東北発で日本全体の未来を開け=貝原俊民・元兵庫県知事

東北発で日本全体の未来を開け=貝原俊民・元兵庫県知事
貝原俊民氏は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災時の兵庫県知事。東京大学法学部卒業後、旧自治省に入省。1986年─2001年、兵庫県知事。現在は、ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長。
阪神・淡路大震災時の兵庫県知事だった貝原俊民氏(ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長)は、東日本大震災からの復興ペースの遅さに憂慮の念を示す。同氏が問題点として指摘するのは、中央と地方の役割分担に関するコンセンサス形成の弱さだ。
提言は以下の通り。
<被災地で新たな社会モデル構築を>
放射能汚染問題や津波被害の広域性を考えると、東日本大震災からの復興に長い時間を要することは分かる。だが、それらの問題を差し引いて考えたとしても、政府の対応は遅すぎる。このようにスローテンポだと、苦しむのは被災者である。
阪神・淡路大震災のときは、甚大な被害に見舞われた地域が東西交通の結節点にあり、また当時日本一の貨物取扱量を誇っていた神戸港の存在から、緊急性を認識した政府の動きは相対的に速かった。
一方、企業の生産施設が多い東北も、世界的な製造業サプライチェーンの重要な一角を担っているが、復旧は企業が牽引している。そうした民間部門の動きの速さを受けて、被災地復興の緊急性への認識が政府レベルで高まっていないとすれば、急ぎ姿勢を改めるべきだ。
そもそも東北の復興は、決してローカルマター(地元だけの問題)ではない。先日、厚生労働省が発表した人口推計によれば、日本の人口は2010年の1億2806万人から50年後の2060年には8674万にまで減少する見通しだ。今後50年間で過去50年間の増加分にほぼ等しい4000万人強の人口を失う計算だ。
そして、この人口減少・少子高齢化の先頭を走っているのが、東北である。言い換えれば、この地域において新たな社会モデルを提示できなければ、日本社会全体の未来は開けない。後述するように、復興を牽引する一次的主体は地方自治体であるべきと考えるが、東北の復興が重要な国家的マターであることを、政府・マスコミはもとより、国民一人ひとりが改めて認識する必要がある。
<東北に色濃く残る日本文明の美質を生かせ>
では、どのような復興構想を描くべきか。まず議論の大前提として復興のメインテーマはあくまで被災者の復興であることを忘れてはならない。
大規模で効率的な漁業や農業の必要性を説く声が多いが、それは東北の全エリアに適用できるものではあるまい。なにもかも経済合理性に照らし、被災した漁業者や農業従事者を置き去りにした議論を進めれば、廃業した彼らは年金や生活保護での暮らしに追いやられるだけになる。それは真の復興ではない。被災した人々が主体として関与し続けることが可能な復興構想を描く必要がある。
具体的な方向性としては、人口減少・高齢化、エネルギー・食糧不足の時代を本格的に迎える日本の各地域を先導するような復興を描くべきだ。私は、東北こそ先駆的な構想を描くことが可能だと考えている。
日本文明は本来、共助の精神と自然への畏敬の念を中心として、決してきらびやかではないが、つつましく平穏な生活に価値を置く素晴らしい資質を持っている。東北はこの日本文明の美質を色濃く残していると思う。
また、東北はエネルギーや食糧などの宝庫である広大な自然を持つ。農業、漁業、家内工業などが主な生業であり、これらの分野で高齢者の匠の技と若者のハイテクを融合すれば、高付加価値の創造が可能だ。これに健康、福祉、医療、教育など産業として今後大きくなる分野を充実していけば、日本に新たな成功モデルを提示できるはずだ。
かつて「第三のイタリア」という言葉があった。商工業主体の北部と農業主体の南部とは違う伝統的家内工業を中核とする都市や地域のことだ。しかも、匠の技から作り出された商品は高い国際ブランド力を持ち、先端産業とも結びついている。東北は、この路線も追求できるのではないだろうか。
<県が復興構想をリードせよ>
最後に、復興の役割分担について提言しておきたい。
復興の主役は、被災者である(自助)。一方、大災害からの復興を進める実力は、公権力を持つ政府にある(公助)。しかし、自助や公助の主体であると同時に、住民の連帯の中核的担い手(共助)の役割をも果たすことができるのは自治体だけである。すなわち、自治体こそ復興のもっとも強力な牽引車でなければならない。市町村が非常に大きなダメージを受けていることを考えると、一番大きな責任を担うのは県ということになろう。
こう言うと、復興庁があるではないかと反論を受けるかもしれない。しかし、復興庁はやはり中央政府の一機関にすぎない。被災地と一言にいっても、実際には地域ごとに復興支援のニーズは異なるし、ハード面のみならず生活のソフト面も合わせて総合的に考えなければならない。
復興庁にも、もちろん頑張ってもらわなければならないが、中央の縦割り行政の延長線上にある政府機関だけに手に負える仕事ではない。むしろ、県が主体となって市町村の意見を束ね、復興のプランを練り、政府に提案するぐらいの意気込みが必要だ。
前面に立てば、被災者たちとの意見衝突もあるだろう。私自身、阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた人口過密地帯の長田区で人口分散計画を進めたが、地元住民との意見が合わず、繰り返し説得にあたった経験がある。それでも、後々になるほどと納得してもらえるように努力するしかない。
戦前から中央集権システムに慣れ親しんできた日本人は、中央に組織ができると、その「公助」の力に過度に期待し、頼ってしまう傾向がある。だが、それでは、権利主張だけではない責任分担のコンセンサスがある社会の形成は望むべくもない。今の日本に必要なのは「自助」「公助」「共助」の3つの力のすべてを併せ持つ自治体の主体的行動であり、中央政府の役割はむしろその支援に回ることだろう。
復興庁は、くれぐれも自分たちを復興の主役だと思わないことだ。その存在意義は、国家的マターである復興が地元の手によって主体的に進められることを陰ながらサポートすることである。
(3月9日 ロイター)
(タグ:日本再生への提言 Reconstruction1 Aging1 Agriculture1)

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