大河連載「伝説」

2008年02月18日

歴史的トレードが原点

【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(1)】

 「原爆のせいで向こう70年間は草木も生えない」。そんな絶望的な状況下の50年(昭和25年)、広島カープはまさに焼け野原に産声を上げた。だが、それからの道のりは途方もなく険しかった。低迷が続き「太陽が西から昇っても広島は優勝できない」とまで言われた。身売りの危機もあった。ようやく「お荷物球団」を返上したのは創設から25年後の75年。帽子とヘルメットを赤にかえた「赤ヘル軍団」が日本全国に旋風を巻き起こした。前年まで3年連続最下位のチームがいきなり初優勝-。その舞台裏を全10回で連載する。

 ひとつのトレード。それがチーム改革のスタートとなり、翌年の「赤ヘル旋風」につながった。74年10月22日、日本ハムの看板選手、大下剛史の自宅の電話が鳴った。所用で仙台から東京に帰った直後に、球団関係者から「広島に行ってくれ」と短かい言葉でトレードを通告された。青天のへきれきとはこのこと。大下は広島県出身にもかかわらず、しばしぼう然とした。「何でだろう。何でこのオレが広島に出されなければいけないんだ」。

 73年11月に日拓からチームを買収した日本ハムも、2年目に向けて変革のときを迎えていた。大下が通告を受ける2日前のあるスポーツ紙には「日本ハム、大下以外の全選手がトレード要員」と報じられていた。「それなのに真っ先に自分がトレード。まさに電撃的。これも三原マジックなのか」。苦笑いするしかなかった。当時の日本ハム球団社長は伝説の名監督で「魔術師」の異名をとった三原脩。広島の歴史を動かすトレードを陰で演出した1人となった。
 広島側は主力級の上垣内(かみごうち)誠外野手、渋谷通内野手の2人を放出。4日後に1対2のトレードが発表された。この年まで3年連続最下位の「弱小球団」が大きくカジを切った瞬間だった。

 広島フロントに大下の獲得を要請したのは、前日21日に広島新監督に就任したばかりのジョー・ルーツだ。ルーツは74年に広島の打撃コーチを務め、前監督・森永勝也の引責辞任を受け、監督となった。日本球界初のメジャー出身監督の誕生だった。実はルーツは受けるにあたって球団に「条件」を突きつけていた。「日本ハムの大下をとってくれ」。就任発表とトレード発表の時期がほぼ重なったのはこのためだった。

 ルーツはどうしても大下が欲しかった。74年春のオープン戦で、広島が日本ハムと対戦した時のことだ。ベンチから戦況を見ていたルーツ打撃コーチは思わず目を見開いた。三塁ベースコーチの静止を振りほどいて、強引にホームに突進する選手がいた。大下だった。「ああいう選手が広島には必要なんだ」。ルーツは確信した。大下は俊足巧打の二塁手で、ガッツプレーが身上だった。

 いざ、監督就任という流れになった際、ルーツは当時の広島球団代表の重松良典に大下獲得を申し入れた。重松は「大下? さすがに日本ハムも出さないだろう」と、半分あきらめつつも日本ハムに打診。予想に反して話は通った。大下は「広島に足りなかった弱い部分を変えたかったんだろうね。それにしても因縁のトレードだった」としみじみ言った。入れ替わりで放出された上垣内は広島商で大下と同期だった。

 大下は移籍1年目に44盗塁で生涯初で、唯一のタイトルを獲得。歴史を振り返れば第1弾トレードは成功した。だが、これだけでは終わらなかった。変革への動きはますます加速していった。(つづく=敬称略)【柏原誠】

 ◆大下剛史(おおした・つよし)1944年(昭和19年)11月29日、広島県海田町出身。広島商、駒大を経て66年ドラフトで東映入り。70年に3割を打つなど走攻守そろった二塁手として活躍。75年にトレードで広島へ。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞2回、球宴出場5回。引退後は広島のコーチを務め厳しい練習で「鬼軍曹」といわれた。

 ◆ジョー・ルーツ Joe Lutz。1925年2月18日、米アイオワ州出身。現役時は主に一塁手。メジャー経験はセントルイス・ブラウンズ(現オリオールズ)での14試合。引退後、71年から3年間インディアンズの打撃コーチを務め、74年に広島打撃コーチとして初来日。75年に監督就任も、退場を機にわずか15試合で辞任した。任期中の成績は6勝8敗1分け。

February 18, 2008 12:00 AM

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