暘州通信

日本の山車

35541 松林飯山

2009年01月06日 | 日本の山車
35541 松林飯山

天保十年(一八三九)二月ー慶応三年(一八六七)一月。
筑前早良郡金武村羽根戸村(現福岡市西区)に生まれた。幼名を駒次郎、字を伯鴻といい、のちに廉之助とあらためた。飯山は号で、飯盛山の麓に生まれたことにちなむ。
父は杏鉄(きょうてつ)といい医師であったが、絵が好きで南画を得意とした。五教館教授、片山歓治氏の推挙で藩の御典医についている。
飯山は秋月藩家老から養子に望まれたが父はこれを嫌い、妻の郷里七釜の沖の蛎浦の中村家に隠棲した。
十四歳のとき、参勤交替に従って江戸に上がり、安積艮斉(あさかこんさい)の塾に学んだ。
飯山は伊丹郷町に橋本香坡をたずねているがこのころのことであろうか。香坡は不在であったが、待つうち、香坡は谷口與鹿とともにすっかり酩酊して明倫堂に帰ってきた。「余は酔香坡なり」と自己紹介したあと、深更にいたるまで話し合っているが、飯山はすっかり香坡に心酔した。
安政四年(一八五七)十九歳のとき幕府の昌平校に入り、ここで学才を認められて詩文係に任命された。
二十一歳のとき五教館の教授を拝命し故郷の大村(長崎県)に帰った。北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、近畿、中国、九州諸藩の藩士らが大村に学んでいる。土佐の岩崎弥太郎もその一人である。
文久三年(一八六三)十月、二十六歳のとき五教館の祭主についた。
渡邉昇、楠本正隆らとともに大村藩が倒幕へと向かう、大村藩勤王三十七士の中心人物
となった。
慶応三年正月、大村城中で恒例の謡初式が行われたが、自宅前まで帰ったところを長井兵庫ら佐幕派の浪士に襲われて死去した。享年わずか二十八歳であった。このあと大村藩の勤皇派の動きが活発になるが。慶応四年は明治元年と改元された。明治維新はを迎えたのは飯山の死去一年後のことである。
松林飯山の著述に「飯山文存」がある。



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