永富家
播磨国揖西郡新在家村
「永富家(昭和四十三年、鹿島研究所出版会発行)」
という本に巡り会いました。
「ごさんべえ」で既に紹介済みのいくつかの家との縁があることは知っていましたが、読み進めると、そこにはまさに先祖調査の醍醐味が書かれていることがわかって嬉しくなりました。
本の刊行は、永富家から出て鹿島家を嗣いだ守之助の指揮によります。守之助は龍野中学、第三高等学校、東京帝大法学部政治学科を出て、外務省に入り外交官となりました。その後、鹿島家に入り、官職を辞しています。昭和十三年、鹿島組の社長に就任、二十三年に鹿島建設株式会社と社名を変更、三十二年から会長職にありました。昭和二十八年からは参議院議員となり、国務大臣、北海道開発庁長官などを務めています。生家永富家は昭和四十二年に国指定重要文化財になりました(参照)。
某 ――六郎兵衛菅久――六郎兵衛頼貞――六郎兵衛常清――+――源八郎 延宝3 元文3 宝暦9 天明1 | 出奔 室福本氏 | 室八木氏 +――吉治郎 | 分家 | +――徳三郎 | 分家 | +――幸治常休――+――六郎兵衛定政――+ | 天明5 | 天保13 | | 室堀氏 | 室土井氏 | | | | +==磯八 +――新次郎 | 分家 | 分家 | | | +――ゆか | | 大谷義章妻 | | | +――てい | 広岡家嫁 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――すみ | 出田家嫁 | +――六郎兵衛定村――+――正右衛門宗定――+――六郎 | 文久1 | 明治8 | | 室大谷氏 | 室大橋氏 | | | 室江田氏 +==康三 +――定治 | | 山本氏 | 分家新屋 +――女 | 明治43 | | 山本治十郎妻 | 室大橋氏 +――勝蔵 | | | +――豊四郎 +――敏夫貞明 ――+――勝質 ――+――敏 +――万吉 明治26 | 大正2 | 昭和18 | 昭和20 | 佐々木家嗣 | 室岡田氏 | 室石田氏 | | | | +――寧 +――忠治 +――女 +――立夫 昭和19 | 藤沢家嗣 内藤久三郎妻 | 大正8 | | +――万吉 +――勉 | 井口家嗣 | 大正8 | | +――女 +――守之助 大久保家嫁 | 鹿島家嗣 | +――静子 | 河相家嫁 | +――清子
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定治幸定――+――喜十郎義定――+――定重 明治1 | 慶應4 | 明治12 室服部氏 | 室大谷氏 | | +――二男三女 +――隆 | 豊岡 | +――荘蔵 | 蓬莱 | +―― 一男一女
慶長六(1601)年「播州揖西郡新在家村御検地帳」によると、当時、村には五十戸ほどの家があり、高は全部で百五十石ほどですが、永富家の襲名六郎兵衛を頼りに所有田畠の石高をみると二石六斗五升六合というあまりにも少なかったことが判ります。
これが、
元禄十二(1699)年には、 四十四石八斗八升四合
正徳六(1716)年には、 六十一石二斗二升八合
延享五(1748)年には、 百十三石七斗八升五合
天保十五(1844)年には、百九十三石七斗一升五合
というように急速に永富家の財産が増えています。これは耕地の単位面積当たりの生産性が増えたことに加えて、近郷の村にも所有地が拡がったためと思われます。常清は新在家村の他に中陣村の庄屋を兼務しています。常休が三十四才という若さで亡くなったため、継いで村の庄屋を勤めたのは定政ですが、定政は三十一才の若さで庄屋を辞退、分家した弟が庄屋職を継ぎます。それ以後は本家は庄屋を勤めていません。
永富家の富の蓄積につれて、財政難となっていった龍野藩主脇坂氏からの借金の申し込みは度々となってゆきます。借りた金は返さず、続いてまた借金を依頼するという現代の常識では考えられないことが繰り返されます。
藩主の来訪も度々あったようで、
元文二年六月二十一日 御川狩の節(安興)
元文二年八月二十日 御入(安興)
明和二年八月十一日 御入(安親)
文政四年九月九日 御入(安菫)
文政九年十月二十三日 御入(安宅)
等の記録があります。藩主が一人で来るわけではく、記録ではお供が六十人位いたそうですから、その出費も大変なものだったろうと思われます。永富家には藩主来訪の時に置いていった和歌の短冊が家宝として遺されています。
さて、永富家には、「享禄年間(1528〜31)に揖保川が氾濫して屋敷が川底に埋まるほどの被害があり、当主は伝来秘蔵の正宗の太刀を携え、子を抱えて難を逃れた、その後、新在家に定住するようになった」という言い伝えがあり、それを定村(定群 さだむら)が安政五年に「永富家重代刀剣目録」の冒頭に記しています。更に、定村は定政の墓誌中に、「先祖は新田氏、永良六郎の後裔」という伝承に基づく記事を書いています。
墓は上記系図の常清夫婦のものからしか現存していませんが、所蔵の書類から更に三代遡ることが出来るようです。しかしそれ以上の先祖を探るための資料は新在家の永富家には全くありません。
昭和四十二年五月、三重県伊賀上野市から吉藤氏が突然永富家を訪ねて来ました。
「室町時代の末期、播磨国揖保庄永富六郎左衛門の娘が、吉藤家の先祖の一人源左衛門保時のもとに嫁ぎ、善右衛門保栄を生んだ、法名は妙光禅尼」
吉藤氏は自分の先祖に縁の土地である新在家を訪ねてその空気を吸うことが出来れば充分と考えて居られたようですが、そこに永富という家が実在したので嬉しくなって名乗りを上げられたのです。
やがて、吉藤家の本家筋に当たる同市八幡町上島家に、同族木室氏、竹原氏の系図がいくらか所蔵され、その中に播磨国揖保庄永富家との縁合が記されていること、永富家と同じ紋入りの什器が遺っていることが判って、中世の永富氏の足跡が一挙に解明されました。八幡町上島家には浅宇田村字西河原に明治の頃に絶家した分家があって、その家財道具が本家に引き継がれた事実があります。字西河原に隣接して字永富という地名も遺っています。
木室(小室)氏は友生(ともの)、竹原家は小波田にあり、江戸時代は両家共に無足人格(中世以来の伝統を持つ郷士)でした。両家はいまは絶えて、屋敷跡地と伝えられる場所だけ遺っています(註)。
上島家所蔵系図の書写年代は寛政四年で、永富定村が由緒書を起こそうとした時よりもずいぶん前のことです。
これらの系図によれば、永富氏は下揖保庄預所(雑掌)を勤めていたようです。預所というのは、領家に代わって下司、公文などの下級荘官を指揮して土地、人民、年貢の管理をする職とあり、現代流に云うと地方出張所の中級管理職です。
木室系図の中から永富家累代を抽出して並べると次のようになります。
永富 ・・・――左衛門六郎宗済――六郎入道清定――永良法師清時――+――左衛門尉清信――六郎兵衛元定――+ 下嶋氏 | | +――宗誉 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――左衛門六郎清高――+――六郎兵衛元頼――+――六郎兵衛元休 | | +――有観 +――乗清 | +――元言
宗済の実父下嶋左衛門太夫恵仁は、伊賀国浅宇田庄預所を勤めていた景盛の子で、字永富に住んでいました。恵仁の長兄は上嶋太郎右近太夫、次兄元就(元成)の三男は観世家の始祖清次=観阿弥だそうです。
宗済には小室左兵衛光祐、三輪衛門介光佐という兄弟があり、播州小室に住みました。この子光覚は伊賀に戻り、伊賀木室家の祖となりました。三輪家は伊賀国広瀬にあり、播州出身という伝承がありました。
清定は世良田木興介の預人でした。世良田氏というと先ず新田一族を思い浮かべます。
清時は六郎兵衛、永良法師と名乗っています。これは新在家の永富家伝承と一致する人物のようです。
清信は伊賀国枅川(ひじきがわ)補陀落山安養寺の僧で、還俗して永富家を嗣いだようです。上記の「妙光禅尼」はこの清信の娘であると考えられます。
元定は、享禄年間に揖保川の氾濫の中、伝来秘蔵の正宗の太刀を携え、子を抱えて難を逃れた当主と考えられます。観世福田系図に依れば、この人は世阿弥元清の曾孫の一人になり、「播磨国揖保庄永富播磨入道預入母世良田木與介信貞娘」となっています。
清高は伊賀国上嶋家の人で、剃髪して浅宇田永富に隠居していましたが、その後、播州新在家に移り住んだと云われます。
元頼は源八郎とも称していますが、これは江戸時代の永富家の人が度々名乗っています。慶長六年の「播州揖西郡新在家村御検地帳」に永富家当主として登録された六郎兵衛と考えられます。
元休は伊賀国浅宇田村青木山東福寺の僧で祐慶と名乗っていましたが、還俗して永富家を嗣いでいます。新在家永富家所蔵の最も古い香典帳にある菅久の父(延宝三年歿)はこの元休の子と考えられます。
上島家には江戸中〜末期の屋敷絵図も所蔵され、字永富にある下嶋因幡屋敷(付近は御能本とも称される)図中に、
「この屋敷は元清入道(=世阿弥)が正平十八年霜月十二日に生まれたところで、母は播磨国揖保庄永富左衛門六郎の娘である。この人は伊賀国小波田竹原家の養女で、福喜多の朝屋(ちょうや)姪になる」
と記されています。
観世福田系図に依れば、観阿弥清次の母は、河内国玉櫛庄楠入道正遠の娘であるとされています。
楠正遠――+――正成 | +――女 ‖ +――観阿弥清次 ‖ ‖ 元成――男 ‖ +――+――世阿弥元清 ――+――源泉沙弥元次――五郎左衛門元国――六郎兵衛元定 ‖ | | 永富家嗣 永富左衛門六郎――女 | | | +――元能 大和越智へ | | | +――元雅 | +――四郎太夫元仲 ――音阿弥元重・・・現代の観世家へ
どうもこの一族は、中世に於いて伊賀と各地を結ぶ何かのルートに載って栄えていた可能性があります。僧籍に入った人が多いのも気になります。観阿弥、世阿弥という芸能一家との縁故も一族の特徴のように思います。楠正成というと南朝の忠臣で華々しく活動した人に思われますが、各地でゲリラ戦を繰り広げた、裏の活動家とも捉えられます。伊賀国といえば忍者のふるさと、永富家の宗旨である浄土真宗は諜報活動家に多い宗旨でもあり、芸能活動もまた本業を誤魔化すために始められたのかも知れません。
また、この一族は通婚圏が広いのが特徴です。一般に戦国の世では、弓矢が届く距離での縁組みが多く、いわゆる政略結婚というもので、お互いに足元を固めて行くのに利用されたと思います。弓矢の力が付いて遠くまで影響力が及ぶようになれば、通婚圏は拡大しますが、大名でもないこの一族の通婚圏が何ヶ国にも跨っているのは普通ではありません。こちらにも興味深い記述がみられます。
私はこれまで主に、近世以降の岡山県内に住んだ平民系譜にみられるネットワークを実証して来ました。しかし、木室、竹原、観世福田系図というものを眺めてみると、中世にあってもほぼ同じ様な縁戚網が形作られていたように思われます。婚姻というのは人間の感情と強く結びついたものですから、為政者が押し付けた身分制度や、後世の歴史家が勝手に引いた時代の区画などとは全く無関係な流れがあったと思われます。
ともかく、新在家の永富家単独ではどんなに頑張っても判らなかったであろうと思われるその中世の系図(先祖)が、こういう思わぬ展開で解明されたというのはたいへん興味深く、系図を調べて行く者にとっては心強い話になると思いますので長々と紹介をしてみました。ついでに、同じ様な話が島崎藤村の「夜明け前」という小説に出てきますので、簡単に紹介しておきます。
舞台となっている木曽路の馬籠本陣青山家の当主半蔵を訪ねた義兄寿平次(妻籠本陣の当主)が面白い話を持って来ます。
供の者を連れた或る旅人が妻籠本陣に泊まり、定紋が同じであるのに気付いて当主の自分を呼んで話し出しました。
旅人「替え紋はないでしょうか?」
寿平次「丸に三つ引きです」
旅人「先祖に相模国三浦から出た人はいらっしゃらないでしょうか?」
寿平次「先祖は相模国三浦から出ています」
旅人「その人は青山監物といわれないか」
寿平次「まさにその通りです」
ということで、旅人ははじめて自己紹介を始めました。
「自分は相州三浦に住む山上七郎左衛門で、我が家の先祖から分かれて青山監物と名乗って木曽へ移住した者がある」
どうやら二人は古い親戚であることが判って、盃を交わして系図の交換と再会を約して別れました。
実際に手紙で系図を交換してみると、2つに割った竹を合わせたように一致し、妻籠本陣などには伝わらなかった青山監物前の祖先がまだまだ続いている、即ち山上家の先は鎌倉時代に活躍した三浦一族であることまで判りました。
青山監物に二人の子がいて、兄が妻籠代官、弟は馬籠の代官となって続いているので、両家はもちろん同じ家紋です。
二人でその相州三浦を訪ねてみようという話になり、それからしばらくして黒船見物を兼ねて出かけています。
良く知られているように、「夜明け前」は藤村の生家と父をモデルにした私小説です。
木曽路を歩いたとき、藤村記念館に展示された古い系図を拝見しました。藤村も先祖の言い伝えやこういう古い資料を見ながら育ったはずで、時には、系図には書かれていない、もっと遠い昔の先祖に思いを致し、色々な空想に耽ることもあったのではないかと思います。
註:梅原猛氏の著書にも竹原家は断絶との記述がみられるようですが、三重県名張市小波田(現在は上小波田と下小波田に分かれる)には現在も数件の竹原家が存在し、竹原本家は江戸時代中期に名前を岡松に変えて健在のようです。
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