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極北東の古代文化波及へ
古田史学会報 30号 |
『二中歴』の史料批判 人代歴と年代歴が示す「九州年号」 古賀達也
熊本市 平野雅曠
九州王朝の歴史は、いわゆる「太伯の後」による王権の歴史とも言えようか。
従来、出雲族や天孫族などと入れ混ぜて、ごっちゃな古代史が横行し、何か雲を掴むような、あいまいな感じを免れなかった。考えるに、これは神武東征によって、近畿地方に勢力を強めた新興「日本国」王朝の正史が作られるに及んで、没落した旧王朝倭国の歴史は隠滅の運命を辿った結果、新生王権を主体とした、新旧こんがらがった古代史に、歴史家たちがまどわされた結果だと思う。
「太伯の後」は、紀元前四七三年、呉国滅亡により、火の国山門(現、菊池市)へ渡来し、後年、魏志倭人伝の記す「狗奴(くな)国」(隈国のなまり?)となった。そして二代目は北上して筑前に住し、委奴国王家の基を築いたが、「太伯の後」が倭国の主流であった時代、「天孫族」の一部は北部九州の小国群の一部として雌伏し、志を得ぬ一部は「神武東征」となったものであろう。
さて、「ヤマトタケル」(実は火ノ国の山門童男?)による委奴国王取石鹿文(トリシカヤ、別名川上梟帥)暗殺によって引き起こされた委奴国の大乱(『後漢書』のいわゆる「倭国大乱」)の結果、「金印の国」委奴国は敗れ、戸数千余戸を数える「伊都国」に変貌して、倭国女王卑弥呼の統轄する三十国中の一小国となったのである。しかし幸いにも、永年の王統は存続することが出来、倭国連合の中でも特別な存在であることは、周辺諸国の認めるところであった。
女王卑弥呼が死んだ後、宗女壱与が倭国女王として共立され、晋の武帝の泰始二年(二六六)十月、女王は重訳を遣して貢献したことが『晋書』倭人條の末尾に記されている。
さてその『晋書』には、「自ら太伯の後と謂う」と記されている。武帝紀・大康十年(二八九)の項に、「十二月庚寅太廟梁折、是歳東夷絶遠三十余国、西南夷二十余国来献…。」と見えるが、此時の使者が言ったと思われる。壱与の貢献(二六六)から二十三年後であり、恐らく倭国連合三十国の代表者であり、壱与引退の後に、太伯の後裔たる伊都国王が、倭王として立ったものであろう。
以来、宋の永初二年(四二一)、倭王讃の貢献があり、梁の天監元年(五〇二)倭王武の征東将軍号の授与があったが、『梁書』の冒頭にも、「倭は自ら太伯の後と云う」と記されているのだ。邪馬壱国時代の倭国王権が、女王二代の後、委奴国王系に巡ってきたことは、彼らの主導権が再び復活したことを意味しよう。そして倭の武王(岩井)か哲王(葛子)の代を以て幕を閉じたものであろうか。万葉集に出ている歌、「大君は神にしませば 水鳥のすだく水沼を都となしつ」は、久留米近傍の『日本書紀』雄略紀に見える「水沼君」の本拠地で、四~六世紀の「倭の五王」の時代となろう。
かくて西紀六〇〇年、イ妥*国王として『隋書』に現れる多利思北孤は、「阿毎」の姓から考えると、これまでの「太伯の後」系の衰微に乗じて倭国王権を掌握した、初めての「天孫族」の末裔なのではあるまいか。
そして又後年、「白村江の敗戦」当事者たる筑紫君薩夜麻は何系だろうか。鹿児島の「開聞岳縁起」には、白江戦後に天智天皇行幸説が見られるが、当時倭国の天皇だった薩夜麻が、新興「日本国」の天智天皇に取り違えられ記されたことは、充分察せられる。多利思北孤の孫なら天孫系だろうし、熊襲隼人族の末裔ならば、「太伯の後」となるであろうか。難しい判定である。
(平成十年十一月稿)
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』 第六話◇◇◇◇◇◇
レ ン ゲ の 女(5)
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ��
◇ ◇
「おい、八上(やがみ)、あけろ!」
「おぬしの為に、八千矛(やちほこ)なるイノシシを仕留めて来てやったぞ。」
黒光らは、因幡(いなば)の館の戸を叩いた。が、何の反応もない。
焦立(イラだ)った数人が派手に揺すぶると、戸は簡単に脱れてしまい、勢い余って男達は土間へ将棋倒しになった。
「バカ、気をつけろ!」
「何を、貴様こそーー」
男達は罵(ののし)り合いながら身を起こしたが、食料や飲み水を貯えておく瓶(かめ)類が、どれも空になっているのに気がついた。試しに奥の八上の室へ踏み込んでみると、鏡や衣類、髪の道具など身の回り品がきれいになくなっている。八上の愛用していたレンゲの香りが仄かに漂う中に、木俣(くのまた)の竹トンボが落ちているのが唯一の名残りだった。
「あの爺ィ……!」
黒光は歯軋(はぎし)りした。八千矛が、傷ついた老人を運び込んで来たのは知っている。従者達が「天(あめ)の日栖(ひす)の宮」の大王(おおきみ)だと言っていたが、幾ら須佐憎しとはいえ、羽山戸自ら老体にムチ打って大国(おおくに)へ乗り込んで来る訳はなかろう、と自分達は笑い飛ばしてしまった。だが、八千矛と渡り合った時、八上に介抱されていたのは本当に羽山戸だったのかもしれない。八上や木俣だけで、こんな芝居が打てる筈はないからだ。
「どうせ年寄に女、子供連れだ。まだ遠くへは行くまい。」
「念の為、各浦辺に監視(みはり)を置け。隠岐へ渡るには船が必要だからな。」
国立(くにたち)の号令に、従者達が駆け出して行く。
程なく、一人が戻って来た。濃緑(こみどり)の地に白い二本の斧を染め抜いた刺国(さしくに)の帆掛船数隻が、河原の港から漕ぎ出したという。
「河原? えらく辺鄙(へんぴ)な所だな。」
訝(いぶか)る国立に、
「奴らは千代(せんだい)川を下ったんだ。」
黒光は吐き捨て、
「我々も行くから、おぬしは浦富の長(おさ)にこれを見せて軍船(いくさぶね)を用意しておけ。」
従者に自分の紋章を刻んだ黒曜石の短剣を渡し、もう一度港へ走らせた。その後を、松明(たいまつ)を掲げた騎馬の一団が追う。黒光らも天神川流域に根を張る豪族なので、命令は瞬(またた)く間に徹底させる事が出来る。
千代河口に着いた時は、白地に藍(アイ)で二本の剣(つるぎ)を組み合わせた帆が幾つも聳(そび)えていた。
黒光が自分の船に乗り込むと、
「若、例の船団は二手に分かれ、一隊は三児島(みつごのしま・隠岐)へ、もう一隊は西方へ向かったそうです。」
と、従者は告げた。
前者には、言うまでもなく羽山戸が乗り組んでいるのだろう。しかし、後者が西を目指したのはどういう事か? 確かに大国は対海(つみ=対馬)や一大(いちだい=壱岐)、白日別(しらひわけ=北九州)
と親しいが、八千矛や八上を匿(かくま)えるだけの豪族が西方にいるだろうか……?
「木の国(現福岡県基山)の大屋彦はどうだ?」
国立が言った。
「八上の母方の実家(さと)が木の国ではなかったか? 木俣は、そこにちなんだ命名とか耳にした覚えがある。」
「そうだ。あそこは倭の中心を成す、一大穀倉地帯でもあるからな。」
黒光は頷(うなず)き、
大声を張り上げた。
「いざ、木の国へ出帆だ!」
* * *
その黒光らの船団を、八上らは遠くから認めていた。
「もっと早く漕げないの……?」
八上が不安げに急かすと、
「これでも精一杯やっているんですよ、母上。」
漕ぎ手に加わっている木俣が、不機嫌な声を発した。
「流れを逆行するには、どうしても余分な力が要るんです。話しかける暇があったら、貝でも焼いて下さい。」
まだ幼い息子に人前で叱られ、赤くなって引き退(さが)る八上を目で追い、
「母上がお気の毒ではありませんか、若?」
漕ぎ手の一人が、咎(とが)めるように木俣に言った。
「判っているよ。でも、いざとなったら、こっちは武器を取らなきゃならないんだ。喋(しゃべ)って力をなくしたくないからね。」
木俣はもう一度、水平線を睨みつけた。白帆はさっきより大きくなっている。
幸い、追い風だが、対馬海流は西から東へ蛇行する。それを反対に辿って行くのは老練な水夫でさえ一苦労なのに、自分達は女子供を交えた小人数だ。しかし、これも父を守る為だ。父は石見銀山を根城とする刺国一族、父に万一の事があったら、大国の拠点の一つが蛮族に滅ぼされてしまう。羽山戸様、父を頼みます--。
祈るように振り向いた木俣の許へ、鏑矢(かぶらや)が飛んで来た。反射的に屈(かが)んだ為、矢は木俣の頭上を越えて水中に突っ込んだ。冷たい飛沫(しぶき)が顔に吹きかかる。が、攻撃はそれで終らず、第二、第三、第四と矢は炎の弧を引いて船縁を掠(かす)め、帆柱を狙って来た。漕ぎ手達は、櫂(かい)を振るってはたき落とす。当然釣合が取れなくなり、速力は落ち、船は左右に揺らぎ始めた。
「八上、観念しろ。」
「おとなしく我らの軍門に降れ。」
「下へも置かぬ饗応(もてなし)をしてやるぞーー」
黒光らの嘲笑が、風に乗って聞こえて来る。
帆柱の陰で、八上は耳を覆った。誰が、あんな蛮族共の言いなりになるものか。やせても枯れても自分は因幡の姫、誇り高き八千矛の妻だ。もし敵がこちらへ乗り込んで来たら、自分の手で木俣の首を刎(は)ね、返す刀で我と我が身を貫こう。さもなければ、風が強まるか潮流が変わるかして無事、木の国へ辿り着けば……。
おや、木俣が何か合図している。漕ぎ手達が真赤になって汗を滴(したた)らせ、船の進路がややずれたようだ。右方には青黒い渦があり、中心に暗礁が点々と覗いている。岩々に流れがぶつかり合い、灘(なだ=海の難所)
を形成しているのだ。もしや木俣は、わざと敵に追わせて渦に引き込もうというのでは……?
風が勢いを増し、矢の降り方も激しくなった。二、三の火矢が帆柱に突き刺さる。火を消さねば--いや、もっと良い方法があった。
あれを利用して、木の国へ救いを求める狼煙(のろし)を打ち上げよう。
八上は柱にすがり、立ち上がった。
「あの女(あま)、自ら矢面になる気か!?」
唖然とする黒光らの眼前で、八上はどこから取り出したか、黒曜石の弓を構えた。弦(つる)には、黒光らが打ち込んだ火矢を番(つが)ている。
「よせ、八上!」
男達の叫びは、眩い閃光と大波にかき消された。白帆がひしゃげ、舳先が音立ててそげ落ちる。黒光は岩にしがみついてやり過ごそうとしたが、折れた帆柱に叩きつけられ、二つに割れた先に首を挟まれる格好になった。
「母上、ご覧下さい、木の国がーー。」
木俣が歓声を上げる。
行く手の岸辺を基山の柔かな緑が埋め尽くし、薄紫のレンゲの花の波が競って棚引いていた。
(完)
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〔後記〕 今年の干支はウサギだからという訳ではありませんが、今回の話は「因幡の白ウサギ」が下敷きになっております。作中ではウサギではなく、羽山戸というれっきとした人間に致しましたが。又、この話の因(もと)になる八上は、「記・紀」では「姫」となっていますが、大勢の求婚者の中から自分の意志で八千矛を選んでいる事や、彼がスセリを正妃としたのを悲しみ、木俣を木の間に挟んで(明らかに「子殺し」)帰って行った記述から推すと、その土地の支配者=
女王といっても良い存在だったのではないでしょうか……?(深津)
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『道楽三昧』第9号より転載
ロンドン大学名誉教授
豊中市 木村賢司
十一月十二日、京都学研都市にある国際高等研究所にて、現ロンドン大学名誉教授、森嶋通夫氏(経済学者)と古田武彦氏との対談があり、「古田史学の会」のM代表、Y副代表と共に同席した。
森嶋氏は現在七十六才になられるが、文化勲章を受けられた時は五〇才台であったと言う。活躍の場は英国を中心とした国際の場である。日本よりの頭脳流出者の一人かと思う。子息は英国女性と結婚され、孫はハーフとのこと。即ち、家族はすでに国際人である。
森嶋氏は古代史は素人であるが、古田説には関心をもたれ、だいたいに於いて古田説に賛成である。限られた資料からロジカルに結論を出す。文献から結論を出す方法として、完璧で論理的である。と述べられた。
明治の始めに来日した英国のマードック(スコットランド人、夏目漱石の師)という人が外国の文献(中国、朝鮮、オランダ、バチカン等)を通して、日本の歴史を研究して本を出しているが、古田氏の研究方法(アプローチ)はこれと同じである。
古田説が世に受け入れられていないと言うが、森嶋氏から見るとそうは言えない。英国の歴史学者は古田説をよく承知されているとのこと。日本でも、現に有名書店の古代史コーナーで古田さんの本が一番並んでいるではないか、あれだけ並んでいて受け入れられていなと見るのはむしろおかしい(私の本など一冊並んでいるかどうである)。学会の反応など全く気になさらなくてよい。人の毀誉褒貶は実にいいかげんなものであるから、と応援されていた。
対談は午後一時に始まって五時間余にわたった。内容は古代史以外にも多岐にわたり古今東西の著名人が次々と話の中に出て興味しんしんであった。
対談の最後に同席者からの質問も許されたので、私は対談前日(十一月十一日)の毎日新聞朝刊の「余録」欄に森嶋氏が「ライオンだって猟の仕方や自分達の社会のおきてを子に教えるが、日本の親は社会のルールを子供に教えない」と語ったと言う記事を見つけていたので、そのことの意味を問うた。答えは、割愛せざるをえないが、一例として、英国の母親は子供にまず発声、話し方を教える。そして親子のスキンシップを最も大切にする。日本の母親は幼い時に文字を教えたがる。生きていくための社会のルールを教えることこそ大切、知識など必要ないと主張された。なお、日本の学校教育は絶望(的ではない)である。原因は先生に教育の自由がないため、現在の文部省のお仕着せ教育ではどうしょうもない。一例として、日本の学生は数学を話すと皆一斉にノートする。倫理や思想の話しをするとどぼーんとしている。欧米は逆である。と述べられた。
銀行のOBであるYさんは、日本経済の先行きを問うた。お先真っ暗と言われた。理由は「政治がなっていないから」と明快である。日本の政治家は政治とは何かがわかっている人が少ない。自分の地盤に利益を誘導することを目的とする集団である。欧米ではそんなことを目的として政治家になる人はいない。と言われた。
国際舞台で日本の首相は何も言えずどほーんとしている。(小淵など論外である)外国の首脳は、例えば、野球で野手が併殺打がきた時の処理のように、素早く的確に反応する。森嶋氏は英国首相のブレアを高く評価していた。ロンドン大学はブレアのブレインとのこと。
国際人でない私は、日本人にはまだまだ良い処が沢山ある。むしろ今の悪い処は、もともと欧米の悪い処をまねしてしまったためと言える。日本は日米協調という名の従属で指導者に主体性のなさが最大の欠陥であると思う。今日の対談両者のように、きちっとした倫理と哲学を持った独創の指導者の出現が待たれる。
高名な国際人の話しを聞いて、少しは視野を広げたか。
〔編集部〕本稿で紹介された古田・森嶋対談は『新・古代学』4集に掲載予定です。
インターネット事務局注記2002.8.1 二十九号は訂正済
極北東の古代文化波及 五所川原市 和田喜八郎
大阪府泉南郡 室 伏 志 畔
先日、佐賀に関わる文章をまとめていて古伊万里に当たり、初めて鍋島焼というものに遭遇した。現在、鍋島焼というものは二百数十点しか残っておらず、いいものだと皿一枚でマンション一・二戸は買えると教わりたまげて、始めてそれは鍋島藩のことではないが、番町皿屋敷でお菊さんが一枚、二枚と皿を数える重さを納得した次第である。
そのとき鍋島藩の家紋が気になり調べたところ杏葉紋であることを知った。それには曰くがあって鍋島直茂が元亀元年(一五七〇年)に大友親貞を討ち取った時、従来の剣菱紋を改め、敵方の杏葉紋を自家の紋としたという。
そのことを質された『葉隠』の佐賀の隠士山本常朝は「いかにもその通りに候」とためらわず応えたという。
「記紀」の文章がこうした武家のごとく、あったことはあったこととして明け透けに語られていたなら、日本古代史は現在のように頽廃と混乱に陥ることはなかったのにと思う一方、そこに「記紀」は単なる歴史書としてではなく高度な思想書としての達成があったと考えないわけにいかなかった。しかし現在に至る歴史学は皇国史観から戦後史学に至るまで、比喩的にいうなら鍋島焼を単なる使用価値として扱い、現在ではマンション一・二戸にも相当する幻想価値としての交換価値の側面についてまったく言わないのである。現在の歴史学のリアリテイが問われる所以である。
こんな言わでもがなの話を蒸し返すのは、歴史にまったく疎い私がなぜ歴史学にまで言及しなければならなかったかは、「記紀」の読み方において、二〇世紀言語学の達成、ことに日本においては六〇年代以後における吉本言語論における達成をまったくよそにおいて、「記紀」言語をただ指示表出においてのみ問題にし、幻想表出としての側面をまったく見ようとしないために、歴史学は「記紀」編纂者の思惑の内に今も回収されてあるからである。
さて家紋に話を戻すなら、たまたま妻が借りてきてくれた『家紋でわかるあなたのルーツ』(日正出版)で菊紋と桐紋の項を引いて、私は少し唸ったのである。そこで天皇家の紋について、菊紋が正式に用いられるようになったのは第八十二代後鳥羽天皇(在位一一八三年~一一九八年)からで、それはあくまで替紋としてあり、また桐紋はその副紋としてあったので、正式の紋は日月紋であるというのだ。浅学の私はまだその日月紋にお目にかかったことがなかったので一瞬目を見張ったのである。さてそれがどんなものであるかご承知の方に教えてもらいたいと思う一方、正式紋が日月紋なら、わたしが天皇家の太陽神の先に月神があったのではと、大和朝廷に先在した九州王朝・倭国の主神を月読命と断定した探究は、すでに天皇家の正式の紋が証していたというわけだ。
のみならずわたしを驚かしたのは第一〇八代・後水尾天皇(在位一六一一~一六二九)次の歌である。「ならの葉の選びに漏れし菊の花 残れる梅の恨みやはある」
ならの葉というのはいうまでもなく『万葉集』のことである。つまり万葉集から菊の花が漏れたについては、そこにタブーがあったからで、残った梅(太宰府)の恨みのせいかもしれないというのである。これを引いた引用者はそれを知っていて載せたかどうかはともかく、わたしには江戸時代初期の後水尾天皇にその認識はあったということを貴重に思ったのである。
それで思いだしたが、近代の天皇家の正統論争で、現在の天皇家が北朝系でありながら、正統は南朝といった発言が飛び出した背景について、孝明天皇の暗殺から明治天皇への継承の際に、南朝系の玉(天皇)を抱えていた薩長藩がそのどさくさに差し込んだのだという黒い噂がないでもないのだ。そのことも皇室内外の批判をシャットアウトするためにも絶対天皇制の確立は急がれたのである。とするとき明治天皇が写真を嫌い、現在残っている御神影はイタリア人の書いた絵を写真にした理由もまた説明がつきやすいのだ。
映画タイタニックのデカプリオ主演の『仮 面の男』は、有名な鉄仮面の正体こそ本当のルイ十四世で、あるとき双子の兄弟が入れ替えられたというのだが、わが天皇史はブルボン王朝史以上に、そんな噂さに満ち満ちているのは、南北朝合体の際、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲位されたことについてはよく知られているが、足利義満の死に際し、思わず「お父上!」という意味の言葉を発したといわれており、また戦後の南朝の正統を任ずる熊澤天皇の言い分もそこに一つの論拠を置いていたという。
つまりわが国が天皇親政の神国というのはあくまで大義名分で、時の権力者の玉として天皇を利用してきたなら、国民は常に権力者の政策の内にあるというのは現代においても同じである。自民党が自由党との自・自連立に踏み切ったのは、朝鮮半島での突発事態を想定したとき、社民党や民主党との連立では対応しえないという危機意識が、野中幹事長の豹変の背景であって、国民はすでに非常時体制の枠の中にあるのである。そして米英のイラク攻撃に率先して肩入れしたのが、唯一不戦憲法をもつ日本国であるという矛盾の中で、自衛隊(国軍と読め)の幹部の不正に対して戒告でお茶を濁すところに、玉を抱いて国民を馬鹿にしていく大衆消費社会の中での天皇制政府の基本姿勢は明らかである。
李白の詩に寄せて 古田武彦
□事務局だより □□□□□
▽ようやく『古田武彦講演録九八』が出来上り、九七年度会員に送付しました。九八年以後入会の方には千円にて販売しています。購入希望の方は送料(二一〇円)と供に郵便振込にて御送金下さい。九七年度会員で、まだ届いていない方は、お手数ですが事務局まで御一報下さい。
▽一月十六日には関西例会で古田先生に御講演していただいた。その後の新年会も多数ご参加いただき、盛り上がりました。
▽日頃、先生の講演を聴く機会が少ない遠方会員のためにも、今後も会財政が許せば講演録を作っていきたいものです。(古賀)
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