天才的な話芸と型破りの言動でカリスマ的な人気を博した落語家で、元参院議員の立川談志(たてかわ・だんし、本名・松岡克由=まつおか・かつよし)さんが21日午後2時24分、喉頭(こうとう)がんのため都内の病院で死去した。75歳だった。97年に食道がんを発症して以降、晩年はがんの再発や糖尿病など相次いで病魔に見舞われながらも復活。治療の影響で落語家の命である声を失ったが、最後まで孤高の噺家(はなしか)らしい美学を貫いた。
落語界きってのカリスマが静かに激動の人生に幕を引いた。
所属事務所「談志役場」の社長で長男の松岡慎太郎さん(45)によると、喉頭がん(声門がん)は、08年に発症し治療したものが昨年11月に再発。医師から声帯の摘出手術を勧められたが、本人は落語家の命である声を失うことを拒んだ。体調が許す限り高座に上がり続けたが、今年3月6日の一門会(川崎市・麻生文化センター)での高座「蜘蛛駕籠(くもかご)」を最後に活動を休止していた。
その後、がんの進行から呼吸困難になり、飲食物も喉を通らなくなったため、気管切開手術で喉に穴を開け、チューブを通して栄養を取る状態になった。「つらいとか一切言わなかった。本来は言うタイプなんですが、よく頑張ったと思う」と慎太郎さん。東京・文京区の自宅マンションで療養しながら、近くの日本医科大付属病院へ入退院を繰り返したが、先月27日に容体が急変。その後、意識が戻ることなく、今月21日に家族らにみとられ息を引き取った。
喉に穴を開けた後は声が出せない状態で、主に筆談で会話していた。意識不明となる1週間前の先月20日には、同じ病棟に入院していた知人を見舞いに訪れ、「見舞に来ましたが、ねてましたので失礼します」とつづった置き手紙を残していた。
自宅療養中は近所を散歩する姿も見られたが、今夏にテレビ番組のロケが行われていたのを見た談志さんは「こんな姿を見られたくない」と、カメラを避けるように歩いたという。訃報は本人の遺志に従って近親者や、ごく親しい関係者以外には知らされず、都内で22日に通夜、この日告別式を済ませた。後日、都内でお別れの会を行う。戒名は本人が生前に考えていた「立川雲黒斎勝手居士(たてかわうんこくさいかってこじ)」。
16歳で入門した談志さんは、早くから頭角を現し、二つ目「小ゑん」時代には、古今亭朝太(後の3代目志ん朝)、三遊亭全生(後の5代目円楽)、5代目春風亭柳朝と「落語四天王」と呼ばれた。自ら企画した日本テレビ系「笑点」で落語を一般にも広めると、持ち前の行動力で政界にも進出。沖縄開発庁政務次官に就任した際、二日酔いで記者会見に出席したことが非難され、36日で辞任した。83年には「古い体質に我慢できない」として、師匠の小さんが会長を務めていた落語協会を脱退し、「落語立川流」を創設。テレビ番組での爆弾発言、高座に来た客とケンカするなど破天荒なエピソードを数多く残した。
97年に食道がんを発症し、手術で完治したが、03年に再発。09年には糖尿病が悪化し、一時休養した後の昨年4月の復帰会見では「もうダメですな。これが引退になるかもしれません」と引退をにおわせていたが、最後まで声帯手術は拒否し、落語家でいることにこだわり続けた。昨年、雑誌の対談で「『ふとした病』で死にたい」と語り、8月に弟子が集まった時は、ホワイトボードに「放送禁止用語」を書いて笑わせた談志さん。人生の引き際まで孤高のカリスマらしい美学を貫いた。
◆声門がん 喉頭がんの一種で、発声機能を担当する声帯がある場所(声門)にできるがん。喉頭がん全体の約6割を占める。初期症状を自覚しやすく、早期に発見されることが多い。症状としては、声がかれる度合いがひどくなり、さらには呼吸困難や血痰(けったん)といった症状が出てくることもある。
◆立川 談志(たてかわ・だんし)本名・松岡克由。1936年1月2日、東京都生まれ。52年、5代目柳家小さんに入門し「小よし」。54年、二つ目に昇進し「小ゑん」。63年、真打ちとなり、立川談志を襲名。66年から日テレ系「笑点」の初代司会者を務める。69年、衆院選に無所属で出馬し落選。71年、参院選(全国区)で初当選。自民党に入党。75年、沖縄開発庁政務次官に就任も、わずか36日で辞任。83年、弟子らとともに落語協会を脱退。「落語立川流」を創設し、家元となる。出ばやしは「木賊(とくさ)刈り」。
[2011/11/24-06:05 スポーツ報知]