大阪平野の変遷
1.河内湾1の時代
 
縄文前期
2.河内湾2の時代
 
縄文中期
3.河内潟の時代
 
縄文後期〜弥生前半
4.河内湖1の時代
 
弥生後期〜古墳時代
5.河内湖2の時代
 
五世紀頃
6.大和川付け替え以前
7.大和川付け替え以降
8.現在

弁天池夕景 河内湾1の時代は「縄文海進」という海水面が異常に高くなった時期で、広く河内の野を海が覆った。大阪市鶴見区ではクジラの化石が見つかっている。その河内湾に突き出した高地・上町台地は大阪湾から吹き付ける西風により砂州先端を発達させてゆく。
 河内湾2の時代になると沖積作用が激しくなり湾は徐々に埋められはじめる。淀川の流送土砂のほうが大和川からのそれより多く、湾は北から埋まってゆき潟となり、海口が閉鎖され河内湖を残すことになる。
 河内湖1の時代と河内湖2の時代は難波の堀江開削によって分けられる。長く発達する上町台地北端の砂州によって塞かれた水流はやがて砂州を穿って大阪湾に出てゆく。これにより河内湖の水流が変化し、静水面が大きくなってゆく。このあと、河内湖も次第に沖積作用により埋まってゆき、最後に深野池と新開池の最も深い部分を残し平野が発達する。このあと大和川付け替えを経てその池沼も陸となり、現在は門真市岸和田の弁天池に僅かに名残を留めるのみとなっている。

参考文献 アーバンクボタNo.16 (1978年10月)


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