェ,チュニス,トリポリなどがイスラム系海賊の本拠地で,スペインやイギリスの海上勢力とつねに衝突を繰り返していた。オスマン・トルコの名提督で〈赤髯(あかひげ)バルバロス〉と呼ばれたハイレッディンKhaireddin(?-1546)も,もとは,その兄とともに地中海を横行した海賊で,チュニスのスルタンに仕え,のちにアルジェを攻略してその支配者となり,やがてセリム1世に帰順したものであった。
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中国の海賊活動も初めは小範囲で小規模の活動にとどまった。しかし秦・漢時代,農民暴動などと同時に早くも山東・華中沿海諸郡一帯を荒らしまわる海賊軍が現れ,三国から南北朝時代にかけて南海方面は海賊の巣と目された。唐・宋時代にアラビア,ペルシアなどからの来舶が多くなるにつれて,これを襲う大海賊団も出現し,福建・広東の島々や海南島などが根拠地とされた。元末・明初の〈倭寇(わこう)〉の来襲を契機に,明朝政府はとくに海防を厳にし,賊船と貢船を峻別(しゆんべつ)するための〈勘合制度〉を採用し,来貢船以外のいっさいの海上交通を厳禁する〈海禁〉を施行した。しかるに15~16世紀ころ,内外市場の成長を背景として〈海禁〉を破って密貿易が展開され,これが弾圧されるとついに〈嘉靖の海寇〉の激発となった。これを〈大倭寇〉ともいうが,日本海賊の参加は小部分にすぎず,当時明朝の重税誅求(ちゆうきゆう)に耐えず江蘇,浙江,福建など沿海地一帯にあふれた中国貧窮民が大部分を占め,失職官吏,落第書生などの不平分子も混入した。これを率いた海寇首領はだいたい私貿易公許を望む新興商人層で,徽州塩商人出身の王直などを除き一般に福建省漳州の商人たちが多く,彼らはすでに南海,日本にまたがる密貿易に従事していたが,ここにいたって本土沿海の各島嶼や日本の五島などに拠点を設け,数百千の舟隻を連ねて浙江,福建沿海地に来襲し,ときに南京にまで迫った。明朝は必死に防御に努めたが隆慶・万暦年間(1567-1619)に〈海禁〉が撤廃されるに及び,ほぼしずまった。その後,フィリピン方面を襲う海賊も現れたが明・清交替期に鄭氏一派は福建により,次いで台湾に移って反清闘争をつづけ,しばしば中国本土を襲った。乾隆(1736-95)末から嘉慶(1796-1820)年間の〈白蓮教の乱〉と同時に,〈艇盗の乱〉が起こり,福建人蔡牽らがこれを率いたが,この乱は〈嘉靖の海寇〉と規模,性格ともに似ていたようである。清末から民国時代にはいってからも華南海上にはしばしば海賊が出没した。なお淮河下流には塩梟(えんきよう)という塩を密輸する海賊のたぐいがおり,長江(揚子江)には江賊が出没した。

 なお,日本の〈海賊〉については〈水軍〉〈海賊衆〉の項を参照。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海賊」の意味・わかりやすい解説

海賊
かいぞく
piracy

海上を航行する船舶を襲い,暴行,略奪に専念する盗賊集団。狭い海峡地帯や入江,港湾の多い島嶼などを根拠地とし,古くから歴史に登場した。西洋では,紀元前後の数世紀にわたって地中海を中心に海賊が横行。中世には,十字軍以後地中海貿易が再開されるとイスラム,イタリア諸都市国家の間に海賊行為が続発した。一方,バルト海,北海などでは,民族移動と旧秩序の解体のなかで,ノルマン (いわゆるバイキング ) の活動があった。近代では,「地理上の発見」以後,海賊の活動範囲は,大西洋,西インド諸島から東南アジア海域へと全世界に拡大した。特にイギリスを先頭に海賊行為は公然と行われ,絶対王政下の植民地獲得,敵国の海外貿易攪乱政策に半合法的に利用された。宗教戦争からスペイン継承戦争にいたる時代がその最盛期である。中国では,秦・漢時代から海賊活動が顕著になり,特に元・明時代には活発になった。本土沿海の島々に拠点をおいて,一時は数百,数千の舟隻にも達した。いわゆる倭寇も,明代後期のものは,中国人を主体とした密貿易者を兼ねた海賊であった。清末,民国時代にいたっても密貿易に従事するかたわら,海賊船として出没する者も多かった。日本では,海に囲まれた地理的条件により早くから海上に進出する者が多く,海賊衆とも呼ばれたが,海賊という言葉は賊の意味よりも,むしろ武力をもった豪族の水軍をさすことが多い。瀬戸内海,九州の島々を拠点とした海賊は有名で,そのなかでも,鎌倉時代末期から室町時代にかけて武力をもって中国大陸,朝鮮半島沿岸まで進出した日本船は,倭寇と呼ばれて,沿岸地の人々から恐れられた。しかし室町幕府が勘合貿易を確立するにつれて衰退した。現在では,近代諸国家が海軍力を強化し,国際法も整備され,1958年には公海に関する条約 14条から 21条によって,私有の船舶,航空機の乗組員なり旅客が私的目的のために行うすべての不法な暴力行為,抑留または略奪行為で,公空,公海にある航空機,船舶またはこれらのなかにある人や財産に対するものは海賊行為とみなされ,すべての国は海賊を捕獲することに協力しなければならないとされた。

海賊
かいぞく
Le Corsaire

ジョージ・ゴードン・バイロンの同名の叙事詩によるバレエ。3幕 5場。台本アンリ・ベルノア・ド・サン=ジョルジュ,音楽アドルフ=シャルル・アダン,振り付けジョゼフ・マジリエ。1856年パリのオペラ座で初演。1867年同劇場でレオ・ドリーブの音楽を加えて再演,直後にロシアに紹介された。1899年振付家マリウス・プティパによって改訂され,マリインスキー劇場(→マリインスキー劇場バレエ団)で上演された版が今日まで伝えられる。海賊コンラッドとギリシア人の若い娘の恋を描いた作品で,娘メドーラ役はアンナ・パブロワ,タマラ・P.カルサビナらによって演じられた。終幕の嵐と難破の場は特に有名。

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百科事典マイペディア 「海賊」の意味・わかりやすい解説

海賊【かいぞく】

海上で他船を略奪し,または沿岸地方を荒らす賊。海賊行為は古くから世界各地でみられ,海戦と海賊行為の区別がつけにくいことが多いが,国際慣習法では公海における私的目的でなされるものを海賊行為とみなしており,1958年の〈公海条約〉もその流れをくんでいる。8―11世紀には北欧を根拠にノルマン人のバイキングが威をふるい,中世にはイスラム系海賊は地中海からアジア海域まで荒らした。近代には,特にエリザベス朝ごろに,英国の私掠(しりゃく)船その他の海賊が大西洋などを横行,多くの海賊名士も生まれた。中国でも南海方面は海賊の巣と目されるほどであり,明朝などは海賊の対策に追われた。またインドのマラバル付近,マレー諸島近海の海賊集団も強力だった。各国海軍力の強化につれ,19世紀前半ごろから海賊は次第に姿を消した。 日本では中世,熊野・瀬戸内海・九州地方の沿岸や島々を根拠に海上活動を行った豪族およびその集団をさすが,大名と主従関係をもち〈海族衆〉と呼ばれるものも出た。軍事・商業活動のかたわら略奪を行った。瀬戸内海の村上・忽那(くつな)・河野・来島(くるしま)氏,小早川一族,北九州の宗像(むなかた)・松浦(まつら)氏,紀伊熊野の衆徒,伊勢の九鬼氏らが有名。→水軍
→関連項目廻船式目

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普及版 字通 「海賊」の読み・字形・画数・意味

【海賊】かいぞく

海上・沿岸で盗賊をなす者。〔後漢書、法雄伝〕永初三年、張伯路等三千餘人、赤を冠し、絳衣をし、自ら將軍とす。濱九郡に寇し、二千石・令長をす。

字通「海」の項目を見る

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旺文社日本史事典 三訂版 「海賊」の解説

海賊
かいぞく

①中世,水軍力を有する豪族やその配下
②海上の盗賊
海賊衆ともいう。船持ちの名主 (みようしゆ) ・荘官・地頭などの地方豪族で,通商や貿易船の警固,水上関銭の徴収,時に略奪などを行い,朝鮮・中国から倭寇 (わこう) と呼ばれ,みずから海賊大将軍と称する者もいた。瀬戸内海の村上氏は有名。
海上浮浪者で,上記の豪族に寄食したり盗みを目的とする者。平安後期から戦国時代にかけ,九州・瀬戸内海地方に多かった。

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デジタル大辞泉プラス 「海賊」の解説

海賊〔バレエ〕

フランスの振付家ジョゼフ・マジリエによる全3幕のバレエ(1856)。原題《Le corsaire》。パリ、オペラ座で初演。音楽はアドルフ・アダン。現在は1858年にマリウス・プティパが手掛けた改訂版が広く知られる。

海賊〔戯曲〕

山元清多(きよかず)による戯曲。初演は劇団六月劇場(1969年)。1970年、第15回「新劇」岸田戯曲賞(のちの岸田国士戯曲賞)の候補作品となる。

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世界大百科事典(旧版)内の海賊の言及

【海軍】より

…当時のギリシア軍船の船長は操船や船上任務専門の騎士で,国が派遣する将軍の指揮下に自分の船を就役させ,漕ぎ手は奴隷や捕虜から補充された。 古代から中世にかけて地中海の交易が拡大するにつれて,海賊の跳梁も盛んになった。交易の安全をはかるため,カルタゴ,ローマ,東ローマ,サラセン,トルコの諸国は海軍を建設した。…

【海上警固番役】より

…鎌倉後期,北条氏専制のなかで瀬戸内海を中心とした山陽・南海両道に発布された鎌倉幕府の海賊取締制度。幕府はその支配権を西国に及ぼすようになると,瀬戸内海地域に跳梁する海賊の取締りにあたった。…

【海賊衆】より

…中世末から近世のはじめにかけて九州,瀬戸内海などの海上交通の要衝に勢威をはった海辺の武士団を〈海賊〉と称し,海賊衆は守護大名や戦国大名と主従関係をもち,海上軍事力を構成した組織集団の水軍をいう。ほんらい海賊は権力に組みこまれることを好まない存在であったが,南北朝・室町時代の守護大名や守護を凌駕して台頭した戦国大名が,その支配力を領国内の浦々や港湾,海にそそぐ河口近辺におよぼしはじめると,そうした所を根城とした海賊は,いままで所有していた所領や海上諸権益の安堵や新しい所領の充行(あておこない)を大名権力からうけながら,守護大名の被官となったり,戦国大名の家臣に,それもその性格から海上軍事力を構成する警固衆に編成されて海賊としての性格を失って封建家臣に変身する経緯をたどるのがふつうである。…

【瀬戸内海】より

…荘園制の発展とともに荘園の年貢を輸送するための港湾施設が発達し,京への物資の集積地として難波津大輪田泊(おおわだのとまり)などに多くの荘園の倉庫が設けられ,梶取などの海上輸送業者が現れた。 平安時代初期から官米輸送船を襲う海賊が横行するようになり,さらに10世紀中ごろには藤原純友を首領とし,内海沿岸の地方豪族に率いられた海賊の反乱(藤原純友の乱)が起こっている。伊予国の日振(ひぶり)島を本拠とし,純友麾下(きか)の海賊船は1500艘といわれた。…

【バイキング】より

…8世紀末~11世紀にヨーロッパを襲ったスカンジナビア人の海賊。
[語源]
 古北欧語ではビーキングvíkingrと記され,‐ingは人を表す。…

※「海賊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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