第16回 
やっぱりお米が好き〜人造米と強化米〜
 
  第15回 
ボクちゃんにお金を貯めて 〜ソフトビニール製キャラクター景品貯金箱〜
 
  第14回 
黄金色に賭けた夢 〜「タカラビール」〜
 
  第13回 
オリンピックとプラスチック〜「ポリバケツ」
 
  第12回 
習慣と流行のはざまで〜電気掃除機の普及〜
 
  第11回 
「健康」という商品 ヨーグルトとミキサー
 
  第10回 
蚊取り線香〜ニッポンで生まれた生活の知恵
 
  第9回 
魚肉ソーセージものがたり
 
  第8回 
インスタントラーメン〜戦後生まれの「国民食」
 
  第7回 
ハーフサイズカメラ
ニッポンの写真文化を一気に拡げた小さな巨人
 
  第6回 
冷蔵庫の歴史から「ニッポンの食生活」の変貌が視えてくる
 
  第5回 
自動車王国ニッポンの“原点”
 
  第4回 
ロングセラー製品とリバイバル製品
「昭和」という時代を現代に伝える名品
 
  第3回 
冬のニッポンスタイル・コタツ
 
  第2回 
「花柄ブーム」の立役者・魔法瓶
 
  第1回 
昭和が生んだ娯楽の王様・テレビ
 
新田太郎 戦後ニッポン「ものづくり」流行史
 
第14回
黄金色に賭けた夢 〜「タカラビール」〜
1 「四番目」はタカラ?

タカラビール(1957年)
宝酒造が並々ならぬ熱意で世に送り出したビールブランド。だが、その道のりは想像を絶して険しいものだった
 現在、国産ビールの製造は、麒麟麦酒株式会社、アサヒビール株式会社、サッポロビール株式会社、サントリー株式会社、オリオンビール株式会社の5社で、ほぼ寡占されている。
 オリオンビールは1959年(昭和34)5月、アメリカ占領下の沖縄で発売されて以来、沖縄市場に主力を傾けているので、全国的に商品を展開しているビール会社はその他の4社といえる。
 このうち、63年4月にこの市場に参入したサントリー以外の3社は、戦前から続く老舗メーカーである。戦後、一貫して続いているこの市況は、製造から卸し、販売の過程で免許制が敷かれ、中小資本の参入が困難であり続けてきた環境に基づいている。
 このような市場に、かつて、57年から67年の10年間だけ、存在したブランドがある。宝酒造株式会社(現:宝ホールディングス株式会社)の「タカラビール」である。
2 総合酒類メーカーを目指して
 宝酒造株式会社は、幕末に京都の伏見で焼酎の製造を開始した四方家が、1905年(明治38)に起した四方合名会社を前身とする。同社は、宇和島の日本酒精株式会社が開発した、芋を原料にしたアルコールに加水する「新式焼酎」である「日ノ本焼酎」の関東における販売権を獲得し、「宝焼酎」のブランドで販売して知名度を高めた。
 1916年(大正5)、日本酒精が合名会社鈴木商店に買収される際、四方合名は、日本酒精の技師兼工場長であった大宮庫吉(くらきち)を引き抜き、技師長に据え、アルコールの蒸留器を製作させ、新式焼酎の「宝焼酎」の製造を開始した。その後四方合名は、25年、宝酒造株式会社へと改組、次々に有力メーカーを合併し事業を拡大させ、国内最大規模の焼酎メーカーへと成長を遂げ、清酒やワインの製造にも関わるようになった。戦時体制下では、軍需用アルコール以外の製造が停滞するが、戦後、焼酎の生産を復活させる。1945年(昭和20)12月に社長に就任した大宮は、同業他社の買収や合併、事業合理化を積極的に進め、経営の建て直しを図るとともに、47年には、ワイン、ウイスキー、ブランデーの生産も開始するなど、事業の多角化を遂行した。この多角化は独占禁止法の施行により、紆余曲折を経るが、52年に中央酒類株式会社を合併し、官営アルコール工場払い下げを落札したことで経営を安定化させ、国内有数の酒類メーカーとしての地位を不動のものにした。
 50年に会長職に退いた後にも、社内に影響力を保ち続けていた大宮は、53年に、年来持ち続けていたビール事業参入を決意、資本金を増額し、自己資本での工場建設の目途をつけ、54年の2月に大蔵省へ12万石のビール製造免許を申請し、欧米視察旅行に出発した。その行程は、
4月10日 羽田発
カテナ、バンコク、カルカッタ、カラチ、アバタン、ニコシア経由
4月12日 ローマ着
ローマ市内見学、アレキサンドリアでワイン工場見学、ミラノ、ジェノバ、ベルン視察
4月19日 ミュンヘン着
ビールに関する調査 スタインネッカー社と機器購入仮契約締結
4月25日 パリ着
メル会社視察 シャンペン、コニャック、ワイン、アルコール工場など見学
4月28日 ボルドーにてワイン、コニャック工場見学
4月29日 ロンドン着
スコットランドのウイスキー工場見学断られるが、ギルベー社で説明を聞く
5月 2日 ロンドン発
アイスランド経由
5月 3日 ニューヨーク着
ナイアガラ観光 シカゴ視察
5月 9日 ルイビル着(ケンタッキー州)
シーグラム社のアルコール、ウイスキー工場見学
5月11日 ロス・アンゼルス着
ビール工場、ジュース工場見学
5月13日 サンフランシスコ着
ビール工場、コルク製作所見学
5月14日 ホノルル着
ハワイ事情調査
5月18日 ホノルル発
ウエーク島経由
5月20日 厚木着(飛行機故障のため延着)
というものであった。
 当初60日間程度の予定を39日に短縮したこの行程は、大宮の68歳という年齢でなくても、相当に過酷なスケジュールだといえ、彼のビール事業への並並ならない熱意が窺える。
 免許の取得は、同時期に朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)、日本麦酒株式会社(現 サッポロビール株式会社)、麒麟麦酒株式会社の既存3社がそれぞれ20万石の増産申請をしていたため調整に時間がかかり、同年9月1日に認可された。その内容は各社とも割り当てを10万石とし、工場がほぼ竣工していた麒麟麦酒を54年中に、宝酒造は55年から、朝日麦酒および日本麦酒はそれぞれ一年後という順に認可するというものであった。
 免許取得を受けて、宝酒造は工場の建設計画を立てたが、ドイツのスタインネッカー社製の醸造設備、アメリカ、マイヤー社製の瓶詰設備などの輸入には、国の外貨割当審議会の承認が必要とされ、55年11月に輸入の許可を得た。工事は56年の3月10日に開始され、同年12月に醸造設備を完成、57年の3月に全体が竣工した。工場の敷地内には、工員向けの集合住宅のほか、ドイツ人技師用の平屋建て社宅も用意されていた。
 57年1月から仕込みを開始したビールは、同年4月1日、「タカラビール」として発売された。54年2月に市場参入を決意してから3年あまりの期間を経て、宝酒造は総合酒類メーカーへの道へ、一歩、足を踏み入れたのである。

群馬県木崎町(現・太田市) に建てられた木崎麦酒工場(1957年ごろ)
3 市場における展開
 「タカラビール」は、各社横並びであったビールの味とは一線を画し、ドイツビールに習い、ホップの香りと苦味を強め、個性化を図った。
 また、容器に関しても、大瓶(663ml)では少しあまるが、小瓶(334ml)ではちょっと足らない、という家庭での需要を想定し、業界3社の反対を説得して、ドイツでよく用いられている500ml(ミリリットル)の中瓶を採用した。そして価格を1本100円に押さえ、家庭での消費をアピールした。
 さらに、発売間もない4月4日、日本橋の東京事務所1階を改造した「タカラビヤホール」をオープンさせ、6月にはサトウハチロー作詞、服部良一作曲、ダークダックスの歌による「タカラビールの歌」を録音するなどして、活発な広報宣伝活動を展開した。
 このような努力にも関わらず、「タカラビール」の売れ行きは芳しくなかった。
 ドイツ風の本格風味という触れ込みは、前月に発売された「アサヒゴールド」が、ミュンヘン醸造研究所のクレーベルの指導によって、麦芽の量を高めたビールとして宣伝されたことで強い印象を得ることが出来ず、苦味の強さは消費者の好みに合わなかった。また、レイモンド・ローウィーのデザインによるモダンな「アサヒゴールド」のラベルに対し、「タカラビール」の伝統的なラベルデザインは古臭さを隠せなかった。
 そして、宝酒造の強い意向で、1956年(昭和31)11月に、麦酒組合から計量規格瓶として通産省に申請された500mlの中瓶は、「タカラビール」発売前に他社から発売されそうになり、宝酒造側から各社へ出荷延期が願いだされる状況であり、市場に出ると、小売店からは扱いづらいという不評を得てしまった。
 そこで、「タカラビール」の味付けは、翌年から他社と同様の軽めの味付けに変更され、不要となったビールは、蒸留器にかけられて「チューロック」という焼酎に造りかえられた。
 また、不評であったデザインは、発売後わずか2ヶ月の57年の6月に、一等100万円の賞金つきでテレビやラジオなどのメディアを通じて公募され、著名人からなる委員によって審査によって、58年3月からモダンなものに改められ、「新しいラベル新しい味」として宣伝された。
 発売から4ヶ月後の57年8月には、大瓶の出荷も開始された。同業他社との相違を打出した部分の多くが裏目にでてしまったのである。
 しかし、苦戦のなによりの原因は、流通の構造にあった。既存3社は、卸から小売まで系列化を進め、特約店形式でビールを販売していた。宝酒造は、発売前の1956年1月の段階で、「既存3社と特約店の間には独禁法違反の疑いがある」というコメントを出さざるを得ない立場となり、単一メーカーのみを扱う、専売業者と呼ばれる卸売業者の多い阪神地方では、自ら阪神麦酒販売株式会社という卸売会社を設立し、販促活動を行なう状況にあった。京浜地方に多い、複数メーカーを取り扱う併売店と呼ばれる業者でも既存3社の壁があつく、なかなか販促に結びつかなかった。
 いくら製品の個性をうたい、宣伝活動を行なっても、肝心の製品が末端に届かなければ売り上げには結びつかない。そこで宝酒造は、家庭に向け小売店を通じて商品を販売するだけではなく、養老乃瀧チェーンとの大口契約を取り付けるなど、居酒屋やビアホールなどの業者向け出荷の強化をはかった。
 その努力もあって、1957年に1.0%(パーセント)であったシェアが、58年に1.7%、59年に1.8%、60年には2.1%、61年に2.6%と徐々に上向いていった。59年には小瓶を、60年には350ml入りの缶を投入、62年3月には28億円を投入し京都に工場を落成させるなど、製品の開発にも余念がなかった。
 1963年4月に洋酒の雄である寿屋(現:サントリー株式会社)が、デンマークのビールをモデルに、軽めで甘めの味付けを施した「サントリービール」を発売した。このビールの個性は、発売当時のタカラビールと同じく、消費者の支持を得ることが出来ず、63年のシェアは1.0%であった。
 サントリーとタカラの違いは、既存の卸売業界に食い込めなかったタカラに対し、サントリーはアサヒの協力を得て、その特約店ルートを使用できたことにあった。また、製品の味をすぐに変更したタカラに対し、サントリーは味の個性を保ち続けた。
 この両者の相違は、以下に見るように、年を重ねる毎に明らかになっていった。
年度キリンアサヒサッポロタカラサントリー
1962(昭和37)45.0(1)26.4(2)26.4(2)2.2(4)―――
1963(昭和38)46.5(1)24.3(3)26.3(2)2.0(4)1.0(5)
1964(昭和39)46.2(1)25.6(2)25.2(3)1.9(4)1.2(5)
1965(昭和40)47.7(1)23.2(3)25.3(2)1.9(4)1.9(5)
1966(昭和41)50.8(1)22.1(3)23.8(2)1.5(5)1.7(4)
(数字の単位はパーセント、( )内の数字は順位)
 この表から、キリンの好調により、既存3社がシェアを落としている中、サントリーが健闘している様子が読み取れる。アサヒはサントリーへの専売ルート提供がこたえたのか、サッポロと順位を入れ替えている。タカラは、キリンに市場を抑えられ、サントリーの追い上げにあうという状況で、業績を低迷させている。
 ビール事業の低迷は、消費者の焼酎離れが進んでいた当時の宝酒造の経営を圧迫するようになっていた。宝酒造では、1966年3月にビール事業撤退の意向を持つ大宮隆(庫吉の養子)が社長に就任し、同年、養老乃瀧チェーンが「サッポロビール」への切り替えをおこない、大口の顧客を失ったこともあって、ビール事業からの撤退を決意、昭和42年4月25日、麒麟麦酒株式会社への譲渡契約を成立させ、同年8月31日に木崎工場を閉鎖させた(翌年サッポロビール株式会社へ売却)。
 事業撤退の噂が予想外に早い段階で広まったため、73万ダース、876万本の瓶詰め製品が売れ残った。社長の大宮隆のアイディアと人脈で、この在庫は台湾に輸出されることになった。おそらく最後の「タカラビール」は、台湾で飲まれたのだろう。

タカラチューロック
1961年に発売された焼酎。のちのチューハイブームの基礎を作ることになる

一大キャンペーンのもとに刷新された新ラベル

巨費を投じて建造された京都工場(発売当時のポスターより)
4 「タカラビール」の役割
 1957年(昭和32)から67年の10年間だけ、わが国のビール市場に存在した「タカラビール」は、すでに歴史の闇の中にある。このビールは、私たちの現在に、どのような痕跡を残しているのであろうか。
 その代表に、ビールの中瓶があげられる。この瓶は、現在、飲食店での利用が中心であるが、戦前の酒税法によって慣習的から決められた大瓶と小瓶と異なり、メートル法で決められた500ml(ミリリットル)という容積の単位は、その後の缶飲料の容積に引き継がれていった。
 そして逆説的にではあるが、ビールの多様化をあげることができる。ドイツから学び個性的な味付けを行なったことは、ビールの味に対する問題提起ということができる。後発のサントリーは、デンマークのカールスバーグの生をモデルに、「サントリービール」を開発したが、味に対する否定的意見にはくみせず、独自路線を貫いた。そして、67年にはミクロフィルターを使った製法による容器入り生ビール「サントリー純生」を発売、これを大ヒットさせ、熱処理を行なわない「生」ビールの味わいを広めた。
 ラガービールのみがビールであるような商品展開、勝者追随の製品開発から、差別化、製品自体の魅力の向上へ関心が図られるきっかけとして、「タカラビール」が果した役割は見過ごせない。
 同社が黄金色のビールに賭けた夢は、泡となって消えさってしまったのかもしれない。
 しかしその夢は、日本のビール文化に風穴をあけ、奥行きを与える一つの機会でもあったのだ。
 
文献
・「大宮隆」(『酒類食品人物シリーズ 私のアルバム 第6巻』株式会社日刊経済通信社 1989年
・生島淳「ビール 差別化の継続」(宇田川勝・橘川武郎・新宅純二郎編『日本の企業間競争』有斐閣 2000年)
・生島淳「宝酒造のビール事業への参入と撤退」(宇田川勝・佐々木聡・四宮正親編『失敗と再生の経営史』有斐閣 2005年)
・醸造産業新聞編集局編『酒類産業30年』醸造産業新聞社 1983年
・寶酒造労働組合十年史編纂委員会編・発行『寶酒造労働組合十年史』1970年
・宝ホールディングス株式会社 環境広報部編『宝ホールディングス80周年記念誌』宝ホールディングス株式会社 2006年
・株式会社日刊経済通信社 調査出版部編『酒類食品産業の生産・販売シェア−需給の動向と価格変動− 平成17年度版』株式会社日刊経済通信社 2006年
・三宅勇三『ビール事業史』三瀧社 1977年
・ビール酒造組合・発泡酒の税制を考える会『日本のビール・発泡酒と税 2006年』2006年
・冨士野安之助編『寶酒造株式会社三十年史』大宮庫吉 1958年
 
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