2009年8月23日 四平/四平街

ライトレールが導入される長春の郊外

ホテルを8時過ぎに出発した私たちは、まず、昨日の長春の巡検の続きで、街の東北部に位置する和順街にむけ出発した。

ホテルを北に向かって、臨河街を車で移動した。朝早い時間であったということもあり、道路は渋滞していた。

中日友好会館から和順街までの間は、満州国時代には開発されていなかった地区であった。しかし今は、きれいにリモデルされた社会主義住宅が立ち並んでおり、その交通の便のため、道路と並行して鉄道の建設が進められている。現場に張られていた完成後の鉄道のイメージ図によると、現在ある道路の中央に、ライトレール(LRT)を敷設する計画であることがわかった。

このライトレールは、現地で購入した地図にも赤線が引かれており、長春の東部を南北に縦断するようなルートが予定されている。

長春のライトレール計画

中国では、今各地で、市民の交通手段として軌道系の都市交通が大々的に整備される過程にある。中国東北部も、例外ではない。大連では日本植民地時代のライトレールが延長され、瀋陽では、満洲国時代に計画されたが未完に終わった地下鉄が工事中である。

ここで私たちが見たのは、2009年5月から始まっている、長春ライトレールの第三期工事である。この計画は、長春駅北広場臨河街沿から南三環外まで、線路全長15.95km、大部分が高架線で、全線には15の駅が設置される。完成後には、一期、二期工事でできた線と合わせ、計48.29kmの環状線になる。ライトレールの完成後は、長春でも、満洲国時代に計画され未完に終わった地下鉄建設プロジェクトに進むことが決定しているようだ。

参考: 長春市人民政府ホームページ


現在でもその名を残す、
和順街の中国人労働者地区

ホテルを出て20分後、私たちは和順街の和順公園/労動公園に到着した。

和順街とは、満州国の首都として新京の都市計画が進む中、用地買収地域に住んでいた中国人農民や一般中国人を移転して居住させた住宅地である。農民たちは、土地を失ったため、労働者になった。つまりここは、戦前から、中国人労働者街という性格を持ち続けている地区である。満洲国首都の建設と都市経済の維持にとって、中・下層の中国人労働者は上可欠の存在であったが、同時に、「五族協和」をとなえながら、中国人は日本の満洲支配にとって潜在的な対立要因であり脅威でもあった。そこで、首都機能が配置された主要な計画区域から川を隔てた場所で中国人に定住する住居をあてがい、中国人を宥和しつつ隔離政策をとったと考えられる。規模はそれほど大きくないが、規則的な街路が整い、公園もつくられ、街の中心部とは吉林大路/解放大路と結ばれているなど、意図的な都市計画がなされた(越沢明著『満州国の首都計画』日本経済評論社, 1988, pp.119,120,130)。

はじめに訪れた和順公園/労動公園は、満洲国時代に、この和順地区に住む中国人の憩いの場所として作られた。公園内に池が掘られ、前日訪れた南湖公園同様に長春の街に南北に流れる伊通河の水を利用して公園の中に水を取り込んだ親水公園となっている。当日は雨が降り、朝早い時間とあって、公園にあまり人は見られなかった。

私たちは、労動公園の入口から中を見たあと、和順街地区を歩いて視察することにした。

和順街には、旧満鉄附属地のように放射線状に延びる道路はなく、碁盤の目の形に道路が整備されているのが特徴である。現在も、その街路網の特徴は変わっていない。

ここで興味深いのは、この地区が今も昔も和順街と呼ばれていることだ。「和順街」という名称は、日本の都市計画者がつけた名称であるにもかかわらず、この地域が満洲国当時から中国人の居住地域であるため、改名されないのである。

現在は、中国人の住宅はすべて、社会主義住宅に建て替えられている。一階には飲食店・雑貨屋から幼稚園に至るまで、多様な施設が入っていた。

私たちは、和順公園/労動公園から東に向かって歩き、東盛街/東盛大路にいたる辺りを見てまわった。この通りも、改称されていない。長春の戦前の地図によれば、この東盛街/東盛大路に面したところに、満洲国時代には旧東盛国民学校があった。現在も、同じ場所が、長春亜泰小学校として利用されている。建物は建て替えられたようであるが、その位置の機能は満洲国時代から変化していない。

このように、和順街地区では建造環境が変化し、いまは社会主義住宅が並んでいるものの、中国人労働者の集積地であるという性格は変わらない。そして、この地区の街路網はもちろん、通りの名称もそのまま満洲国時代から引き継がれている。その地区に、中国の性質がはらまれているか、それとも侵略者である日本の性質がはらまれているかによって、地名に対する戦後の対応が異なったことをよく表している例といえる。


長春西部に広がる一汽フォルクスワーゲンと
その関連工場の集積

30分程、和順街地区を見学した後、私たちは四平/四平街に向かって出発した。

まず、和順街地区から長春の中心を横断するように吉林大路・興仁大路/解放大路を西に向かい、街の西側の旧南新京駅に達したところで南に向かった。この旧南新京駅は、現在では廃止されている。おそらく満洲国崩壊によって、駅の近くにあった官庁街が役割を終えたために必要がなくなったのではないだろうか。

旧南新京駅から南の地区は、満洲国時代は未完成で、後の時代に開発された。現在では、街の最西端を南北に走るライトレールと瀋陽方面への鉄道が長春南駅という満洲国時代にはなかった駅まで並走している。長春という都市が、満洲国当時と比べ、大きく拡大していることが実感できる。

 

長春の西側周辺には、大規模な自動車工場と、小規模ながら多くの自動車関連工場が立地している。地図を見ると、このあたりは一汽の名前が付く部品工場が広い範囲で分布しているのがわかる(下図参照)。ここの自動車工場群は、主に1990年に設立され、長春を拠点とするフォルクスワーゲンとの合弁である一汽フォルクスワーゲン自動車の工場を中核の工場としている(フォルクスワーゲンホームページ)。

ドイツのフォルクスワーゲンは、日本の自動車企業に先立ち、いちはやく中国に進出した。私たちも巡検の最中、フォルクスワーゲンの乗用車を多く見かけた。この合弁は、フォルクスワーゲンにとって上海自動車工業総公司との合弁契約に続く第二の中国における合弁企業である。

2005年に、既にかなり成熟したこの産業集積は、中国共産党長春市委員会・長春市人民政府・一汽の共同で、省級の長春自動車産業開発区となった。開発区には建設途中の工場もあり、今後さらなる生産の拡大が予想される。またDunlopの看板、さらにスズキ・スバル・マツダといった日系の自動車会社の販売店も見られ、多様化が進んでいることもうかがえた。

長春における自動車産業の歴史

長春には、中華人民共和国初の大手自動車メーカーの中国第一汽車集団公司の本社が存在する。同社は、中国三大自動車メーカーの一つに数えられており、フォルクスワーゲン(独)、トヨタ自動車(日)、マツダ(日)の各社と合弁会社を設立していることでも知られる。

中国第一汽車集団公司は1956年にソ連の支援を受けて設立され、1958年に設立された上海汽車工業集団公司とともに、中華人民共和国の自動車産業を初期から支えてきた企業である(中国第一汽車集団公司ホームページ上海汽車工業集団公司ホームページ)。

ここで疑問となるのは、国家として重要な産業である自動車産業の初の自動車会社を長春にしたのかである。もちろん中国第一汽車集団公司が設立された1950年代の中国は、社会主義国家であったため企業の利潤の最大化という点をあまり考慮していなかったであろう。ただ、広大な中国全土に対して、自動車を普及させることを考えれば、長春はいささか偏った位置にあるのではないかと考えられる。上海にも自動車企業が創立されたとは言っても、中国の北半分に普及させるには、あまり効果的な位置とは言えない。

そこで、まずは輸送費の観点から1950年代当時の中国第一汽車集団公司の最適な場所を考えてみたい。なお、輸送費を考えるにあたって、社会主義国家であったことを考慮して労働費の概念を取り入れずに考える。

仮に、地理的な条件を無視して輸送費が距離に応じて決定する場合に長春と上海からの等費用線は、上図のようになる(長春・上海のそれぞれを中心として、内側から順番に等しい半径の円が描かれている)。図からあきらかなように長春にある中国第一汽車集団公司が上海汽車工業集団公司に対して優越できる地域は、ほぼ中国東北地方のみであり、華北地方では、上海からの輸送費とほぼ同程度で輸送することが可能であることがわかる。よってこの場合、輸送費指向の観点からでは、合理的な立地とは言えないことがわかる。もし、輸送費指向で工場の立地を中国政府が考えたとするならば、北京周辺にでも設立した方が効率的である。よって輸送費以外の観点から考える必要がある。

自動車産業の工場の周辺には在庫の関係から多くの部品メーカーがいることが上可欠である。中国政府が自動車産業を作り上げるには、部品メーカーの設立も同時に行わなくてはならない。

ここで考えられる一つの背景は、満州国時代からの影響である。1939年に設立された満州自動車製造株式会社である。この満州自動車製造株式会社は、石原莞爾によって主導された国策会社である。その背景には、日本の軍事防衛の欠点は自動車産業と航空産業の未発達にあり、満州において増産体制を整える必要があると判断したためであった。しかし、日本の敗戦後は進軍してきたソ連軍によって製造設備のほとんどが持ち出されてしまった歴史がある。(十河氏は、このソ連軍による持ち運びによって、戦後の長春の自動車産業と満州国時代の日本の投下した資本は直接的な関連性がないと結論づけている(十河孝雄著「アジア・太平洋戦期における満州と自動車工業―満州自動車製造株式会社を中心に―」Hitotsubashi University Repository, pp.53〜69))。

つまり、設備は持ち運ばれてしまったが、満州国時代に自動車の生産に携わった労働者が多く長春にはいたことを示している。よって長春に自動車産業を設立する利点は、労働者を新たに一から教育せずに熟練労働者を確保できたことにあったと言える。ただ、グリーンハットによれば、加工費の中で労働費に関して、労働者の生産性は教育によって改善でき、立地の決定的な要因ではないと述べている。では、この他に考えられる長春の立地の利点とは何であろうか。

一つは、鉄鋼の産地が鞍山という近くに立地していることだろう。自動車産業において最も主要な資源は、鉄鋼である。ただ、鉄鋼は重く、海に面していない鞍山から鉄鋼を運送するには、当時は鉄道しかなく困難であった。(ヴェーバーのトン・キロメートルの法則によれば、輸送費は重量と距離に依存するため)しかし、自動車産業は、一つの生産拠点で広大な面積の市場に向けて生産する。つまり市場指向型産業ではない。よって、原料となる鉄鋼を運ぶ距離を短くし、尚且つ鉄道で鞍山から鉄道での輸送が容易である長春は、合理的な立地であると言える。

もう一つの理由は、ソ連からの指導を受けやすいという点であろう。中国第一汽車集団公司は、ソ連の支援を受けて設立された中国初の自動車メーカーであったために、ソ連からの支援を受けやすい立地は想像以上に重要な要因であったと考えられる。ソ連から設備を持ち込む場合は、シベリア鉄道から旧満州鉄道の路線を通って運ばなくてはならないためだ。

以上のような理由から、長春を自動車産業の拠点として中国政府は確立したのではないかと考えられる。

また、今回は訪れる機会がなかったが、長春の西側の郊外には、南北に走る新幹線を建設中である。それにともなって、この産業開発区に近接し、長春西駅という新幹線の新駅ができる。新幹線駅の開業により、産業開発区はさらに発展するであろう。


封禁の地を見つつ、長春から四平/四平街へ

私たちは長春を離れ、南西方向に約150q離れたところにある四平/四平街へと向かった。車は、高速ではなく、幹線一般道を走ったので、農村景観をよく観察することができた。

街を離れると、道路の両脇にはトウモロコシ畑が広がり、それらを蓄える倉庫と見られる建物が点在していた。また、ごく一部ではあるが、ビニールハウスも見られた。このあたりも、他の満洲諸地域と同様の農耕地帯であり、単一作物の栽培を広大に行っている。

ところどころに、ガソリンスタンドや飲食店などが密集した場所がある。農村地域の住民にとっての供給中心になっている。また、幹線道路を走るドライバーに供給する役目を果たしている。

途中、道路標識を見ると。「范家」といった姓が使われている地名が多い。これは漢族の移民によって農村ができたという歴史に関係がある。満洲は、もともと女真族(満州族)の地であったが、そこに次第に漢人がフロンティアを拡張してきた。越沢明著『満州国の首都計画』p32(日本経済評論社, 1988)によれば、1791年に漢人が初めて入植し以後移住者が増加した。これに対して清朝は、高さ数メートルの土堆に柵を設け、満州族固有の土地への漢族・蒙古族の侵入を禁止した。これが満州封禁の政策である。上掲書pp.33,34に掲載されている地図を見ると、長春から四平/四平街にかけてのこのあたりの地域は、柵があった場所に近いことがわかる。しかし、漢族は、それを乗り越えて、満洲の奥地まで浸透し、フロンティアを拡張していった。沿道の地名は、こうした歴史の一端を物語っている。

 

四平/四平街の中心街である
旧日本人地区: 駅の西側

私たちの車は四平/四平街の街に近づいた。街の中心地から離れた地域では、古い建物が多く、最近建てられたような新しいマンションは一部にしか見られない。

街に入ってから15分程で、四平駅の駅前広場に到着した。四平駅の駅前広場は、かつて満鉄附属地であった鉄西区に面している。日本の権益下で経営されていた満鉄であるから、かつての駅の出口が満鉄附属地側を向いていたのは当然なのであるが、それは現在も変わっていない。そして、現在でも鉄道線路の西側が中心市街地となっている。

満洲中部のハブ都市: 四平/四平街という街

現在の四平/四平街は、大都市である瀋陽と長春のおよそ中間に位置する中規模の都市である。もともと、四平/四平街のあたりは遊牧地であり、東清鉄道建設時に駅が建設されたころ、農家が数軒あるに過ぎなかった。その後、第一次世界大戦を契機にして満州の特産物が海外市場で求められるようになり、1923年に蒙古地方(チチハル)に通じる平齊線の前身の四?線が開通すると、当時「四平街」と呼ばれたこの都市は、物資の集散地点として賑わうようになった。(飯坂太郎著『昔日の満州』国書刊行会, 1982, p95)。その後次第に、四平/四平街は、中規模ながら、交通のハブとして意義のある都市に成長していった。

@ 物流・交通の結節点としての四平/四平街

満洲国当時には、南北に南満州鉄道が走り、西に平齊線、東に平梅線が走ることによって、鉄道が交差する交通の要所となっており、その位置から満州国の理想的な物流ハブとされた。(安藤岩喜著『趣味の四平街』四平街地歴研究會, 1939, p3)

交通に関しては当時の特急列車「あじあ号」の停車駅であったことから、大連、奉天/瀋陽、新京/長春、ハルビンといった主要都市にアクセスがよかった。さらに平齊線によって蒙古地方(チチハル)に通じ、平梅線によって朝鮮半島(梅河街)にも通じていた。(『趣味の四平街』pp.14〜17)平齊線によって蒙古地方から大豆・小麦・綿花・羊毛が供給され、街の東部の山岳地帯の石炭・雲母・硫黄などが平梅線によって運ばれ、多様な物資が四平/四平街に集中した。これにより満洲国時代の四平/四平街にに発達したのは農産物加工業であった。また飛行機や自動車の揮発油・高級モビール油・家庭用燃料・その他副産物を製造する工場もあった。しかし、鞍山と撫順に重工業地帯があったため、四平が重化学工場の中心地となることはなかった。(『趣味の四平街』pp.3〜5、pp.103〜106; 『昔日の満州』p98)

よって四平/四平街は、満洲の平原に鉄道が整備されたことによって交通の結節点として機能しはじめ、物資の集散地として発展し、特急停車駅になってさらなる発展を遂げた。これによって、一定程度の原料地立地型産業も立地した。このように、四平/四平街は満洲地方古来の都市ではなく、その本格的な形成が始まったのは20世紀に入ってからであって、都市としては新しい部類に入る。

   

A 日本人と中国人の明確なセグリゲーション: 都市計画から見た四平/四平街

四平/四平街の都市計画の特徴は、日本人と現地中国人を鉄道線路を挟んではっきり隔離した都市だったということである。

本格的に四平/四平街に都市計画が始まったのは、東清鉄道の権益が満鉄に引き継がれてからであった。1909年の最初の都市計画では、四平/四平街市街を南北に走る満鉄本線を境界にして東西に分け、中央通り/英雄大路を軸にして矩形になるように道をつくった。奉天/瀋陽や、長春の附属地にみられるような、駅前から放射状に延びる街路は、ここでは作られなかった。鉄道の東側は耕地のまま拡張余地とされ、駅の近くに鉄道に沿って幅1?程だけ開発されたのみであった。

都市発展に伴って西側は工場や材木置き場や商店が混在しはじめ、美観と衛生の点で問題が生じたので、東部の北側を兵営や工場地域とし、南側を材木置場や工場地域としたうえ、西側にいた中国人を東側に移動させた。こうして鉄道の東側には、次第に中国人が定住し、線路を挟んで明確なセグリゲーションが発生した。西側では中央大路を伸ばし、途中に中央広場/英雄広場を設置し、その周りに小学校や病院や地方事務所を建て、さらに東西方向の道と南北方向の道を増やした。(地方部残務整理委員会編纂係編『満鉄付属地経営沿革全史』, 1977, pp.149,150)

満鉄附属地時代の市街図を見ると、四平/四平街の西側(鉄西区)に関しては地図があるが、東側(鉄東区)に関しては書かれていないものやわずかにしか書かれていないものが主流である。満鉄が、日本人の住む西側を重点的に開発し、中国人居住区である東側には関心を持たなかったことがわかる。満州国当時、中国人居住区であった東側は、計画的発展から取り残された。

当時から日本人居住地と現地中国人居住民との隔離するのが当然といった風潮が四平/四平街にもあったことがわかる。(参照同上)

B 国共内戦の激戦地としての四平/四平街

日本の敗戦後、四平/四平街はソ連の支配下に置かれ、その後の国共内戦で国民党軍と共産党軍の激戦地となった(戦役の状況については、右図参照 出典: 四平戦役_四平戦役図片_図片百科)。現在でも街には共産党政府によって建てられたその勝利を後世に伝えるモニュメントや像が見られる。

戦後、四平/四平街の支配権は、ソ連軍に移った。しかし1946年3月13日にはソ連軍が撤兵し、同年3月17日に共産党軍によって四平/四平街は占領された。軍事的に弱小であった共産党軍が簡単に四平/四平街を占領できた背景には、ソ連が撤退の時期を表向き同盟関係にあった国民党軍には伝えなかったことがある。(松本俊郎著『満州国から新中国へ』名古屋大学出版会, 2000, p101)

共産党軍は四平/四平街に遼北省連合政府を樹立し、4月15日の長春占領の足がかりとした。長春を占領した共産党軍は旧日本軍が残した武器弾薬を入手することで軍事力を強化し、満洲における国共間の戦闘をリードした。1946年3月下旬からは国民党軍による四平/四平街攻撃が始まり、5月19・20日には国民党によって四平/四平街が占領された。しかし、林彪率いる東北民主連軍(ソ連軍の意志を汲んだ軍)は四平/四平街で国民党軍との戦闘を継続したため、四平/四平街の共産党軍30万人の半数以上が死傷する大きな?害を被った。ここに、満洲の共産化を目論むソ連軍の本音と執念が見える。その後しばらく、四平/四平街を含む満洲で国民党軍の優勢が続いた。(『満州国から新中国へ』pp.102,103)

四平/四平街を巡る国共内戦の戦局は1947年5月に入って変化した。共産党軍が行った夏季攻勢・秋季攻勢によって満洲の多くは共産党軍の支配下となり、国民党軍の支配下は四平/四平街・瀋陽・長春・吉林・錦州・営口などの拠点都市に限定されてしまった。

そして、1947年12月〜48年3月にかけての冬季攻勢によって、3月には四平/四平街は最終的に共産党軍の支配におかれた。(『満州国から新中国へ』)

満州国時代、四平街駅舎は赤レンガの建物であった。だが、現在の駅舎は比較的新しく、中華人民共和国になってから建て替られた。駅前はショッピングモールやレストランのある地下街もあるなど、商店の多くも西側に集まっている。

 
(旧駅舎()と現駅舎() 左写真出典: 植鉄の旅―四平街

四平街では、奉天/瀋陽や長春の満鉄附属地のような、駅前から放射状に走る街路はつくられなかった。駅前広場からまっすぐ広い舗装された中央通り/英雄大路が伸び、そこに銀行・郵便局・輸入組合・会社・商店といった(『趣味の四平街』p70)中心業務地区が立地して、これを軸に矩形の街路網がつくられるという、単純なものであった。

現在も、駅前広場から伸びる中央通り/英雄大路 の配置はそのままである。広い通りを歩いてゆくと、両脇には、出店が並んでいる。また、大都市のようにライトレールやバスなどの交通機関が充実していない四平/四平街では、三輪車タクシーが多く路肩に止まり、市民の主要な交通手段となっている。

 

しばらく歩いていると突然のスコールに襲われたので、満洲国当時に満鉄病院だった建物で雨宿りすることにした。ここは、現在でも病院として使われている。病院の中は薄暗く、老朽化している。壁のポスターによると、診察料は1〜6元と低価格で診察を受けることができるようだ。また、壁にはインフルエンザに関してのポスターもあり、保健の啓蒙を行っていた。

数分で雨も小ぶりになってきたため、私たちは街の視察を再開した。中央通り/英雄大路の途中にある,ロータリーになった中央広場/英雄広場@(同名の広場が二つあり、連続して二つとも訪れたため便宜上このように表記する)は、満洲国当時、ソテツやライラックといっためずらしい草木が植えられていて綺麗な街の景観に一役買うとともに、市民の憩いの場になっていたようである(『趣味の四平街』pp70、71)が、今は、国共内戦の最激戦地の一つという歴史を示す経緯が刻まれ、人民解放軍の勝利を讃える烈士の碑が建てられて、イデオロギーの発信地となっている。

ロータリーを出て、中央広場/英雄広場@に面した建物を視察した。満鉄附属地時代には、満鉄病院から反時計回りに、小学校・消費組合公会堂・博物館・陳列館といった建物が建てられていた。ロータリーの北西に面して、今も老朽化した公会堂の建物が残っている。よく見ると、レンガ造りの建物の周りをコンクリートやタイルで補強して利用していることが、一部の外壁が崩れているところからわかった。加えて、建物には弾痕のような痕が認められた。国共内戦時の激しい戦闘の跡かもしれない。

周辺を見渡すと、駅から近い場所ということもあって新しく建て替えられたマンションが多く見られる。大連や瀋陽で見られたような超高層マンションではないが、この地域では高く新しいマンションであり、駅へのアクセスも徒歩数分という好立地である。中国の上動産バブルが、四平/四平街にまで及んできているようだ。


満洲国時代からの憩いの場所に、
四平/四平街攻防戦での
共産党勝利の象徴が置かれる

次にここから中央通り/英雄大路を数分ほど進んだ場所にある中央公園/英雄広場Aに向かった。当初は四平街公園と呼ばれていたが、1937年に「中央公園」に改称された。(『満鉄付属地経営沿革全史』p189)

この公園は満洲国時代には緑が多く、静寂としていて、中には遊技場・動物園・噴水・花壇・神社が設けられ、現地に居住する日本人の憩いの場となっていた(『趣味の四平街』p71)。今でも、この公園には芝生が敷かれ、よく整備されており、児童公園となって、子供向けの遊具も数種類あった。だが、戦前は神社があったあたりに、人民解放軍兵士の石像が置かれている。これは、かつての日本の覇権をはらむ場所性を、国民党軍との間で激烈に闘われた四平/四平街攻防戦の勝利のモニュメントによって積極的に置き換えるとともに、児童公園ということを考えると、幼い子供に対し共産党の唱える歴史とナショナリズムを刷り込むという効果も狙っているようだ。この日は天候が悪かったため、公園に来る子供も大人も姿は見えなかったが、他の満洲各都市の公園の賑わいを考えると、ここも普段は賑わっているのだろう。


地図になかった街
――旧中国人地区 鉄東区に向かう

四平/四平街では、激しい国共内戦の戦闘が行われ、そのさい建造環境の大部分が破壊されたため、満鉄附属地にかつて日本人が生活したみるべき跡はほとんど残っていない。公園まで附属地を歩いた私たちは、いったん四平駅前に戻り、車で線路の反対側の旧中国人地区である鉄東区に向かうことにした。

四平駅前広場のある鉄西区から、跨線橋を渡って、今は駅裏となっている鉄東区に向かった。この橋は、満洲国当時、日本人の居住区である鉄西区と、中国人居住区である鉄東区を結ぶ唯一の道であった。中国人の生活圏と日本人の生活圏は、満鉄本線によって厳しくセグリゲートされていた。戦前に日本人が作成した四平/四平街の地図は、どれも、現在の鉄東区を図郭から外し、ほとんど描いていない。地図が無いことは、当時の日本人が稀にしか中国人地区に足を踏み入れなかったことを示唆している。橋を渡る間に見ると、鉄道の分岐点だけあって、橋の下に何本もの線路が敷かれていた。鉄道線路敷の幅が広いだけ、中国人地区と日本人地区との通行はより困難であり、隔離は、より厳しいものであったのだろう。

四平駅の駅舎は新しかったが、橋の上から見ると、立ち並ぶ鉄道関連施設は古い建物が多く、駅施設は、駅舎を除いて満鉄当時のものをほとんどそのまま利用しているようだ。構内は大きく、四平/四平街が物資の集散地として機能している様子が見えた。


満洲の布教拠点、
今も篤い信仰の信者をあつめる
四平/四平街カトリック教会

四平/四平街の鉄東区で歴史的に重要なのは、ここが、満洲国時代、満洲・さらには中国全土に対する、フランス語圏の勢力によるカトリックの重要な布教拠点の一つとなっていたことである。当時カトリックは、国際的に孤立していた満洲国に友好的な姿勢を取り、バチカンは満洲国を承認していた。また、満洲国が存在した時代はブロック経済で、日本は他の欧米諸国に満洲国について排他的に対応したといわれるが、フランスは例外で、首都新京/長春に満洲国外交部(外務省)の建物を設計し、四平/四平街には、フランス語圏の教会組織が入ることを許した。

私たちは、その跡を探って、四平市カトリック教会と、カナダのフランス語圏・ケベック州に本拠を置く聖ヴィアトール修道会が設けた私立ミッションスクールの遺産を巡検することにした。

カトリック教会は、満洲国時代から、鉄東区の中央東路の南側、南二馬路に面して建っており、いまもキリスト教会として信者を集め、宗教的機能をもっている。(現在の住所: 中国吉林省四平市南二経街843号)。

旅順・大連以来これまで私たちが訪れてきた多くの場所と異なり、この教会は、まったく観光地化されていない。キリスト教会は、日本をはじめ他国でしばしば観光対象となるが、中国でその傾向は少ない。案内板のようなものも無く、私たちは、沿道の人々に道を尋ねながら、この教会をようやく探しあてた。周囲は社会主義住宅が立ち並ぶ労働者地区であり、四平駅近くの真新しいマンションや商業建築と比べると、いかにも経済発展に取り残されたという印象を受ける地区であった。

四平/四平街カトリック教会と、
私立ヴィアトール学園の歴史

四平市カトリック教会と私立ヴィアトール学園の歴史について説明する。満州地方におけるカトリックの歴史全般については、コラム(満州のカトリック)を参照していただきたい。

四平市カトリック教会は、カナダのケベック州にある「異国布教教会」が満州地方の布教を担うことが決まり、そこから4人の宣教師が満州に派遣され、カトリック布教拠点の一つとして建てられた。1931年に四平/四平街に到着した聖ヴィアトール修道会修道士らは、1929年に新設されたばかりの新布教地において活動を開始した。(右写真は、四平/四平街に建設されたカトリック教会 出典:『趣味の四平街』)

ここで宣教師達が布教活動のためとりわけ力を注いだのは、青少年の教育活動である。1932年には、教会英語学校(天主堂英語学習班)がつくられた。通常授業外に宗教的実践を行うやり方で布教は行われ、着実に信者の数は増えていき、教団も宣教師を追加派遣してより力を注いだ。さらに宣教師達は、地元の中国人を神父にすることで将来にわたる布教活動の基盤を築こうとした。宣教師によって養成された中国人神父達の多くは聖ヴィアトール修道会が作った学校出身者であった。このように四平街にも少しずつではあるがカトリック信仰がこの地域に根付いていったのである。満洲国建国直後、1934年時点で四平街教区の信徒総数は13,749人であった。(Clercs de Saint-Viateur "Missions Saint-Viateur" pp.3-19;田口芳五郎著『満州帝国とカトリック教』カトリック中央出版部, 1935, p93)

聖ヴィアトール修道会は、1933年に英語学習班を創設、それが私立四平街天主堂英文商業中学校になり、それがさらに発展し、「暁東中学校」として、満洲における布教・教育活動の中核を担う機関となった。

暁東中学校は、1938年に満洲国文部省から中学校として正式な認可がおり、法的基盤を得た。暁東中学は男子校で、満鉄四平街駅の東側、中国人地区にあり、生徒のほとんどは中国人であった。だが、学校の方針を英語から日本語優先に切り替え、制?に詰襟学生?を採用するなど、日本式の運営をとりいれることで環境に上手く順応したことが、認可につながったのであろう。学校では、日本人を含む24人のヴィアトール会員(『ヴィアトール学園洛星中学・高等学校50年誌』学校法人ヴィアトール学園, 2003, p35)が指導的役割を担った。そしてこの認可によって、日中戦争時をつうじ、ミッションスクールとして中国人男子を社会の指導者に育て、そのなかから中国人のカトリック信者や宣教師を養成することが可能であった("Missions Saint-Viateur" pp.3-19)。3000人の卒業生のうち、1割が洗礼を受けたという(『ヴィアトール学園洛星中学・高等学校50年誌』p35)。

しかし、良好であった満洲国とカトリックとの関係も、第二次大戦に突入すると終わりを告げる。敵国となったカナダ国籍の宣教師は監禁状態となり、米籍の宣教師は本国送還の扱いを受けて、学校は中断された。

満洲国崩壊後、ソ連軍と中国共産党の占領の時期を経て、四平街/四平が国民党の支配下になると、暁東中学校も再開した。だが、その直後起こった激しい国共内戦の戦闘により学校の建物は破壊され、1948年3月の中国共産党軍による四平/四平街の占領によって宣教師達は捕虜となった。

中国共産党政府は、革命前に設立された私立ミッションスクールの伝統を断ち、外国人の学校経営者や教師・宣教師を追放し、共産党の直接指導下にある公立学校に再編する政策を強力に推進した(佐藤尚子著『米中教育交流史研究序説』竜渓書舎, 1990, pp.146,147)外国の宗教団体・外国人宣教師の中国国内における活動は禁止され、既存のキリスト教団体が中国人に及ぼす影響を削ぐため、宣教師と中国人信者が分離された。

布教も学校の存続も、どちらも困難となった状況下、1952年、カナダ・ケベックの宣教師達は厳しい尋問を受けたのち国外退去処分となり、聖ヴィアトール修道会の中国での布教活動が終わりを告げるとともに、暁東中学はその短い歴史を閉じた("Missions Saint-Viateur" pp.3-19)。

その後、東洋における拠点は、米国の修道会の要請により日本の京都に1952年創立された洛星中学校(「カトリック聖ヴィアトール北白川教会:教会の歩み」)、ならびに1955年に台湾の台北に創設された衛道中学に引き継がれた。暁東中学校で活動した日本人ヴィアトール会員の村田源次師が、洛星中学校・高校の第4代校長をつとめた(『ヴィアトール学園洛星中学・高等学校50年誌』p35)。


国共内戦で壊され建てなおされた教会堂、
今なお残る聖ヴィアトール修道会の学校跡

敷地の右手に、ヨーロッパで見られる伝統的なカトリック教会の建物と似た、鋭角に尖った塔の先端に十字架が掲げられた教会堂があった。屋根以外の部分も、通常の建物とは異なり、石造りで斜めの屋根があり、立派な教会堂の建物になっている。入口には、イエスキリストをあらわす「J?S」と文字を組み合わせたマークがあった。

だが、満洲国時代の教会堂の写真(『趣味の四平街』p85)を見ると、現在のものとは異なり、鋭角の塔は二つあり、建物はさらに大規模だったことがわかる。教会でこの後にインタビューした老人の話によると、かつてこの教会堂は、この地域で最大の規模があったが、国共内戦によって破壊されてしまい、現在の教会堂は、それを建て直したものだそうだ。国共内戦によって壊された教会を再建する際に、高度な教会建築を建てられるような技術者も、予算もなかったのだろう。しかし、困難な政治・社会情勢の中でこれだけの教会を再建した信者の熱意には、頭が下がる。

教会堂の向かって左には、神父たちが暮らす集合住宅のような建物があった。二階建てであり、入口部分には十字架が掲げられていた。

さらに左側には、教会堂に平行して、聖ヴィアトール修道会が四平街/四平に創立した、暁東中学校の前身である私立英文商業中学校として使用されていた建物(『四平第一高級中学校DVD』)がいまも建っていた。壁には黒板が取り付けられ、寄付をした人々の名前と金額がチョークでびっしりと書かれていた。およそ150名の名前が書かれており、その寄付金額も20元程から2000元までと様々であった。


質素ながら手入れがいきとどいた教会堂の内部

敷地を一通り見た後、私たちは、教会堂の中に入った。内部の広さはテニスコート一面を少し大きくした程度であり、白と水色を基調とした壁と赤いじゅうたんが敷かれ、わずかではあるが二階部分もあった。前面には電飾の施された祭壇があり、祭壇にはいくつかの像が置かれていた。日本に帰り専門家の方に尋ねたところ、キリスト、聖母マリア、ペテロ(もしくはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのいずれか)の像であるそうだ。周りの壁には「最後の晩餐」などのキリストを描写する絵画の模写と、中国語で書かれた旗が掲げられていた。だが、窓にステンドグラスはなかった。祭壇に向かって長椅子が並べられ、長椅子には簡体字で書かれた聖書が用意されており、十戒が書かれたページもあった。内部は、全体的に手入れが行き届いていることがうかがえた。

私たちに教会を案内してくれた人々はほとんどが年配の方であったが、私たちを快く迎えてくれた。彼らを代表するような形で81歳になるという張国清さんが私たちに教会の成り立ちや最近の教会の状況について説明してくれた。この老人は、満洲国時代から生き延びてこられた方で、中国語、日本語、英語と3ヶ国語を交えながら、私たちに話しかけてくれた。最近、信者は増えているそうで、日曜日ともなると200、300人がミサに訪れるという。

この日(8月23日)は日曜日ということもあり、午後2時からミサが行われるという。教会の信者の人々が私たちにそのミサへの参列を勧めてくれた。まだ少し時間が早かったので、私たちは近くの飲食店で昼食を食べに行くことにして、いったん教会を離れた。


中国庶民の昼食をとる

私たちは、教会のすぐ近くにあった社会主義住宅の一階を利用して営業している飲食店に入った。このあたりはまったく観光地でないから、客層は、近隣の住民と教会を訪れる人だけであろう。この店で、私たちは大皿に盛られた中華料理を各自取って食べた。この昼食に掛った金額は、1人当たり6元(日本円で80円程)と、低価格なものだった。バブルに乗って高額な上動産が売買される一方で、社会主義住宅が集まるこの地域に生活する人々は、こうした低い物価水準で生活している。この出来事から、大多数の中国人と、一部の富裕層との間には、格差はますます広がっているのを窺うことができた。


中国独自の色彩が色濃いカトリックのミサ

昼食を済ませ、私たちは教会に戻った。教会の周りには、自動車は全く駐車されていない。信者達の大半は、歩いて教会に来たようであった。自家用車を保有できるような富裕層は教会に来ないし、自家用車が無いと来られないような遠方から信者が来ることもないということだ。観光客の姿はもちろんなく、観光案内も特になされていなかった。四平市カトリック教会信者の空間的な到達範囲は、それほど広いものではないようだ。

もともと、宗教は根強い空間的持続性を持っている。満洲国時代にカトリック布教の拠点であった局地的伝統が、四平市鉄東区の労働者地区という狭い空間に、かなり高密度なキリスト教信者の集積を今でも持続させていてもおかしくない。それは、日本で、遠く安土桃山時代にポルトガルが布教した伝統が、今日でも長崎の周辺にキリスト教信者を高密度で集積させているのと似ている。

教会堂に入ると、すでにミサは始まっていた。私たちは一番後ろの長椅子に座らせてもらってミサに参加した。祭壇の前には、緑の法衣を着た神父がおり、電子オルガンの音に合わせて信者に向かって中国語でミサを執り行っていた。といっても、電子オルガンそのものはなかったため、録音した音楽を再生しているのであろう。長椅子に座った信者達は、神父の言葉に耳を傾けつつ、ときおり答えるように唱和し、膝まずく場面もあった。やがて信者達は一同に「アーメン」と唱えて席を立ち、神父の前に並んで一人ずつ神父から祝福を受けた。神父は途中から白地に赤の法衣に着替えた。いくつも流れた讃美歌のなかには、カトリックの標準的なものだけでなく、中国風のメロディーのものもあった。カトリックとはいっても、全般に、中国独自の趣きが色濃くにじみ出たミサになっていた。

ミサの音声はこちら

中国の公認カトリックは、ローマ教皇から独立し、中国共産党の指導下にある組織「中国天主教愛国会」のもとで宗教活動を行っている。外国人宣教師の関与は認められていない(松隈康史「中国のカトリック教会―― 歴史、現状、展望」)。この教会も、この中国独自の教会組織を遵守しつつ宗教活動を行っていることは疑いない。このことが、ミサの中国的色彩に影響を及ぼしているのかもしれない。

ミサに参加している信者を見ると、全体的に年齢が高いが、若い人たちもそれなりにいる。女性が多く、女性の中には白いベールを頭にかぶっている人がかなり多く見られた。カトリックでは、シスターは髪を蔽うが、近年は、一般信者が髪を蔽うことは必ずしもしない。頭にベールをかぶる信者が多いことは、中国では伝統的なカトリックの風習が今でも息づいていることを物語っている。

私たちは1時間程でミサを退席した。そして、先ほど教会について説明してくれた老人に大学の記念の品々を渡し、最後に教会を背にして全員で記念撮影をして教会を後にした。


満洲国カトリック教育の拠点、
暁東中学の跡地

次に私たちは、教会の敷地から移転・独立して新校舎を建て、戦前と戦時中、満洲国で数少ない欧米系ミッションスクールとして中国の青年に対する教育を行った、ヴィアトール学園暁東中学校(右写真 出典: 『聖ヴィァトール修道会 来日50周年』p3)の遺構を訪れることにした。

暁東中学は、鉄東区の中央東路のすぐ北側、北六経街と北七経街に挟まれたところに建っていた。今ではここも、先ほどの教会と同様に、周りは社会主義住宅が立ち並ぶ住宅街になっている。

しかし、校舎は国共内戦によって破壊され、共産党による四平市占領後には宣教師たちが拘束されて、1948年、私立暁東中学は、遼北省立四平中学ならびに四平女子中学と合併させられ、遼北省立第十中学という公立中学になって、ヴィアトール修道会が運営するミッションスクールの伝統は断たれた。1954年には、現在の四平第一高級中学校の場所に新校舎が建設され、学校の機能は新校舎に移転した。その後、暁東中学の敷地は、国営バス工場として利用され、使われなくなった校舎のうち、戦災に遭わなかった部分はそのまま建っていたそうだ。だが、国営バス工場はその後閉鎖され、マンション敷地となった。先ほどの老人によれば、校舎は2年前に取り壊されてしまったという。わずかの差で、日本にはほとんど記録が無い暁東中学の旧址を見ることができなかったのは、誠に残念である。

いま、暁東中学跡地では、「東昇嘉園」という名のマンションの建設作業が続いている。私たちは中学校跡地の周りを一周して中学校の面影を残しているものを探した。跡地にはマンション建設のための大型クレーンが数本立ち並び、多くの建設作業員が作業を進めていた。教室のあった本館にあたる建物は、跡形もなく失われていたが、工事現場の片隅には、ガラスが割られ、いまにも取り壊し寸前の、古い平屋のコンクリート造り建物が残されていた。これが、暁東中学当時、作業場として使われた建物だと思われる。

敷地の外壁には、重厚感のあるマンションのイメージ図が貼られている。また、一部完成している塀には、学校の塀を模したようなモティーフがとりいれられている。完成品がイメージ図通りであれば、昔の暁東中学校のイメージを取り入れたマンション群が、この敷地に立ち並ぶのかもしれない。マンション名の「東」は、「暁東中学」から一字とってあり、「暁」は太陽が「昇る」ことと通じる。マンションを設計した建築家や四平/四平街の人々に、昔の名門ミッションスクールのイメージが存在していたために、そのような建物のデザインや名称が選ばれたのかもしれない。満洲国時代の場所の記憶は、建物が物理的に失われても、このような形で持続しつづけるのであろう。

跡地の周りを一通り見た私たちは、中国政府が暁東中学の公式の後継校としている四平市第一高級中学校に向かった。

  

設備の整った地域いちばんの進学校、
四平市第一高級中学校

四平市第一高級中学校は、私立暁東中学校の流れを引き継ぐとはいうものの、ミッションスクールを非宗教化するという中国共産党の方針に従って、この学校に、現在宗教色は一切ない。

1954年に、新校舎が,中央東路に面し鉄東区の東端の現在の位置に完成して移転し、名前を吉林省四平市高級中学校と改めた。文化大革命時代の混乱を経て、2004年に、現在の名前である吉林省四平市第一高級中学校となった。(学校紹介パンフレットpp3、4』,四平市第一高級中学校の学校紹介DVD)四平市第一高級中学校は、「中学校」という名前であるが、日本の中高一貫校に該当する。

学校に到着してまず目に入ったのは入口である。入口には看守所もありセキュリティもしっかりしていた。さらに、入口の近くの柵には卒業生の進学先と名前が掲示されている。現在の四平市第一高級中学校は、この地域の進学校であり、卒業生は、北京大学や清華大学など中国を代表する難関大学にも数名進学している。北京大学と清華大学への進学者は別枠で生徒の顔写真付きで掲載されていた。個人情報保護などそっちのけで、大学の進学実績を堂々と校外に掲示するようなやりかたは、日本の高校ではまず考えられない。しかし中国では、公立進学校同士が大学進学実績をめぐって激しく競争しあっており、これはむしろ日常の光景である。

私たちは、学校の校務弁公室主任の付頴さんにお願いして、校内を案内してもらえることになった。

敷地に入るとすぐに広場があり、「全国青年文明号」「全国現代教育技術実験学校」などと書かれた看板が並べられている。学校の玄関口にあたるこの場所に四平第一高級中学校が学校教育機関としていかに政府に重要視されているかということを、学校側が最大限にアピールしているようだ。校庭には、水は出ていない噴水とオブジェがあり、その奥には中国国旗、四平第一高級中学と書かれた旗、校章の描かれた旗が掲げられていた。

 

広場の奥にはコンクリートの敷かれたグラウンドがあって、バスケットボールやバレーボールで遊ぶ生徒達がいた。そのさらに奥には、メインの校舎で瀟洒な赤い屋根の時計台がシンボルの「第一教学楼」がある。入口から広場に向かって左手には、ミニ天文台のある「第二教学楼」、そして体育館がある。右手には入口側から奥に向かって、この場所に学校を移転した当時からの古い校舎・食堂と寮の入った「第一学生アパート」、売店・書店・食堂・寮の入った「第二学生アパート」が並んでいる。

「第一教学楼」の裏には、大規模なグラウンドが建設中である。これは、学校紹介のパンフレットによると、トラックと観客席の付いた大規模なグラウンドとなるようだ。建設中のグラウンドの隣には入口側から学術報告ホールのある「実験楼和学術報告庁」、教室の入った「第三教学楼」、そして建設途中の教師の宿舎がある。

私たちは付頴さんに先導してもらい、始めに右手にある「第一学生公寓楼」に入り、一階の学生食堂を見させていただいた。日本の学食と似たような構造で、カウンターで料理を受け取り、各自が席に料理を運ぶ形式であった。次に「第二学生アパート」に入り一階の売店を見させてもらった。こちらは、日本の大学生協売店と同様で、スーパーマーケットのような構造であった。全体に、日本の高等学校にくらべて、はるかに設備が整っている印象である。

付頴さんによると、寮に入っている生徒は、親と一緒に生活しているのだという。子供だけを寮生活させたのでは、遊んでしまうと親が心配するのだろうか。大学進学に向けて、産んだ一人っ子をつきっきりで叱咤激励し、難関大学を目指して勉強させる親の様子が伝わってくる。中国の受験戦争の過熱ぶりは、日本の比ではないようだ。

私たちは、敷地の奥にある、教室の入った「第三教学楼」を案内してもらった。日曜日のため、生徒は誰もいない。教室の外には、日本の高校と同じように「1年2班(組)」と表札が出され、教室は同じくらいの広さであるが、机は約80人分もあり、窮屈な様子であった。別の教室の黒板には英語の授業の板書が残されていて、中国でも英語教育が重視されているのを知ることができた。

次にメインの校舎となっている「第一教学楼」に向かった。建物の正面には「熱烈祝賀焦陽同学被清華大学録取」などと書かれた赤い垂れ幕が5階からぶら下がっていた。難関の、北京大学と清華大学の試験を突破した生徒の功績が、ここにも宣伝されている。

入口を入ったところの壁には数多くのスローガンが書かれていて、生徒が毎日スローガンを見るような構造になっている。「面向世界」「面向未来」「面向現代化」といったグローバルな視点を養うことや先進化を狙うようなものや「教師学者型」「生徒人才型」といった教師、学生のあるべき姿を説くようなものがある。

また入口には校則、校歌が掲示されていた。校則には中国への愛国心と中国国民への愛情を持ち、中国共産党を支持し、勉学にはげむことで社会主義の現代化に貢献することが第一項目として掲げられていた。このことから、中国共産党にとって教育がいかに重要な要素であるかが伝わってくる。愛国主義を軸とし、国家と共産党に忠実な次世代の人材の育成が重要視されている。他には、遅刻をしないように、たばこを吸わないようにといった生活面の指導や、校則を守り、先生を尊敬し、学生が一致団結するようにといった団体生活の規則などが掲げられていた。団体規律を重視し、教師に従うように教育するのは日本でも上自然なことではないが、中国の人口規模や社会体制を考えれば、多数の国民を政府のコントロール下におきやすく教育するという方針があるのかもしれない。

階段を上っていくと、各階のフロアには、またもや近年北京大学や清華大学といった名門大学に進学した卒業生を紹介する掲示板があった。瀋陽・長春・吉林など、地元の東北部にある大学は、あまり顧みられていない。ハルビン工科大学は、かつてソ連の援助を得た理系の名門大学のはずだが、それもあまり価値がないらしい。とにかく、北京大学と清華大学の価値は、ただものではないようだ。

他にも様々な掲示がなされていた。著名な卒業生の紹介をしたもの、学校の各施設の案内、近年の進学状況、教師向けに生徒に知識偏重の詰め込み教育ではなく独創的な発想をするようにとの訓示、教師の紹介、四平第一高級中学校が表彰をされたものについての紹介などなど、無数にある。

掲示板のなかには、偉人をモティーフにしたレリーフがあった。レリーフの題材には、アインシュタインや孔子が用いられていた。特に孔子は、かつて共産主義思想に合わないとして厳しく批判されたものの、近年儒教の再評価が進む中国社会の状況を踏まえ、教育現場に再び積極的に取り入れられるようになっていることがわかった。


満洲、中国、台湾、そして日本
カトリック校の歴史の伝統とスティグマ

校内に掲示されていた。学校の歴史は、「悠久な歴史と光栄ある伝統を持つ名門校である」として、その伝統を、満洲国時代の、1933年に聖ヴィアトール修道会宣教師らが創設した英語商業中学、そして暁東中学にまでさかのぼって示していた。かつて共産党が排撃し宣教師を追放したカトリック校の後継校という歴史は、各中学校が、進学実績を伸ばすことで、自らの学校の価値の向上と優秀な生徒の確保を狙う激しい競争にたたきこまれている状況において、いまや、受験する生徒や保護者への宣伝、そして在校生への鼓舞という点から、四平市第一高級中学校の大きなセールスポイントと化している。学校側の戦略として、中国共産党が踏み潰したミッションスクールの伝統が、いまや何のためらいもなく掘り起こされている。

私たちは校務弁公室(事務室)に案内され、事務長の方からいろいろと学校について説明を伺った。

この学校には、遠くからも生徒が集まり、入学試験には2000人程が志願し、合格するのは1000人程だそうだ。生徒数は約5,000人で男女比は1:1、文系と理系の比率は7:3、大学進学率は90%以上、留年する学生はいないという。卒業生の中に日本の大学に進学する生徒はいないが、韓国の大学へは奨学金を利用して行く生徒がいるという。

私たちは、事務長の方に対し、暁東中学の伝統を前身にもち、戦後京都に聖ヴィアトール修道会によって開設された洛星中学校・高校を知っているか、とたずねてみた。だが、四平市第一高級中学校の方は、日本の洛星中学校・高校について全く知らないようであった。洛星中学校・高校の側も、私立暁東中学校の伝統を、一般の日本人向けウエブサイトでは全く伝えておらず(「洛星中学校・洛星高等学校:学園案内:沿革概要」)、同校の『50年誌』(前出)で、わずか半ページほどを割いているだけである。2007年、暁東中学の発展に貢献した村田源治神父が帰天したことを報じた『ヴィアトール学園報』(11号, p.30)がつたえる同神父の経歴に、満洲国での活動はまったくふれられていない。聖ヴィアトール修道会のアジアにおけるミッションをもって再開された敗戦国日本の学校にとって、満洲国でかつて営まれていた自校の前身について一般に広く語ることは、いまなおスティグマとなっているように思われる。

事務長は、同じ聖ヴィアトール修道会が台湾に設立した衛道中学校ならば、数年前に、台湾側の学校関係者が、四平第一高級中学校を訪れた、と語ってくれた。衛道中学校は、そのホームページで、私立暁東中学校を前身とする伝統を公にしている。

日本と対照的に、中国と政治的に対立しているはずの台湾の学校が、同じ聖ヴィアトール修道会というルーツを認識しあい、協力を約束しあったという事実は歴史の皮肉である。四平市第一高級中学の差別化戦略として、戦前の伝統を強調するのみならず、台湾の学校と提携して台湾の先進的教育手法の導入を図ろうと協力関係を積極的に構築したのではないだろうか。私たちにも、日本の中等教育の教育手法を学びたいと言ってきた。中国における大学受験競争・学校間競争の激化という現実、そして先進的な技術を取り込みたいという意欲は、どのような歴史も、政治上の差異もふみこえるものなのかもしれない。

最後に私たちは、学校の入口で写真を撮り、長春へと帰路についた。


国共内戦を物語る街の玄関口

私たちは、四平第一高級中学校を車で出発し、長春に戻るために中央東路・開発区大路を東に向かった。

中央東路から開発区大路へと道路が変わるところには、電厰広場と呼ばれるロータリーがある。このロータリーの内側には「英雄城」と文字の彫られた大きなモニュメントや兵士の像が置かれている。この電厰広場は街の東の高速道路から入ってくる人々にとって四平/四平街の玄関口となっている。つまり四平/四平街に訪れた人に対して、国共内戦における共産党の奮闘と勝利を宣伝する役割を担っていると言えるだろう。

電厰広場をそのまま通り過ぎ、高速道路を利用しようした。しかし、入口のところで高速道路が通行止めとなっていた。要人が通るために、一般人の通行が禁止されたということだった。そのため私たちは、一般道を使って長春に向かうことを余儀なくされた。


満洲国首都から日本本土への最短ルート
―かつての戦略鉄道を進む寝台列車

8時ごろ私たちは長春駅に到着した。既に真っ暗になった駅前は多くの人でごったがえしており、大きな荷物を持つ人々も多く見られた。

ここでも駅に入るには荷物チェックをしなくてはならず、ゲートには人々が列をなしていた。待合室に進むと、そこも隣の人と肩が触れ合うくらいの混雑であった。待っている乗客は大きな荷物を持つ人が多く、中には家畜の飼料が入ったような袋を持つ人もいた。

この駅には、通常の待合室だけでなく、有料待合室も用意されていた。10元を支払う必要があるが、決してサービスが良いわけではなく、内装は一般の待合室と大差なかった。有料待合室内もそれなりに混雑しており、中流階層が増えてきていることを表していた。有料待合室の入口には売店があり、カップ麺などが売られ、湯が用意されていた。

列車の出発まで時間があった私たちは、駅の近くの飲食店で夕食をとることにした。私たちは一度駅の外に出て、近くのファーストフード店に入った。店内の内装も日本のファーストフードと同様で、入口を入るとレジカウンターが3列程あった。来店した客はここで注文と商品の受け取り、奥のテーブルで食事をする。メニューも、カレーライスや牛丼、鶏の照り焼き丼のようなものが並んでおり、長春でも日本食は人気があるようだ。値段はセットで40、50元であり、高価であったが、私達は久しぶりに日本食のようなものを食べることができ、満足した。夕食を済ませた私たちは、駅の構内へと戻った。

私たちは、午後9時47分発の、吉林経由図們行きの列車で安図へと向かった。列車の車体は白地に赤のラインが入ったもので、私たちの乗ったのは軟臥車であった。客車に乗る際に、係員に乗車券を見せて中に入った。

車内は9つのコンパートメント(個室)があり、各個室には4つのベッドが左右に2段に取り付けられていた。他にも洗面所の部屋が1つあり、トイレも車体の前後に計2つ取り付けられていた。

列車が出発してしばらくすると、乗務員が各個室を巡回して乗車券のチェックを行い、乗車券をカードと交換した。その際に私たちは、パスポートの提示を求められた。乗務員が持っていたリストには、乗客の情報が書いてあるようであった。

私たちがいま乗っている鉄路は、長春と吉林を結ぶ吉長鉄道を朝鮮国境まで延長した京図線で、この地域への日本のフロンティア拡大と密接にかかわっている(右図参照 出典: 「京図線―満州主部と朝鮮北部の連絡」)。1909年に、日本と清国のあいだで結ばれた間島協約第6条は、「清国政府は将来吉長鉄道を延吉南境に延長し韓国会寧に於て韓国鉄道と連絡すへく其一切の弁法は吉長鉄道と一律たるへし開弁の時機は清国政府に於て情形を酌量し日本国政府と商議の上之を定む」 と定めた。この鉄道は、日本が、朝鮮経由で中部・北部満洲にフロンティアを拡張するうえで上可欠であった。そして満洲国が建国されて長春が首都・新京になって以降は、首都と天然資源、森林資源の豊富な間島地方を結ぶため、そして、満洲国の首都を植民地朝鮮経由で日本本土と陸路直結するため、という二重の目的で、日本の覇権領域を統合するに欠かせない戦略的鉄路となった。このため、日本は山岳地帯を貫く困難な工事にも拘らず、全力を挙げて建設を進め、満洲国建国直後の1933年に全線を開通させた。

山岳地帯をゆくため、列車の速度は遅く、カーブで車輪を軋ませて進む。重い歴史をはらむ鉄路の揺れる客車に身を任せ、私たちは、翌日の巡検に備えて、早めに就寝した。

(永井直樹、齋藤俊幸)


● 四平/四平街の巡検ならびにこのページの作成に当たり、ヴィアトール学園洛星中学・高等学校(京都市北区)の徳安浩明教諭ならびに副校長先生より、史料や情報の提供につき、多大のご協力を頂きました。ここにあつく感謝の意を表します。

● このウエブページは、2009年度3年ゼミ生の永井直樹が担当者であり、ホームページのベータ版まで作成したが、その後再三の請求にもかかわらず担当者から完成版の提出が得られなかったので、やむなく研究室で完成させた。作業は、齋藤俊幸が担当した。