【アーカイブ】海部俊樹 海外への自衛隊、酢豚の味わい

[PR]

【2013年9月29日朝刊4面】

 日本全体がバブル経済に浮かれていたころ、東西の冷戦構造が終結し、中東では湾岸危機に直面していた。日本ができる新たな国際貢献とは何か。もうカネだけでは済まない。海部俊樹氏(在任1989年8月~91年11月)は悩み続けた。

 「自衛隊の海外派遣は考えていない」。海部氏は90年8月29日、イラク軍によるクウェート侵攻から約1カ月後の記者会見でこう言った。だが、翌年春、一転して海上自衛隊掃海艇をペルシャ湾に派遣することを決めた。いったい何があったのか。

 当時は伏せていたが、米国から自衛隊派遣を繰り返し迫られていた。侵攻直後、ブッシュ大統領から海部氏に電話があった。ブッシュ氏は「機雷の掃海などが考えられないか」と提案し、海部氏は「憲法の制約があり、軍事分野で直接参加は考えられない」と説明。それでも、大統領は「何ができるか考えてほしい」と粘った。

 海部氏は東京・九段北にある中国飯店市ケ谷店に、ひそかに外務省幹部らを集めた。黒酢のあんがたっぷりかけられた好物の酢豚を口にすると、議論が白熱してきた。「捕虜になったときはどうする」「自動小銃は何丁まで持たせるか」。何度も議論を重ねた。

 海部氏は「武力行使を直接しなければ、自衛隊を派遣してもよいだろう」と急速に傾いた。そして、決断。湾岸戦争が正式に終結した91年4月12日(日本時間)、海部氏は「掃海艇の派遣を検討せよ」との首相指示を出した。

 ペルシャ湾には、イラク軍が仕掛けた大量の機雷が残っていた。機雷除去なら軍事行動ではないと説明でき、国内世論の反発を抑えられる。国際社会には、日本は資金支援だけで済まさないとアピールできる。そんな論理だった。

 同月24日夜、臨時閣議で派遣を正式に決め、海部氏は記者会見で訴えた。「戦後初めてずくめの出来事の中で日本だけがじっと見ていていいのか。積極的に新しい平和秩序をつくるため努力、協力をしていかなければならない」

    *

 外交では大きな決断をしたものの、海部内閣は最大派閥の竹下派に支えられ、政権基盤は決して盤石ではなかった。最後は激しい「海部おろし」に遭う。

 海部内閣は、リクルート事件などによる政治不信の高まりを受けて誕生した。小派閥出身で利権に縁がないという「クリーンさ」が売り。宇野宗佑首相の後を継ぎ、首相就任当初の内閣支持率は39%だった。

 海部氏は政治改革を旗印に掲げたが、その旗印でつまずく。91年9月、国会に提出した政治改革関連法案の廃案が決定的に。海部氏は非公開の会合で自民党幹部らに「重大な決意」と発言し、衆院解散を示唆したと伝えられた。

 これに対し、政権運営を事実上仕切っていた竹下登元首相や小沢一郎前幹事長ら派閥幹部は解散に後ろ向きで、海部氏を支える理由はなくなった。10月、海部氏は解散に踏み切れないまま退陣表明に追い込まれた。政治の師と仰ぐ三木武夫元首相の「独裁者になっちゃいかんよ」という言葉が脳裏をよぎったからだったという。

 当時の経緯を聞くと、「重大な決意」ではなく、「重大な気持ち」などと話したという。だれが仕組んだのか、今となってはわからない。82歳になった海部氏は「犯人捜ししても俺がよみがえるわけじゃないから、忘却に押し込んだんだ」と硬い表情で語った。

    *

 「極端なことをしないから、国民からみると安心感があった」。外務省出身の首相秘書官だった折田正樹氏(71)は、海部氏の政治手法を振り返る。甘くも酸っぱくもある酢豚の味つけが、海部氏の現実的な政権運営と重なる。まるで「酢豚政治」だ――。

 今年9月中旬、海部氏と中国飯店を訪れた。命名の感想を、おいしそうに酢豚をほおばる海部氏に聞くと、「こじつけだな」。トレードマークである水玉模様のネクタイを締めた上半身をのけぞらせて笑い飛ばし、こう言い切った。「酢豚を拒絶する人はいない」。政権最後の内閣支持率は50%。中曽根政権以降、退任直前の内閣支持率としては細川内閣に次いで2番目の高さである。(益満雄一郎)

自衛隊の国際協力活動

 1991年、海上自衛隊の掃海艇(落合たおさ指揮官)をペルシャ湾に派遣したことを皮切りに始まった。中東・ゴラン高原やハイチ、東ティモールなどで国連平和維持活動(PKO)にあたった。現在はアフリカ・南スーダンで道路の整備に取り組む活動などがおこなわれている。これまでの活動実績は約30件。

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません