赤穂浪士の討ち入りは元禄15(1702)年の暮れ。大石内蔵助は道策が死んだことを聞いたでしょう。囲碁史に輝く偉大な棋聖、四世本因坊道策は同年3月に数え58歳で没しました。内蔵助は碁を好み、よく打っていたのです。藩主が江戸城で刃傷事件を起こした報せが赤穂に届いたときも、浅野家菩提寺(久学寺)の住職と碁を打っていました。
江戸時代に早飛脚で遠方まで届けられた情報は、重大事件ばかりではありません。御城碁・御城将棋の結果も二、三日後には全国各地に伝わっていました。
棋聖道策の名声は津々浦々に轟き、道策門下の神童、小川道的の名も知れ渡っていたことでしょう。道的は17歳で七段に昇り、御城碁に初出仕しています。その前年に道策は道的を跡目に据え、本因坊家の益々の発展を誰も疑わないところでしたが、元禄3(1690)年に道的は22歳で夭折。
厳しい研鑽の日々を送る青年棋士の多くが結核に冒されたのでしょう。再跡目の策元も元禄12年に早世(25歳)。死期を知った道策は高弟の道節(3世井上因碩)を呼び、安井家、林家、将棋の大橋家を立ち会わせて遺言を伝えました。
13歳の神谷道知(どうち)を跡目と定め、道節因碩を八段(準名人)に進めて道知の後見を命じたのです。さらに、道節に「碁所を望むな」と言い、誓約書を書かせたと、囲碁史に伝えられています(信頼に足る史料による確認はできません)。日蓮宗の僧籍にある本因坊は妻帯できなかったのですが、当時から5世本因坊道知は道策の実子ではないかと噂されていたそうです。
宝永7(1710)年に6代将軍家宣の襲職慶賀と、琉球王・尚益の襲位謝恩の琉球使節が来ました。七回目の江戸上りです。総勢168名(薩摩藩の家臣ら多数の同行者を除く)、18回の江戸上りで最大のものといわれています。
このとき屋良里之子(やらさとのし)が道知と対戦。棋譜と逸話が伝えられてきましたが、比嘉春潮「沖縄の囲碁の歴史」(『比嘉春潮全集第5巻』沖縄タイムス社)にはつぎのように書かれています。
囲碁の特使としては15歳の屋良里之子ということで、かねてから江戸まで大評判だった。この屋良は真の天才碁士ともいうべく、尚益王が特に島津太守へ頼まれたほどだったらしい。当時薩州には道策の弟子が二人いた。一人は斎藤道磨といって六段。他の一人は西俣因悦といい五段の碁であって、屋良はこの両人に師事して、碁もよろしく石立(※1)も道策流で、道磨、因悦にも二ツ(※2)で相応に打ち合っていたとのこと。日本風をよく学び得て奇特であり聡明であると専らの評判だったらしい。
※1…布石 ※2…二子
12月1日の朝、芝の薩摩藩邸に琉球の王子二人と重臣たち、碁家の井上因碩八段、因節六段、本因坊道知七段(21歳)、相原可碩三段(13歳、本因坊の弟子)ほかが揃いました。家老の島津帯刀が応接し、薩摩藩主・島津吉貴も挨拶に顔を出し、その後に宴席。「沖縄の囲碁の歴史」に「五ツ半時、…囲碁を始める」とあります。五ツ半は9時頃です。「暮に及んで碁がすみ」、本因坊に三子置いた屋良は中押し負けとなりました。
(続く)
(2008年6月発表作品)
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