The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20130729143022/http://homepage3.nifty.com:80/borracho/jack%20shirai.html

ジャック白井

フランコ パスィオナリア

ジャック白井についてちょっと書いてみる事にしました。最近、彼に関する本を読んだので・・・。スペイン内戦に関する本を読んだ方なら、一度はその名前を聞いたか、読んだ事があると思います。共和制の国際義勇軍の一員としてフランコ側と戦った、唯一名前が特定できる日本人。

とても謎につつまれたと言うか、わからない事が多い人物なんです。と言うのも、白井がアメリカ時代に親交のあった日本人や、あるいは内戦時の上官だった人物に語った所によると、孤児だったらしいのですね。両親の面影もなく、物心ついた時にはっきりと覚えてたのは函館の孤児院で育ったという事だけだったそうです。

その後は、「スペインで戦った日本人」の著者・石垣綾子さんによると、孤児院から逃亡して、「15歳になった白井は年齢を偽ってカムチャッカ航路の貨物船に雇ってもらい、(中略)17歳のころ今度は外国航路の船乗りになって長い放浪生活を始めたのであった」という事です。その後1929年頃にアメリカ上陸。まさに上陸という言葉が正しいと感じる、正式な密入国です(笑)。簡単に年表形式にしてみると・・・

1900頃

ジャック白井、函館で生まれる
1915頃 孤児院逃亡
1929頃 ニューヨーク到着(コックとして日本レストランで働く)
1937年 アメリカの義勇兵として、スペイン入国
同年7/11 ブルネテの攻防戦にて戦死

こんな感じになるのですが、白井の37年の人生の内、特に生まれてからの30年位の詳細な事がほとんど分かっていません。1900年頃の生まれというのも、亡くなった年齢から算出したものです。彼はニューヨークに行ってから、「日本人労働者クラブ」という反戦グループに参加するようになり(ここでの活動が義勇兵としてのスペイン行きを決定づけたと思われます)、そこで、何人かの日本人と接しているのですが、本当にごく親しい人にしか生い立ちやそれまでの人生の事を話していません。それも自分から進んで話すというのではなく、話題がそういう方向になった時に仕方なくという感じだったようで、聞く方も、あえてそういう話題を避けていたのかも知れません。が、とにかくニューヨークに辿り着くまでの白井からは、何ら他人との関わり合いのようなものが感じられないのです。

1937年1月、後の「エイブラハム・リンカン大隊」となるアメリカ人96人の一人としてスペイン入国。コックだった腕を買われて、炊事係となりますが、白井自身はこれに納得したわけではなかったようで、「前線に行きたい」、「ファシストを殺したい」というのが口ぐせになっていました。が、白井の料理の腕は高く評価されていたようで、白井が前線に廻された後の食事のひどさに仲間から哀願されてしぶしぶ兵糧係に戻るというエピソードも残っています。実際、白井と一緒だった医師によると、「早く、多量に、しかもおいしい」食事を作る為に、努力を惜しまなかったと言います。

1937年7月11日。ブルネテの攻防戦。両陣営が銃撃戦で睨み合ってる中、すぐ側まで来た食事配給用の車が先に進めなくなり、それを見かねた白井が「俺が取ってくる」と言って、塹壕から出た瞬間、数発の機関銃が白井の頭を撃ち抜いたのでした。

余談ですが・・・戦争写真家として知られるロバート・キャパが愛した女性も戦死ではありませんが、このブルネテの地で亡くなっています。

白井をモデルにしたとされる、国際旅団のポスター(一番左)

 

 ・・・ここからは、私の勝手な思いこみです・・・

白井という人間を本を読む限りで想像してみると、ニューヨーク時代と言うのは、口数は少ないながらも、政治的にはとても活動的なんです。行動力があると言うか・・・。その一方で、知り合う誰をでも好きになって、また、相手からも好かれていたかというと、そうでもないように思えるんですね。アメリカの日本人コミュニティーともちょっと壁を作ってるような。ただ、知り合って、仲が良くなると、深い繋がりを求めていく、というタイプのような気がします。

これが、また、スペインに入ってからちょっと変わるんですよ。ニューヨークでの活動性はそのままで、さらに、明るくて、ちょっと社交的になったかな、と言うか。少なくとも、無口であったとは思えない。むしろ、このキャラクターこそが「戦うコック」と言われた、ジャック白井そのものだったのではないか、と思えます。これは、戦時下だったからだと思うのですが・・・。つまり、平和な時の社会では(自分が孤児であると言う)相当なコンプレックスを引きずっていて、あまり他人と密接に接する気がなかったが、戦時下においては出自や、ましてやこの戦争では国籍なども関係なかった為に、自分本来の性格が出たのではないかな、と。

日本で最初に白井の事を伝えた、坂井米夫の「ヴァガボンド通信」の大尉の話によると、「彼は最も勇敢な、偉い同士だった。(中略)誰からも好かれた男で、子供を非常に可愛がった。」と伝えられています。白井の人となりについては、ページの最後に記してある、参考文献をご一読下さい。特に、石垣さんの著作は実際にアメリカでの生活模様が書かれてるので、興味深いです。

孤児で生まれて、最後はスペインの地で亡くなったジャック白井。こう書いてると、本当に天涯孤独の人生だったように思いますが、いたんです!女が(笑)。やっぱり、人生はこうでなくちゃね。スペインに発つ前まで一緒に暮らしていたその女性は、ロージーと言って、白井と同棲するまでは、安っぽいダンス・ホールで客を引いてた、prostituta(売春婦)でした。ただ、白井とロージーは売り手と買い手という商売の間柄ではありません。同棲していた2人のアパートのドアにも、彼女の手作りの表札をつけるなど、本当の夫婦のように暮らしていたのです。実際に、前述の石垣さんにも「自分の女房」として紹介してるし、出征する前夜にも、知り合いの日本人の所によって、ロージーの事を「よろしく頼む」と言って、スペインに発っています。

白井が去った後のロージーの記述は一切ありません。どこか別の土地でまたputaをやるようになったのか?はたまた、ニューヨークに残って、白井戦死の報を聞いたのか?僕個人としては、この人の白井に対する思いを聞いてみたいというのが一番です。

ジャック白井は、全くの無名戦士ですが、何故か、興味をかきたてられます。特にスペインに渡ってからの半年あまりの時間というのが、白井本来の姿だったのではないかな、と思っています。粗野で、シャイで、でも、何か、暖かみを感じさせるんですよね。

参考及び引用文献:

「スペイン戦争 ジャック白井と国際旅団」川成洋著 朝日選書
「スペインで戦った日本人」石垣綾子著 朝日文庫
エイブラハム・リンカン大隊のホームページ

同士白井が倒れた

彼を知らない者がいただろうか
あのおかしなべらんめぇ英語
あの微笑の瞳
あの勇敢な心
エイブラハム・リンカン大隊の戦友は
彼を兄弟のように愛していた。
函館生まれのジャック白井
日本の大地の息子
故郷で食うことができず
アメリカに行き
サンフランシスコでコックとなった。
彼の腕は町の最も食通の連中の
舌を満足させた。
1936年の夏、新聞が書きたてた
ヨーロッパで、スペインで
ファシストの狼が殺人者になったと。
ジャック白井はささやかな荷物をまとめた
人間の権利を守るために
戦っているスペイン人民を助けようと
アメリカから馳せ参じた
最初のグループの一人だった。
弾丸がうなりをたてて飛び交い
猛烈な砲弾が炸裂するとき
リンカン大隊の青年たちは
ジャック白井を見つめた。
彼のその笑顔!
かつて(6月のハラマ戦線)
後方の野戦病院へ
コックとして派遣された。
病院の誰からも愛された
負傷した兵士からも
村の農民達も、遠い所からやってきた
この日本人の事を話題にした。
だが、ある日彼は前線に戻って来た
我々が、マドリー包囲軍を北から突破した
ブルネテとカニャーダ村を急襲した時、
彼もその場にいた。
燃え盛る町の炎は夜空を照らし
その中で爆弾は炸裂し
大砲の咆哮が耳をつんざいた時
ジャック白井は倒れた
自由を求める人民軍、
エイブラハム・リンカン大隊は
そして日本の労働者階級は
彼の事を決して忘れないだろう

(ルドウィッグ D)