五社協定で映画界追放 山本富士子“引退寸前”もテレビで復活
ー1963年3月ー
1950年、第1回ミス日本に選ばれた山本富士子。53年大映に入社して100本近くの映画に出演したが、63年のフリー宣言をきっかけに映画界からホサれる騒ぎに。原因は悪名高き“五社協定”。マスコミは「日本一の美女を泣かせるな」と非難の声を上げた。
テレビがまだ普及していなかった50年代の娯楽は映画。年間500本超の映画が製作され、観客動員は延べ10億人に及んだ。
当時は人気俳優を中心に企画・製作のすべてが進行する“スター・システム”によって作られていた。この手法は俳優への依存度が高いため、引き抜きや移籍は映画会社に大きなダメージを与える。53年、映画会社5社は監督・俳優の引き抜きを禁止する「五社協定」を結び、スターの移動を制限した。
山本もスターの一員として大映専属で活躍していた。しかし、スター・システムの映画製作では俳優の意思とは無関係に企画が決定、出演させられる。脚本を読んで諾否を決める余地はない。山本は62年の結婚、大映と10年契約が満期となるのをきっかけに独立を決意した。当初大映は「年間主演2本、共演1本、他社出演は自由」という条件で慰留したが、その後方針を変更し、「専属かフリーかの二者択一」を迫った。山本は「契約条件に他社出演が認められながら、実際にはもめるなど“自由”が拘束されてきた」と63年3月26日フリー宣言を行った。