会報第10号 戦後の毒ガス処理作業 その2

LST 積み込みと共に北部海岸では焼却炉を構築し毒液を燃焼さす工程も進められていた。毒液に重油を混合し圧縮空気で霧状に吹かして燃焼さすものでノズルの詰まりエアーの吹き出し等絶えず監視のうえ修正の必要があった。夏の暑さに加え完全装備での作業は想像を絶するものであった。

防毒面は完全なものでなく我々に貸与されたものは着装しただけでかなり息苦しくなりじっとしているだけでも五分も辛抱できるようなものでなかった。いや、全部の防毒面がそうであったかもしれない。そんな防毒面を着けて仕事をするのだから途中苦しくなると急いで安全な場所へ行き深呼吸して現場に戻るか、若しくはその場で監視員の目を盗みそっと防毒面を持ち上げて呼吸するしかない。私も同僚と燃焼中の焼却装置の不具合を調整中突然、防毒面が外れ燃焼中のガスを吸い込んだ。その時はそんなに危険を伴うような臭気ではなかった。

その後の作業は軽い気持ちで行ったが二三日過ぎから声がかすれて私も同僚も半月から一ヶ月声が全くでなかった。海岸には大釜で砂糖湯が沸かされ何時でも飲めるよう準備されていた。疲れをとるためか作業員には毎日湯飲み半分程度の砂糖が支給された。

工具とかゴム手袋ゴム長靴等使用後は必ず消毒水洗いすることになっていた。消毒液は(カメレオン)葡萄酒のような色で高価なものと教えられた。これで先ず洗い次に晒粉を水でとかしたもので洗い最後に水洗いするように指導された。カメレオンは始め頃はたくさんあったがすぐ無くなったのでその後は晒粉と水洗いだけとなった。ある日焼却炉への移送管の継ぎ手から毒液がもれて、あわてた。晒粉を水で溶く間がなくそのままかけたら小爆発をおこし燃焼したのでびっくりした。毒液のいろは醤油のような色だった。重油を混合した色だと思った。

1950年、戦後処理が終わった後、各工場の設備を解体したスクラップ及び、毒ガス容器を溶鉱炉に入るよう一定の寸法(400ミリメートル各くらい)にアセチレンガスで切断するための作業も行った。俗称黄一、赤一、茶一等の容器は資料館においてある容器より少し小さかった。上部に砲金製のはりこみエアー抜きの金具があり、まずこれを取り外し、容器の上部と下部を切断し、胴体を二つ割りにし、容器の内面に鉛が張ってあるので、地面に穴を掘り、アングル等でさなを造り、切断した容器を積み重ね木材等山積みし火をつけた。鉛が溶けて落ちて翌朝には固まっていた。黄1、赤1、茶1、等いろんな容器があり、燃焼させる木材も工場を解体した木材なので、色々なガスを吸収しており、燃焼する際に諸々のガスを発生し、近くにはおられなかった。勿論完全装備で作業するも、少しの気のゆるみが事故につながる。作業中は、くしゃみ、咳、涙、鼻水の連続で、私も容器切断中に腹部にガスが入り、水泡ができて半年以上治癒しなかった。ゴムの服は、上からすっぽりかぶるものもあったが、上下に分かれている物もあった。支給された防毒面は、つけるだけで苦しく、5分ともたなかった。作業中は常に風上に回り、燃焼中のガスの影響を避け作業するも、防毒面のガラスはすぐ曇り、見えなくなり、長靴の中には汗がたまってダーっと流れるくらいでした。首周りや体中に天花粉をつけるけど汗でずるずるしてどうにもならんかったです。毒の怖さは一応危険とは教えられたがどのように危険なのか具体的には実感がわかなかった。

毒ガス製造装置の切断作業中ジャケットのタンクで、中が食用油のタンクがあり、切断作業中に天ぷらを揚げてるようないい匂いがしてたまらなく空腹を感じさせる事があった。

その時年配の職人が一斗缶を半分に切り流れ出る油を受けてガスバーナーであぶり、油を煮やし、別の職人がすぐ蛸をつかまえてきて蛸の空揚げをつくった。チームワークは抜群だ。しかし10名の職人の誰一人食べようとしなかった。約20年間誰も島へ近づけないでいた。海岸には蛸をはじめいろんな魚がいっぱいいるが、毒物が気になり誰も食べない。 

毒ガス缶を防空壕の中に埋めたということは聞いた。未だおいてあるのではないだろうか。戦後10年以上たって行ってみた時やはりガスのにおいが残っていた。その後2回ぐらい行ったがあまり行きたくはないところだ。現在74歳だが他の人に比べて年が行ったような気がする。夜咳がひどい。食事をしただけで、ただ座っているだけでも呼吸が苦しくなり、しんどくなる。歩くのも、速くは歩けなくて、妻も私のスピードにあわせてくれながら、これ以上悪化しないようにと心配してくれている。