レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2004年03月
- 登録日時
- 2005/12/08 13:29
- 更新日時
- 2006/02/03 15:20
- 管理番号
- 県立長野-04-020
- 質問
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解決
「信濃では月と仏とおらがそば」の作者は誰か。『信州蕎麦学のすすめ』(市川健夫著 オフィスエム 2000)〔N383/29〕には「中村某」の作とある
- 回答
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「中村某」とは中村六郎をさしていると思われる。小林計一郎「一茶顕彰家中村六郎略伝」 雑誌『長野』第70号(長野郷土史研究会1976)9pに“中村家では「信濃では月と仏とおらがそば」の句は六郎が作ったものだと言い伝えている。同家の本職は酒造(銘玉の井)であったが、氷ソバというソバを製造販売していた。(中略)この氷ソバの宣伝の意味もあってこの句を作ったのだと言う”とある。
なお『俳人一茶』(宮澤義喜編 東京三松堂1898)〔N913/87〕、『俳諧寺一茶』(一茶同好会編・刊1910)〔N913/272〕ではこの句が一茶の句であるとしているが、小林計一郎「一茶の虚と実」雑誌『長野』(前掲) 104号41~42pで“①一茶は、おびただしい句日記や句文集を書いているが、それらのなかにこの句がみえない。②一茶の三回忌にその門人たちが編集・出版した「一茶発句集」にこの句がない。③右(「一茶発句集」)の句集を増補した「嘉永版一茶発句集」にもこの句がない”という理由をあげている。
- 回答プロセス
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① 『信州蕎麦学のすすめ』(前掲)12pを確認する。“この句は大変有名で、小林一茶の句だと思っている人が多いが、実は明治四〇年代一茶と同じ柏原村(現信濃町)の中村某氏の作だといわれている”とあり、小林一茶の句とする説もあるらしいことがわかる。
② この句についての諸説を扱った論文がないかと、自館システムでこの句の初句をキーワードとして検索すると、小林計一郎『「信濃では月と仏とおらがそば」は一茶の作ではない』 雑誌『長野』167号(前掲)90pに、この件については雑誌『長野』(前掲)の70号と104号に詳しいとある。
③ 雑誌『長野』(前掲)の70号をみると答の記述がある。また『同誌』(前掲)104号41~42p小林計一郎「一茶の虚と実」をみていくと、この句の初出としては『俳人一茶』(前掲)〔N913/87〕という資料があり、またこの句を有名にした資料として『俳諧寺一茶』(前掲)〔N913/272〕が揚げられている。
④ 『俳人一茶』(前掲)をみると、18pに“翁江戸に出でて、始めて成美を訪ひし時、成美遇はざりければ、即ち、信濃では月と佛とおらがそば 或いは三句蕎麦ばかりとも云 と書き止めて去らんとす。成美これを見て、奇とし出でて面し、其非凡なるに驚き、喜びて門下に寄食することを許しけり”とあり、一茶の句とされている。また『俳諧寺一茶』(前掲)所収、束松露香の「俳諧寺一茶」11pをみても一茶の句となっている。
⑤ 小林計一郎「一茶の虚と実」『長野』(前掲)104号では、④の資料への反論がなされており、『俳人一茶』(前掲)の材料を提供したのは中村六郎であること、『俳諧寺一茶』(前掲)の編者一茶同好会の会主が中村六郎であり、束松露香と中村六郎には親交があったことや、答にある理由から、この句の作者を中村六郎と推測している。
- 事前調査事項
- NDC
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- 詩歌 (911 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 小林一茶
- 中村六郎
- 信濃(長野県)
- 月と仏
- おらがそば
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 『なんでもきいてみよう』(県立長野図書館 平成16 第36集)収録レファレンス
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000025521