トヨタの豊田章男社長の偽チャップリン発言について、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の取材に答 | 人間の大野裕之

人間の大野裕之

映画『ミュジコフィリア』『葬式の名人』『太秦ライムライト』脚本・プロデューサー
『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』岩波書店 サントリー学芸賞受賞
日本チャップリン協会会長/劇団とっても便利

http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/11186/#

先日、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の取材に答えました。この記事がそれ。
トヨタという自動車会社の豊田章男社長さんが、
「都内での決算会見の冒頭、記者団へのあいさつで、「私は、喜劇王チャップリンが、『あなたの最高傑作は何か?』と聞かれた時にはいつも、
『NEXT ONE』と答えたという、常によりよいものを作ろうとする姿勢に、我々でいう『改善』の精神と相通ずるものを感じております。
ぜひとも、トヨタ、レクサスの『NEXT ONE』に、ご期待頂きたいと思います」と述べた。」とのこと。

この件について先日「ウォール・ストリート・ジャーナル」から私に取材がありました。もちろん、チャップリンは「ネクスト・ワン」なんて言っていないので、そのように答えて、「社長さんにチャップリンはそんなこと言うてないとお伝えください」と申し上げました。

別に大会社の社長と言えども全知全能ではなく、ちまたで言われている噂に基づいて「ネクスト・ワン」とおっしゃったことは、別に結構かと思います。専門外のことについて勘違いなさるのはごく普通のことですし、このことがトヨタや豊田社長の価値を下げるものではありません。チャップリンを取り上げてくださるのは嬉しいし、ありがたいことだと思います。

しかし、この記事のなかの興味深い部分は、

「トヨタの広報部・グローバルコミュ二ケーション室の布施直人主査は、日本では通常、チャップリンの発言とされており、いかにも彼らしい発言だとの見方を示した上で、「つまり、現状の満足度より常に良くするのが大事という意味だ」と語った。」

の部分。
布施直人さんがかようなことを本当におっしゃったとの仮定で、このご発言に対して、いくつかの疑問を申し上げます。
1、「日本では通常、チャップリンの発言とされており、」・・これはその通りですが、「実は違う」となったときに、「ああ、そうだったんですか」と最新の知見に基づき改善していくことが何事においても大切ではないのでしょうか。「カイゼン」がトヨタのモットーらしいのですが、それは事実に基づき改善することではなく、「従来言われていること」にこだわることなのでしょうか?
2、「いかにも彼らしい発言」とありますが、チャップリンファンとしてはまったくチャップリンらしい発言とは言えません。自動車会社の方が、チャップリンらしくない発言を、「いかにも彼らしい発言」と何の根拠もなしにおっしゃるのはいかがなものかと。私は車のことは何も知らないので、「いかにもトヨタらしい車」などとは申せません・・
3、チャップリンは「最新作が一番好きだ、古いのは自分にあわなくなる」と言うことが多かった。アーティストの身になってください。新作を発表したばかりのアーティストが、あなたの好きな作品は、と問われて、「最新作です」と答えるのはごく自然なことで、「(せっかく作った最新作には満足しておらず)次の作品」などと答えるわけもありません。ご自分のお考えに偉人の発言をあわせずに、他人の身になってみられることも重要ではないでしょうか?

*ちなみに、上記発言は、世界旅行中の取材での発言。晩年のあるインタビューでは「最新作の『伯爵夫人』が一番好き。それをのぞくと『街の灯』が好き」と答え、別の機会には「『黄金狂時代』とともに自分の名前を覚えておいてほしい」・・などなど一貫しないのがアーティストらしい、と僕は思う。

社長さんや広報が、「チャップリンはネクスト・ワンとは言っていないと聞いた。事実に基づき発言を訂正します。それが我が社のカイゼンです」なんておっしゃれば、カッコ良くて「さすがはトヨタ」と尊敬いたします。

以上、我が国を代表する企業の「カイゼン」の精神に敬意を表しつつ、一言申し上げました。失礼の段はお許し下さい。

【追記】「父は満足しないテイクには絶対にOKは出さなかった」これは娘のジョゼフィンが僕に語った言葉。チャップリンは何度も撮り直し、満足のいく映画を作り上げた完璧主義者です。彼自身がプロデューサー、脚本、監督、主演、作曲を兼ねて、衣裳まで選んだ。圧倒的な名声と人気ゆえ、お金にも困らなかった。徹底的に満足行くまで仕上げた作品だけを作り続けた。つまり、かの天才は、映画史上稀に見る「自身の作品に、満足した作家」たりえた、それが天才の奇蹟なのです。
「ネクスト・ワン」がベストで、「次はもっとうまく出来る」なんてのは凡人の台詞です。現状に満足しないのは誰だってできる。「絶えざる向上心」なんて誰でも言える。チャップリンは、出来上がった作品に心底満足できるまで、自分を追い込み、血のにじむ努力をしたわけです。それはただの「現状肯定」とも、凡人の逃げ口上に近い「向上心」ともまったく違う、非常に厳しいものです。