日めくりプロ野球10年1月
【1月6日】2005年(平17) 鉄腕とタイ記録の菊地原毅 復活のきっかけになったトレード
オリックス移籍後、再度復活した菊地原
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年明け早々、広島とオリックスでトレードが成立した。広島の左腕・菊地原毅投手とオリックスの山崎浩司内野手と上村和裕捕手の1対2の交換が両球団で成立した。センターラインの強化を図った広島と手薄な中継ぎ左腕の補強を考えていたオリックスの思惑が合致したものだった。
オリックスが菊地原にかける期待は大きかった。04年、3年連続の最下位に沈んだオリックスは防御率5・66と前年の5・95に続き、プロ野球史上初の2年連続防御率5点台で惨たんたる状況でペナントレースを終えた。
中でも左の中継ぎは完全なコマ不足で、シーズンを通して投げられたのは、57試合に登板した歌藤達夫投手のみ。そこでリリーフ左腕を探していたところ、01年に西鉄・稲尾和久投手とタイ記録の78試合登板を果たした菊地原に目が留まった。
01年をピークに左肩痛などが影響して、4、30、29試合と登板数が激減していたリリーフのエキスパートに照準を定めたオリックスは広島側へ打診。若返りを進めていた広島は13年目になるベテランの域に近づいた菊地原を出し、24歳の内野手と21歳の捕手を獲得した。
通算179試合登板中、中継ぎは82%にあたる147試合に登板していた菊地原。その専門職に中村勝広GMは驚くべきことに「私見として」とことわりを入れながら、「見た感じでは先発でも使えるのではないか」と転向を検討するとした。
これもお家の事情がその裏にはあった。04年、チームの先発ローテーションに入っていた左腕は、具デソン投手と阪神から移籍のムーア投手の2人だけだった。ところがこの2人が相次いで退団。この年から近鉄と合併したが、左投手は大きな“補強”ができず、ドラフトで獲得した金子千尋投手ら3人も右。左腕をローテーション入りさせるとすれば、経験豊富な新戦力もその候補の一人となりえた。
先発転向の可能性も示唆された菊地原だったが、動じずに答えた。「リリーフの良さも知っているが、先発も去年2軍で経験している。まあ、やれと言われれば、与えせられた役目をしっかり頑張るだけ」。
どこでもやるという強い気持ちが、4年ぶりに70試合登板以上(71試合)につながった。先発での起用はなかったが、連日ブルペンに入り、スクランブル登板もしはしば。結果は33ホールドし、この年新設された「最優秀中継ぎ投手」に選ばれた。これだけ投げて防御率は1・38。オリックスは先発投手陣の防御率が4・34でリーグ5位だったのに対し、救援投手陣は3・13でリーグトップ。菊地原を筆頭に6勝23ホールドの加藤大輔、22セーブの大久保勝信の3人による「KKO」の奮闘が5位と低迷したチームの唯一の明るい話題だった。
ご褒美として、ベンツのAクラスが(車両本体価格252万円、当時)贈られたが、「今まで親孝行することができなかったので…」と、両親にドーンとプレゼントしてしまった菊地原。翌06年にオールスターも出場。戦力外扱いから一転、まさに新天地で復活し、2010年はプロ18年目を迎える。
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