宝酒造株式会社は、幕末に京都の伏見で焼酎の製造を開始した四方家が、1905年(明治38)に起した四方合名会社を前身とする。同社は、宇和島の日本酒精株式会社が開発した、芋を原料にしたアルコールに加水する「新式焼酎」である「日ノ本焼酎」の関東における販売権を獲得し、「宝焼酎」のブランドで販売して知名度を高めた。
1916年(大正5)、日本酒精が合名会社鈴木商店に買収される際、四方合名は、日本酒精の技師兼工場長であった大宮庫吉(くらきち)を引き抜き、技師長に据え、アルコールの蒸留器を製作させ、新式焼酎の「宝焼酎」の製造を開始した。その後四方合名は、25年、宝酒造株式会社へと改組、次々に有力メーカーを合併し事業を拡大させ、国内最大規模の焼酎メーカーへと成長を遂げ、清酒やワインの製造にも関わるようになった。戦時体制下では、軍需用アルコール以外の製造が停滞するが、戦後、焼酎の生産を復活させる。1945年(昭和20)12月に社長に就任した大宮は、同業他社の買収や合併、事業合理化を積極的に進め、経営の建て直しを図るとともに、47年には、ワイン、ウイスキー、ブランデーの生産も開始するなど、事業の多角化を遂行した。この多角化は独占禁止法の施行により、紆余曲折を経るが、52年に中央酒類株式会社を合併し、官営アルコール工場払い下げを落札したことで経営を安定化させ、国内有数の酒類メーカーとしての地位を不動のものにした。
50年に会長職に退いた後にも、社内に影響力を保ち続けていた大宮は、53年に、年来持ち続けていたビール事業参入を決意、資本金を増額し、自己資本での工場建設の目途をつけ、54年の2月に大蔵省へ12万石のビール製造免許を申請し、欧米視察旅行に出発した。その行程は、
4月10日 羽田発
カテナ、バンコク、カルカッタ、カラチ、アバタン、ニコシア経由
4月12日 ローマ着
ローマ市内見学、アレキサンドリアでワイン工場見学、ミラノ、ジェノバ、ベルン視察
4月19日 ミュンヘン着
ビールに関する調査 スタインネッカー社と機器購入仮契約締結
4月25日 パリ着
メル会社視察 シャンペン、コニャック、ワイン、アルコール工場など見学
4月28日 ボルドーにてワイン、コニャック工場見学
4月29日 ロンドン着
スコットランドのウイスキー工場見学断られるが、ギルベー社で説明を聞く
5月 2日 ロンドン発
アイスランド経由
5月 3日 ニューヨーク着
ナイアガラ観光 シカゴ視察
5月 9日 ルイビル着(ケンタッキー州)
シーグラム社のアルコール、ウイスキー工場見学
5月11日 ロス・アンゼルス着
ビール工場、ジュース工場見学
5月13日 サンフランシスコ着
ビール工場、コルク製作所見学
5月14日 ホノルル着
ハワイ事情調査
5月18日 ホノルル発
ウエーク島経由
5月20日 厚木着(飛行機故障のため延着)
というものであった。
当初60日間程度の予定を39日に短縮したこの行程は、大宮の68歳という年齢でなくても、相当に過酷なスケジュールだといえ、彼のビール事業への並並ならない熱意が窺える。
免許の取得は、同時期に朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)、日本麦酒株式会社(現 サッポロビール株式会社)、麒麟麦酒株式会社の既存3社がそれぞれ20万石の増産申請をしていたため調整に時間がかかり、同年9月1日に認可された。その内容は各社とも割り当てを10万石とし、工場がほぼ竣工していた麒麟麦酒を54年中に、宝酒造は55年から、朝日麦酒および日本麦酒はそれぞれ一年後という順に認可するというものであった。
免許取得を受けて、宝酒造は工場の建設計画を立てたが、ドイツのスタインネッカー社製の醸造設備、アメリカ、マイヤー社製の瓶詰設備などの輸入には、国の外貨割当審議会の承認が必要とされ、55年11月に輸入の許可を得た。工事は56年の3月10日に開始され、同年12月に醸造設備を完成、57年の3月に全体が竣工した。工場の敷地内には、工員向けの集合住宅のほか、ドイツ人技師用の平屋建て社宅も用意されていた。
57年1月から仕込みを開始したビールは、同年4月1日、「タカラビール」として発売された。54年2月に市場参入を決意してから3年あまりの期間を経て、宝酒造は総合酒類メーカーへの道へ、一歩、足を踏み入れたのである。
群馬県木崎町(現・太田市) に建てられた木崎麦酒工場(1957年ごろ) |