本文へスキップ

私達の町会は千代田区神田小川町三丁目8,10,12,14,16,18,20,22番地です。

町会の歩み

小川町三丁目西町会創立50周年


「小川町三丁目西町会」は経済白書に「もはや『戦後』ではない」と謳われた昭和31年に誕生し平成18年に創立50周年を迎えました。町会設立のおよそ50年前は日露戦争、その50年前はペリー黒船襲来、50年の歴史の重みを感じます。ここに町会の歩みを振り返るとともに、次の世代への第一歩を記したいと思います。 
                平成18年5月吉日     小川町三丁目西町会「創立50周年記念誌」編集委員会


目 次 


1. 創立50周年に寄せて 町会長・岩崎與士
2. 町会年譜
3. 歴代町会長
4. 町会行事
   1.神田祭  2.町会旅行会  3.民謡同好会  4.思い出アルバム
5. 町の風景
   1.洋服店今昔  2.わが町のこと  3.大学紛争と町会  4.マーケット  5.明治大学旧校舎 6. 小川町公園
   7.明大優勝パレード  8.都電の思い出  9.丸の内線開通  10.忍塾   
6. 子供の遊び
   1.昭和30年代の遊び  2.進駐軍  3.野球チーム
7. 町会員名一覧
8. 創立50周年祝賀会
9. これからの町会
10. 編集後記                  

1. 創立50周年に寄せて 町会長・岩崎與士

「寄り添いて神田の町に五十年絆結びて喜び深く」  
小川町三丁目西町会創立50周年、誠におめでとうございます。
昭和31年9月、日比二一氏を初代会長に発足してから二代目澤田末吉氏、三代目戸田武雄氏、四代目小関啓一氏、五代目神戸祐三氏、そして私と続いてまいりました。
会長が替わっても変わらないのが町内の「人の和」です。当町会は町の規模、所帯数こそ大きくはありませんが一番誇れるのは町会の「和」だと思います。近年、私の小学校の同期の友人が町会に移ってこられましたが、日頃の付き合いの中でふと「この町会に移って良かった」ともらされた事が有りました。それを横で耳にしたとき気持ちがホッとし、後に胸が熱くなりました。この時、その友人にこの町会の「人の和」が伝わったと感じました。

       
       平成18年 駿河台下交差点より町会を望む

常時の町会の運営は、総務・会計をはじめ各部がその役割分担を的確に行い、各事業を計画通りに遂行しておりますので誠に喜ばしいことです。昨近心配事と言えば、町会の店舗の出入りの多さとその早さです。その店舗も開店したかと思うと数ヶ月で閉店したりと本当に慌しい限りです。こんな落ち着きのない世相では「人の和」もなかなか結べません。縁有ってこの地で生計を立てていかなければならない私達町会の住民は、この町が明るく清潔で安心して生活できる場にして行く事が肝心です。その為に必要なのは「人の和」です。この町に住む人、働く人が一緒に力を合わせてわが町を築いて行こうではありませんか。
50周年に当たり、町会員皆様の日頃のご協力を感謝しますと共に、次代へと続く新たな第一歩を踏み出したいと思います。

2. 町会年譜 


        
        昭和31年小川町3丁目西町会結成総会

戦前、小川町全地域は一つの町会で当町会は「7の部」と称されていましたが、靖国通りを境に北部と南部に分離され、「4、5、6、7の部(現在の小川町北部1丁目、北部2丁目、北3、小川町3丁目西町会」が合併して小川町北部町会になりました。しかし昭和22年「マッカーサー指令15号」により解散され、当町会は「神田小川町第4班」として自主的に地域の親睦に努めてまいりました。
その後、町会設立が認可されて昭和31年9月「小川町三丁目西町会」が誕生しました。

和31年9月  町会設立 【設立時の役員】  
町会長 日比二一 副会長 澤田末吉 中根源吉
会計監査 勝呂康尚 平田松蔵    
会 計 平井 清 斉藤治男    
総務部長 戸田武雄 副部長 岩崎虎雄
文化部長 冨岡 實   〃 近藤重輝
保安部長 田近栄一   〃 小関啓一 神戸祐三
青少年部長 藤枝幾二郎   〃 日比 博 須藤昌男
厚生部長 中山昌一   〃 木邑達司 増渕一雄
納税貯蓄部長 斉藤主司   〃 金岡梅雄
婦人部長 澤田テル   〃 松島婦美
顧 問 浜田次郎    
相談役 秋草愛一    
昭和32年 新年交歓会で成田山初詣を行う
  35年 小川町公園閉鎖
  38年 納税貯蓄組合を結成
  39年 新年の角松簡素化により謹賀新年のポスターを町会より配布
  41年4月 澤田末吉氏第二代町会長に就任 町会創立10周年を祝う
  41年11月 居表示委員会に陳情していた「神田小川町」の名称が現状維持で確定される
  43年1月 大学紛争の余波に備え自警団組織を結成
  46年5月 町会創立15周年を祝う(会場・駿河台ホテル)
 

神田公園地区第6回千代田区民体育大会優勝
 
  46年9月 戸田武雄氏が第3代会長に就任
  53年7月 防災団を結成
  61年3月 町会創立30周年を祝う (会場・如水会館)
平成2年4月 小関啓一氏が第4代会長に就任
  7年11月 町会創立40周年を祝う(会場・お茶ノ水スクエアー)
  8年4月 神戸祐三氏が第5代会長に就任
  15年4月 岩崎與士氏が第6代会長に就任
  18年5月 町会創立50周年を祝う(会場・如水会館 )
 
   〃 [町会創立50周年記誌」発刊、千代田区立図書館に納本
小川町三丁目西町会ホームページ開設


 3. 歴代町会長

  
 初代 日比二一
(昭和31年9月〜40年12月)
   
  第二代 澤田末吉 
(昭和41年4月〜51年9月)
    
   第三代 戸田武雄
 (昭和51年9月〜平成2年3月)
  
 第四代 小関啓一
(平成2年4月〜8年3月)
    
   第五代 神戸祐三
  (平成8年4月〜15年3月)
    
   第六代 岩崎與士
  (平成15年4月〜現在)


4-1 町会行事・神田祭

神田祭は私たちの心の故郷です。神田祭りのページをご覧ください。

     
    昭和25年                   昭和27年

  


4-2 町会行事・.町会旅行会

当町会の旅行会は昭和25年に町会員の親睦を目的として始まり57年間続いています。初期の頃は2泊もしていました。当時の「良き時代」を彷彿とさせます。幹事は輪番制で第43回は韓国、第44回は台湾に行きました。発足当初はご婦人方も一緒でしたが、現在は婦人部旅行会として独立し毎年5月に行ってます。

       
       昭和25年・第一回旅行会皆さん背広にネクタイ

        
       平成8年、沖縄守礼門

       
       昭和41年・熱海 婦人部もこんなに多く参加!

       
       平成6年、奥日光

 昭和25年 → 1、山梨富士五湖 2、草津四萬温泉 3、東山温泉  4、熱川温泉 
5、松島鳴子温泉  6、水上温泉  7、伊豆半島  8、志賀渋温泉  9身延湯ヶ原温泉
10天竜峡諏訪温泉  11、塩原川治温泉  12、日本平舘山寺  13天城山稲取温泉  14伊勢湾・鳥羽
15、房総白浜温泉 16、草津温泉 17南紀白浜高野山  18、高山下呂温泉 19蔵王・立石寺 
20、北陸山中温泉 21十和田浅虫温泉  22、湯の山温泉 23、倉敷琴平巡り  24、天の橋立城崎温泉  
25裏磐梯東山温泉 26伊良湖三谷温泉 27、京都六甲山 28、彦根雄琴温泉 29、金華山中尊寺温泉
30黒四ダム宇名月 31、山陽萩・高岡 32、能登九十九湾 33龍泉洞浄土ヶ浜 34、佐渡ヶ島
35、南紀勝浦白浜 36、花巻温泉 37、松山道後温泉 38伊良湖三谷温泉 39、札幌洞爺湖
 平成元年 → 40、山寺・最上川 41、倉敷瀬戸大橋  42、男鹿半島角館 43、韓国ソウル
44、台湾・台北 45、北陸山中温泉 46、九州日田温泉 47、沖縄 48、上高地帝国ホテル
49、四国四万十川 50、飛騨高山 51、寸又峡 52、鬼怒川・日光 53、九州湯布院
54、伊豆修善寺 55、草津温泉 56、山形天童温泉  57、蓼科温泉  58、弥彦神社 
59、猿ヶ京温泉        


4-3 町会行事・民謡同好会

毎週火曜日午後7時から9時までの2時間、お茶の水小学校の会議室をお借りして稽古をしています。

       

昭和52年2月に町内の希望者、戸田武雄・冨岡實・日比博・加藤久人・村上悦造・増渕一雄・増渕利夫・澤山行雄・岩崎與士・田近恭一・横山文雄(敬称略)の11名で、日比さんの2階をお借りし、民謡若房会師範・横川栄先生のご指導で始まりました。
忘れもしません、第1曲目は『ソーラン節』でした。普通は低音から出るのに高音から出る「ヤーレン」が印象的でした。それから29年、教えて頂いた曲数も110曲を超えました。発足以来なんとなく出欠を記録してきましたが、それがいつの間にか大切な宝物になってきました。
会員も物故者になられた方があって大分入れ替わりましたが現会員 冨岡(淳)・岩崎・田近・加藤・沢田・斎藤(高)・新井・大井(1丁目)の8名で横川先生の指導宜しきを得て楽しんでおります。 
年に一度の親睦旅行も恒例になり、新たな楽しみになっています。

4-4 町会行事・思い出アルバム

町会発足当時、新年交歓会には正装をした大人、”よそいき”を着た子供達が100名前後小川町公園に集まりました。夏のバスハイクではバス2台で海水浴に行きました。旅行も当初は何故か背広、ネクタイが当たり前でした。餅つき大会は町内総出の暮の恒例行事で、つきたてのお餅の美味しさは忘れません。

        
        昭和29年元旦・新年交歓会 小川町公園にて

町会行事は新年交歓会から始まります。そして成人式、新年会、婦人部新年会、入学・卒業祝い、旅行会、校外補導部の活躍、夏のバスハイク、敬老会、区の運動会参加、クリスマス子供会、歳末夜警、餅つき大会と続きました。 

  
 昭和35年婦人部新年会                昭和43年祝卒業

  
 昭和34年校外補導                   昭和50年クリスマス会         

  
 昭和27年江の島海水浴                 昭和32年青年部箱根園キャンプ

5-1 町の風景・洋服店今昔

かつて町内には何と11軒もの洋服屋さんがありました。思い出すままに挙げてみると、まず20番地の現在の第二龍名館ビル北の角の場所にサイトーテーラー、その隣にミクニテーラー、南の角にフジエダ洋服店、角を曲がって岩崎洋服店・平田洋服店。10番地に行って山嘉商店、中根洋服店、神田テーラー、テーラートミー、スドー洋服店。16番地にはテーラー池久。洋服関連ではボタン・帽子の平井帽子店、藤本帽子店。何故、このように集中して洋服屋さんが多かったかを町会の長老に伺ったところ、当時近辺には明治大学、中央大学、日本大学等の大学があり、在学中は制服で過ごしていた学生も卒業するにあたり背広を新調し、また社会人になっても馴染みの神田で洋服を誂えたからではないかとのことでした。

        
        昭和22年頃の富士見坂 洋服屋さんが軒を連ねていました

昭和の時代、町内のテーラーは学生服とのつながりが強く、日頃学生さん達と親しいお付き合いをしていて、何かと相談に乗っていたりしていました。家族的なお付き合いまでしていた人も多く、その父兄とも知り合いになり、お客様になって頂いた事も多くありました。大学の入学式や卒業式には、店の前で大学の校歌をレコードで流し、雰囲気を盛り上げたものです。卒業の年には背広を新調して社会に巣立っていきました。店主の方々は殆どが創業者で、それぞれ「一針月歩」の気持ちを入れて技術研究に励み、各店の個性が十店十色でオリジナルスタイルを持っていたので、洋服を見て「これは○○洋服店が作ったものだ」と直ぐに分かりました。当時、機動力は自転車、スクーター、オートバイで、それらに乗って東京中を颯爽と走り仕事に精進しました。
商いが年々増して、洋服業の良い時代だったのも、昭和の経済成長と洋服の売上は大いにつながりがあった事が原因で、デパート等の売上のバロメーターは紳士服の増減がその基準になっていました。ファッションの流行は、アメリカンスタイルからフランス・イタリー・イングリッシュスタイルへと移り変わり、その都度、新しい技術・ラインを勉強したものでした。音楽の流れがプレスリーからビートルズへと移って行った事とファッションが何か相通じるものがありました。
     
        
        東京オリンピック、日本選手団入場 

昭和39年に東京オリンピックが開催されることになり、力と団結と夢をもって高速道路や新幹線の開通等と、日本は素晴らしいスピードで開発が進みました。我が洋服業界も、選手団の赤いブレザーと白いスラックスの、日の丸カラーのユニフォームを製作するにあたり、ジャパンスポーツウェアクラブを結成し400名以上の大団体のブレザーを手縫いで縫製し、開会式に間に合わせ、期待と希望に応えました。10月10日の開会式に整然と行進した選手団を競技場の観覧席で目の当たりにした時、世界に対し服装・技術・ファッションも負けていないと、興奮と感動を覚えたものです
洋服屋の商いは「お客様がいかに偉い人でも仮縫いの時には下着姿になり鏡の前では『気をつけ』の不動の姿勢をとってもらう」と、ある先輩が言っていた事を思い出しました。いづれにしても、時代の流れで洋服店も減少しましたが商いは楽しく続けてやって行くのが使命だと考えています。                   このページの先頭へ

5-2 町の風景・わが町のこと

昭和30年代・・・・・・三種の神器は白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫。日本が急激に豊かになって行った時代、それは各家庭に「モノ」が行き渡っていった時代であり、明るい電灯が灯された居間で家族が揃ってテレビを見る、新築の団地に入居する、マイカーを手に入れる、そういう物質的な充足が目標となり、その充足が幸福感を満たす、ある意味では幸せな時代でありました。
34年に皇太子ご成婚、39年に東京オリンピック開催。日本の成長も華々しく神武景気、岩戸景気を中心に目覚しく発展を遂げ、フラフープにダッコチャン。人気番組は「夢で会いましょう」や「シャボン玉ホリディ」。太陽族に慎太郎刈りが流行、そしてロカビリーが大流行。カミナリ族、六本木族、みゆき族と若者文化を「族」文化として捉えだした時代。30年代前半はプロレスの力道山が活躍し、街頭テレビに人々が群がり、30年代後半はプロ野球では長嶋が、大相撲では大鵬が活躍した時代でもありました。
町会は全員家族のような時代でした。町会長は日比二一さん。当時はどこにもありましたが、ボクの町にも無尽(むじん)【会員が会費を納め、札を回して今日一番の当たり籤を引いた人が当日の会費を全部頂いていける庶民金融の一つ】があり、町会長のお宅で月に一度行われていました。日比会長は当たりを祈願してか「ひろみィ!」(現在の日比広美さん)と大きな声でお孫さんの名前を叫びながら札を引き、みんなを笑わせました。ボクたちにとって青春が新鮮だった当時は車の交通量もあまり多くなく、夜ともなるとさらに少なくなり、地域での遊びには車道でのかくれんぼ等が出来たほどでした。

      
      昭和28年頃、靖国通りから富士見坂を望む

      
      平成18年、現在の写真

少し町から離れたお話などをさせていただきますと、仕事も終わり夜ともなると出掛けた遊び場は、六本木では今では珍しくもありませんが早朝までやっていた「ハンバーガーイン」や火事で消失してしまいましたがロシヤ料理の「ボルガ」、小さくて雰囲気の良いナイトクラブ「チャコ」。赤坂には「ミカド」「コパカバーナ」「銀馬車」など、横浜まで飛ばせば「ナイト&ディ」「クリフサイド」、バンドホテルの「シェルルーム」等々、プロの女性たちがとてもとても美しく輝いており、毎日新鮮な出来事があり、ドキドキしながら夢中で遊んでおりました。
ボクの店は靖国通りの三省堂書店の向かいにあり、店の包装紙や納品袋には駿河台下電停前と印刷されていました。電停とは都電の停留所ことで、店の前をチンチン電車がトコトコとゆっくり走っていました。その傍には消防署があり「火の見やぐら」の回廊をゆっくり歩いて、町を見守る消防署員の姿を見かけました。この建物は昭和3年に立てられ、今年で築78年・都内最古です。

    
  昭和11年頃 火の見やぐらが見えます         平成18年、駿河台消防署
 
わが町は周囲に本屋さん、スポーツ店、楽器店の専門職種に囲まれている、そして学生と若い人が集まる、いわば文化の発信基地です。これらの特色を大いに愛しながらこれからも町の方々と仲良くさせていただきながら過ごしていきたいと思っています。

5-3 町の風景・大学紛争と町会

昭和43年から44年にかけての116大学での紛争の原因やその過程は、既に多くの記録が残って居るので、今は小川町に住む住民の立場で、思い出を記しておきたいと考え、筆を執ることにしました。
当時近くに中央大学・明治大学・日本大学・電機大学・共立女子大学・専修大学等のキャンパスがあり、幾つかのキャンパスで内ゲバが始まっていて、靖国通りを小さな集団がデモをしている姿があった。また、町内の通りでも特異な姿で小規模な集団のデモが通過し始めていた。当時、家の前のたばこ屋さんのおばあさんは70歳を超えていたが、今日の連中は赤ヘルだから気をつけなければとか、青ヘルだから大丈夫とか話す程度に見慣れて来ていた。それらの集団が、社学同の根拠地の中大学生会館(現トヨタ寮)を、明大中心の社青同の集団が竹槍と火炎瓶で激しい襲撃をするようになって、警視庁機動隊が頻繁に町に出動するようになった。昨日は5機隊、今日は3機隊と各隊の顔をこわばらせた機動隊員や、それらを取り巻く多くの私服警官が、雨のような投石をジュラルミンの楯で防ぎながら、各隊特色のある規制や制圧をするようになり、私の店では窓と入口のガラス部分を、ベニア板で覆い投石の被害を防ぐようになった。社員達は素早く実行出来るように板をかける鈎鋲を取り付けたり、工夫を凝らしたりしていた。
道灌道周辺は連日戦場のようだった。機動隊が放水と共に催涙ガスをしきりに発砲するようになって、屋内まで催涙ガスの煙が立ちこめるようになった。我が家ではマルチーズの子犬と数匹の文鳥を飼っていたが、苦しがるので隔離せねばならない日が連日のように続いた。機動隊との闘いで怪我をした学生が、無理に屋内に逃げ込んできて、対応に苦しむことも再三だった。街の歩道の敷石等は全て掘り返され、砕かれて投石に利用された。その後に商店会等で特に舗装した所以外は、現在もアスファルト舗装になっている。

   

地元の8町会は既に神田警察の後援で、当町会の沢田会長を代表とする「8町会連合」を組織して対応し、自警団を結成したが、簡単には運べなかった。例えば「本日どの集団が何時頃から当町内でデモをするについて規制をする」という警察からの連絡があっても、どの程度情報を伝達したらよいか、判断に迷うことも出てきた。町会長の中でも時に学生に極めて同情的な発言をする人もあって、一律には纏まらず対応が難しくなっていた。
特筆すべき、時として隣の家にも行けない「カルチェラタン」騒ぎは、昭和44年1月19日の、学生たちに占拠されていた東大安田講堂の封鎖解除の実力行使に伴って、周辺の地域で始まった。本郷一帯まで続く、バリケードで囲われた完全な不法地帯が形成された。当町内でも明大通りのサイトーテーラーさんと明大小川町校舎の間と、22番地と26番地のミズノさんの間の道路が、お茶の水を背にして、完全にバリケードで封鎖され、道の端をやっと1人が通れるだけになり、全共闘側の学生が24時間警備し、時折ストームのようにデモをして、交通は遮断され、異常事態だった。見物人も集まって来たが、そこへ屋台を引いて食べ物を売りに来る者、学生に差し入れに来る者までが現れて、治安は全く守られず、法治国家の態は無くなった。
町内でも富士見通りは通行できたが明大前は横切れず、気分的に安全には程遠かった。
沢田会長からは繰り返し電話で情報が伝達され御指示を頂いたが、沢山の野次馬で誰が味方か、そうでない者かが判らず、町を自由に動ける状況ではなく、住民に被害が出ないように気をつけるのが精一杯だった。2日程過ぎて、機動隊の凄まじい制圧が始まった。それは以外にあっけない顛末で情けない姿だった。バリケードは崩され、大きな網に包囲され、まさに一網打尽にされて捕まった男女学生達は、大和魂で死にもの狂いの戦争を体験した私達男女にとってみれば、情けない闘いだった。しかし東大の安田講堂の攻防は、TV中継され凄まじかった。
一方、神保町と我が町会の間の靖国通りでは、東側から後ろ手に縛られた素足の捕虜の学生を、投石からの楯にした機動隊が、投石で瓦礫の道となった通りを進む姿がTVで中継され、新聞でも「松島清光堂」「割烹ちよだ」「住友銀行神田支店」の写真が全国に流れた。
そしてこの東大安田講堂の鎮圧からも、明治大学が学生に占拠されるなど、全共闘による大学占拠はますます全国に拡がり、地域の住民達に大きな被害を与え、9月には婦人部有志が、NTV青島ワイドショーの学生達との闘論対談会に出席し、熱気溢れる憤懣を披露した。これらの紛争は生活にも大きな影響を与え、冬まで続いた。
やがて神田警察署は中心で活躍した町会長と数人の人達に感謝状を贈り、8町会連合は沢山の課題を残して解散した。この「8町会連合」については大学との関係や、関係者の生活上の問題もあって、殆ど記録を残していないと聞いている。

5-4 町の風景・マーケット

昭和28年頃まで「マーケット」と呼ぶ地域がありました。その路地を入って行くと曲型になっていて、ちょっと違う町に飛び込んだような印象がしたのを覚えています。マーケットの入り口には紙芝居屋さんが来て、太鼓を叩かせてもらったり黄金バットを見たり駄菓子を買ったり、楽しい思い出です。
マーケットは今の14番地一帯で、もっと昔は松竹の映画館があったと聞いています。その隣には銭湯もあったのではないかと子供心に思っていました(後になって町内の古老に尋ねたところ、駿河台ホテルの前身の駿河湯とのことでした)。巨大な煙突とカマド?の跡があったからです。カマドでは2B弾を爆発させたり、かくれんぼ等をして遊びました。ある人はそこに『金の砂』があったと言いますが定かではありません。
マーケットを現在の奥村ビル辺りA から入って行くと、右手奥に本の取次店Aがありました。正面突き当りには日本交通公社B(現JTB)があり、後に16番地の五徳薬品ビルの隣に引越しました。交通公社を左に曲がると左手に学校教材などを扱う木瀬さんのお店C、その先にAパンD(現在錦町)があって良い匂いがしていました。更に奥には焼鳥屋さんEがあり、お客さんから犬が焼き鳥をもらっているのを見かけました。その頃どこの犬も外出自由でしたので、野犬捕獲員(俗称犬殺し)に連れて行かれ、飼い主があわてて保健所に引き取りにいく事もありました。


          

富士見坂側Bから見ると、左角は靴屋さんF、その隣が川村書店G、さらに隣が進駐軍放出のチョコレートやガムを売る店H。右角は通称『豆やのピー公』Iと下駄屋さんJがあり、両店とも子供たちをお店の中に入れて遊んでくれ、特に戦前学校の先生だった下駄屋のおじさんは何でも知っていて、時計の針の正しい合わせ方も教わりました。この頃は物質的には満たされない時代でしたが、心と時間に”ゆとり”があったかもしれません。    このページの先頭へ

5-5 町の風景・明治大学旧校舎

明治大学の旧校舎は最高の遊び場でした。小学校の委員会で「明治大学の中で遊ぶのはやめましょう」と意見が出たくらいです(誰も守りませんでした)。入り組んだ校舎内で、かくれんぼ・水雷こっぱ・刑事さんごっこ等にはもってこいの場所でした。屋上で“ごろベース”もやりました。大学の地下には体育会の道場・練習場がありました。柔道・剣道・ボクシング・相撲・水泳・レスリングと、子供にとっては遊園地のような楽しさです。
柔道の道場では、大きな選手が乱取りをしているのを見ていると30分はすぐ過ぎてしまいます。
剣道部のお兄さんの中に子供好きな人がいて、臭い面をかぶらされたり、りんごを手で割って驚かされ、それを分けてくれて一緒に食べたりしました。ボクシング部ではパンチングボールを打たせてもらった事もあります。また世界フェザー級タイトルマッチで白井義男と戦ったパスカルペレスが山の上ホテルに泊まっていて、明治大学に練習に来たのを見に行き、サインを貰ったのも嬉しい思い出です。相撲部の思い出は、何と言ってもまわしが校舎の壁面に長々と干してあった事です。

       
       明治大学旧校舎

プールは一時期、夏休みには一般に開放していたことがありましたが、まるっきり太陽が当たらない地下なので、寒かった事だけが記憶に残っています。レスリング部も、立派な髭をたくわえたコーチの指導のもと、毎日のように練習していました。この頃の明治大学は中央大学と並んでオリンピック選手を数多く送り出していました。
最上階の体育館ではフェンシング部が練習をしていて、その様子が当時人気のあった映画“ロビンフッドの冒険”とダブり「俺は大きくなったらフェンシングをやるんだ」と強く決意した事もありました。体育館ではバドミントン部も練習をしていて、それが終わった後にコートに入ってみるとバドミントンの羽根が一個落ちていて、コッソリ内緒で持ち帰って宝物にしました。

5-6 町の風景・小川町公園

現在20番地の第二龍名館のある所は、戦後焼け野原でした。当時、公立の公園は未だ整備されてなく、子供たちの安全な遊び場所がありませんでした。そこで当時の町会の役員の方たちが、龍名館の浜田次郎さんに交渉して暫くの間、お借りする事ができるようになりました。ただし空き地は罹災後荒れ放題のため大人も子供も動員してその整地にあたりました。後は専門の業者に依頼し、境界の柵や遊具類を設置しました。開園式の日には、浜田さんを始め町会役員・学校の校外補導の担当の先生の列席の下、厳かにその式典が行われました。浜田さんのお孫さんによる滑り台の初すべりなども行われたのを記憶しています。

     
  昭和22年頃、誰だ?20番地私道にて          昭和28年小川町公園で

公園の正面入り口(明治大学通り)には、サザエさんの漫画と『小川町立児童遊園地』という文字が書かれたアーチ看板があり、5月には砂場の藤棚に見事な藤の花が垂れ下がっている様は本当に印象的でした。
遊具としては滑り台の他に、大小のブランコ・砂場がある程度のものでしたが、子供たちには最高のプレゼントだったように思います。公園内では一箇所だけ整地出来ない場所がありました。防空壕の跡地と、その周辺だけ低地となっていた為です。そこには当然、安全のために柵で囲ってあったのですが、探検心の強い特に男の子たちは柵を乗り越えて遊んだものです。防空壕は竪穴式で、その中に2B弾を打ち込んだりしました。
小学生も、特に上級生は遊具では遊ばず、当然のように野球が始まります。公園の南側をホームベースとして明治大学側を外野にしたのですが、公園の柵の外側は道路でそこにボールを打ち込んだらアウト、それを飛び越して大学の敷地まで届けばホームランという変則ルールも作りました

5-7 町の風景・明大優勝パレード

戦後しばらくの間、六大学野球リーグはまだまだスポーツの花形でした。慶応・早稲田の二強時代が続いていましたが、昭和27年に岡山東商業高校から秋山登、土井淳が明治大学に入学するや、二年生の秋、三年生の春、4年生の春と3回もリーグ優勝を果たし、その都度神宮球場から駿河台の明治大学本校まで優勝パレードが行われました。町会では商店会と共同で、その優勝を祝う為に祝賀ポスターを各店頭に貼り出し、富士見坂には万国旗を張り巡らしました。

       
      昭和29年神宮球場で明大を応援                         
昭和29年富士見坂優勝パレード

子供たちは祝賀パレードの到着を今か今かと待ち望み、明大の屋上から九段坂方向を見渡すと夕闇の中に提灯の火が延々と続く様子を望むことができ、非常に印象的な風景でした。パレードが町内を通過する時には明大生の応援歌の合唱も最高潮に達し、興奮のあまりに商店のウインドーが割られてしまう程でした。子供達はいつの間にか”オーオー明治♪”を一緒に歌っていました。
この頃は町と明治の学生の関係は密でした。まさしく学生の町で多くのお店が学生相手の商いをしていて、現在の町と学生の関係とは大違いです。

5-8 町の風景・都電の思い出

昭和42年12月都電廃止第一次計画により都電の姿が消えていきました。現・10番地の新駿河台ビルの前に、都電の停留所があったことを覚えていますか。

       

系統別に分かれていてIは渋谷行き、Kは新宿行き、Nは早稲田行きでした。但しこれらの方面に行くには駿河台下交差点の反対側の停留所(田金果物店の前)からの乗車でした。運賃は時代によって変動しましたが同一系統ならどこまで行っても10円でした。早朝割引は7円か8円でした。戦前は7銭が長く続いたそうです。チンチン電車とはよく言ったもので、車掌さんが白い紐を引っ張り乗客の乗り降りが終了したことを運転手に伝え、その合図で発車しました。車掌さんの首から下げた独特の鞄と、切符を切る鋏に子供達は一種の憧れを持っていました。  
悪い子供たちは、線路に5寸釘を並べ、その側に耳を当てて電車が来るのを今か今かと待ちうけ、ドキドキしながら電車に轢かせました。その薄べったくなった釘が剣状になり、それを空き地などの土のある場所で陣地取りなどをして遊びました。 いつになっても都電の思い出は心の中に郷愁として残っています。
この悪がきグループが、今回この50周年記念誌を編集、ホームページを担当しています。

      
      昭和19年1月戸田武雄氏出征

昭和19年1月、第三代町会長戸田武雄氏出征の写真に線路が写っています。
現在の明大通りには市電が走っていました(明治37年〜昭和19年5月4日)。
 

5-9 町の風景・丸の内線開通

下鉄・丸の内線(4号線)が昭和29年に開業<池袋〜御茶ノ水>しました。それまで銀座線のオレンジ色の車体を見慣れていたので、真っ赤なボディはとても衝撃的でした

    

地下鉄丸の内線の開業の日のことをよく覚えています。戦後初めての地下鉄ということで提灯行列をして開業を祝いました。町会にも祝賀記念切符が配られ、まだ小学生だった私も友人と一緒に池袋まで乗車しました。当時は池袋・新宿というと子供にはとても怖い印象があり、池袋まで(所要11分は今と変わらないのに驚きます)行って地上に出ても、どこに行くという当てが無く、直ぐにUターンして帰って来てしまったのも、思い出しては笑ってしまいます。
39年には東西線(高田馬場〜九段下間、41年に竹橋まで延長)44年には千代田線・新御茶ノ水、47年に三田線・神保町、54年にも新宿線・神保町、平成元年には半蔵門線・神保町が開業しました。鉄道だけで7駅も利用出来るのです。郊外に住んでいる人には、多くの地区で鉄道の駅まで徒歩で行かれるのは稀で、殆どバスなどを利用しているのを考えると、何と私たちの町は恵まれていることでしょうか。

<一口メモ> 千代田区内に最初に電車が走ったのは明治23年11月1日秋葉原貨物駅開業の日。
明治38年8月21日、飯田町−中野間に日本最初の電車開通、その年末にはお茶の水まで走るようになった。

5-10 町の風景・忍塾

町会創立の頃、12番地に岡本さんという『おじさん』『おばさん』ご夫婦がいて、二人で塾(当初はその言葉を嫌っていて、子供たちに塾と呼ばせず『おじさんち』と言わせていた)を開いていました。塾と言っても現在の受験の為の学習塾とは大違いで、子供たちはお店屋さんの家庭が多かったので学校の放課後に、勉強はもちろんそれ以外のことも色々と教えてくれる、言わば江戸時代の寺子屋みたいな雰囲気の場でした。

  

生徒は小学生から中学生までで、町内の大部分の子供たちが通っていました。自分達を先生と呼ばせないため、『おじさん・おばさん』(低学年は『おじちゃん・おばちゃん』)と呼んでいました。
休日にはハイキングに連れて行ってくれたり、夏休みには泊りがけで沼津の海に連れて行ってくれたりもしました。おじさんちの五右衛門風呂にも入れてくれて、その浮き蓋に乗ってはしゃぎ回ったことも楽しい思い出です。
今の学習塾からはまるで考えられない塾で、生徒と言うよりも、むしろおじさん・おばさんの本当の息子や娘みたいなもので、上級生はお兄さん・お姉さん、下級生は弟・妹といった大家族の様な塾でした。

6-1 子供の遊び・昭和30年代の遊び

          

【男子】 水雷こっぱ s字合戦(陣地取りゲーム) 缶蹴り どこ行き 馬跳び ベーゴマ めんこ ビー玉等
【女子】 ゴム段 ままごと かごめかごめ とおりゃんせ お手玉 石蹴り あや取り あの子が欲しい チョンパ等

男子は上記の遊びもさることながら『探検』と称してグループを組んで色々な所へ行きました。当時は一帯にそれらしい場所が沢山あり目的地に困る事はありません。ジャングルと呼んでいた鬱蒼とした雑木林が、錦華公園の裏側に第一・第二・第三と3ヶ所もあり、子供心にもぞくぞくと興奮したものです。今の北の丸公園は警察学校の広大なグラウンドで、その奥には見渡す限りの草地が広がっていました。
何と言っても近くの探検の場所としては、明治大学の旧校舎が一番でした。記念館のドームを境にして北側(お茶の水駅寄り)の屋上は立ち入り禁止の場所となっていましたが子供達の探検心は異常に強く、守衛さんの監視を盗んではドームの非常に危険な端をスリル満点で通り抜けて忍び込んだものでした。
また明治大学の現.・小川町校舎の所には、罹災した佐野病院看護婦宿舎の非常階段の鉄骨だけが焼け残っていて、その4・5階部分まで階段を揺らせながら昇ったことも思い出します。その隣にあったのが佐野神経科病院(現・美津濃東京本社)で、子供には怖くて中まではさすがに探検できませんでしたが、今でもその建物の一種独特の雰囲気は覚えています。病院の院長は当時左翼運動で著名な佐野学氏の実兄でした。
とにかく、子供たちは学校が終わると暗くなるまで外で遊んでいた時代でした

6-2 子供の遊び・進駐軍 

現在の『戦後の記録』などの本を読むと【駐留軍】と記載されていますが、当時は誰もが「進駐軍」と呼んでいました。子供心にも「シンチューグン」という音の響きが不思議な雰囲気を醸し出していたのを憶えています。神田の町もあちこちの建物・施設などが進駐軍に接収され、軍服を着たGIがジープを乗り回し、軍用トラックも町会近辺を走り回っていました。錦華公園と山の上ホテルも進駐軍に接収されていて、キャッチボールをしていると、時々ボールが今の錦華公園にあった進駐軍の駐車場の敷地内に入ってしまい、「アイムソーリー」と言いながら有刺鉄線の間からボールを取ってもらった事などもありました。
また、この頃富士見坂に外食券食堂がありましたが、「ガイショクケン・ショクドウ」の響きも懐かしさを感じます。
いつの時代でも子供たちはよく遊び、12番地の守屋さんの路地でチャンバラごっこ等もよくやり、嵐勘の鞍馬天狗の映画が掛かると皆で見に行きました。錦華坂ではリンゴ箱に車を付け、転がして遊びました。正月に門松と一緒に飾った笹竹で竹馬を作ったり、雪が積もればスキーを作って遊びました。子供の遊びではありませんが、町内には卓球場・碁会所もあり、雀荘も昭和41年には10軒ありましたが、現在は2軒になってしまいました。

  
 進駐軍                       昭和25年頃富士見坂

<一口メモ> 「外食」という言葉は明治・大正まで一般化してなく、昭和16年の外食券制の実施以後普及した官庁用語に起源を持つ言葉です。

6-3 子供の遊び・野球チーム

昭和30年代に町内に二つの野球チームがありました。シニアチームは大学生・社会人が中心、ジュニアチームは中学生・高校生でした。それぞれのメンバー数は9人などといったギリギリの編成ではなく、かなりの人数で構成していました。年に何回か、主に今の北の丸公園にあった警察学校のグラウンドや、たまには四谷とか神宮絵画館前の凸凹の多いグラウンドでも試合をしました。

    
   昭和29年ひろみチャンとこうチャン        昭和22年ジュニアチーム

シニアチームの当時の監督は第四代町会長の小関啓一さんで、対外試合でも相当のレベルにありました。戦後の遊びの少なかった時代、当時のプロ野球の川上・青田への憧れが強かったのでしょうか、路地でも空き地でも男の子はキャッチボールをして遊んでいました。銭湯の下足箱も16番はいつも先客がいました。
サッカーが野球の人気を奪ってしまった昨近、せめてソフトボールでも良いから町内で野球チームを再結成したいものです

7. 町会員名一覧

個人情報保護法の趣旨から住所・電話番号・ファクス番号・メールアドレス等は掲載しません。
〔50音順〕敬称略 (個人は姓のみ掲載、法人の 等は省略してあります)
                                         平成18年4月1日現在

アサミ商会・アミ・アライ青果・アンダンテ・池久洋服店・IKOI・石井スポ−ツ・岩崎・岩谷・SOS総合相談グル−プ・エチオピア・エチゴヤ・オーク御茶の水ビルディング・大林不動産大崎会計事務所・大須賀・太田屋ビル・奥村ビル・おちゃのみず楽器・カドヤスポ−・カフェ・ダン・カロリー食品・川村書店・神田ブ−ツ研究・関門海・漢陽楼・キッチンジロー・木邑・金寿司・KUU・グリーン・ライフスポーツ・黒沢楽器・京成社・虔十書林・現代書院・纐纈・古書籍商業組合・古瀬戸・五徳薬品・サイトーテーラー・斎藤無線電気商会・さくら水産・駿河台下店・ザ・ライトスタッフオフィス・サラファン・茶論・三共沢田印刷所・三省堂書店神田本店・自遊時間 ・下村・積聚会鍼灸センター・ジャニス春夏秋冬三崎市場駿河台店・新駿河台ビル・振天堂ビル・杉野工務店・スポ−ツカ−ド・ミント・駿河・駿河台ビリヤード・駿河台ホテル・清光堂靴店・成美堂・セカイ中北ビル・セブンイレブン神田駿河台下店・大丸ビル・大明堂・ツアーボックス・月島家・辻特許事務所・東京宝くじサ−ビス・常盤・冨岡・トモロウ・プランニング・内外地図・長島書店 ・西村・日本ウォ−キング協会・日本事務器・日本消化器内視鏡学会・ネオロ−グ バーバーユニーク・PINE・ 博文社B&V・稗田・日比洋洗店 ・ヴィレッジヴァンガ−ド ブラッセル ・プロント神田駿河台下店 ・マイクロ化学プロセス技術研究組合 ・マエダ・増淵・増淵薬・升屋・松島清光堂・マツモトキヨシ・ 美津濃東京本社 ・都商事不動産 ・村上・明治大学・守屋 ・八木書店 ・山嘉商店・UVゾーン ・ユ−ラン社 ・横山 ・喇嘛舎 ・limb ・龍名館 ・ロワール商会

8. 創立50周年祝賀会

平成18年5月26日 如水会館・2Fオリオンルーム午後7時より開催。ご来賓・町会員63名出席。
式次第(敬称略): 司会 田近恭一・澤山和孝  
          1.開会の辞   斉藤鉄太郎  
          2.会長挨拶   岩崎與士 
          3.感謝状贈呈 戸田武雄、神戸祐三  
          4.来賓祝辞   丸山正彦 
          5.乾杯 神戸祐三 
            --歓談  記念誌紹介・澤田喬史-- 
          6.手締め  谷川宏一  
          7.閉会の辞 松島 健
”町会の基礎を作って下さった皆様、発展にご尽力頂いた諸先輩、町会運営にご協力頂く町会員各位”に深く感謝し、思いで話に花を咲かせ、和やかな心温まる祝賀会を催す事ができました。
今年96歳に成られる第3代町会長戸田武雄様もご出席頂き、出席者一同喜びを新たに致しました。

    
  戸田武雄氏感謝状贈呈                 乾杯!神戸祐三氏

9. これからの町会

”思い出アルバム”の冒頭に次のように書いてあります。
「町会発足当時、新年交歓会には正装をした大人、”よそいき”を着た子供達が100名前後小川町公園に集まりました。夏のバスハイクではバス2台で海水浴に行きました。」
新年交歓会には沢山の人が出席しおとそを酌み交わし、終わると皆で神田明神に初詣に行きました。海水浴は昭和30年代が一番盛況だったと記憶しています。この頃は遊び・楽しみも今のように多くは無く、町会行事に参加する事は大きな喜びでした。バス2台で補助席も使い、老若男女を乗せ町会を出発しました。

しかしながら、新年交歓会は出席者が少なくなって自然消滅し、夏のリクレーションも参加者減り、今では形を変えて夏の食事会として30名位の出席で行っています。住民減少の原因は、核族化・住環境の変化、路線価の急騰、商売の環境の変化・後継者問題、貸しビルを建築して転居など等いくつかの理由が考えられます。その反面、跡地や貸しビルにはテナントとして新しい店舗や事務所が入ってきて、町の姿は刻一刻と変わってきています。そこで働く人々は、自分達が生活している町での時間に比べて、より多くの時間を職場で過ごしています。
このような現状を考えてみますと、これからの町会は、町を地域社会ととらえる住民と職域社会ととらえる人々との交わりを通して町作りをしていく事『地域の共有』が益々大切になってきます。
そして両者が一体になった時、いつ起こるか分からない大規模地震などの不安への備え、安心して生活・仕事のできる町への前進、子供やお年寄りを守っていく温かい眼の育成が実現すると確信しています。

町会では会員相互の親睦を厚くし、明るい町会として共同の福利を増進する事を目的に様々な行事を行っています。とりわけ、地域を挙げての神田祭はその核になるものと思います。これら事業を通して、
住む人・働く人共に安らげる町  ”Peaceful Town” の創造を目指し、
在住者と在勤者の交流を大いに働きかけていきます。
                                   平成18年5月 小川町三丁目西町会

10. 編集後記

私たちの神田小川町三丁目西町会が創立50周年を迎えるにあたり記念になるものを町会員の皆様にお配りしようとの意見が役員会の議題になったのは昨年の4月頃のことでした。さて何にしようかと議論してみましたが、所謂『記念品』の配付だとその場限りで終わってしまい、『記念』の意義が薄れるということで、最終的に『記念誌』を発行しようとの意見が満場一致で採択されました。
町会員の中から6名の編集委員が任命され、早速資料の収集、原稿執筆の依頼、写真の選択などの作業に入りました。編集方針として、単なる50年間の事実の羅列ではなく皆様が『読んで楽しいもの』の作成を心がけました。
本日、どうにか発行に漕ぎ着けましたが、なにしろ本の編集に不慣れな者たちですので皆様のご満足を頂ける記念誌に仕上がったかどうか甚だ心配です。懐かしい記事や写真に少しでも喜んで下さったなら、編集委員としては望外の幸せです。また、ホームページの「町会の歩み」に記念誌資料を提供いたします事も喜びであります。
最後になりましたが、今回の記念誌に多くの記事をお寄せ下さった町会の皆様、貴重な写真を掲載するにあたりご快諾頂いた神保町の木内武郷氏に誌上をお借りして改めて御礼申し上げます。  
                                   平成18年5月26日
 小川町三丁目西町会創立50周年記念誌編集委員   沢田喬史・田近恭一・加藤久雄・澤山和隆・小関浩司・谷川宏一

バナースペース