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野球人&ファン300人 歴代最強チームはこれだ!

広岡達朗が語る、下位チームを優勝させた監督論

 

ヤクルト西武で監督を務め、下位チームを優勝させる手腕を発揮した広岡達朗氏。果たして、弱者を強者に変貌させた名将は、どのような策を講じたのか。最強チームの監督に必要な素養とともに、その秘密を語ってもらった
構成=小林光男 写真=BBM

▲82、83年(写真)に西武で日本一連覇、85年にもリーグ優勝を果たした



選手に媚を売る必要はまったくない


 やはり、監督、指導者のやり方ひとつでチームは強くなるか、弱くなるか、大きく変わると思う。まず、監督は選手に媚を売る必要はない。勝利を得るために自分の信念を浸透させ、それを貫けばいい。当然、そのために監督も勉強することが大切だ。

 私も巨人のユニフォームを脱いだ後、勝つための方程式を学ぶために4カ月、アメリカに滞在した。投手のローテーション制を知るなど、得たものは大きかった。さらに積極的な選手を作ること。日本人は謙譲の美徳があるが、勝負の世界にはそれは必要ない。そういったことも学んできた。

 帰国後、評論家生活も3年続けた。そのとき、特にサンケイスポーツの北川貞二郎運動部長には非常にしごかれた。私が書いた原稿を手直ししてくれたのだが、簡潔だけどまさに自分が言いたいことが入っている文章になっている。

 私は例えば試合で5つのポイントがあった場合、そのすべてを原稿に入れていた。しかし、それだと何が重要なポイントだったのかよく分からない。「5つの中で最も大切なことを一つ見つけて書きなさい。一点絞りは新聞記事を書く上で非常に大切なことです」と指導されたのだ。

 この一点絞りという考えを応用したのが1976年シーズン途中からヤクルトの監督になったときだ。当時のヤクルトは戦力が劣り、足りないものだらけ。すべてをレベルアップさせなければいけない状態だったが、それは簡単にできることではない。そこで私は最初に手を入れるべき点を考えて、投手陣を優先的に整備していった。投手陣がフル回転できれば、残りの枝葉はついてくる、という考えだ。

 アメリカで学んだ先発投手のローテーション制も取り入れた。松岡(弘)、浅野(啓司)、安田(猛)が力のある投手だったが、前の監督は1試合で一気にこの3人を起用して勝利を手にしていた。

 しかし、翌日から力の劣る投手しか残っておらず、連敗を重ねてしまう。だから、私が監督になったとき、3人にプラスして会田(照夫)、鈴木(康二朗)で先発ローテを作った。抑えは井原(慎一郎)に任せるなど役割分断も明確にさせた。

 さらにヤクルトは家庭的な雰囲気で、チームで戦う意識が希薄だった。だから、選手の意識を変革させるために、アルコール禁止やグラウンドでの禁煙など当たり前のことを始めた。それらがうまく絡み合い、79年の球団初優勝へと結びついていったのだ。

▲78年、ヤクルトで悲願の優勝。広岡監督の手腕が光った



黄金時代の礎となった会心のシーズン


 82年西武で監督になったとき管理野球などと言われたが、それにも当然、根拠はある。当時の西武のメンバーはベテランが多く、技術はすでに完成している選手ばかり。ただ、勝ち方を知らなかった。

 だから、個々の力を勝つ方向へ集結させるために何が必要か考えたとき、導き出された答えはベストコンディションを整えれば頂点を狙える、ということだった。だから、選手の体調を維持するために食生活の改善に着手したのだ。選手だけでなく、夫人にも自然食についての講習会にも参加してもらうなど徹底した。

 さらに私にとって会心のシーズンとなったのは3位に終わった84年だった。前年に連覇を果たしたが、ベテランだけに頼っていてはチームの将来はないと考え、若手選手を主力に育て上げることを考えた。田淵(幸一)は強烈な花粉症持ちで、年齢を重ねるごとに春先は気力がなえる。「試合に出たくない」などと言い、チームの足並みがそろわない。

 そこで私は決断した。5月20日のことだった。ちょうどチームも3位に落ち、コーチ陣を集めて「今日から主力を若手に切り替える」と宣言。石毛(宏典)、秋山(幸二)、伊東(勤)、辻(発彦)らを中心としたチーム作りをする。若手とベテランの二通りのメンバーを作れ、とコーチに指示を出した。ただし、選手を無視してはいけない。必ず田淵たちの状態を確認して、その日のオーダーを決めた。

 苦しい戦いになるのは覚悟し、そのとおりにBクラスに低迷したが、「優勝から脱落したチームが必ず落ちてくる」と言い聞かせた。すると近鉄の状態が悪くなり、結局、西武が3位に食い込むことができた。

 この年、若手には多くの経験を積ませたから、次の年が本当に楽しみだった。実際、彼らが頑張ってくれ、優勝を果たすことができた。会心のチーム改革。私はフロントとの行き違いがあり、同年限りでチームを去ったが、西武は黄金時代を築いていくことになった。

 とにかく、最強チームを作り上げていくには監督の力によるところが大きい。だから、周囲からの見え方も重要だ。最近の監督はダラッとしているように見えるのが多いように思う。チームを率いる監督は、もっと毅然とした態度でベンチにいなければいけない。ベンチでも後方に座っているのではなく、前方に出る。その昔、監督は三塁コーチャーズボックスに立っていたものだ。監督は陣頭指揮を執らないといけないのだから、もっと身を乗り出して、戦う姿勢を示すべきだろう。

 西武監督時代、所沢に練習設備が整っているファームのグラウンドがあった。一軍が西武球場で試合、ファームはグラウンドで練習という日が何度もあった。午前中、ファームの練習を見て、ナイトゲームに臨んで試合後にはミーティング。自宅に帰るのは深夜で、翌日は午前にまたファームのグラウンドへ。そんな生活をやっていたので監督2年目、球団に頼んで球場近くに5LDKくらいのマンションを借りてもらった。コーチ陣もほとんど泊まって、指導法なども話し合った。やはり、チームを強くするには指導者にこれくらいの情熱がなければいけないと思う。

PROFILE
ひろおか・たつろう●1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として新人王を獲得するなど活躍。66年限りで引退。70年〜71年広島コーチ。74年ヤクルトコーチとなり、76年シーズン途中から監督。78年、球団創設29年目でチームを初の日本一に導くも、79年シーズン途中で辞任。82年西武監督となり連覇を達成。85年もリーグ優勝に輝いたが、同年限りで退団した。92年野球殿堂入り。現在は野球評論家として活躍している。
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