にいがた鉄もの語り

長岡駅物語(1) 潜在能力
新幹線から新幹線へ

 長岡市や中越地域の表玄関・JR長岡駅。日本海側と首都圏を結ぶ大動脈の拠点であると同時に、駅とともに生きてきた人たちの心の拠点でもある。北陸新幹線の開業などで、上越新幹線に光が当たりにくくなるのではという懸念もささやかれる中、長岡駅の存在感をあらためて見つめ直してみたい。


 長岡駅の上越新幹線下り線ホーム。線路に挟まれた「島式」だが、列車が発着するのは片側だけで、もう一方はレールが敷かれていない「幻のホーム」として有名だ。実は上り線ホームについても、あまり知られていない秘話がある。

 上り線ホームは片側だけが線路に面した「対面式」だが、駅舎を東口側に拡幅すると島式に変更できる構造となっている=図参照=。現在発着用に使われている2線に、さらに2線を追加することができる仕様で、将来は新幹線同士の乗り換え拠点となる潜在能力を備えている。

 「今の発着本数には不釣り合いな大規格。この意味は、柏崎市や上越市への接続に備えるレベルではなく、青森から大阪まで貫く『日本海縦貫新幹線』の種火だ。青森-大阪間と、東京までを『T字』に結ぶ要であるとの位置付けだった」

 元国鉄技術者で新幹線開業に向けた駅舎改築工事を担った松本武海さん(70)=長岡市=が証言する。実際、全国新幹線鉄道整備法に基づく基本計画路線(1973年告示)には日本海縦貫の路線が記されている。

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 松本さんは若くして長岡駅新幹線駅舎を設計し、74年には施工担当の長岡工事区助役となった。辞令を受けた日を「よーし、やってやるぞと。夢の新幹線。しかも故郷の駅に関われるとあって全身がカッと熱くなった」と振り返る。

 当初、駅舎の位置は2案あった。在来線の上部に高架式で新幹線ホームを設ける「大手口側案」か。在来線の東側に設置する「東口側案」か-。技術的には大手口側案の方が難しい。一方、東口側案は各種の用地買収が必要なため時間がかかるとみられた。

 そんな中、大手口側案が採用された背景の一つに工期の圧縮があった。当初、上越新幹線は東北新幹線より数年遅れの開業が当然視されていたが、「東北、上越を同じ年に開業させる」との号令がかかったのだ。声の主は田中角栄元首相。「元首相の影響力のすごさに舌を巻いた」。松本さんら現場も奮い立った。

 大手口側案は新幹線高架が在来線をまたぐため、通常の鉄筋コンクリート構造よりも高強度のSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)構造を採った。特急ときなどが往来する在来線の真上で鉄骨を組んだ。作業の際はいったん架線の送電を止め、列車が通過しないことを確認しながら慎重に進めた。

 松本さんは工事が軌道に乗ると異動し、82年11月15日の開業を東京で迎えた。帰省で大宮から乗り込むと1時間ほどで長岡に着いた。「すごい」。感動をかみしめた。

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 2004年10月23日。中越地震が発生した。JR退職後、長岡に戻って保線などを担う民間会社に勤めていた松本さんはその夜、真っ暗な長岡駅に向かった。内装など一部に被害はあったが、青春の情熱を注いだSRC構造の駅舎本体はびくともしていなかった。安どと誇らしさが交錯した。

 「現在は上越新幹線の途中駅でしかないが…」。松本さんは語る。「長岡空襲や中越地震から不死鳥のようによみがえったように、当初計画通り、日本海縦貫線の要となる日が来てほしい。日本海側を東へ西へと翼を広げるときまで羽を休めているだけだ、と信じたい」


■長岡駅
 上越新幹線や在来線の信越本線、隣駅から分岐する上越線の列車が往来する乗換駅。1日当たりの乗車人員は1万2776人(2014年度)。1898年に北越鉄道の駅として開業し、一時期は越後交通栃尾線も乗り入れていたが1975年に廃止された。上越新幹線建設に伴い80年にオープンした現駅舎は3代目。2011年には駅と大手通りやアオーレ長岡をつなぐ屋根付き高架歩道が完成した。

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